第2章 Kuriose Geschichte(珍しい話)
<2>
「だれですか」
幼い舌っ足らずな声に、教皇の間の裏手の庭でしゃがみ込んでいた黒髪の少年は、無言のまま振り向いた。ゆるやかなカールを持つ、綺麗にカットされた黒髪が揺れる。やや長いその髪は、目元を半分隠していた。
「……お前こそ誰だ」
黒髪の少年は、想像よりずっと小さかった声の主に戸惑った。亜麻色っぽい薄い金髪をおかっぱにした幼児は、藤色の大きな目で、じっと少年を見た。
「わたしはムウです。アリエスの、候補生です」
「アリエスのムウ、か」
「あなたはだれですか」
「……山羊座。カプリコーン」
黒髪の少年は、貰ったばかりの名前を名乗った。
半分隠れた彼の目が琥珀色をしている事に気付き、ムウは少し恐ろしくなった。以前見た黒い犬が、同じ色の目をしていることを思い出したからだ。少年はかなり切れ長で鋭い目をしているので、余計に似ている。
「今日から山羊座の候補生になるんだって、教皇さまに言われた」
「あ、はい。よろしくおねがいします」
「うん」
カプリコーンはこくりと頷いて、「ムウは小さいのに、言葉が丁寧だな」と褒めた。その声が意外に優しかったのと褒められたので、ムウは少しホっとし、また誇らしくなって、言った。
「たいしたことではありません」
「そうか……凄いな」
少年が率直に褒めるので、ムウはいよいよ誇らしくなった。師であるシオンは言葉遣いに厳しく、ムウは徹底して躾を受けている。それを褒められるのは気分が良かった。
「なにをしていたんですか」
カプリコーンはいいひとらしい、とわりと現金に判断したムウは、しゃがみ込んでいる少年の近くに、よちよち歩きと言ってもいいような、まだあまり確かでない足取りで近付いてみた。
「……これ」
カプリコーンは、植え込みの赤い花を指差した。彼の手と同じぐらい、ムウの手よりも随分大きいひらひらした花びらが、濃い葉っぱの中からこれでもかと咲き誇っている。
「甘いんだ」
ムウは、目を丸くした。確かに甘い匂いがする花だとは知っていたが、花を食べるなどという事は、ムウの頭にはまるでない発想だった。
カプリコーンは赤い花を一つ、ぷちりと根元から積んだ。驚くほど綺麗に取れた花を、ムウはじっと見た。
「はい」
カプリコーンが、細い指で摘んだ花をムウに渡した。ムウが恐る恐るそれを受け取ると、カプリコーンはじっとそれを見つめていて、早く食べろと言わんばかりだった。……と、少なくともムウは感じた。
ムウはかなり戸惑ったが、意を決した。
「あ」
ずっと無表情だった少年が、初めて表情らしい表情を見せた。目を見開き、ぽかんと口を開け、花を丸ごと小さな口の中に放り込んだムウを見つめている。
花びらを口からはみ出させながら、もっしゃもっしゃもっしゃもっ…… というぐらいまで咀嚼して、目を閉じて顔を顰めたムウは、ぐじゃぐじゃになった花を、べっ、と地面に吐いた。
「甘くない!」
「……丸ごと食べる奴なんか初めて見た」
黒髪の少年は、涙目になって叫ぶ金髪のおかっぱの幼児を、半ば呆然と見た。
「甘いって言ったのに! うそつき!」
「嘘じゃない」
さすがに嘘つき呼ばわりはむっとしたのか、少年は少し険しい声で言い返した。しかし苦い思いをしたムウは林檎のように赤くなった頬をぱんぱんに膨らませ、藤色の目に涙を溜めて、「うそつき!」ともう一度叫んだ。幼児のきんきん声が庭に響き、向こうから薄茶のキトンの女官が小走りに駆けてくる。
「うそつき!」
少年は、ふわりと宙に浮いたムウを、呆気にとられて見上げた。大人の頭の位置よりも高い所にいるムウは少年を睨みつけ、そのまま、空中をぴゅうっと滑るようにして教皇宮の中に入っていってしまった。茶色のキトンの女官がそれを追いかける。
歩いていた時は赤ん坊そのもののよちよち歩きだったムウが、まるで燕のように宙を飛んでいってしまった事に、少年はひたすら呆然とするしかできなかった。
「あっはっはっはっはっ!」
突然響いた笑い声に、真っ赤な花が咲き誇る庭で固まっていた少年は、びくりと肩を跳ね上がらせた。振り向くと、腹を抱えて大笑いしている、身体の大きな薄茶色の髪をした少年がいた。
「ああ、悪い悪い。あんまり面白かったもんだから」
薄茶色の髪をした少年は、ひいひい言って笑いながら、カプリコーンに近付いた。
お前は誰だよ、と言わんばかりのカプリコーンの胡乱げな視線に、少年は滲んだ涙を拭いて、握手の為の手を差し出した。少年は少し戸惑い気味にもその手をちゃんと握り返してくれたので、アイオロスは少しホっとする。
「はじめまして。俺は射手座サジタリアスのアイオロスだ。君は?」
「……山羊座」
ぼそり、というような声だった。
「……………………」
そして、少年はそれきり黙ってしまう。沈黙に少し困ったような顔をしたアイオロスだったが、とりあえず笑顔を保つ。
「そうか。じゃ、とりあえずカプリコーンって呼ぶよ」
「……ん」
こくり、と、実年齢からすると背が高いカプリコーンは頷いた。しかし、ひょろりと背は高いものの、彼はかなり痩せている。栄養失調のような感じではなく髪や肌の艶はいいのだが、手足が驚くほど細い。蹴っ飛ばしたら折れそうだ。大丈夫かな、と、既に聖闘士として訓練を受けているアイオロスは思った。あの銀髪の少年のほうがかなりちびだが、カプリコーンより何倍も丈夫そうだ。そういえば、あの少年とカプリコーンは同い年のはずだ。
「ムウはまだちっちゃいから、許してやってくれ」
「僕は、あんな小さいのにいちいち怒ったりしない」
カプリコーンが言うと、アイオロスは、そうか、とにこにこして頷いた。
蟹座と違って、こちらは随分素直なようだ。僕という一人称からしても、育ちの良さが伺える。ただ、彼がにこりともしない事は少し気になったが。
「サガには会った? 双子座、ジェミニの」
アイオロスが尋ねると、カプリコーンは黒髪の頭を横に振った。
するとアイオロスは、教皇シオンがもと牡羊座アリエスの黄金聖闘士である事、そしてあのムウはアリエス候補生でシオンの弟子でもっと赤ん坊の時から彼に育てられている事、アイオロスとサガは既に正式な黄金聖闘士として聖衣を与えられている事、などをカプリコーンに教えた。
「あと、君より一週間くらい前から、蟹座……キャンサーの候補生も来てるんだけど」
ごにょごにょと語尾を濁すアイオロスに、カプリコーンは首を傾げた。
「牢に入ってるんだよね」
「は?」
思いがけない内容に、カプリコーンは間の抜けた声を上げた。
「いや、別に悪い奴じゃないんだよ。ただ彼はキャンサーになりたくないんだそうだ」
「なりたくないならならせなきゃいいじゃないか」
ごく当たり前のようにカプリコーンは言ったが、アイオロスは困ったような顔をした。黄金聖闘士になりたくない、というあの銀髪の少年の態度はアイオロスにとってまず驚愕であったし──なにしろ彼は、すすんでどうしても聖闘士になりたいという者しか見た事がなかったので──そして、やりたくないならやらなければいい、とあっさり言うカプリコーンにも面食らった。
「……そう言われるとなあ……そうなのかな」
ムウも、サガも、アイオロスも、聖域で育った。サガとアイオロスに至っては、親のそのまた前から聖域生まれの聖域育ちである。しかしキャンサーやカプリコーンは、ついこの間まで“外”で暮らしていた人間で、自分たちとは何か違うものを持っている……と、アイオロスやサガは感じていた。それはとても新鮮だったが、面食らうものでもあった。
「じゃ、行こうか」
アイオロスは、カプリコーンを促した。そもそもアイオロスは、シオンからカプリコーンを色々案内するように言われて来ていたらしい。
アイオロスは、十二宮、とくにカプリコーンが守護することになる磨羯宮を案内した。サガもアイオロスも自分の宮を初めて見た時はその大きさにかなり吃驚したものだが、カプリコーンは神殿の厳かさには少し畏怖を示したものの、「ふうん」とだけ言った。
「大きさは、僕が住んでた家と同じくらいだ。さっきシオン様に見せて貰った黄金聖衣のほうがびっくりした」
やはり、カプリコーンはかなりのお坊ちゃん育ちであるらしい。
だがその声色は自慢とはほど遠く、どこか忌々しいような声色だった。
スペインのジローナから連れて来られたという少年は、聖域では絶対に見かけない、とてもいい身なりをしている。ブルーのシャツにタイ、折り目の入った黒いズボン、黒地に黒の刺繍が入ったベストまで着ている。どれも仕立てのいい、高級なものだ。どこからどう見てもいい家の子供だった。
たまに外に出ると、裕福な家の子供も見かけるから、アイオロスもこんな格好の子供を見かけた事がないわけではない。しかし彼らのその表情は明るく、暢気で、子供らしい。しかしカプリコーンはにこりとも笑わないどころか表情自体がかなり乏しく、その目は暗く、ぎらぎらしていた。
銀髪の少年もまるで手負いの獣みたいな目をしているが、それはこちらを警戒しているからである。拒絶という意思や感情が剥き出しの銀髪の少年と違って、カプリコーンの目は、何か暗いもので光が曇ったような目をしていて、感情が読みにくいのだ。
カプリコーンは、世界中の何もかもが無味無臭であるかのような顔をした少年だった。