第3章 Hasche-Mann(鬼ごっこ)
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「シオン様の言う通りなら、水場にいるはずだ」
「ああ」
 走りながら言葉を交わすアイオロスとサガであるが、小宇宙を使っているせいで、その声に息の乱れはない。そして小宇宙を使って走る彼らのスピードはとっくに世界記録レベルであり、また、何の訓練も受けていないキャンサーの足は年齢通りの子供の足だ。大方の居場所が分かっていれば、捕まえるのは容易いはず。
「おかしいな。小宇宙が全く掴めない……」
 困ったように太い眉を顰め、アイオロスが呟く。“黄金の器”、つまり黄金聖闘士の特質を持つ小宇宙に目覚めたばかりの者は、ほぼ間違いなく、溢れ出す自分の小宇宙をコントロールすることが出来ない。身の丈に合わない小宇宙は周囲を破壊したり、もしくは溢れに溢れて自身をどんどん疲弊させたりする。
 だからまだ未熟なうちは、漏れ出している小宇宙が大きいので、その居場所は筒抜けである。小宇宙を押さえ込むことに徹底しているカプリコーンでさえ、ある程度の距離ならどこにいるかすぐに分かる。しかし今、キャンサーの小宇宙は全く捉えられなかった。サガとアイオロス自身も、黄金聖衣を正式に賜ってはいるもののまだまだ修行中の身なので、小宇宙の探知も完璧とは言いがたい。しかし、自分たちより五つも年下の、何の訓練も受けていない候補生の小宇宙が捉えられないなどというのは、あり得ない事だった。
「キャンサーの小宇宙のコントロールの才能はまさに天才だそうだが……」
 サガが言った。
「だからって、何の教えも受けていないのにここまで気配を消せるものなのか?!」
「落ち着け。もしキャンサーが本当に完璧に小宇宙を消せる技を持っているとしても、あの子はまだ小さいんだ。普通の子供を捜すのだと思えばいい」
 普通の子供は、他人の神経を確実に逆撫でし懲罰房を爆破させるなんて頭脳プレイを思いついたりしない。そう二人は内心重々思っていたが、口には出さずに黙り込んだ。
「それに、このひどい臭い。これは立派な手がかりだ」
「まあな……できればもっと他の臭いにして欲しいもんだが」
 べちゃべちゃとした小さな足跡は、もの凄い臭いを放っている。二人はそれを追いかけて走っているわけだが、シオンの予想通り、足跡は池に続いていた。既に子供の人影はないが、ここで身体を洗ったのだろうと思われる跡が見て取れた。
「見ろ。通ったあと水が濁っている」
「水草の影を隠れながら進もうとしたみたいだな」
 二人は水の底が巻き上げられて濁った浅瀬をざばざばと進んだ。
「やっぱりまだ子供だな、進んだ跡がバレバレだ」
「そうだな。おっと、結構足を取られるな。これならまだ遠くには行っていないだろう」
 色々と目を剥くような事を仕出かすキャンサーだが、やはりまだまだ小さな子供なのだ、と二人は何だかホっとしながら、先ほどよりは少しのんびりした気持ちで、池の浅瀬を進んでいった。
「なあ」
「なんだ?」
 ざばざばと水と草を掻き分けながら進んでいる途中、なんだかもごもごとした雰囲気を漂わせながら切り出したアイオロスに、サガは不思議そうな顔で振り返った。
「こんなに嫌がってるのに、それでもキャンサーをやらなきゃいけないのかな」
「…………………………」
 カプリコーンも言ってたんだけどさ、と、アイオロスはやはりもごもごと言いにくそうに言った。アイオロスも、さっきまではこの問いを「あまり口に出してはいけない事」、やんわりと見ないようにすべき事だというのはわかっていた。それが何故かという理由についても同様だ。更にそれは何故かと言うと、ここがアテナの聖域だからだ。
 しかし“他所”から来たカプリコーンはそれをあっさりと口にし、キャンサーは手段さえ選ばず堂々と行動を起こしている。アイオロスは面食らい、そして戸惑っていた。
 そして、そのときサガがふっと無表情になったことに、戸惑って俯いたアイオロスは気付かなかった。
「アテナの為だ」
 サガは言った。それは全てを一刀両断する、まるで純潔と潔癖を至上とする処女神アテナの魔力が篭っているような、問答無用の強烈な──呪文のようなものであり、聖域での全てはそのひとことで全て強制終了してしまうようにできていた。疑問を持つ事さえも、その言葉の前では許されない。反論などもってのほかである。
 もちろんアイオロスも、その呪文を出されてしまうともう黙り込むしか出来ない。
 その時、先を行くサガは、水草の影に小さな人影を見つけた。
「──いた!」
「えっ、どこ」
 ざばざばと水しぶきを上げながら進むサガを、アイオロスも追う。そしてサガの言う通り、水草の影にいたのは子供だった。──だが、その小さな頭は銀色ではなく、黄土色っぽい、短いくるくるの金髪だった。
「あれ、にいさん」
「アイオリア!?」
 そこにいたのは、アイオロスの歳の離れた弟であるアイオリアだった。腰まで水に浸かったアイオロスそっくりの男の子は、緑色の大きな目をくるくるさせて兄を見つめている。何故かその小さな両手が抱えているのは、かなり大きなカエルだった。
「おまえ、こんな所で何してんだ」
「カエルを帰しにいくんだ」
 それはシャレだろうか。などとどうでもいいツッコミをアイオロスは口に出しかけるもぐっと堪え、まだいまいち口が達者でない弟に目線を合わせた。
「カエル?」
「うん、でっかいカエルだろ」
「……でっかいカエルだな」
 本当にでかいカエルだった。脇を子供の両手で掴まれて四肢が広がったカエルは、アイオリアの顔を隠す位ある。アイオリアがアイオロスに見せる為にカエルを差し出すと、白い腹を見せたカエルは、ボェ〜、と牛のような野太い声を出してじたばたした。
「この池のヌシなんだって」
「へー……。……ん?「だって」っておまえ、誰に聞いたんだそんなの」
「男の子。赤い目で、白い髪の」
 アイオロスとサガは、目を見合わせた。
「リアがね、」
「リアじゃなくて僕と言え。もうみっつなんだから」
「僕がね」
「よし」
 いちいち注意するアイオロスに、サガは正直あとにして欲しいなあとイライラしたが、両親のいないアイオロスはどんな時も弟の躾を欠かさない主義らしい。
 その後、文法や単語がすぐにひっちゃかめっちゃかになる幼児の証言を何とかアイオロスが翻訳した所、アイオリアが会った男の子というのはやはりキャンサーであるらしかった。
「──なんて奴だ!」
 サがとともに池から上がったアイオロスは、彼の手に余るほどの大きな蛙をむんずと掴んで再度道を走りながら、呆れと忌々しさが混じった声で言った。
 “この池のヌシを、おれのかわりに池の向こうの方まで連れてってやってくれ”──
 アイオリアは、年上の男の子から真剣な様子で託されたのだからやらないわけにはいかない、と幼いながらの男らしさを燃え上がらせていたようだが、足を踏み外して溺れられでもしたら適わない。カエルは兄に任せ、池から上がって家に帰っていろと説得した。
「やっぱりただのチビじゃないぞ、あいつ!」
「……そのようだ。聖域から出る方法もしっかりアイオリアから聞き出しているし……」
 池の主だという巨大カエルを適当に池の中に放り、二人は急いで引き返していた。キャンサーが自分の足跡づくりをアイオリアにやらせたのは、身体を洗った場所から十メートルも離れていない所だった。足を取られて時間のかかる水草の浅瀬を既に二百メートルは進んでいた二人は、聖域の出口である結界の森に向かったというキャンサーを必死で追った。引き返さなくてはならなくなった上、アイオリアを説得するのに時間を食ってしまっている。
「だが、出入り口……結界の森の歪みを見つけるのはなかなか出来ないだろう。タイムロスはそれで相殺できる。焦るな」
「だといいけどな……」
「それにもし出られたとしても、ロドリオ村にある祭壇には門番がいる」
 聖域は、正しくは、外界と直接繋がってはいない。聖域の周りをぐるりと取り囲む結界の森、その歪みを潜ってロドリオ村に行き、そこにある祭壇から外界へ出る、という仕組みになっている。高度なレベルで小宇宙が使える人間ならば結界の森から直接外界に出る事も出来る──次元を操る事の出来る特性を持っていれば尚更──が、初心者ならまず無理だ。アイオロスとサガでもまだ出来ないのだから。
 やっと森に辿り着いたが、集中してみても、やはりキャンサーの小宇宙は感じ取れなかった。鬱蒼と茂る森を前にすると、こちらはまたフェイントで本当は別の所にいるのではないだろうか……という疑問がわいてくるが、ここ以外に心当たりはとりあえずない。
「アイオロス、二手に分かれよう。そのほうが効率がいい」
「……ああ」
 手こずる相手だが、一対一で対峙して負ける事はあり得ない。二人は覚悟を決めて、結界の森に足を踏み入れた。
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BY 餡子郎
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