第2章 Kuriose Geschichte(珍しい話)
<3>
カプリコーンは、わりとすぐ聖域に馴染んだ。
「ほらほら、どうした? まだ半分だぞ」
基礎訓練のそのまた基礎、ランニングの途中でへばってスピードが落ちたカプリコーンに、アイオロスが言った。カプリコーンはぜえぜえと息を上げ汗だくになっているが、長めの黒髪の下から、きっとアイオロスを睨み上げると、またスピードを持ち直した。
「わりに、負けず嫌いのようだな」
走りながら、サガがアイオロスにこっそりと耳打ちした。
カプリコーンは、黙々と走っている。
彼は、やはり表情が乏しい少年だった。ぼんやりしている風な時があり、そんな時は特に何を考えているのかよく分からない。だが、かといって何もかもに無関心なわけではないし、あまり自分から喋らないだけで、無口なわけでもなかった。幼児特有の癇癪を起こすムウに真っ正面から付き合いながらも、ムっとする程度で、本気で怒ったりはしない。
つまりおっとりしているというか、マイペースというか、感情の起伏が緩やかとも言える、そんな性格なのかもしれないな、と皆思っている所だった。
“黄金の器”に目覚めているとはいえ、カプリコーンはまだまだ初心者だ。手始めのトレーニングはとにかくランニングをメインに持久力をつける為のものと、その身の丈にあわない小宇宙をコントロールする特訓、この二つだった。
だがカプリコーンは、常に小宇宙が溢れ出してどうにもならない、という暴走タイプではなかった。常に微弱に小宇宙を纏ってはいるが、意思によって発動させる、ということが初めから出来た。しかし、そのかわり、調節して発動させることが出来ないのである。一か百か。火をつけるタイミングは選べるが、火をつけたらもうあとは手当り次第に爆発するのみ、という感じである。
そしてそのことを知っているカプリコーンは、自分の導火線に火をつけることを恐れた。自分の意思と関係なく暴走してしまっているタイプは今の状況をどうにかしようと必死で小宇宙を抑えよう、コントロールしようとするものだが、カプリコーンはその前の段階でつまづいているのだった。
そして、彼を躊躇わせているのは、はっきりと、恐怖というそれだった。
怖い、と、カプリコーンは言った。彼の小宇宙の特性を調べる為にシオンが同伴して小宇宙を発動させようとしたのだが、カプリコーンは、自分の中の爆弾に火をつける事をひたすらに恐れた。
シオンの技を見せ、また建物の丈夫さを何度も証明した挙げ句、彼はやっと一度だけ、小宇宙を発動させることが出来た。
──斬撃。
小宇宙という不確定な存在が作り出す、はっきりと物理的な力。彼が小宇宙を爆発させたその様は、まるで彼の中から、統率の取れていない千人の兵が、それぞれ力任せに、鋭い剣を手当り次第に振り回しながら突撃してくるかのようだった。
だがそれを研ぎ澄ませて一本の剣にしたならば、まさに一人で千人力の剣士が生まれるだろう、とシオンは言った。本人のどこかマイペースな性格にはやや不似合いな気もしたが、カプリコーンの力は、まさに刃の申し子と言うべき攻撃的なものだった。
だからカプリコーンの小宇宙に関する修行は、ひたすらに瞑想という手段で行なわれた。未熟な指揮官の手に負えない、手のつけられない千人の兵士を特訓の度に外に出していては被害は甚大だ。だから彼は自分の中の千人の兵士を、ひたすら瞑想する事である程度までまとめあげ、自分の為の一本の剣にするという方法を与えられた。
それは誰の力も借りる事の出来ない孤独な修行だったが、自分の力を外に出すことをことさら恐れるカプリコーンにとっては有り難い修行法だった。
「急に止まるなよー」
そろそろノルマを走り終える、という頃、アイオロスが言い、サガが僅かに苦笑する。カプリコーンがやって来る前は、これはアイオロスに対するサガの台詞だったのだ。だが初めて直接面倒を見れる後輩が、しかも自分の宮の隣のカプリコーンがやって来た事が、アイオロスはことさら嬉しいようだった。彼は、何かというとカプリコーンの面倒を見たがる。彼の弟はムウと同い年で、やっと赤ん坊でなくなったという位の歳だから、こうして一緒に走ったり話したりするのでも、かなりこちらが気を使わなければならない。だがカプリコーンなら、そこまでする必要はない。
要するに、丁度いい具合に兄貴面、先輩面が出来るので、アイオロスはカプリコーンをよく構うのだった。サガとしては、アイオロスが先輩としての面子を保つ為に、今まで大雑把にしかして来なかった色々な事を慎重に気をつけるようになったので、いい事だと思っている。それに、サガも彼に小言を言ったり、それを笑って受け流すアイオロスに対して途方に暮れたりする事が減ったのは、本当に、そして単純に有り難かった。
「じゃ、今日は終わり」
休憩したら適当に遊んでていいよ、と言うアイオロスとサガに、カプリコーンはむっとした顔をした。やはり負けず嫌いな彼は「まだ出来る」と汗だくでぜえぜえ言いながら強がったが、アイオロスと同じくうっすらとしか汗をかいていないサガが、ゆったりと言った。
「君はまだ身体が出来ていないからね。最初から無理をして身体を壊しては大変だ」
「……………」
二人がカプリコーンよりも随分背が高くて体つきもしっかりしているのに対し、彼は平均より背が随分高い代わりに、平均以下に身体が細い。格闘技を習う前に、まず基礎のトレーニングで身体を作らねばならないという事は誰の目から見ても明らかだった。
カプリコーンは悔しそうだったが、「わかった」と渋々ながら頷いた。
「どうしてもというなら、午前中やっている小宇宙の瞑想をするといい。聖域を探検するのもいいしね。……ああ、でも、昨日教えた危ない所には行ってはいけないよ」
「“狼が来てもドアを開けてはいけませんよ”」
「茶化すな、アイオロス!」
母親のような風情で言うサガをアイオロスがからかうと、サガは眉を寄せて鋭い声を飛ばすが、アイオロスは陽気に笑った。
「大丈夫だよサガ、カプリコーンは良い子だからね」
声が優しくても前足が白くてもドアを開けたりしないさ、とアイオロスは笑って、黒い髪の子やぎの頭をくしゃりと撫でた。褒められているのか馬鹿にされているのか分からないそれにカプリコーンは複雑な顔をし、とりあえず、黙って頷くに留めた。
アイオロスとサガは既に格闘技を習得していて、これからその訓練をしに闘技場へ向かわねばならない。二人は青々と草の茂った柔らかい土の上で身体を休める黒い子やぎに手を振って、風のように走っていく。カプリコーンは二人の背中を見送りながら、やはりスピードを落として自分に付き合っていたのだなという事を確信し、またも悔しい気持ちになった。
しかし、気分は良かった。
カプリコーンは、ここに来てから、自分が身体を動かす事がとても好きだったのだということを初めて知った。
今までこんな風に汗だくになるまで走るなどしたことのなかった少年にとって、疲労した身体を濃い緑のにおいのする涼しい風が撫でていくのは、とても気持ちのいい事だった。土の上を思い切り走り、透き通った池の水を跳ねて魚を驚かせ、色んな所がもげた彫像や倒れた柱によじ上り、どこまで遠くを見渡せるかを試してみる。アイオロスたちにとってはとても当たり前の遊びだったようだが、カプリコーンにとっては、それは別世界のように新鮮なことだった。
「…………………………はぁ」
深呼吸をする。空気が美味しいということも、ここへ来てから初めて──文字通り、味わった事だった。聖域には、自然が多い。そして、電気やガスや水道、そんな近代的なものが一切なかった。あまりに原始的で面食らう事も多かったが、少年は概ね不自由を感じてはいない。不自由さよりも、物珍しさや新鮮な感動のほうが勝っていたのだ。子供の順応性の高さは驚くべきものがあるが、カプリコーンもまたそれによって新しい生活に馴染もうとしていた。
しばらく、風で草が鳴る音や鳥の声、遠くに聞こえる人の声に耳を済ませていたが、カプリコーンはまだ怠さの残る足で、少しふらつきながら立ち上がった。枝のような足で少し危なっかしく歩く様はまさに黒い子やぎのようだったが、それを見ているものは誰もいなかった。
──聖域を探検するのもいいしね。
カプリコーンは、サガの提案を実行する事にした。カプリコーンはまだ聖域をいまいち把握していなかったし、気に入った場所が見つかったらそこで瞑想するのもいいかもしれない、と思ったのだった。黒髪の少年は、途中で見つけた自分の背丈と同じぐらいの枝で地面をがりがり擦りながら、世界で知っている者など一握りしかいない幻の土地を散策した。
途中で一般候補生たちのグループも見かけたが、こちらが黄金の候補生だということに気後れするのか、どうも彼らとは話しづらい所があった。アイオロスでさえ、彼らと接するのには気を使っている。
身分──というものがあること自体ピンとこないが、それについては明らかに黄金が最上位である。しかし、年齢はどちらも似たり寄ったり。そんな複雑な心持ちがそうさせるのだろう、黄金候補生と一般候補生の間には、少しやりにくい雰囲気の溝がある。
そんなわけで、カプリコーンは黙々と歩いた。
途中で大きな蛙とすれ違ったり、花が咲いているのを見つけたり、変な虫が飛んで来て驚いたりしながら、少年はぞんざいな舗装のために却って歩きにくい道を、つまづかないように気をつけながら歩いた。
そしていくらか景色にも飽き、地面から出っ張っている所だけを飛び石にして進む、という自分ルールまで作り始めた頃、カプリコーンは見かけないものを見つけた。
岩山の影にあるそれは、四角い石を積んで作られていた。よく見なければ建物だとはあまり分からない、目だたない、小さな小屋だった。木のドアがついているが、開けっ放しで、閂すらない。
──物置かな。
つまらなければそれまでだが、そうでなければめっけ物だ。
カプリコーンは、男の子らしい好奇心でもって、小さな石小屋に近付いた。山刀よろしく持った木の枝が、がりがりと勇ましく地面を擦った。