老人は、自分の弟子とサガ、アイオロス以来、実に数年ぶりに黄金聖闘士が見つかったことを、初め、とても喜んだ。何しろ二百数十年も待った挙げ句の次代である。我らが意思を継ぐ黄金。だが、そう思って期待していた蟹座は、とんでもない悪童だった。
「どうした?」
銀髪の少年は、にやにやと笑って言った。派手な兜を被っているが、老人が浮かない顔をしている事は分かって、少年はいくらか溜飲を下げる。
大の男三人掛かりで殴られたというのに、少年の傷は随分引いていた。さすがに既に小宇宙に目覚めているだけはある──と老人は思わず感心した。しかも、幼少期はほぼ十割で暴走しがちなそれを、この少年は既にコントロールしている。自分が操れる程度をちゃんと把握し、自分の力に狼狽えない。……むしろ愛してすらいるのではないか、と老人は感じていた。
「死んだ」
老人が言うと、少年は満面の笑みを見せた。
「だろうな」
悪戯が大成功した、という無邪気な笑みである。悪戯の内容は、少年を殴った雑兵三人が、昨日の夜狂い死にした──というものだ。
「何をした?」
「呪いをかけたのさ」
少年は、やはりにやにやと笑っている。細めて笑う赤い目は、悪魔のように見えた。
「おれが死んじまえって思った奴は、その日から毎日悪夢を見て、しまいにはジャンキーみたいに幻覚を見て、そのまま狂って死んじまうのさ」
「……お前、その力を今まで使ったことがあるか」
「あるから説明してんじゃん。爺さんボケてんの?」
げらげらげら、と少年は笑った。
「それに、おれのこの力が欲しいからおれを誘拐したんじゃねえのかよ」
あの町を仕切るマフィアたちも、この力を見初めて、自分を仲間に入れてくれると言ったのだ。手始めは面倒を見てくれている女のことを殴った男。死んじまえと強く思った四日後、その男は突然狂い出し、わけのわからない事を叫びながらトラックの前に飛び出した。女はそれきり殴られる事はなくなった。男がいなくなったことに彼女は少し泣いたが、少年が肩に手を回し、愛してるから泣かないでと言うと、微笑んでくれた。何も問題などない。
「そうならそうと早く言えよ。女神だなんだって小難しい事言って、結局おれに誰か殺して欲しいんだろ、シオン爺さん」
「……何故私の名前を知っている?」
「あいつに聞いた。雑兵の、ホモ野郎だよ」
少年は、完全に見下したように言った。
「ヤラせたらここから出してやるとか言いやがってさあ、ムカつくから口にネズミの死体突っ込んでやったんだけど、なあ、ケツの穴はウンコするとこだって教えてやれよ、教皇だろ。何、アテナがヤラせてくんないから、全員ホモに走ったわけ?」
シオンは絶句していた。
年端もゆかない少年に性行為を迫ったという雑兵にも呆れ果てるが、この少年の擦れっぷりといったら。
「あいつも死ぬよ。呪ったからな」
どっちみちネズミのバイキンで死ぬかもしれないけど、と笑う少年は、まさに悪魔だった。
「……そうか。しかし強姦未遂は死刑だからな」
「あ、そうなの? 厳しいな」
「ここはどんな罪も全て死刑だ。ドラコンという」
さすがの少年も、驚いたようだった。
シオンも、
教皇(パパス)という肩書きは持っていても、カトリックの聖座のような立場ではない。聖域は古都アテナイの原型だ。“
美にして善なる人(Kalokagathia)”を教育方針として掲げると同時に、「どのような罪でも、刑罰は全て死刑」という極めてシンプルで厳格冷徹な血で書かれた法ドラコンを実行したアテナイ。そして聖域は、概ねその頃と全く同じような場所で、シオンはその教皇なのだ。だから少年を牢に入れたのも、少し痛い目に遭って生意気を萎えさせよう、という作戦からだった。……逆効果だったようだが。
「ふうん、わかりやすいな」
「わかっておるのか? 殺人も死刑だぞ」
「おれを殺す気なんかねえくせに」
そんな事じゃびびらねえよ、と少年はげらげら笑った。さすがの老人もあまりの可愛げのなさに眉間に皺が寄るが、少年はなおも続けた。
「おれの力が、呪いの力が欲しいんだろ、爺さん。だからおれを殺さないんだ。どんな悪い事しても死刑って言うなら、おれはとっくに死刑なはずだからな」
なんと頭のいい少年だろうか、とシオンは正直舌を巻いた。
黄金の器たる者は、例外なく、幼少時に飛び抜けて身体的能力が他より段違いに勝っている。しかしこの少年は、体つきはどこか大型犬の子犬を思わせるように少しむちむちした太い手足をしているが、身長はちびだ。その代わり、ぎょっとするほど頭の発達が早熟であるようだった。サガも幼い頃から知能指数の高い子供だったが、この少年はサガとは何か決定的な所が違っていた。サガはどちらかというと要領が悪くて不器用だ。少年は頭がいいというよりも、回転が速く、悪魔のように要領がいい。そしてその原動は、子供特有の怖い者知らずの残忍さだ。
「全員、呪い殺してやろうか」
ひひひひ、と少年は狐のように笑った。
「呪いとは、どういうことだ」
「呪いは呪いだ。全員狂い死にしたくなかったら、おれをここから出して元の所に帰せ」
ぎらり、と睨む目は、とても少年らしくなかった。怒りの篭った血の色の目、闇の中から覗くような目だ。
これが聖闘士、しかも黄金とは、と、シオンは内心戸惑っていた。少年の髪は冷たい銀色。髪と目はアルビノと呼ばれるそれなのに、少年はイタリア南部の生まれに相応しい、生まれつき地中海の太陽に愛された肌を持っている。そのちぐはぐな様は、本当に少年が悪魔にでも魅入られているのかと思うほど異質だった。
「……私に呪いとやらをかけてみろ」
「は?」
シオンが言った内容に、少年はきょとんとした顔をした。その表情はとても少年らしいもので、意外に大きい丸い目が、猫のように真ん丸になった。
「正気か、爺さん」
「まだボケとらん。いいからやれ」
「別にいいけど」
死ぬぜ、と、ぞっとするような無表情になった少年が、どこかを見つめながら言った。真ん丸に見開かれた赤い目は、虚空の中にある何かをじっと見つめていて、その様は本当に、人間には見えない何かをじっと見つめる猫のようだった。
ひゅう、と、青白いものが漂った。寒気がする。空気のどこかに穴が開いてしまったような焦燥感が胸を襲う。誰かがこちらを見ている。
少年から、月の光のような青白いものが溢れ出している。
なんと深い小宇宙だろうか、とシオンはぞっとした。
深く深く、底の見えない真っ暗な穴を覗き込んでしまった時のように、得体の知れない不安が襲う。だが、同時に吸い込まれるような魅惑がある。真っ暗な穴の底には、自分が求める何かが確かにあって、覗いてみろと誘うのだ。
「ははは」
少年が笑った。シオンの後ろに、──穴が開いている。真っ暗な穴。
しかしそれは、まるで亀裂のように細く、ひゅう、と空気を吸い込んでいる。真っ暗な穴の向こうからな何かが覗いていて、シオンをじっと見つめている。
「……なんと」
もしやこれは積尸気か、と、シオンは声に出さずに、だがおおいに驚愕した。
それは、冥界への正規の入り口だ。生者の世界から死界の穴へ続くインターバルの空間、その入り口。だがそれは肉体を離れた魂に呼応して自然に開くものであって、人の手で開けるものではない。それは、例え次元の扉を開く力を持つ者であっても。
呪いとやらの正体はこれか、とシオンは確信した。
生きている者に対して積尸気の穴を開くなど、シオンも聞いた事がない。だが実際にそれを体験すると、それは恐ろしい効果を生むのだ、という事をシオンは知った。
──死への誘惑。
死に対する欲求や、憧れ。強くなればあからさまな自殺願望になるが、心の隅にそれは小さく、だが常に、誰の心にも存在している。だから自分が死んだとちゃんと自覚のある魂は、積尸気の穴に自分から吸い込まれていく。
そしてその誘惑は、生きている者にも有効であったらしい。真っ暗な穴が、シオンの魂を誘っている。暗くて甘い、死の誘惑。眠るように安らかに、女の胸に顔を埋めて目を閉じる、うっとりと蕩けるようなその安らぎ。
「……老体には、ちと辛いが」
老いるという事は、死に近付くという事だ。
シオンはもう、途方もないほど生きている。色々な術で身体を長らえてはいるが、老いというものから人間はどうしたって逃げられない。積尸気の穴はそんなシオンにとってひときわ魅力的であったが、それは絶対に乗れない誘惑でもあった。
「私はまだ死ぬわけにはいかないのでな」
「なっ……」
シャン、と鈴のような音が聞こえた気がした。シオンから星屑のようなきらきらした金色の輝きが舞い散って、底のない真っ暗な底に繋がる底は、掻き消えた。
少年は、初めて経験した敗北に、唖然としていた。
積尸気の穴──いや、それはまだ隙間だっが、まだ隙間程度の穴だからこそ、“呪い”を受けて死ぬまでに時間がかかり、精神を蝕むのだ。ひゅうひゅうとすきま風が漏れるような弱い誘惑しかできない隙間は、それでも少しずつ魂を吸い込もうとする。そしてその間、死を望むようになる誘惑を、夢や幻覚という姿で延々と続ける。まさしく、呪い。そしてとうとう呪いに屈した人間は、生をかなぐり捨てて狂い果て、肉体が魂に留まる事を諦める。
隙間程度のものしか穴を開けないのは、少年が小宇宙のコントロールがなまじ上手いからだ。少年は自分の手に負える範囲を正確に把握している。自分の力以上の小宇宙を発揮させれば、自分も積尸気に飲まれてしまうという事を感覚で知っているのだろう。まずは暴走しまくる小宇宙を抑えコントロールする術を覚える必要にかられるのがほとんどの“黄金の器”にしてみれば、それはまさに天才的センスというべき才能だったが、今回はそれが裏目に出た。
もし少年がコントロールを放棄して小宇宙を全て爆発させたら、大口を開けた積尸気の穴が現れ、シオンだけでなく、少年ごと、一帯の人間全てが魂を穴に吸い込まれてしまう事だろう。
(──まるで、死神の力だ)
生まれて初めての敗北に奥歯を噛み締める少年を見ながら、シオンは戦慄した。これが聖闘士たる、黄金聖闘士たる者の力だというのだろうか。この力で悪を倒せと、アテナは言っているのだろうか。
シオンは迷った。
黄金の器が見つかった時は喜んだが、もしかしたらこれは、黄金の器レベルの悪、なのかもしれない。あの真っ暗な隙間は、少年が長じるに連れて大きくなっていくだろう。生を奪い死へと誘惑する死神の力、それを正義の為の力にする事は出来るのだろうか。出来ないのならば、
──まだ、隙間程度であるうちに。
翼龍の兜の下から、シオンは少年を見た。僅かな殺気を察知したのか、少年が顔を歪めて後ずさる。……やはり、勘がいい。
シオンはため息をつくと、白いローブの裾をそっと持ち上げて翻した。
「確かに面白い力だが、敵わぬ事はわかったであろう。しばらくそうしておれ」
保留、という道をシオンは選んだ。
少年は、もの凄い目でシオンを睨んでいる。頭の良い少年は、自分を力づくで連行し、屈服させようとし、そして今、手に負えぬなら殺そうかとしたシオンが憎くてならないのだろう。確かに理不尽極まる事だ、というのはシオンも分かっていたので、その視線を甘んじて受けた。
だが、アテナの為だ。
「──……誰だ!」
気配を感じ、ばっ、と勢い良く振り向くと、そこには肩を跳ね上がらせた、十を越えた位の少年が二人、こそこそと隠れていた。
「……サガ、アイオロス」
「あ、シオン様……」
アイオロスは誤摩化すような笑みを浮かべてぽりぽりと頭を掻き、サガは悲痛な、覚悟を決めたように大袈裟な顔をしていた。積尸気という特殊な力に気を取られていたとはいえ、子供の気配にも今の今まで気付かぬとは、と、シオンは己の老いを忌々しく思った。
「……ついて来てはならぬと申したであろうが」
「ご、ごめんなさい。でも……」
新しく来た蟹座に、どうしても会ってみたかったんです、とアイオロスははにかみながら言った。彼らが黄金の器と認められてから、既に四年余りが経っている。牡羊座候補でありシオンの弟子でもあるムウはやっとよちよち歩きができるようになったくらいだし──といっても、歩くよりテレキネシスで空中を飛び回るほうが早かったのだが──、新しい黄金聖闘士候補を見てみたいという気持ちは分からなくもない。
おおかたアイオロスが、渋るサガを勢い任せで引きずってきたのだろう。
「あの子が蟹座ですか?」
アイオロスが、ひょいとシオンの影を覗いて、鉄格子の向こうにむっつりと立っている少年を、あからさまにわくわくしたような表情で見た。少年は敗北に思い切り機嫌の悪い顔をしていたが、あまりに能天気なアイオロスの様にいくらか毒気を抜かれたのだろうか、これ以上なく機嫌は悪そうだが、殺気はまき散らしていない。
「……………………蟹座じゃねえ」
ぼそり、と言った。
かなりぶっきらぼうな声だったが、少年が口をきいた事にアイオロスはぱっと喜色を浮かべた。サガも彼ほど堂々と少年を見ようとはしないが、明らかに興味がありそうにそわそわしている。
「変わった髪の色だなあ! 名前は?」
「こら、アイオロス」
サガが慌てて諌めるが、アイオロスはきらきらした目で少年を見つめている。少年はと言えば、どうせイタリア語など分からないだろうと高をくくっていただけに、怒濤のように話しかけられて、今度こそ驚いた猫そのもののように目を丸くしていた。
「シオン様、俺、あの子と話したい」
サガは何も言わないが、どうもアイオロスと同じ気持ちらしい。期待するような目でシオンを見上げている。シオンはどうしたものかと思案し、ちらりと少年を見た。
ここへ来て四日、既に四人の大人を狂い殺した少年は、むっつり黙っていたが、ふと口を開いた。
「……おれは、いい女と子供は呪わねえ」
シオンは、心底驚いた。
死神は、女も子供も関係なく死に誘うものだ。だが少年は、それはしないと、最も大事な事であるふうに、真顔で言った。
「……これは驚いた。いっぱしの口をきく」
「うるせえ、俺は男だ。男はいい女と子供を守るもんだ」
「その点については同感だ」
シオンが老人らしくない声で言うと、少年は吃驚したような顔をしてシオンを見上げ、そして自分の言葉にシオンが同意した事に、居心地の悪そうな顔をした。その様にシオンは心の中でにやりと笑った。
「好きにしなさい」
子供たちにそう言うと、サガとアイオロスは小走りに、牢の前に立った。少年は彼らを見定めるようにして、じっと見つめている。
シオンはそんな子供たちを見遣り、牢を出た。
今代の蟹座候補はかなりの曲者らしいが、全く希望がないわけではないらしい。ドラコンはわかりやすく、潔癖なアテナに相応しい法だが、今は余裕がない。自分はこのように、どうしようもなく老いている。……折角見つかった黄金の器を殺し、新たな蟹座を見つけられるほどの時間が自分にあるという自信はあまりなかった。
「……山羊座も来る。せめて今は」
焦らずいくとするか、と、シオンは空を見上げた。
第1章 Von fremden Ländern und Menschen(見知らぬ国と人々について) 終