第1章 Von fremden Ländern und Menschen(見知らぬ国と人々について)
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「くそったれ!」
少年の高い声が、石造りの神殿に響く。
もう数えきれないほど神を貶める言葉を吐き、汚物を撒き散らかすような悪態をつき、休む間もなく周囲を睨み続ける少年に、兵たちは顔を歪め、老人はため息を吐いた。
「やれやれ。やっと黄金が見つかったかと思えば、とんだ蟹座だ」
「わっけ、わかんねえ!」
べっ! と、少年は赤い絨毯の上に唾を吐いた。兵たちがざわめいて駆け出そうとしたが、老人がやんわりとそれを諌めた。
「蟹座って何だよ、確かにおれは蟹座だけど、蟹座ってんなら他にもいっぱいいるだろ」
「蟹座はお前だけだよ」
「だから、いみがわかんねえよ! くそ爺!」
十にも満たない子供にしては、少年は達者な口をしていた。
少年の頭の良さは、彼が生まれ育った町でも評判の事だった。学というものと無縁だった母はそれをとても誇らしげにしていたので、少年は頭の良さそうな振る舞いとは何か、という事を常に考えて行動している。そして実際、それは生きてゆく上で重要な事だと思っていた。
「いいからおれを家に帰せよ」
「……それはできんな」
もう何度目だか分からないやり取りだった。少年は子供らしくないため息をつき、半目で、玉座に座っている老人に言った。
「教えてやろうか」
「何をだ」
「お前らみたいなのを、誘拐犯っていうんだぜ」
少年は初めてにやりと笑ったが、玉座の老人は「違うな」と言った。少年はむっとする。
「なに言ってんだ、子供を攫って連れてくるのは誘拐犯だ」
「違うな。おまえは生まれた時からアテナのものなのだから」
「はあ?」
今度こそいよいよわけがわからない、と少年は思い、回転の速い頭で、相手の頭がおかしい場合を想定した。今の所、その可能性は非常に強い。
「アテナって誰」
「女神だ」
「女神?」
少年は、ぴくりと反応した。女神という単語の示す意味は、少年にとって一つだけで、そしてそれは彼にとって非常に重要なものだったからだ。
「どんな女?」
興味を示したらしい少年に、兵たちも、そして玉座の老人も、少し満足そうな表情をした。老人は答える。
「素晴らしい方だ」
「どのへんが素晴らしいんだよ」
まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかったのか、老人はすぐに答えを返すことが出来なかった。「えー……」と間を持たす為の無意味な声を発する老人に、少年は矢次早に質問する。
「歳いくつ?」
「……歳」
「なんだ、わかんねえのかよ。じゃあスタイルいい?美人?」
「美しい方だ」
「ふうん。結婚してんの?」
「していない」
「恋人は?」
「いない」
「何だ、尼さんか?」
「違う。アテナはそういう存在をお作りにならない女神だ」
少年は、わからない、という風に眉を寄せた。
「は?」
「つまり……結婚したり恋人を作ったり……男と恋愛をしない、という事だ」
老人がそう言った途端、少年は思い切り顔を歪めた。よくもここまで顔の筋肉が動くものだ、という位。
「なんっ、だ、それ! アテナって処女!?」
「なっ……!」
全員が目を白黒させた。少年は、声だけは年齢そのままの高い音で続けた。
「何が女神だ! そんな女、生きてる価値もねえ!」
そんな女、お断りだ!と少年は叫び、さすがの老人もあんぐりと口を開けた。
牢に入った途端、少年は散々殴られ蹴られ、壁に叩き付けられた。
くそがきめ、これが蟹座か、と散々少年を殴った兵たちは言い、牢の鍵を閉めた。石造りの牢の隅にはネズミの死体が転がっていたが、乾いていたので蠅はたかっていなかった。
「家に帰せって、親なし家なしのくせによく言う」
違う、と言いたかったが、殴られ放題で小指の先も動かせない少年はそうすることが出来ず、死ぬほど悔しい思いをした。
母は確かにあそこにいて、笑って泣いて、煙草を吸っていた。ただ、死んでしまっただけだ。家は他の人間が借りてしまったが、あの家によく遊びに来ていた女たちは自分の面倒を見てくれたし、パン屋のパンは相変わらず美味かった。男たちは銀髪で赤い目の少年がどんな男になるか期待してくれていたし、同じ年頃の子供たちも、少年に一目置いていた。あの町には、少年の為のスペースがいつでも用意されていた。母が死んでしまっても、家がなくなっても、あの町がある限り、少年は楽しく生きるのに困る事など何一つなかった。
──アテナとやらがいなくても、自分は何不自由なく生きていた。
少年がこの世で一番素晴らしいと思う女は母である。つまり、自分を生み、養った女。次に、母と同じく子供を産んで育てている女たち。次に自分の面倒を日替わりで見てくれる女たちだ。旦那の面倒も見ていればなお素晴らしい。敬意を払うべきだ。
だから、少年は彼女らを愛していた。一緒に笑い、彼女たちが泣いている時は、いっぱしの男のように慰め、愛していると惜しみなく言った。精一杯敬意を払った。無言で煙草を吸われてしまうとどうにもできないが、それは自分が大人になればどうにかなる事だ。
そして彼がこの世で最もだめな女と思うのが、モテない女、男がいない女、子供の面倒を見ない女だ。尼さん(シスター)は男を作らないが、彼女たちはキリストの妻なのだと少年は聞いていたし、子供たちの面倒を沢山見るので敬意を払う。むしろキリストよりも尼さんのほうが偉い。尼さんがいなければ、キリストなど十字架にかけられっぱなしのただのガリガリのおっさんだ。女房あっての旦那であり、女あっての男であり、尼さんあっての
Jesus Christ(くそったれ)だ、少年は堅くそう思っている。
だからこそ、尼さんでもないのに男も居らず子供の面倒も見ない女など、女ではない。
そしてアテナは、そういう女だという。
男が居らず、言う事を聞かないということで現に少年はこうして散々殴られているので、保証付きだ。さらに、何もしないくせに男を侍らせようというのだ。ここまで最低な女も見たことねえぞ、と少年は思った。
あの老人は、そんな女に仕えろと言う。
いきなり殴りつけ、ここに連れて来て、最低な女の僕になれと言う。
──お断りだ。
力が入るなら、ぎりぎりと奥歯を噛み締めたかった。
「のろって、やる」
牢の中でネズミの死体と一緒に倒れ臥している少年が息も絶え絶えにそう言うと、兵たちは笑った。
──少年の呪いが、本物であることを知らなかったから。