「……どうしたんだ?」
「あ……」
発育が驚くほど速い“黄金の器”の子供だということを差し引いても身体の大きい牡牛座タウラス候補のアルデバラン、彼が十二宮の前で所在なげにうろうろしているのを見つけた黒髪の少年は、首を傾げて声をかけた。
「帰ってきたんだな。おかえり」
「ああ、ただいま」
鋭い琥珀の目を隠す黒い髪は、すっかり短くなっていた。潔いほど形のいい眉が露になった少年の顔つきは、以前と比べると比べ物にならないほど豊かで、そして晴れやかに満たされている。今は、笑みさえ浮かべていた。それは、その背に背負った黄金のパンドラボックスのせいもある。彼は、サガ、アイオロスについで一番速く、カプリコーンの黄金聖衣を正式に自分の物とすることが出来たのである。
聖衣を自分の物とするには、何かしらの試練を受けなければならない。それは自分と同じ候補たちとの試合などであり、また聖衣ごとに特別の試練が代々用意されている場合もある。牡羊座アリエスの聖衣継承には聖衣修復技術の免許皆伝なども条件に含まれるように、黄金聖衣には、それぞれ特別な試練が用意されている。そしてその多くは、自分の生まれ故郷に帰って行なうことが多かった。
カプリコーンはその試練を受ける資格を渡され、ここ一ヶ月ほどスペインに行き、そして名実共に“カプリコーン”になって帰ってきたのだった。
「おめでとう」
「ああ、ありがとう。……で、どうした」
「……アイオリアと、ムウと、シャカが」
「またか!」
カプリコーンは、パンドラボックスを背負ったまま、アルデバランが指差した方向に走り出した。アルデバランも慌ててそれに続く。
細身の割にかなり背が高くて脚が長いせいか、カプリコーンは走るのが酷く速い。それに身軽で、今も階段を何段飛ばしなのかわからないほど大きく飛ばし、本当に断崖絶壁で暮らす山羊のように軽々と登っている。体格がいい分ウェイトも重いアルデバランは、ついていくのが精一杯だった。
「おい!」
無人の白羊宮をみるみるうちに通り抜け、カプリコーンは金牛宮の大回廊で取っ組み合っている三人のチビを怒鳴りつけた。しかし色合いがそれぞれ違う金髪は、あっちが暴れればこっちが飛び跳ね、向こうが転がればそっちが殴り掛かるという忙しない有様で、カプリコーンの言うことなどちっとも聞きはしない。
「ドラ猫!」
「バカシャカ!」
「変なまゆげ!」
声変わりの時期とはまだまだほど遠い高い声が、取っ組み合いの最中ひっきりなしに聞こえてくる。カプリコーンはため息をつくと、はあはあと呼吸を乱して追いついてきたアルデバランに、水を汲んでくるように言った。
「ばーか!」
「あたまでっかち、ばーか!」
「ばかって言った方がばかなんですよ!」
「きみだって今言った!」
「うるさい!」
──バッシャン!
カプリコーンは、動物の喧嘩を止めるのと同じ方法で、金髪三人の取っ組み合いを止めた。つまり、ダンゴになっているちび三人に、桶たっぷりの水をぶっかけたのである。三人はそれぞれ色の違う目をまんまるに見開いて、ぴたりと動きを止めた。しかし何をされたのかみるみるうちに気付くと、今度は一斉にカプリコーンを睨みつける。カプリコーンの後ろでは、水を汲んできたアルデバランが相変わらずおろおろしていた。
「つめたい!」
「なにするんですか! おうぼうです!」
「そうだとも、私たちは畜生ではないのだぞ、カプリコーンめ!」
「カプリコーンめ!」
「カプリコーンめ!」
「黙れ、ちびども」
打って変わって同じ言葉を合唱し始めた三匹を、山羊座の少年は鋭い琥珀の目でじろりと見下ろした。この歳頃、しかも発育の速い“黄金の器”たちの間では、3つも歳が離れていれば、見た目的にもかなり差がある。しかもカプリコーンは、線は細いが背がかなり高い。そして黄金聖闘士いち鋭いかもしれない琥珀の目は、そんな高さから見下ろせば、抜群の威力を発揮した。散々取っ組み合ったせいで服も髪もひどい有様の三人は、ぐっと息を詰まらせて、背の高い先輩格を恨めしげに見上げた。
「俺が出掛ける前とちっとも変わってないじゃないか。なんだってそんなに取っ組み合ってるんだ」
「だってシャカが!」
「アイオリアが!」
「ムウが!」
「……が?」
カプリコーンが聞くと、一斉に喚き出そうとした三人は、吃驚した小動物のような顔になった。
「……なんだっけ?」
「な、忘れたのかねアイオリア、それはだな、」
「アイオリアはばかだから、忘れちゃったんでしょう」
「またばかって言ったな! 自分だって忘れたくせに!」
「忘れてませんよ!」
「じゃあ言ってみろよ、変なまゆげのくせに!」
「まゆげはかんけいないでしょう!」
「やめろ」
ムウが涙目でアイオリアに飛びかかろうとしたのを、カプリコーンはムウの頭をバスケットボールでも持つようにして掴み、止めた。骨っぽくて細長い指がどんなものでも斬り裂く聖剣にもなりうると知っているムウは、細い喉の奥で唸りながら動きを止める。
だがそれとは裏腹に、ムウの紫色の瞳はみるみるうちに潤み、涙がぼろぼろこぼれ出した。
「まゆげはかんけいないのにいいいいいいい」
「ああ、わかったわかった。ないな。ない」
泣き出したムウの頭を、カプリコーンは仕方なくそのままわしわしとなで、ため息をついた。ムウが泣き出してしまったことで、シャカは気まずそうにし、アイオリアなどもらい泣きの体勢に入っており、カプリコーンはうんざりした。
「なんだなんだ、どうした?」
場にそぐわない、非常に明るく朗らかな声が響く。まるで太陽でも背負っているかのような笑顔で現れたのは、アイオロスだった。
「アイオロ……」
「にいさあああああん!」
うわあん、と大声を上げて、アイオリアが大泣きしながらアイオロスにしがみついた。両親のいない彼ら兄弟だが、アイオリアはアイオロスが育てたと言っても過言ではない。そのせいか、アイオリアはこの歳の離れた兄に対して酷く甘ったれで、そのことをデスマスクや他の者たちにからかわれることも多かった。その証拠に、ムウとシャカがうんざりしたような、ちびのくせにいっちょまえに蔑むような目をしてアイオリアを見ている。
「おお、どうしたアイオリア。またおしっこ漏らしたのか?」
「も、もらしてないよ!」
「なんてこった。大きい方か」
「大きい方もしてないよ!」
涙目のまま顔を真っ赤にしている幼い弟に、アイオロスはげらげら笑いながら、自分より黄色の濃い金髪の頭をポンポンと叩いた。そう、甘ったれな弟を笑顔で受け止めつつも、彼は同時に容赦という物が割とない。
「ははあ、なるほど、何で喧嘩してたか忘れたと」
気まずそうなちび三人に向かって、アイオロスはうんうんと頷いた。
「よおし、三人そこに並べ」
煌めく笑顔で言ったアイオロスに、三人はびくっと肩を跳ね上がらせて青くなった。これから何が起こるのか知っているからだ。
「いいかあ、聖闘士は私闘禁止、つまり聖闘士同士で喧嘩しちゃいけない。仲間が仲良くするのは当たり前のことだ。そうだろう?」
「でも、だって」
「だってじゃない。男だろうアイオリア。ぐだぐだ言うな」
大好きな兄にびしっと言われて、アイオリアは渋々と黙った。
「喧嘩両成敗! さあいいかー、これに耐えられた者はもう悪いやつではなくなるんだ」
アイオロスが軽く拳を振りかぶり、三人のちびはぎゅっと目を瞑った。
「
……アイオロスパンチ!」
──ゴン! ゴン! ゴン!
脳天に落ちた拳骨に、三人は同じように同じだけ涙目になり、そして全く同じポーズで頭を抑えた。
「はっはっは、これでよし。喧嘩した時はアイオロスパンチが一番だ」
「うう……」
「なんだその目は。アイオリア、さっきムウを変な眉毛とか言ってたが、ムウが変な眉毛ならシオン様も変な眉毛って事だろう。シオン様に言いつけちゃうぞ」
そう言われて、アイオリアは真っ青になった。
「シオン様の眉は〜ヘンな眉〜、アイオリアが〜言ってた〜」
「うわあああああん! 兄さんやめてええええ!」
歌いながら教皇の間に向かってダッシュを始めたアイオロスを、アイオリアが顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら追いかける。残された者たちは、それを呆然と見送ることしか出来なかった。
「そうだカプリコーン、喧嘩止めてくれて偉いぞ! さすが黄金聖闘士、すっかりいいお兄さんだ!」
そして階段の遥か上からアイオロスが叫んだ言葉に、カプリコーンは僅かに頬を赤くしたのだった。