第３章 Hasche-Mann（鬼ごっこ）
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「──どこだよ、出口！」
一方、追われるほうはと言えば。
幼児ならではのばらばらした言葉で情報を得た彼は、「森に出入り口がある」ということまではわかっていても、「小宇宙を集中させ、結界の歪みを見つける」ということがその出入り口に入る方法なのだ、という事まではさっぱり知らず、それらしいものを探して森の中を彷徨っていた。彼にとっての“それらしいもの”は例えば門であったり、門番が立っている柵であったりなのだが、あるのはひたすら自然のまま茂る木だけだった。
「くそ、むかつく」
なんでこんな目に遭わねばならないのか。
ここに連れて来られてからというもの、少年の胸にあるのはひたすらにそれだった。自分はただあそこで生活していただけで、恨まれる事など──それほどやっていない。突然後ろから殴られたりするくらいの心当たりならあるが、いきなり攫われて見知らぬ高慢ちきな女の手下になれと言われるような覚えなど微塵もない。
「知るかよ、アテナなんて」
聞いた事もありゃしねえ、アデリーナとかアンジリーナとかアンナとかなら知ってるけど──と、少年は世話になっている女たちの名前と顔を思い浮かべ──立ち止まって、目もとをぐいと拭った。
「……くそっ」
愛してると言う言葉を何よりも喜んでくれる、愛すべき女たち。彼女たちは貧乏で、学がない以前に頭も悪く、心もそうそう広いとはいえない。だが彼女たちの胸や腕は暖かく、少年に自分の寝床を半分与え、湯気の立つ食事をくれる。不潔で冷たい牢と石の床ではなく！
「くそっ、くそっ、くそっ」
──なんでこんな目に遭わなきゃならない！
「くせーし！ 痛えし！ 腹減ったし！ ……くそっ！」
少年は、足下の石を蹴っ飛ばした。疲労の怠さ、眠気、時間が経つに連れて朦朧としてくる頭を振り、母親と作ったリストの項目を心の中で必死で見つめた。いい男は、ぐずぐずと泣いてはいけない。
「……！ チッ……！」
ハっと気付いた少年は舌打ちをすると、一目散に走り出した。
「……勘がいいな」
気配を消して近付いていたアイオロスは驚きつつも、気付かれたのなら、と小宇宙を発揮して走った。キャンサーの足はやはり子供のそれでしかなく、追いつくのは簡単だ。
「キャンサー！ もういいかげんにしろ！」
「こっち、の、台詞だ……！」
何日も最低限の食事しか与えられておらず、石の床で寝てきた少年の疲労が濃いのは当たり前だ。子供の足で必死に走りながら、言葉の合間にひゅうひゅうと息を漏らすキャンサーの後ろ姿はひどく小さく、アイオロスはその背中に弟の影を見たような気がして、顔を歪めた。疲労でふらつくキャンサーの足は遅く、もう小宇宙を使わなくても簡単に追いつける。だがアイオロスは、一定の距離を保った。
だがキャンサーは、足がもつれた挙げ句に木の根に足を引っかけ、ばたんと倒れてしまった。遠目にも、膝が笑って立てないのが分かる。アイオロスはほとんど歩いているような速度で近付き、ぼろぼろになった銀髪の少年を見下ろした。
「……なんでそこまで嫌がるかな」
「…………………………わかん、ねえ」
ぼそり、と小さな声で呟かれた言葉に、アイオロスはきょとんとした。
「なんだ、自分でわからないのか？」
「違う！」
疲労困憊の所に大声を出した少年は、げほげほと咽せた。
「なんで、おまえら、おれに、……こんな」
「だって、君はキャンサーだから……仕方ないよ」
「……気持ちわりィッ……！」
ぎり、と歯ぎしりが聞こえた。
「気持ち悪ィ……！ おまえも、ここの奴ら、全員、気持ち悪ィよ……わけわかんねえ……！」
それは、少年が鉄格子越しに、アイオロス含む聖域の人間たちと話していて、常に感じていた事だった。
アイオロスなりに少年を牢から出そう、つまりキャンサーになることを了解させようと、彼は色々と少年を説得しにかかった。アテナの聖闘士になる事がどんなに名誉か、世界を守る戦士になる事がどれほど尊いのか。
そして、その主張に欠片も共感できずにうんざりした少年は、アイオロスに言った。「じゃあお前、アテナが死ねっつったら死ぬのかよ」と。
当然言葉に詰まって黙るだろうと思ったが、アイオロスは、事も無げに言った。
それは、……それはもう、当然というよりも自然に、笑みさえ浮かべて言ったアイオロスに、少年はぞっとした。
国際化が進んで色んな人種が混じったいまどき、アイオロスのようにこんなにも濃い、ターコイズのようにはっきりした青緑の目の色をしている者など少ない。カラー映画が出始めた頃の古い映画ではこんな目をした人間も見たことはあったが、アイオロスの目はそれよりも鮮やかで、夏の空よりも果てがなかった。
ぞっとするほど鮮やかに深い目で、少年は事も無げに、それなら死ぬと言ったのである。
「……死ぬとか、マジで……。……気持ちわりィよ、お前ら……」
「…………………………」
「………………寄るなっ……寄るな、触んな、くそっ、……」
少年は最後の力を振り絞って土を掴んだが、立ち上がる事は出来なかった。
アイオロスはため息をつき、意識を失った少年の身体を担いだ。
一方、追われるほうはと言えば。
幼児ならではのばらばらした言葉で情報を得た彼は、「森に出入り口がある」ということまではわかっていても、「小宇宙を集中させ、結界の歪みを見つける」ということがその出入り口に入る方法なのだ、という事まではさっぱり知らず、それらしいものを探して森の中を彷徨っていた。彼にとっての“それらしいもの”は例えば門であったり、門番が立っている柵であったりなのだが、あるのはひたすら自然のまま茂る木だけだった。
「くそ、むかつく」
なんでこんな目に遭わねばならないのか。
ここに連れて来られてからというもの、少年の胸にあるのはひたすらにそれだった。自分はただあそこで生活していただけで、恨まれる事など──それほどやっていない。突然後ろから殴られたりするくらいの心当たりならあるが、いきなり攫われて見知らぬ高慢ちきな女の手下になれと言われるような覚えなど微塵もない。
「知るかよ、アテナなんて」
聞いた事もありゃしねえ、アデリーナとかアンジリーナとかアンナとかなら知ってるけど──と、少年は世話になっている女たちの名前と顔を思い浮かべ──立ち止まって、目もとをぐいと拭った。
「……くそっ」
愛してると言う言葉を何よりも喜んでくれる、愛すべき女たち。彼女たちは貧乏で、学がない以前に頭も悪く、心もそうそう広いとはいえない。だが彼女たちの胸や腕は暖かく、少年に自分の寝床を半分与え、湯気の立つ食事をくれる。不潔で冷たい牢と石の床ではなく！
「くそっ、くそっ、くそっ」
──なんでこんな目に遭わなきゃならない！
「くせーし！ 痛えし！ 腹減ったし！ ……くそっ！」
少年は、足下の石を蹴っ飛ばした。疲労の怠さ、眠気、時間が経つに連れて朦朧としてくる頭を振り、母親と作ったリストの項目を心の中で必死で見つめた。いい男は、ぐずぐずと泣いてはいけない。
「……！ チッ……！」
ハっと気付いた少年は舌打ちをすると、一目散に走り出した。
「……勘がいいな」
気配を消して近付いていたアイオロスは驚きつつも、気付かれたのなら、と小宇宙を発揮して走った。キャンサーの足はやはり子供のそれでしかなく、追いつくのは簡単だ。
「キャンサー！ もういいかげんにしろ！」
「こっち、の、台詞だ……！」
何日も最低限の食事しか与えられておらず、石の床で寝てきた少年の疲労が濃いのは当たり前だ。子供の足で必死に走りながら、言葉の合間にひゅうひゅうと息を漏らすキャンサーの後ろ姿はひどく小さく、アイオロスはその背中に弟の影を見たような気がして、顔を歪めた。疲労でふらつくキャンサーの足は遅く、もう小宇宙を使わなくても簡単に追いつける。だがアイオロスは、一定の距離を保った。
だがキャンサーは、足がもつれた挙げ句に木の根に足を引っかけ、ばたんと倒れてしまった。遠目にも、膝が笑って立てないのが分かる。アイオロスはほとんど歩いているような速度で近付き、ぼろぼろになった銀髪の少年を見下ろした。
「……なんでそこまで嫌がるかな」
「…………………………わかん、ねえ」
ぼそり、と小さな声で呟かれた言葉に、アイオロスはきょとんとした。
「なんだ、自分でわからないのか？」
「違う！」
疲労困憊の所に大声を出した少年は、げほげほと咽せた。
「なんで、おまえら、おれに、……こんな」
「だって、君はキャンサーだから……仕方ないよ」
「……気持ちわりィッ……！」
ぎり、と歯ぎしりが聞こえた。
「気持ち悪ィ……！ おまえも、ここの奴ら、全員、気持ち悪ィよ……わけわかんねえ……！」
それは、少年が鉄格子越しに、アイオロス含む聖域の人間たちと話していて、常に感じていた事だった。
アイオロスなりに少年を牢から出そう、つまりキャンサーになることを了解させようと、彼は色々と少年を説得しにかかった。アテナの聖闘士になる事がどんなに名誉か、世界を守る戦士になる事がどれほど尊いのか。
そして、その主張に欠片も共感できずにうんざりした少年は、アイオロスに言った。「じゃあお前、アテナが死ねっつったら死ぬのかよ」と。
当然言葉に詰まって黙るだろうと思ったが、アイオロスは、事も無げに言った。
──そうだな。それがアテナの思し召しなら。
それは、……それはもう、当然というよりも自然に、笑みさえ浮かべて言ったアイオロスに、少年はぞっとした。
国際化が進んで色んな人種が混じったいまどき、アイオロスのようにこんなにも濃い、ターコイズのようにはっきりした青緑の目の色をしている者など少ない。カラー映画が出始めた頃の古い映画ではこんな目をした人間も見たことはあったが、アイオロスの目はそれよりも鮮やかで、夏の空よりも果てがなかった。
ぞっとするほど鮮やかに深い目で、少年は事も無げに、それなら死ぬと言ったのである。
「……死ぬとか、マジで……。……気持ちわりィよ、お前ら……」
「…………………………」
「………………寄るなっ……寄るな、触んな、くそっ、……」
少年は最後の力を振り絞って土を掴んだが、立ち上がる事は出来なかった。
アイオロスはため息をつき、意識を失った少年の身体を担いだ。
