第5章・Glückes genug(満足)
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黄金聖闘士が守護する、そして彼らの生活の場そのものともなる十二宮は、大きい。昔はひとりの黄金聖闘士に多ければ数十人の従者や神官が従っていて、今でも、そういう者たちの為の部屋がそのまま残っているからだ。しかし現在それぞれの宮に仕えているのは、多くて二人がいいところだった。
聖域にいるのは、聖闘士と、そして神官、雑兵、女官だ。
雑兵とはつまり聖闘士になる為の訓練を受けたものの花開かなかった者や、もしくは身体を壊してしまってたいした戦闘力が持てなくなってしまった者がなる。そして厄介なのが神官と女官だ。神官の多くは、この、世界に対して陰ながら巨大な影響力を持つ聖域でより大きな権力を持つ事に、何よりの情熱を傾けている。
そして女官は十二宮のみに仕える巫女のような存在だが、神官の縁続きの外界の家から送られて来る息女がなるので、これがまた質が悪い。つまり彼女は神官の息がかかっているので、幼いながらも教皇に継ぐ地位である黄金聖闘士たちに、いかにも母親や姉貴面をして側に寄ろうとしたり、でなければあさましくもあからさまな色目を使って来る者すらいるのである。
そして金牛宮に仕えている女官が、まさにそれだった。
しかしいくら身体が大きくとも、アルデバランはまだ十にも満たない。べたべたとしなだれかかり、いかにも面倒を見てくれる色っぽいお姉さんを気取ろうとする女官に、彼が憧れを抱くことはさっぱりなく、ただただ困り果てるばかりだった。
「おォや、来ましたね」
顔におもいっきり笑い皺を作って笑った女は、カプリコーンとアルデバラン二人に向かって、とてもよく通る、滑舌の良いスパニッシュでそう言った。
彼女は磨羯宮に仕えている女官で、ルイザというスペイン系の女性だ。
ルイザは陽の光をたっぷり浴びたオレンジのような希有な魅力に溢れた女性だが、顔の方もまるっきりオレンジみたいだった。おまけに彼女は三十の半ばも過ぎていて、つまり、美形で若くあることが大事とされる女官の規格には、外れているのもいいところな女だった。
しかも彼女は十二宮の険しい階段をがっしがっしと上り下りする頑強な足腰を持っていた。それは彼女が神官の親戚でありながら、かつては白銀聖闘士候補生で、雑兵でもあったからである。
候補生だった彼女は、聖衣を得る為の試験に敗れて雑兵になったがあるとき身体を壊し、仮面を外して実家に帰った。しかし彼女の実家はあまり裕福ではなく、既に嫁ぎ遅れている上に、そこんじょそこらの男より遥かに強い彼女の身の置き場はなかった。そこで、かなり遠縁ではあるが神官の親戚に拝み倒して、食堂の下働きでもいいから、と十二宮にやって来たのである。
ルイザは初め本当に教皇宮の食堂で下働きをしていたのだが、同じスペイン系だと知ったカプリコーンは彼女を気に入り、女官として引っぱってきたのだ。
そして、悪さをした時には黄金聖闘士と言えど脳天に拳を落とし、あるいは尻をひっぱたき、訓練から泥まみれで帰って来る彼らの服をあざやかに洗濯し、時々不意打ちに最高に美味しいはちみつとナッツのケーキを焼いてくれる彼女が磨羯宮の従者であることが、カプリコーンには何よりの自慢だった。
「ルイザ、」
「そんな心配そうな顔しなくたって、ちゃあんとケーキは出来てますよ坊ちゃん」
カプリコーンと同じ真っ黒な髪を持つルイザは、カプリコーンをsignorino(坊ちゃん)、と呼ぶ。
それはカプリコーンの名前がきちんと決まっていないからでもあり、また、ルイザに「カプリコーン様」と呼ばれるのをカプリコーンが嫌がったからだった。
しかしだからといってカプリコーンが坊ちゃんという呼び名を気に入っているわけではなく、どちらかというとやめて欲しかったが、他に呼び名がないので仕方が無い。ルイザが「坊ちゃん」と呼ぶ度に、カプリコーンは早く名前を決めなければ、という気になった。
アルデバランが泣いたあの日、カプリコーンは情けないことに何も気のきいたことを言ってやれなかった。だから苦肉の作として、今日、彼を磨羯宮に呼び出したのだった。ルイザのケーキがあるぜと言って喜ばない奴に、カプリコーンはお目にかかったことがない。
そしてそれはやはり外れない対処であったらしく、アルデバランは磨羯宮の奥から漂ってくる蜂蜜の甘い匂いに顔を輝かせ、ひくひくと鼻を動かした。
「うわあ、とてもいいにおいがするよルイザ」
「そりゃあ、アル坊ちゃんが来るってんで、腕によりをかけましたとも。何しろこの子牛の坊ちゃんときたら、他に比べればまるで天使ですからね」
ルイザはお決まりの台詞を言い、カプリコーンはまったくまさしくその通りだ、と納得して深く頷き、アルデバランは照れたように笑った。
「他ってのは、もしかしておれかい」
「おや、自分でわかってるんですね。見直しましたよ」
ルイザが作った粗末な木製のテーブルが置いてあるダイニングには、先客がいた。ルイザのケーキが招待していないちびを何匹か釣り上げるのはいつものことだが、今回釣り上げられたのはデスマスクとアフロディーテだったらしい。アフロディーテが咲かせてデスマスクが持ってきたのだろうピンク色の小振りな薔薇が、大きめのコップに生けられている。彼らの定番の手土産だ。
「そうさ、悪い男は魅力的だろ?」
「あいにくあたしの好みじゃありませんね」
ルイザは大きなお尻を大迫力に揺らしながら、ダイニングを機敏に横切った。
「残念だぜルイザ。おれはお前を愛してるのに」
「ケーキつきでね。まったく、年がら年中まあ休み無しに生意気な悪たれですよ」
そう言いながら、ルイザは人数分のコップにミルクを注いだ。にやにや笑って言うデスマスクだがしかし、彼が珍しくテーブルの上に足を乗せていないのは、それがルイザのお気に召さないということをよおく知っているからだ。
ルイザと彼女の作るケーキが魅力的なのは黄金聖闘士たちの同一の見解だったが、デスマスクが女官のうちの誰より敬意を払っているのも、このルイザだった。
「ああハイハイ、ディータ坊ちゃんはミルクが好きですね」
コップに入った牛乳を真っ先に受け取ろうとするアフロディーテに、ルイザは彼が中身を零さないように、実に確実な仕草でコップを手渡した。Dieta(ディータ) は Aphrodite(アフロディーテ) の略称で、アルファベット6文字以上は呼び名として相応しくない、という主張を掲げるルイザが使う彼への呼び名だ。
己の名前を考えていると言った際、「短い名前にして下さいよ」と言ってきた彼女の意見を、カプリコーンはおおいに取り入れようと思っている。
ちなみに、デスマスクに至っては長い上に縁起が悪いと一蹴され、「悪たれ」とか「悪ガキ」とか呼ばれているが、良い子と言われるのが何よりも嫌いなデスマスクなので、そのことについてとくに文句を言ったことは無い。そしてそれは、彼が“キャンサー”と呼ばれるのが良い子と言われるより大嫌いであることを、ルイザがちゃんと知っているからでもあった。
「さあ、坊ちゃんたちはさっさと手を洗ってうがいをすることですよ。さあさあ」
ルイザはケーキが載った皿を堂々と掲げ、子牛と子山羊を水場に追い立てた。
「そりゃお前、力ばっかりじゃだめだろうよ」
アルデバランがこの間カプリコーン言ったことを話題に上らせると、ケーキを頬張りながら、デスマスクはそう言った。
「だめ……」
「おいアルデバラン、お前がだめだって言ってるんじゃないだろ」
少ししょんぼりしたアルデバランを、カプリコーンは香ばしいナッツを噛み砕いてから慰めた。アフロディーテは、無心にケーキを食べ、ミルクを飲んでいる。お世辞にも綺麗とは言えない食べ方だが、以前と比べれば随分と食べ零すのは減ったほうだ。
「……ルイザはどう思う?」
「元雑兵のあたしが、黄金聖闘士にアドバイス出来ることなんてありゃしませんよ」
アフロディーテが食べ零すのを実に鮮やかな手際でフォローしつつ、ルイザは言った。
しかし彼女がかつて優秀な聖闘士候補生であったことをカプリコーンが言うと、彼女は何やら複雑そうな苦笑を浮かべた。
「ま、この悪たれの言うことも一理ありますね。力任せに暴れ回るのは赤ん坊のやることです」
ルイザは、たどたどしいながらも懸命に食べ零さないようにしているアフロディーテを優しい目で見ながら、体格通りに重々しい様子で言った。その声は実感と説得力が篭っていて、黄金聖闘士たちはそれに敬意を表し、素直に黙った。
「つまり、目覚めた小宇宙を爆発させるだけなら、青銅でもできます。“黄金の器”は小宇宙が生まれつき強大ですから、完璧にコントロールできるようにすることがあなた樣方のやるべきことだと私は思いますね」
「おおよ、大人の男はテクニックがなきゃあな!」
余計なことを言った銀髪頭が、ルイザの分厚い平手でひっぱたかれた。しかしデスマスクはまったく堪えておらず、さらに続ける。
「どいつもこいつも不器用すぎらあ。カミュなんかちょっと驚かしただけでそこらじゅう霜だらけにするし、アイオリアやミロは何回壁をぶち抜いたかわかんねーし、ムウとシャカはキレるとサイコキネシスでそこらじゅうの物がビュンビュン飛ぶし。黒山羊、お前だって何回柱をぶった切ったよ?」
カプリコーンはむっとしたが、言い返せなかった。デスマスクが言ったのは全て事実であるし、誰よりも小宇宙のコントロールが上手いのは、彼に他ならないからだ。
そして今ルイザからミルクのお代わりを貰ってご満悦なアフロディーテもまた、植物というか弱いものの生命を損なわず、それでいて武器のように強化するという繊細な技を持っている。
「でもあいつらはそうやってるうちに力加減を覚えるからな。そこんとこお前、アルデバラン、最初っから力を全部押さえつけてるだろ。だからだめなんだぜ」
「……だって」
「おれらだって“黄金の器”なんだから、お前の力で死んだりしねえよ、悪くたって大怪我だ」
「大怪我だってさせたくないよ!」
アルデバランは、悲痛な声で言い返した。
「ケガさせて、聖闘士になれなくなったらどうするんだ!」
「いいじゃねーか別に。おれに言わせりゃ、…………ああ、」
「……何?」
「いや、いい。何でもねえ」
デスマスクはそう言ってから、ケーキを口の中に放り込むことで黙った。不思議そうな顔をしたのはアルデバランだけだったが、彼もまた、理由は知らずともデスマスクのこういうところは知っていたので、納得いかなそうな顔をしながらも追求はしなかった。
「……まあ、とにかく」
沈黙を破ったのは、流石の貫禄のルイザの声だった。
「力が大きいなら、そのぶんだけの力加減を覚えなきゃならないってことです」
「それはわかってるよ。その練習が出来ないから困ってるんだ」
アルデバランは、珍しく不貞腐れたような顔と声で言った。
こうして黄金聖闘士は全員候補生が揃っている物の、白銀と青銅は閑古鳥が鳴いているのもいい所だ。
「でもそういうことなら、おれに心当たりがあるぜ」
デスマスクが、口の端のケーキくずを親指で拭いながら、にやりと笑って言った。アルデバランやルイザはぽかんとするばかりだったが、カプリコーンは身を乗り出して「本当か?」と興奮気味に尋ねる。
夢中でミルクを飲んでいるアフロディーテ以外の全員の注目を一斉に浴びたデスマスクはその状況に気をよくしたのか、得意げにフフンと鼻を鳴らし、テーブルに身を乗り出した。