第5章・Glückes genug(満足)
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「あのくそちびめ、今度はどこに行きやがった」
正式に黄金聖闘士になり、口の悪さにも磨きのかかった訓練着姿のカプリコーンは、顔を顰めてずんずんと歩いた。歩きでも脚の速い彼の後ろを小走りでせっせとついていくのは、やはりアルデバランである。
「カプリコーン、ミロはここへ来てまだあんまり経ってないんだ。あんまり怒らないで」
「馬鹿言え、あいつが訓練に遅刻したのは今日で……今日で、……何回目だ!?」
「……ええと」
つまり、数え切れないほど、である。墓穴を掘ったアルデバランは、気まずそうに目線を逸らした。
黄金聖闘士は、最高ランクの聖闘士である。
そして生まれつき小宇宙に目覚めている彼らは得てして身体的成長が早く、そして小宇宙の闘法という戦闘に置いて、天才という言葉では足りないほどの才覚を持っている。そんな彼らを“教える”というのは並大抵のことではない。先代の牡羊座アリエスの黄金聖闘士であるシオンは老人で、小宇宙のコントロールなどの静的なことを教えることは出来ても、格闘術を教えるのは無理だ。
ほかに彼らの師匠となりそうなのは白銀聖闘士だが、こうして“黄金の器”たちが全員揃っているのと反比例して、今現在、白銀聖衣保持者はひとりも存在していないという体たらくだった。
だからどうしても、“黄金の器”たちは格闘術に関して、ごくごく基本的なことを教わったあとは、自主訓練により自分の技術を高める他なかった。
そんな状況で採用されたのが、黄金聖闘士の中でも年長の者が年少の者を教え、また彼ら同士で組み手を行なうという、ごく自然かつ他にどうしようもない成り行きだった。
“黄金の器”は、生まれつき溢れ出す強大な小宇宙を持て余し、暴走させてしまっていることが多い。そうでなくても、コントロールができないのが普通だ。カプリコーンも初めは感情の昂りで小宇宙を暴走させてしまっていたし、デスマスクのようにはじめから完璧にコントロールできるというのは酷く珍しい。
そんな彼らなので、子犬の兄弟が遊びの中で噛む力の加減を覚えていくように、彼らもまた日々の取っ組み合いと、年長者たちの指導付きの訓練でそれを身につけようとするのは、とても単純で理にかなった方法でもあった。
そして正式に黄金聖闘士となったカプリコーンはもちろん教える側なのだが、彼は特に体術のセンスと実力において、ずば抜けた才覚を持っていた。
そんな彼がいつも大概受け持っているのがアルデバランと、そして一番最後にここ聖域にやって来たミロだった。はっきりと決まっているわけではないのだが、超能力組ということでシャカとムウの面倒はデスマスクが、アルデバラン、ミロ、そしてアイオロスがいない時のアイオリアの三人をカプリコーンが見る、という風な流れが自然に決まっていた。カミュは一応アフロディーテが見ているが、アフロディーテ自体がカプリコーンのところかデスマスクのところかにくっついてくる。もしくは仲良しのミロがいるカプリコーン組に単独でカミュがくっついてくるというパターンもあった。
「今日という今日は許さないぞ、尻を百回ひっぱたいてやる!」
そう言って更に早足になったカプリコーンを後ろから見遣り、アルデバランはどうにかならないものかとおろおろした。
しかし、カプリコーンがここまで怒っているのも無理はない。
ミロはよく訓練に遅刻する。というか、行方不明になる。そのため、カプリコーンが受け持つ格闘訓練の時間は、まずアルデバランと一緒にミロを探す所から始まるのが定番となりつつあった。
「──!」
そのとき、急にカプリコーンが走った。そして聖域中にごろごろとよく転がっている巨大な岩、おそらく過去に壊れた建物の一部の陰を勢いよく覗き込む。
「見つけたぞ、この馬鹿チビ!」
「わぁ!?」
岩にもたれ、脚を投げ出し座り込んでいた小さな影は、カプリコーンの怒鳴り声にびっくりして飛び上がった。
「うわあ、びっくりした。なんだよ」
「なんだよ、じゃない!」
今何時だと思ってるんだ! と青筋を立てて怒鳴るカプリコーンにミロはきょとんとしたあと、ハッとして太陽の位置とあらゆるものの影の位置を確認して青くなった。アルデバランは「ミロはここに来て日が浅い」とは言ったが、それはあくまで他の者たちに比べて、というだけだ。現に、こうして古代そのままに精密な時計がない聖域でもだいたいの時間がわかるまでになってはいる。ただそれが何の意味もなしていない、というだけで。
「やばい、遅刻だ」
「それは一時間前に言う台詞だ!」
カプリコーンは、尚も怒鳴った。みっつ年上で、“黄金の器”であるにもかかわらず平均よりも背が低いミロが首を直角に曲げて見上げなければならないほど背が高く、そして鋭い琥珀の目を持つ兄貴分に青筋を立てて怒鳴られ、ミロは叱られた犬よろしく肩を竦めた。
「わ、悪かったよ。ついうっかりさあ」
ミロとて、サボろうと思っていつもこうなるわけではないのだ。ただ実年齢に忠実に子供らしい彼は、訓練に向かう途中で面白い虫やら気持ちのいい日差しやらに意識を持っていかれてしまうのだ。
案の定、何故遅刻したかを聞けば、「雲の形が色んなものに見えて面白かったので眺めていた」とあっさり返ってきて、カプリコーンは頭痛がしてきた。ミロはふざけていないし、嘘もついていない。しかし、だからこそ質が悪かった。
「いい加減にしろ、今日で何回目の遅刻だ!?」
「……ええと」
ミロはもごもごと口ごもった。本人でさえ数えきれていない。
「……えーと、アルデバラン……」
「……カプリコーン、あの、」
「アルデバラン、黙ってろ!」
空色の目がちらりと寄越してきたアイコンタクトに答えようとしたアルデバランを、カプリコーンは制した。
「ミロ、アルデバランが優しいからっていつもいつもフォローして貰えると思うなよ!」
「うっ……」
「アルデバラン! お前もいちいちこいつを庇うな! 甘やかすからいつまでたってもこんななんだ、このくそちびは!」
しかしその言葉には、ミロもかちんときたらしい。頬を膨らませて、見上げるまで背の高いカプリコーンをくりくりの青い目でじろりと睨んだ。
「……くそちびってなんだよ!」
「クソのようなチビって意味だよ」
「なんだと!」
ミロは顔を赤くしてカプリコーンに飛びかかったが、あっちこっちにくるくる飛びはねている金髪の頭を右手で掴まれ、飛びかかるどころか彼に指一本触れることも出来なかった。背が高い分、彼は手足も長いのだ。つっかえ棒になった腕は同い年のデスマスクより細いが、飛びかかって来ようとする金髪の子犬を易々と押さえつけている。
「くそう! ちょっと年上で黄金聖闘士だからってえらそうに!」
「えらそうじゃない、偉いんだバァカ。尻をひっぱたくのは勘弁してやる、でも遅刻した分みっちりしごいてやるから覚悟しろ」
「いたい! 痛いったら、耳を引っぱるなよ!」
一番ちびでリーチの短いミロは、細長い脚でずんずん歩くカプリコーンに耳を引っぱられて、たまらず涙目で声を張り上げる。しかしカプリコーンはそれをまったくもって無視し、かなりの勢いで闘技場に向かって歩き続ける。そしてその後ろを、アルデバランがやはりおろおろと追うのだった。
これが、彼らの訓練のいつも通りの始まりかただ。
「カプリコーンはすごいなあ」
カプリコーンは驚いたような顔で振り返る。真っ赤な夕陽が、彼のあっちこっち泥まみれな姿に濃い影を作っていた。そしてそれは、すごいなあとぼそりと言ったアルデバランも同じだった。
「何が」
「だって、もう聖衣を正式にさず……授かったし、強いし」
「……それならサガやアイオロスのほうがすごいだろ」
あの二人は自分がここに来た時にはもう正式な黄金聖闘士だったし、カプリコーンは一度も彼らから一本奪ったことはない。そう言うと、アルデバランはふるふると首を振った。
「だってあの二人はすごく年上だし」
「そうだけど」
「カプリコーンはすごく脚が速いし、それに格闘術はいちばんだ。今日だって、ミロは手も脚も出なかったよ」
あの後むきになったミロはなんとしてでもカプリコーンから一本取ると躍起になったが、アルデバランの言う通り、手も脚も出なかった。
しかしとても率直に褒めてくるアルデバランに、カプリコーンは夕陽の赤さで自分の顔の赤さを誤摩化せているかを気にしつつ、ぽりぽりと泥のついた鼻の頭を掻いた。
「そりゃあ、ミロなんかに一本だって取られるもんか。……でも、どうしたんだ、いきなり」
「…………………………」
カプリコーンが尋ねると、脚が遅いながら、それでもいつも一生懸命小走りに後ろをついてくるアルデバランは、ぴたりと足を止めて俯いてしまった。いつにない様子のアルデバランにカプリコーンは驚いて、同じく足を止める。
アルデバランは黙って俯くだけで何も言わず、そしてそのままたっぷり一分間程度が過ぎたが、その間、カプリコーンは同じように黙っていた。彼は辛抱強い事には定評がある。これがデスマスクなら「早く話せよ」と頭のひとつもぶん殴っていることだろうし、アフロディーテはそもそも足を止めることすらないかもしれない。
「……俺は、だめだ。ぜんぜん」
そしてカプリコーンが辛抱強かったおかげか、アルデバランはやっとひとことそう言った。
「だめって、何が」
「……俺は身体はでかいけど、足は遅いし、……ミロにだって一回も勝ったことない」
「……………………」
「俺は、だめだ。一番弱い。いちばんだめな奴なんだ」
最後の方は、たっぷり水分を含んだ涙声だった。
カプリコーンは、正直な所、とても驚き、そして焦った。アルデバランはいつも困ったような顔をしていたが、とても優しい性格で、それはカプリコーンに限らず誰もが間違いなくそう思っているだろう。そして彼はカプリコーンよりもずっと辛抱強くて、泣かない子供だった。カプリコーンは、アルデバランが泣く所を初めて見た。
「だめなんかじゃない」
カプリコーンは、焦るままにそう言った。アルデバランが顔を上げる。茶色の目には涙が溜まっていたが、流れてはいなかったことに彼は少しホっとする。
「おまえはだめなんかじゃない、アルデバラン」
「でも」
「お前は誰よりも沢山練習してるし、まじめに訓練してるだろう」
「それじゃダメなんだ!」
カプリコーンは、今度こそ本気で驚いた。アルデバランは、とても優しい子供だ。大声で怒鳴ることなど、間違ってもないような。
「それじゃダメなんだ、いくら練習したって、ちゃんとできなきゃ意味がない」
「それはそうかもしれないけど……」
拳を握り締めるアルデバランに、カプリコーンは、困った顔で首を傾げた。
「アルデバラン」
「……なに?」
「……お前は誰よりも力があるのに、なんでそれを使わないんだ?」
それは、カプリコーンが前からずっと聞いてみたかったことだった。以前に皆で腕相撲大会をした時、アルデバランはなんとサガに勝ち、アイオロスと接戦の末に負けて二位となったのだ。
しかしアルデバランは、それを組み手で使うことは無かった。確かにアルデバランはスピードに難があり、小柄なミロがすばしこく十動く間に一しか動けない。だが真剣に座学に耳を傾けるアルデバランは人体の急所を的確に頭に叩き込んでいて、実際にその場所に攻撃を繰り出す。
しかし彼は、そのせっかくの一撃をひどく軽いものしか出さないのだ。その一撃をもっと本気のものにしていれば、ミロなどもう何度吹っ飛ばされているかわからないというのに。
「……だって」
アルデバランは、更に俯いた。
「だって、何だ」
「……俺は力が強すぎる」
その言葉に、カプリコーンはきょとんとした。
「強すぎるだって。そりゃ大きく出たもんだ」
「本当だよ。死んじゃうよ」
まさか、黄金聖闘士だぞ、とカプリコーンは言いかけたが、半分顔を上げて陰ったアルデバランの目が酷く真剣で欠片も笑っていなかったので、口を噤んだ。
そしてアルデバランは、ふっと顔を逸らし、近くにあった岩をポンと叩いた。
「カプリコーン、これ、砕けるかい」
「当たり前だ。基本だろ」
カプリコーンはそう言って、岩の少し出っ張った所を拳で軽く殴って粉々にした。パン!と音がして、尖った部分が粉塵になる。まるでどこかから狙撃でもされたような光景だったが、それは原子から砕かれているからだ。カプリコーンの言った通り、聖闘士の闘法、小宇宙を使った闘法の基本だった。
そしてアルデバランはその岩の、平らな部分に手のひらを広げて置いた。
「──え、」
カプリコーンは、そんな声を上げた。
アルデバランはただ広げた手のひらを拳の形に握り締めた、それだけに見えた。それだけ滑らかな動きだった。だが平らな岩は、アルデバランが指を動かしたそのままの型にえぐれている。固い岩は、彼がただ拳を握り締めることを、全くもって阻止できなかったのだ。
アルデバランが拳を広げると、原子から砕かれて粉塵になった岩の成れの果てが、さらさらと夕陽の光の中に流れて消えていった。
打撃、すなわち物理的な力に小宇宙を載せ、すなわち己を強化して闘う、それが小宇宙の闘法だ。しかしアルデバランが今やったそれは、力がそのまま小宇宙であるように見えた。
そしてカプリコーンがそう言うと、アルデバランはゆっくりと頷いた。
「……シオン様が言ってた。小宇宙には色々種類があって、色んなことができる。カミュはものを凍らせたりするから分かり易いけど、俺のは……力が、そのまま小宇宙なんだ」
「……すごいな」
漏らすような声で、カプリコーンは言った。
「すごい。そんなの、それこそサガやアイオロスだってきっとできない」
「そ、そうかもしれないけど……」
「……もしかして、だからお前、みんなと取っ組み合いしたりとか、ぜんぜんしないのか?」
アルデバランは、一度も怒ったことがない。だから他の皆が毎日やっている取っ組み合いも、一度もやったことがない。いやアルデバランが正真正銘とても穏やかで滅多に怒らない性格なのは確かなので一概には言えないのかもしれないが、喧嘩でなくてもただのじゃれあい、プロレスごっこにも彼は絶対に参加しないのだ。そしてその指摘が図星だったのか、アルデバランは気まずそうに俯いて、また黙ってしまった。
カプリコーンもそうだが、普通は、肉体的な力に載せる小宇宙の量を加減することが、聖闘士にとっての「手加減」だ。だがアルデバランは肉体的な力と、小宇宙による力の境目がないという。そんな彼が力を加減するには、小宇宙に目覚めていない普通の人間がする一般的な手加減と、小宇宙のコントロールを同時にしなくてはならない。それがどんなに難しいことかは、カプリコーンにもよく分かった。
純粋すぎるほどにダイレクトで豪快な“力”だからこそ、コントロールにこれ以上ないほどの繊細さが必要になる。それがアルデバランの小宇宙の特性だった。