第4章・Bittendes Kind(おねだり)
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「……おう、名無し」
 訓練の帰り。
 磨羯宮に入ろうとしようとしたその瞬間背後からかけられた声に、黒髪の頭が勢いよく振り返った。少し驚いたようなその表情が、ややして、何だか疲れたような顔に変わる。
「まあ、その……俺も必死だったんだ、勘弁してくれ」
 だが、銀髪の頭をぽりぽりと掻きながら幾分きまり悪そうにそう言った少年に、カプリコーンは、幾分かだけ、胸に痞えていたものが取れた気がした。
「………………」
「じゃ、そういうことだ」
「待てよ」
 くるりと踵を返して去っていこうとする少年を、カプリコーンは引き止めた。
「お前、候補生になったんだろ。キャンサーの」
「……なんだ、耳がはえーな。ま、そうだよ。死ぬほど嫌だけど、仕方ねえ」
「嫌なのか?」
「嫌だよ」
 本当に嫌そうだったので、カプリコーンは理由も聞かないまま納得する。嫌だから、嫌なのだろう。こういう部分で、彼はひどく素直な少年だった。子供らしいというよりも、動物的な性質である。
 そしてキャンサーのほうもまた、聖闘士になるのが嫌だ、という発言をあっさり受け入れたカプリコーンに少し驚き、……そして少し嬉しかった。
「お前のこと、なんて呼べば良いんだ? “キャンサー”は名前じゃないんだろ?」
 それはカプリコーンにとってちょっとした意趣返しのつもりでもあったし、またそれを彼が教えてくれることによって、本当にすっきりと仲直りが出来そうな気がするからという質問でもあった。
 そして銀髪のキャンサー候補は回転の速い頭で的確にそれを読んだ上で、ややしてから、ひどく慎重そうに言った。
「──デスマスク」
 明らかに人名でないそれに、カプリコーンはむっとした。かっとしなかったのは、その声がひどく慎重そうで、つまり某かのまっとうな理由があるかもしれなさそうだったからだった。
「……何だよ、それ。ほんとの名前じゃないだろ」
「ここでは、そう名乗ることにしたんだ」
 銀髪の少年は、やはり慎重そうに──つまり、、という音楽記号をつけた口調で言った。
「……俺は、ここに、無理矢理連れて来られたんだ」
 カプリコーンは、黙ってこくりと頷いた。それはここ数日でアイオロスから聞かされて既に知っていたことで、そして、それならばああ言う手段に出ても仕方が無いよな、と理性で納得出来る十分な理由だった。感情の方の納得は、まさに今これからだが。
「だから、──どうしても、帰りたいんだ。そのために、聖闘士になる」
「どういう意味?」
 尋ねると、「今、サガが聖域を出てスウェーデンに行ってるのを知ってるか」と少し興奮の混ざった声が返ってきた。
「……聖闘士になれば、外に出れる。そして、黄金聖闘士になれば、大概の追っ手がかかっても大丈夫だ。強いから」
「……………………」
「だから、聖闘士になるんだ。嫌だけど」
 聖域の人間が聞けば、また彼を牢屋に閉じ込めるに充分な内容だった。
「言うなよ。秘密だからな」
「わかった」
 カプリコーンは、しっかりと頷く。そして、完全にではないが、すっとするものを覚えた。それは、キャンサーが話したその内容が“秘密”だったからだ。
「それで、なんでホントの名前じゃないんだ?」
 カプリコーンは、積極的に質問した。
「……俺は、ここの奴らが嫌いだ」
「うん」
「お前は?」
「家に比べれば何でもまし」
「そうか」
 今度は、キャンサーの方が頷いた。そして少しの沈黙の後、彼は言った。
「……俺の名前は、母親が付けてくれたんだ」
 その声はこれ以上なく慎重で、まるで世界の秘密を話すようだった。
「だからここの奴らには、絶対教えたくないんだ」
 その意思は、硬かった。無理矢理連れて来られ、力に屈服させられ、故郷に帰ることを禁じられ、その上母に貰った名前まで教えてなるものか、と。
 そしてそんなキャンサーの言い分に、カプリコーンは再度ショックを受けていた。
 父親と同じ名前を反吐が出るほど嫌っている自分と違い、彼は母親から貰った名前があまりに誇らしいので軽々しく人に教えない、とまで言ったのだ。それは羨ましくもあり、これ以上なく納得出来る理由でもあった。
「……そうか」
 カプリコーンは、立ち上がった。
「わかった。“デスマスク”」
「ん」
 “デスマスク”は、こくりと頷いた。
「なあ、ちょっと来いよ」
「は? 何だよ」
「いいから」
 突然立ち上がって磨羯宮の奥に誘おうとするカプリコーンに、デスマスクはやや面食らって立ち往生した。しかし「いいから」と尚も繰り返すカプリコーンに、彼は渋々と言われた通りにする。
 そしてどうやら彼が寝泊まりしている部屋に入ると、カプリコーンは、自分の小さな荷物をなにやらごそごそやり出した。あまりに質素で小さい荷物に、家から持ってきたのはもしかしてそれだけなのかとデスマスクが聞くと、あっさりとそうだと肯定の返事が返ってきた。どんな家かは知らないが、カプリコーンが裕福な家の子供なのは間違いない。だからデスマスクは家からさぞ大量に荷物を持ってきているものだろうと思っていたのだが、それは外れた。
 そして彼はその中から何か取り出すと、それを持って再度部屋を出る。
 カプリコーンが案内したのは、磨羯宮の生活区、離宮の表庭だった。彼は途中で咲いていた赤い花をいくつか摘みながら、その中の木に登り始めた。
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BY 餡子郎
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