第2章 Kuriose Geschichte(珍しい話)
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「なんだおまえ」
 一応、彼なりに入る前に色々な想像を働かせてはいたのだが、生き物、しかも人間がいることは予想の範囲外だった。しかも話しかけられるなど。
 そしてその声の持ち主は、入り口から入って右に曲がってすぐ目に入る鉄格子の中にいた。薄暗い檻の中でぐちゃぐちゃに乱れた銀色の髪の隙間から、ぎょろりと大きい赤い目で睨まれ、カプリコーンは思わず後ずさった。
 しかも、あろうことか奴は立ち小便をしていた。
「臭っ」
「うるせえよ」
 びちゃびちゃと壁に沿ってある溝に小便をし終えた、──立ち小便をしているのだから少年だとカプリコーンは判断した──彼は、いっちょまえに両手でそれを振ると、ズボンの中にごそごそとそれを仕舞った。
「で、おまえ誰だ。初めて見るぞ、おまえの顔」
 牢の中には手を洗う所などないので、銀髪の少年は、用足しをしたそのままの手でカプリコーンを指差した。黒髪の少年は、色んな意味で再度後ずさった。
 少年の銀髪は随分汚れていて、その肌や服、そして小便以外にも据えた匂いが漂って来る辺りからして、何日も風呂に入っていないようだった。
 カプリコーンはまだ十年にも満たない人生経験の中で、子猫を拾ったことがある。汚れた、のみだらけの、がりがりに痩せた子猫だった。予想しきっていた事だが飼う事は許されず、猫は家の者がどこかへやってしまったのだが、この少年は、放り出されるどころか焼却炉に突っ込まれてもおかしくないのではないか、と思うほど汚い。そもそも、痩せていて小さい子猫と違って、少年はちびであるが手足はわりと太く、力も強そうだった。
 つまり、強そうでふてぶてしくて汚れているという、全くもって可愛げのない姿を、その少年はしていた。
 そして、そんな少年に後ずさるカプリコーンに対して、彼は「はぁん」と、馬鹿にしたような声を出した。
「おまえ、どっかの坊ちゃんだろ」
 にや、と、銀髪の少年は笑った。カプリコーンはその笑いかたにむっとして、嗅ぎ慣れないにおいにも負けず、思わず言い返した。
「なんで」
「髪がきれいに切られてるし、臭いとか言うのは育ちがいい証拠だ」
 ちびのくせに、やけに大人のような口をきく奴だな、とカプリコーンは思った。自分は話すのがあまり得意でない、という事を自覚していたカプリコーンは、ぐっと息を詰まらせた。しかも、言っている内容も当たりだ。
「で、おまえ誰」
「……山羊座」
「あ、そう。それで?」
 カプリコーンは面食らった。
「それで、って……」
「おまえ頭悪いのか?俺は名前を聞いてんだ」
「だから、カプリコー……」
「何人だ」
 単語で喋る少年に、カプリコーンはついていけない。
「何人だつってんだよ。黒髪だな。南のほうか」
「……スペイン、ジローナ」
「知らねえ」
 南のほう、などと言う割に地理には詳しくないらしい。じゃあ聞くなよ、とカプリコーンは思ったが、自分ばかり質問されるのは癪なので、「おまえは」と聞いてみた。
「おれはイタリアだ、南のほうの」
 南のほう、という言葉が好きなだけなのかもしれない。
「で、言葉が通じてねえわけじゃねえのか? おれは名前を聞いてんだよ。なまえ。なーまーえ」
「だから!」
「おまえさあ、そういうの、なんてえの、なんつーか、「犬です」って言ってるようなもんだろ。きょうび犬でも名前あるぞ、ピンパとかレックスとか」
 少年は早口でまくしたてるが、流れるような口調は一度として詰まる事がなかった。どちらかというとじっくり言葉を選びながら話すタイプのカプリコーンは、立て板に水そのものの調子の少年にすぐさま言い返すことが出来ない。
 しかも、黒髪の少年は、銀髪の少年に言われたその内容にもおおいにショックを受けていた。カプリコーン、山羊座。それが自分の新しい名前なのだとすっかり思っていたのに、この猫より汚い少年は、それは名前などではないと言う。
 ……なら、自分の名前は。
「あーもー、トロっくさい奴だな。じゃあいいよ、別の奴に聞くから」
「……え?」
 カプリコーンが呆然として固まっていると、銀髪の少年はそう言って、どこかを──……見た。赤い目が光る。
「……へえ。おまえん家、親父の名前そのまんまつけんだ」
「──ッ!?」
 ゆるめのカールのかかった長めの髪で隠された目が、驚愕で見開かれる。
 それは、誰も知らない事のはずだった。もしかしたら神官やシオンは知っているかもしれないが、──その名を誰も知らないからこそ、自分はここへ来たというのに!
「えー、何、……Or……? ……オー、オル……」
「黙れ!」
 黒髪を振り乱しながら、少年は、生まれて初めて、自分の頭がくらくらする位の大声を出した。琥珀色の目が、獣めいてぎらりと光る。ぶわっと彼の周囲の砂埃が舞い上がった。
「黙れ、黙れよ! その名前、言ったら、許さないからな!」
「……何だよ、分かったよ」
 銀髪の少年は、彼が何か凶悪な刃物をちらつかせているような……何故かそんな気分になって、ごくりと唾を飲み込んだ。カプリコーンは、体中の毛を逆立てて銀髪の少年を睨みつけている。
 気まずい沈黙が、牢の中を支配した。身ぎれいな黒髪の少年と、壮絶に汚い銀髪の少年は鉄格子を挟んで向かい合い、そして先に目を逸らしたのは、赤い目だった。カプリコーンは、チッと舌打ちをして目を逸らした少年を見て、蟹座の候補生が牢に入っている、という事をアイオロスから聞いたのを、たった今思い出した。
「……名前」
「あ?」
 突然ぼそりと言ったカプリコーンに、銀髪の少年は訝しげに反応した。
「名前……。おまえだけ知ってるのは不公平だ。おまえの名前は何だよ、キャンサー」
「………………ふん」
 キャンサーと呼ばれた銀髪の少年は、半目になって顎をしゃくった。今さっき睨みあいで先に目を逸らしたとは思えない、第一印象通りにふてぶてしい態度だった。
「それは、言えねえな」
「なんだと。ずるいぞ、そんなの」
「絶対教えねえ」
 特にここの奴らにはな、と、キャンサーは赤い目でカプリコーンを睨みつけた。今度目を逸らしたのは、琥珀のほうだった。
 カプリコーンの名前は、前にキャンサーが指摘した通り、父親と同じものだ。スペインでは長男が生まれると父親の名前をつけ、長女が生まれると母親の名をつける家庭が多く、カプリコーンの家もそうだった。……そして、彼はその名前が死ぬほど嫌いだった。
 だからこそ、ここへ来てカプリコーンという名前を貰った時、彼はまるで真っ暗にいた所に光が指したような新鮮さを味わった。忌々しい、身体にべっとりとへばりついていたものが、その光で消えた気がしていた。
 しかし今、この薄暗い牢の中で出逢ったこの少年は、そんなものは名前ではないという。黒髪の少年には、それは酷くショックだった。
「……何だ、おまえ。親父と仲悪いのか」
 銀髪の少年は、俯いて枝を握り締めている黒髪の少年に、ぶっきらぼうに言った。彼は自分の母を何より愛しているが、とてもそうではない子供も沢山居る事を知っている。そしてそれがなかなかに辛いことだとも。だからこそ彼は自分の母を愛していて、また母に愛されていることをとても幸運で特別な事だと思っているのだから。
 カプリコーンは無言だったが、ぽつりと言った。
「あいつと同じ名前でいるくらいなら、犬のほうがずっとマシだ」
 まだまだソプラノの域にいる少年の声には、ぞっとするような、ぐらぐらと真っ暗に煮え滾るような感情がこもっていた。
「だから僕は犬でもいい」
「……ふうん」
 キャンサーは、汚れに汚れた銀髪をぼりぼり掻いた。何だか分からない塵のようなものがぼろぼろ落ちる。何の臭いだか具体的に不明の微妙なにおいに、カプリコーンは僅かに顔をしかめた。
「まあいいや、じゃ、名無しの山羊座。おまえ何しに来たんだよ」
「……別に」
 ただ歩いてたら何だろうと思って入ってみただけだ、と、カプリコーンは正直に言った。キャンサーは「なんだ、あっそう」と特に感慨なさそうに言い、そして、流れるようにそのまま続けた。
「なあ、おまえさあ。この牢屋、壊せねえ?」
「え?」
 何でもない風に突然言われたので、カプリコーンは不覚にもきょとんとした顔をしてしまった。
「おまえも、なんだっけ、小宇宙? とかいうの使えんだろ?」
 根が正直なカプリコーンは、素直に頷いた。
「おれも使えるけど、おれの力はサガとかアイオロスとか、あいつらみたいに石ぶっ壊したりできねえんだよ。おまえ、出来るか?」
「出来るけど」
「じゃあやって」
 事も無げに言う。カプリコーンは戸惑った。
「できない」
「なんで? 今出来るって言ったじゃねーか」
「だって僕は……それに、シオン様が」
「はーん」
 キャンサーは、わざとらしくアルファベットずつ大袈裟に口を動かして、馬鹿にしたように言った。
「じじいの言いなりかよ、腰抜け、おまえやっぱり犬だな!」
「なんだと!」
 カプリコーンは、ここへ来てから初めてかっとなった。小さな幼児なら話は別だが、相手はふてぶてしい、おそらく同じ位の歳の少年である。黒髪の下から琥珀の目が睨みつけるが、今度は赤い目も負けてはいない。カプリコーンより頭半分以上も小さい銀髪のキャンサーは、不敵な笑みを浮かべ、嘲るように言った。
「犬だって言ったんだよ!名前も名乗れない腰抜けsignorinoお坊ちゃん
「やめろ」
「言えないなら言ってやる! おまえの名前は、」
「黙れェえええッ!」

 ──千人の血塗れの剣士が、雪崩のように押し寄せた。
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Annotate:
 ちなみに、台詞中に出てくる『ピンパ』はイタリアで放映された子供向けアニメ『arriva la PIMPA』に登場する犬の名前。NHKイタリア語会話のコーナーで放映されて以来、日本でもマイナーに人気なキャラクター。『レックス』はイタリアでも人気を博したらしいドイツの刑事ドラマ『Komissar Rex』のサブ主人公でもあるシェパード犬から持ってきました。
BY 餡子郎
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