第3章 Hasche-Mann(鬼ごっこ)
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 極度の疲労の上、体力気力とも使い果たして倒れたキャンサー候補の少年は、さすがにまた牢に放り込んでは命に関わる、と、教皇の間の客室のベッドに寝かされた。
 極限まで汚れきった服を着替えさせられベッドに寝かされた少年は、明らかに痩せて──いや、窶れていた。もともと背は低いほうだったが、ここに来たすぐは大型犬の子犬を思わせる、少しむちむちした力強い手足をしていたはずが、子供らしい脂肪が削げて堅くなり、あの牢にいる間に色々したのだろう、爪が何枚か剥げてなくなっていた。
「……やあ。具合は?」
 目覚めた少年に、彼のベッドの枕元に置かれた椅子に座っていたサガは、そう声をかけた。銀髪の少年は朦朧とした顔つきで数秒天井を眺めていたが、みるみるその赤い目に意思が宿り、首を動かしてサガを見て、うんざりしたような顔をし、また天井を見る──という、一連の作業をゆっくりと行った。
「しばらくここで休め。君は随分身体に負担がかかっている」
 事実だった。
 日が射さず時間が分からない不潔な牢屋、最低限の食事、いつ暴力的にも性的にも襲ってくるかもしれない、自分より遥かに力の強い大人の影。そんな最低の環境で一週間も監禁されていたという事実は、現代社会ならば十二分に度の過ぎた虐待行為であり、現代社会の普通の子供なら、いや大人でも三日もたたずに参ってしまう内容だった。
 だが結局、少年は最後までずっと反発を続け、しかもキャンサーとなることを了承しなかったばかりか、自分の名前の頭文字も喋らなかった。まるで革命家のようなプライドの高さだ。
 この歳の子供がここまでされて涙ひとつ見せず、最後まで諦めずに脱出方法を考え、しかも実行し、最後の最後、気絶するまで反発し続けたというのは驚嘆に値する精神力であるという事は、誰の目から見ても明らかだった。
 そして身体的な負荷に関しても、天性の小宇宙のコントロール配分で身体の働きを補助し、一週間も保った。おそらく無意識に近いものだろうが、それだけに彼の小宇宙のコントロールに関する天分の才が見て取れる。
「……君ならすぐ聖衣を貰って正式な聖闘士になれると思うけどね」
「うるせえ」
 子供の声は、掠れていた。
「おれは聖闘士になんかならない。帰るんだ」
「気持ちは分かるけど」
 ゆったりと、とても当然のようにサガがそう返答すると、少年は少し驚いたようだった。アイオロスや他の者は、自分が聖闘士になどなりたくないと言うと、信じられない罰当たりだ、というような顔をする。こんな栄誉を蹴るなんて気違い沙汰としか思えない、そんな風な反応をしない人間に、少年は聖域に来て初めて出会った。
「でも、無理だ」
「……なんで」
 この質問は、少年もここへ来てから何度かしたことがある。だがその質問に返って来るのは全て「それはここがアテナの聖域だから」「君がキャンサーだから」という答えで、つまり“話にならない答え”だった。しかし、このプラチナブロンドに薄いブルーグレーの目をした少年の口からは、別の答えが聞けそうな気がした。そして、その期待は裏切られなかった。
「ここの人間は、君より大概強い」
 サガが淡々と言ったその言葉に、少年は心からほっとし、そして静かに絶望した。
 つまり、それは初めて“まとも”な物言いをする人間に出会えた安堵と感動であり、またどうしようもない現実を突きつけられた衝撃と納得だった。
「君の力はシオン様から聞いた」
 積尸気の穴を自在に開き、強制的に魂をそこに引きずり込む技。
 それがいかに無敵で恐ろしい技か理解するのは、まさにぞっとするほど簡単な事だった。 死に憧れる気持ちというものは、人間ならば誰でも持っている。そしてその暗い穴は、生に縋り付く意思をぎりぎりのところで下回るような位置に常にある。つまり、その気持ちは常に生への執着に押さえつけられて居ながらにして、同時にいつでも、月の裏側のようにして、生の裏に張り付いているのだ。
 そしてそんな生まれながらのものを引き出されることに打ち勝つには、かなりの小宇宙──つまり、生命の源を燃やさなければならない。キャンサーはまだ積尸気の穴を隙間レベルでしか開けられないので、魂が死への誘惑に負け、完全に穴の中に引きずり込まれるまで時間がかかる。だから途中でシオンのようにこちらの小宇宙で積尸気の隙間を打ち消してしまえばいいが、これがもし、一気に魂を引きずり込んでしまえるまでの大きな穴を開けられるようになったとしたら。
「君、逃げる途中で一度も力を使わなかったね」
「……………………」
 言外に、一度も殺さなかったね、と言っているのが分かって、少年はサガを初めてまっすぐに見た。この年上の少年が、自分と同じ位置の視野を持っていると思ったからだ。
「……俺の力は……相手が死ぬまで時間がかかるから、使ったって」
「“無闇に人は殺さないんだ”とは言わないんだな」
 かなり淡々とした口調でサガがそう言ったので、少年は大きな目を見開いた。そういえば、今までサガとだけこうやって話した事はない。彼は率先して牢にやってくるアイオロスの後ろにいつも困ったように佇んでいるだけで、自主的に何か話しかけてきた事は一度もなかった。
 しかし──……少年は、ふと思い出した。なぜ自分をこんな目に遭わせるのだという質問をアイオロスに投げかけたとき、“話にならない答え”を当然のように返したアイオロスの後ろで、サガは疲れたように、呆れたように、……そして憎らしげに、ふっと息を吐いたのではなかったか。
 サガはどこに置いてあったのか林檎を取り出し、小さなナイフでしゃりしゃりと皮を剥き始めている。
 少年は、ここへ来てから、初めて笑った。
「俺は必要な分しか殺さないだけだ。仕事で殺すか、よっぽど死ねって思った奴にしか“呪い”はかけない。意味ねえもん」
「なるほど。まあ、カっとして呪いをかけて三日もしてから死なれても色々面倒だからな」
「そ」
 サガは林檎を剥き終え、アップルパイかなにかに使うような薄めに切り分けた林檎を銀色のべこべこになった皿に盛ると、一枚フォークで突き刺した。
「お食べ」
 口元に差し出された林檎。自分で食えると言いたい所だが、体中が怠くて痛くて、手を動かすのはかなり億劫だった。少年は二秒ほど迷ってから口を開けた。相手がアイオロス辺りなら意地でも自分で食べるのだが、淡々と林檎を差し出すサガを見て、なんとなく意地を張るのをやめたのである。サガに食べさせられた林檎は甘酸っぱく、こちらへ来てから初めて美味いと思えるものだった。牢で出された食事と言えば、何日どこに置いておけばこんなになるんだというような、堅いゴムに似た食感のパンと水だけである。
「食の国イタリアから来た子には、こちらの食事は少し辛いかもしれないね」
 と、サガは言った。あのパンは古代からギリシャで作られているパンであるらしいが、現代社会では食べれたものではないだろうな、とも。
「あんた、イタリア行った事あんの」
「ないけど、どこにあるかは知ってるよ」
 林檎を半分くらい少年に食べさせると、サガは「ちょっと待ってろ」と言いおいて、部屋を出て行き、そして五分もしないうちに戻ってきた。そして手に持った紙をがさがさと広げる。新聞紙を広げた位の大きな紙は、世界地図だった。……少年は、この時初めて世界地図を見た。
「見えるか?ここがイタリア。長靴の形をしているから分かりやすい」
 サガが指差した、大陸から海に下向きに突き出したイタリアは、本当にブーツか長靴の形をしていた。少年は、生まれて初めて見る世界の上空図を、食い入るようにして見つめている。
「そして、これがギリシャ。今、君がいる所」
 サガは指をゆっくりと右下に滑らせ、イタリアの踵の先にある半島を示した。
「アテネ、とあるだろう?ギリシャの首都だよ。イタリアのローマみたいなものだ。それで──」
 サガが説明し出したが、少年は聞いてはいなかった。
「……ここ、」
 ここが、と、少年は疲労のあまり震える腕をシーツの中から出して、黒く汚れた爪のついた指で、地図の上に書かれた小さな長靴に触れた。
 なんて小さいのだろうか、と少年は思った。大きな紙の上の小さな長靴はとてもちっぽけで、そしてその小ささに、自分自身のどうしようもない小ささを思い知った。こんな小さな場所の中からも出られない自分は、なんて、なんてちっぽけで無力なのだろうかと。
「ここ……」
 地図の上では、ギリシャはイタリアとそう離れてはいない。しかし少年は、自分の町から見えた広大な海が、今自分の爪の先よりも小さな青いスペースなのだということを、普通よりも随分発達した頭脳でもって既に理解していた。あの無敵のような青い海でさえ、地図の上ではこんなに小さい。

 ──では、自分は。

「……う、」
 ぼろ、と、大きな赤い目から涙がこぼれ落ちた。
 顔をぐしゃぐしゃにして、うう、と呻きながら泣き始めた自分を、サガがどんな表情で見ているのか、少年には分からない。
 少年は、泣くまいとした。
 母が死んだ時以上には決して泣くまいと、声を抑えた。
 だが涙は、嗚咽は、あとからあとから込み上げて、動けない少年の頬を流れていった。
第3章 Hasche-Mann(鬼ごっこ) 終
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BY 餡子郎
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