仔猫の憂鬱(4)
 ただでさえ、真田の強い顔と、張りのある大声に耐性の無い紫乃は、いつもいつもビクビクしていて、とにかく真田に対して苦手意識があった。
 けっして紫乃は真田が嫌いなわけではないし、真田もまた、紫乃に対して嫌いだと思ったことはない。
 紫乃は、紅梅と仲の良い真田に対して、きっと「優しい人」なんだろう、と思っているくらいだし、真田の方も、一生懸命にマネージャー業をこなし、さらにはマスコット部長の役目も背負ってくれている紫乃に感謝こそすれ、嫌な感情は何一つ抱いてはいない。多少、泣き虫だと思ってはいるが、女子なのだからそういうものだろう、とさえ思っている。間違っても母親や義理の姉と比べてはいけないのだ、とも。

 つまり、お互いがお互いに距離を保って付き合ってはいるが、お互いが決して悪い印象を持っているわけではないのだ。
 むしろ、これから徐々に仲良くなっていきたいな、と前向きな姿勢であった。

 だからこそ────紫乃にとっては、それはもう、とんでもなく不運だったのかもしれない。


「たわけが────!!」

 扉が開いた瞬間、飛び込んできた大音量の怒鳴り声に、一瞬、紫乃の魂がぶっ飛んだ。口から白い魂魄が飛び出たことに、ぎょっとしたのは白石である。
 数瞬ほど意識を飛ばしていたが、すぐに我に返った紫乃は、ふるふると頭を振って、目の前でちらつく星を飛ばす。なんとかよろついた身体を起こした、次の瞬間、ヒッと息を呑む。

 なんせ日本の国宝である、仁王力士像が居たら、誰だって怖い。

「────なっ!」

 仁王力士像こと厳めしい真田と、目が合った。もう、とんでもなく怖い。いますぐに逃げ出したいくらいに怖い。
 彼もまた、扉の向こうに紫乃や幸村、白石が居るとは思ってなかったのか、驚いたような表情だったが、中心の紫乃が今にも泣きそうな顔だったので、余計に焦った。
 なんせ、紫乃の隣の幸村の目が笑っていない。本気と書いてマジの目だった。
 己が何をしたのかはわかっていないが、常から紫乃を怖がらせていることに自覚のある彼としては、いまの怒号がいけなかったことだけは理解した。

 そうこうしている内に、真田の怒鳴り声の直撃を受けた紫乃は、その瞳がじわりじわりと涙で覆っていくのがわかった。
 いつもならぴゃっと逃げ出すくらいなのだが、なんだか今日は耳が莫迦になってしまったようだ。通常よりも多くの音を拾ってしまう猫の耳であるいま、真田の怒鳴り声は必要以上にダメージだったらしい。ぐわんぐわん、と頭が割れそうだ。

「ま、待て! その、だな!」
「う、ふぇ……っ」

 声もなく、シュンとしょげる紫乃の姿は、何もしていない小動物を、理由もなく怒鳴りつけて傷つけた時のような心境にさせた。しかも本当に猫の耳がしょげている上に、尻尾が股の間から見えているので、完全に仔猫が怯えているようにしか見えない。
 ますます、とても居心地が悪い。

「お、お前に怒鳴ったわけではないのだ! 断じて!」
「っ、ぐす……!」

 鼻を啜り、ボロっと大粒の涙を流した紫乃に、真田は大パニックに陥った。今の今まで、怖がらせたり怯えさせたりはしてきたものの、泣かしたことはなかったのだ。だというのに、不可抗力だったとはいえ、いたいけな小動物────じゃなくて、か弱い女の子に怒鳴り声を聞かせて泣かせてしまったのである。
 慌てて、遁走しようと背を向けた紫乃を、咄嗟に掴んで引き留めようとした。

 しかし、掴んだ“モノ”が、いけなかった。

「に゛ゃぁああああああああ!!!!」

 仔猫の大絶叫に、怯んだ真田。その隙に、脱兎の如く紫乃は逃げ出した。
 シン、と静まり返る大広間。誰も何も言葉を発することが許されないような、そんな緊迫とした静寂の中で、“彼”の声だけが響いた。

「……真田、おまえ有罪な」

 神の子からの無情なお沙汰に、真田は目玉が飛び出るくらいにぎょっとしたのだった。


 いつもなら騒がしいグリフィンドール席での昼食は、いまだかつてないほどに重っ苦しい空気が漂っていた。お通夜かよ、とは誰も言わなかったが、そのくらい重々しい。
 グリフィンドールといえば、明朗快活で元気の良すぎる生徒が多く、フレッドとジョージという悪戯仕掛け人までも在籍しているので、何かあればお祭り騒ぎの陽気な寮である。

 そんなグリフィンドール寮が、どんよりとした雨雲よりも暗い空気を背負っていれば、嫌でも目立つ。
 少しは大人しくできないものか、と自寮の生徒たちに対して思ったことがある寮監のマクゴナガルでさえ、不気味なほどに静まり返ったグリフィンドール席に、さっきから忙しなく視線を送っている。
 他の教員たちも、さらにはダンブルドアさえ気遣わしげな視線を送る中、最もしんどい思いをしているのはグリフィンドールの新入生である。重い空気に耐えられなくなった者は、みな一様に手早く昼食を済ませ、そそくさと寮へと引っ込んで行った。

「……グリフィンドール寮のレッド・アニマルが、突然猫になってしまったことは、皆の知る所だと思う」

 申し訳なさ一杯の表情で、こう切り出したのは、監督生のパーシー・ウィーズリーだった。双子の弟たちのやらかした所業については聞き知っているため、兄として彼はいたたまれなかった。
 パーシーの言葉に、アンジェリーナと、そしてアリシア・スピネットが、キッと双子を睨みつけている。

「仔猫だから可愛いかもしれないけど、危ない薬品だったらどうするつもりだったのよ!」
「スミマセン」
「反省しておりマス」
 「これだから男子は!」と続くお説教に、日本もイギリスも男女の立場は変わらないのだな、と違う方向で感想を抱いた。

「ちゅーか、ほんまに絶滅危惧種指定されとったんか……」

 乾いた白石の笑みに、ハリーを始めとした、残った1年生たちは引き攣った笑みを浮かべていた。
 守ってあげたくなるような女の子ではあったが、ここまで上級生たちが一致団結して保護しているとは思っていなかった。一体、いつの間に。

「この問題については、スネイプ先生が魔法薬を作ってくださっているので、とりあえず保留にすることとして────」

 言葉を区切り、パーシーは、ちらり、と席の端で険しい表情を浮かべている新入生を見つめた。

「さきほど、ゲンイチロウ・サナダの怒鳴り声に、シノ・フジミヤが逃げ出してしまった問題について」
「……大変、申し訳ありませんでした」

 ぐっと奥歯を噛みしめ、心からの謝罪をしたのは被告人の真田である。言うまでもないが彼はハッフルパフの生徒なので、本来はグリフィンドール席にいるはずはないのだが、先ほどの一件について詫びるために着席していた。もちろん、真田に付き添うために、紅梅と千石が着席している。
 立ち上がって、ほぼ直角にまで腰を曲げて頭を下げる彼に、同情する生徒は何人か居た。

「まあ、サナダの話もわからなくないよな」
「スリザリンの奴ら、むかつくし」

 真田があの場で怒鳴っていたのは、スリザリンの上級生がハッフルパフを侮辱していたからに他ならない。ドラコの一件で、表立ってのハッフルパフへの侮辱は少なくなったものの、それでも「愚図だ」、「ホグワーツの恥さらし」、「お荷物集団」などの誹謗中傷が消えることはない。
 たまたま、陰湿な嫌がらせをしようとしていた連中を見つけた真田が、ブチ切れ怒鳴ったのだが────。

「かわいそうに、しーちゃんが居合わせてしまわはったん。弦ちゃんに悪意はないんよ」
「まあ、真田君も運が悪かったよね」

 弁護人の紅梅と千石に、グリフィンドールの上級生男子たちは、しょうがないよなあ、と口にする。しかし。

「でもね、しっぽはダメよ、しっぽは!」

 アリシアの言葉に、アンジェリーナがうんうんと頷く。
 そう。逃げ出そうとした紫乃を引き留めるために、真田が掴んだのは紫乃のしっぽだった。

「猫にとって、しっぽは一番デリケートなところよ。一番、触ってはいけない部分」
「そうよ! 女の子にすればお尻を触られたようなものよ!」
「死罪」
「なっ!?」
「…………まあ待て、精市」

 有罪から死罪へレベルアップ。無表情の神の子は、この上なく機嫌が悪い上に、この場の誰よりも冷静な判断能力を失っていた。
 絶句する真田に、待ったをかけたのは柳である。彼もまた、弁護人として着席するべく、レイブンクローではなくグリフィンドールに居た。

「弦一郎が焦ったのも無理はありません。常日頃から、藤宮との接し方について気にしていた弦一郎にすれば、今回のような不測の事態に直面し、パニックに陥り、“とにかく謝らなければ”という一念で動いてしまったと考えられます。そうだな? 弦一郎」
「……蓮二の言う通りだ」
「だ、そうです。したがって、その謝罪のためには、なんとしてでも藤宮を引き留める必要があり、冷静な判断を欠いていた状態での行動が、しっぽを掴むという行動になってしまったのでしょう」

 頼りになる敏腕弁護人・柳蓮二からの情状酌量の訴えは、アンジェリーナたちをも唸らせるものだ。「まあね、あの子の泣き顔なんて見たら、動揺はするわよね」、「確かに」などなど。弦一郎の行動に理解を示すような言葉が洩れ聞こえ始める。

「……だが、とんでもない悲鳴だったぞ」

 しかしここで異議を唱えたのは、紫乃の幼馴染の手塚である。
 レイブンクローで昼食をとっていた彼は、紫乃の絶叫を耳にしている。あんな幼馴染の悲鳴は、生まれてこの方、初めてだった、と彼は語る。
 若干、機嫌が悪いのか眉間の皺が険しい。ジトリ、と手塚に睨まれ、真田は言葉を詰まらせた。

「……申し開きのしようもない。すまぬとしか俺には言えぬ」
「許してやったらどーや、手塚クン。せめて執行猶予付きで……」
「異議は認めない」

 即答した手塚を前に、真田に同情派の白石は、「アカン、手塚クンも冷静な判断力、失うてるわ」と瞬時に悟った。手塚もまた、幼馴染が猫化した件と逃げ出してしまったと件いう二重の事態に、混乱しきっているのかもしれない。

「考えるべきは真田の処遇よりもむしろ藤宮の捜索だろ、アーン?」

 「腹を切るしかないのか」とやや危ない方向に考えが及んでいた真田に、救いの手を差し伸べたのは跡部だった。跡部の背後では、困惑しきった顔の不二が。
 「ホグワーツ内が安全とはいえ、そこかしこで寝るのは問題だろーが」尤もな跡部の言葉に、パーシーも頷く。裁判官役の彼の黒いローブは、まるで法服のようである。

「ペンデュラムで居場所を探してはいるんだけど、他の生徒もペットとして猫を持ち込んでいるから、どうしても上手くいかなくてね……」

 肩を落とす不二に、千石がしょうがないよ、と励ました。千石もまた占いでなんとか紫乃の居場所を突き止めようとしたが、うまくいかなかったのだ。

「心配はないよ」

 名案が浮かばずに唸る一同に、妙に誇らしげな笑みを浮かべて発言した者が居た――――乾である。

「アーン? 何か方法でもあるのか」
「今しがた、ホグワーツ全域にマタタビに類似する匂いの汁を散布してきたところだからね」
「…………おい、ちょっと待て」

 爆弾発言をかました乾は、ホヨッとした表情だ。自分がとんでもないことを言い放った自覚がないらしい。
 低音でこめかみのあたりを揉んだ跡部に代わり、柳が言いづらそうに引き継いだ。

「全員、大広間を出よう。……ホグワーツ中のペットの猫の中に、藤宮が紛れ込んでいる可能性・100%」

 レイブンクローの教授の断言に、全員が大広間を飛び出した。

 そして、飛び出した先で一同が目にしたのは、柳の言った通りペットの猫たち。猫たちはすべて恍惚とした表情でニャーニャーと鳴きながら、ゴロンゴロンと絨毯で悶えていた。
 猫の中には、あのミセス・ノリスまで居たものだから、さらにややこしい事態になった。
 ミセス・ノリスとは、ホグワーツの用務員であるアーガス・フィルチの飼い猫だ。生徒に罰を与えることを、生き甲斐にしているといっても過言ではないフィルチは、ホグワーツの生徒にとって、ピーブスと同じくらいに嫌われている。
 そんな彼にとって、愛猫であり相棒のミセス・ノリスの溺愛ぶりは有名で、相棒がこんな状態になってしまったことに癇癪を起こしているようだった。

 大量の猫を見送りながら、かろうじて人間のはずの少女の姿を探していると。

「この騒ぎの原因は諸君らによるものかね?」

 聞き知った声に全員が振り返り、そして信じられない光景に硬直した。



「有害物質を用いてはいないとはいえ、それをするとどのようなことになるのか。もう少し予測立てて行動するように」
「……はい」
「5点減点だ」
「…………申し訳ありませんでした」

 静かに減点した榊に、項垂れる乾。
 場所を移して榊太郎の部屋である。相変わらず、一流ホテルのような内装の部屋だったが、この部屋に足を踏み入れたのが初めてのハーマイオニーは落ち着かない様子であった。

 ゆったりとソファに腰掛ける榊の姿は、ハリウッド映画から飛び出して来た俳優そのものだった。長い脚を組み、優雅にティーカップを傾ける仕草さえ、溜息が出るほどに格好が良い。
 グリフィンドール寮の女子の先輩たちがいれば、きっと感嘆のため息を洩らしたかもしれない。
 同じ男の立場から見ても、憧れる大人の男性を醸し出す榊だが、場違いな存在を抱えていることに、テニス部の面々はピシリ、と固まった。あらぁ、とのんびりした声で驚いているのは、紅梅くらいである。

「監督。藤宮は……」
 聞きづらい質問を、部を代表して跡部が聞いた。
「見ての通りだが?」

 端的ないらえに、うっかり、「いえ、そうではなく」と言いかけた跡部であったが、努めて冷静さを保ち、目の前の状況を受け入れようとした。
 誰だって現実逃避したくもなる。
 あの榊監督の太ももに、紫乃がすり寄っているのだから。

 しかし、榊本人はさして気分を害した風ではなく、むしろ自然な手つきで紫乃を撫でている。先ほども、嫌な顔ひとつせずに紫乃を抱き上げていた。
 完全に飼い猫にするような手つきであり、またそれを受けている紫乃の方も飼い主に甘えている猫である。どうやら、どんどん猫らしくなっているらしい。
 甘えるようにしっぽを榊の腕に巻き付け、蕩けるような笑顔で、ぎゅっと抱きついている。フ、と口許に笑みを浮かべ、「しょうがない子だ」と言いながら、彼は紫乃を膝に座らせた。

「……なんやろ。なんか、こう、見てはいけないものを見ているような気持ちになるねん」
 動揺のあまり、白石は現実から視線を逸らした。紅梅以外の面々もまた然りである。

「スネイプ先生の元へお借りしていた論文を返しに向かったのだが、スネイプ先生から藤宮が猫になってしまったとお聞きした。お前たちにすぐ事情を聞くつもりだったのだが……」
 一度、言葉を区切り、榊は苦笑し、続ける。
「突然猛スピードで猫たちが廊下へ飛び出したのでな。何事かと後を付けてみれば、藤宮まで駆け出していた」
 「すぐに発見出来て良かった」と監督は続けた。
「なんせ――――」
「パパっ! パパっ」
「私が藤宮を発見した時には、すでにこのように酔っぱらった状態だったのだ。何事もなく、なによりだ」
 紅梅の一件を思い出したのか、榊の柳眉が顰められる。娘同然の少女に、性犯罪まがいなことをしでかしたピーブスに対して未だに根に持っているようだ。
 ピーブスは未だ氷漬けにされたままだが、それでも油断は出来ない。いたいけな少女が酔っぱらった状態で良からぬことを考えない輩が居てもおかしくはない状況だったからだ。

「パパ大好きー!」
「ああ、ありがとう」

 膝に座っていた紫乃が、身を乗り出して榊の首裏に手を回し、抱きつく。それを嫌がる素振りすら見せず、スマートに腰を抱く姿は、まさに光源氏。
 落ち着かせるように、紫乃の背をぽんぽんと撫でた榊に、ご機嫌な紫乃は、きゃっきゃとはしゃいでいた。

「酔っぱらうと笑い上戸になるんだね、紫乃ちゃん」
「……そのようだな。だが、あんなに機嫌がいいのは監督を父親と思いこんでいるからだろう」
 ずれ下がった眼鏡を直しながら、何とも言えない複雑な表情で言ったのは手塚だ。
「お父さんを重ねている。そういうことかい?」
 不二の声に、手塚は何も答えなかった。不二の言葉は、暗に、父親を亡くしていると思わせる発言である。
 数人が驚く中、榊が「そうかもしれんな」と頷いた。

「藤宮のご両親は、彼女が幼い頃に交通事故で亡くなられているからな」
「監督。交通事故だなんて、そんなはずは────」
「跡部」

 重厚な声でもって、跡部の言葉を遮った榊。ハッとした様子で、すぐさま口を噤んだ跡部に、手塚も真田も怪訝そうな表情を浮かべたが、厳しい表情の榊を見て、とても教えてくれそうにはないと理解した。
 だが、手塚には疑問だった。紫乃の両親は、交通事故で亡くなっているのは間違いない。彼女の祖父がそう言っていたのだ。それに対して、なぜ跡部が異議を唱えたのだろう。
 険しい表情の幸村、不二、柳を見て、手塚の疑問はさらに深まった。

「さて、迎えが来たのだ。藤宮、起きなさい────“Excitatio”

 滑らかな発音でもって唱えられた魔法の呪文は、一人の少女を呼び覚ました。


「ほ、本当に、すみませんでした……」
「私は気にしてない。何ともなくてなによりだ。じきに、スネイプ先生から薬も届くだろう」

 正気に戻って数秒。榊監督の膝の上に座っていた現実に、紫乃がパニックに陥り、30秒かかって現実を理解した。穴があったら入りたい。というよりも、いっそ殺してくれという心境だった。
 顔を赤くしたり、蒼くしたり、とにかく忙しない百面相を披露しつつ、だらだらと冷や汗をかきながら、ペルシャ絨毯の上で正座をしている紫乃に、紅梅とハーマイオニーがそっと背に手を置いた。

「も、もう……先生になんてことしたの私……泣きたい……」
 衝撃のあまりに、涙さえ出ないでいる。
「たろセンセはほんまに気にしてはらへんよって。むしろなんものうてよかったて言うたはるさかい、もうそない気にせんと」
コウメの言う通りだわ。シノは運が悪かっただけなの」
「そうそう。酔っぱらったのだって、紫乃ちゃんの不可抗力だしね」

 どこまでも優しい励ましに加え、三人の言う通り榊が怒っている様子ではなかったので、それ以上何かを言うのはやめた。

「……不可抗力、といえば……」
 思い出したように乾が呟く。
「……真田」
「わ、わかっている」

 その乾の言葉に、ギラリと目を光らせる幸村。幸村から視線を外しながら、ただでさえ強張っている表情をさらに硬くさせ、真田は「ゴホン」と咳き払いをした。
 真田の咳払いに、紫乃のしっぽが、ピンと固まった。しっぽを抱きしめるようにして、オロオロしはじめる彼女に、紅梅は「大丈夫え」と何度も言い聞かせる。

「真田。わかってる? いま、紫乃ちゃんの耳は、いつもより聞こえすぎてるんだからな? お前のいつものバカでかい声なんて聞いたら、今度こそ失神するからな?」
「う、うむ。心得た」
「手塚からも何とか言ったらどうだい?」
 促され、手塚は真田を見つめた。ギロリと手塚の眼光が鋭く真田に突き刺さる。
「……真田よ」
「な、なんだ」
「二度目はない」

 一方、言い聞かせるというよりも、脅迫に近い形の幸村と手塚前に、真田はいつになく神妙に頷いた。
 「もし、もう一度、紫乃ちゃんを泣かせたら────」、続きの神の子の台詞は、柳が塞いだ。

「弦一郎。深呼吸だ。緊張していては、うまくいくはずのことも、うまくいかない」
「あ、ああ」
「せやで。ヒッヒッフー、ほら、ヒッヒッフーや!」
「……それはラマーズ法だ、白石」

 緊張を飛び越え、ド緊張状態の真田に、柳と白石が声を掛けてくれた。
 さりげなく、笑わせようとしてくれている白石に、真田の緊張も、わずかに解れた。
 ふぅ、と深く呼吸をし、紫乃と視線を合わせる。紅梅らと一緒に、紫乃に寄り添う手塚の視線が、いつになく厳しい事実を、真田は甘んじて受けとめた。

「ふ、藤宮」
「ははははい……っ」

 可哀相なほどに蒼褪めている紫乃。これは一体、なんの苦行だろうと、真田は思う。
 謝罪はもちろんしたいが、いたずらに怯えさせるだけならば、いっそ身を隠した方がよいのでは、とさえ思えてきた。
 落ち着いたはずの紫乃は、またもや泣きそうだし、真田の背後で幸村が、聞えよがしに「チッ」と舌打ちしているではないか。振り返れば奴がいる、状態。
 更には手塚の眼鏡もキラリと光って、瞳が見えない。失敗は、許されないらしい。

 小動物と虎が見つめ合うこと数秒。お互い、心が折れそうだった。

「弦ちゃん」
「む」
しーちゃん。ほら、大丈夫え?」

 威嚇状態に入った二人に、「こらアカン」と早々にストップをかけたのは、紅梅だった。どちらも過度のストレスを抱え込んでしまっているので、このままでは昼食時の二の舞になりかねなかった。
 駆け足で真田の隣へとやってきた紅梅は、紫乃に見せるように真田と手を繋いで、にっこりと笑う。
 突然のことに真田は目を丸くさせたが、紅梅は無意味な行動をしない、ということを思い出し、見つめ返す。柔らかな笑みを浮かべる彼女を前に、なんだか肩の力が抜けた。

「ほら、怖い顔やのうなったやろ?」
「う、うん」
 険しい表情でなくなった真田の顔を見て、紫乃もまた肩の力を抜く。
 それを紅梅は見逃さず、真田を急かした。
「弦ちゃん、今や」
「! あ、ああ」

 薄らと浮かんでいた涙が引っ込んだのを見た真田は、「今だ!」と思った。勢い良く、頭を下げる。

「藤宮……すまなかった」
 大声を出さないように、細心の注意を払って、声を出す。
「詫びること以上の何かはできんが、申し訳なかった。気に食わなければ、殴ってくれてもかまわん」
「う、ううん。いいよ。怒って、ないから」
「いい、のか?」
「うん……むしろ、わ、私も、ごめんね。いつも、怯えて、て……」

 頭を下げられた紫乃は、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 いつも真田が、紫乃を怯えさせないように出来る限り努力していることは知っている。それに何より、真田が優しいことなど、紅梅を見ていればわかるのだ。
 日本のクラスメイトの男の子たちとは違うのだ、と頭ではわかっている。けれど、どうしても大声を聞くと委縮してしまうので、ひそかに歯がゆかった。
 きっと、今日の一連のトラブルは、真田と仲良くなるための切欠かもしれない、と思い始め、紫乃は緊張しながら顔を上げる。

「だから、私もごめんね……?」
「いや……」
「がんばって、慣れるようにする、から。でも、まだまだ慣れないから、ビクついちゃうけど……」
「それは、構わん……いや、あまり怖がらせんよう、善処する」
「ありがとう」

 ふにゃり。気の抜けたような柔和な笑みを、初めて向けられて、恥ずかしさからそっぽを向いた。
 紅梅の笑顔とは違う。だが、今まで見ることのできなかった紫乃の笑顔を、ちゃんと見ることが出来た。

「よろしおしたなあ、弦ちゃん」

 ホッとした様子で、自分のことのように喜ぶ紅梅に、紫乃も真田も顔を見合わせ、小さく笑い合う。
 そんな三人を取り囲む他の面々も、穏やかに笑っていた。


 ────かくして、紫乃の変身騒動は幕を閉じた。
 その日の夜、スネイプから届けられた魔法薬により、元の姿を取り戻した紫乃は、しばらくグリフィンドールの先輩達からやたらと声を掛けられることになったが……それはまた、別の話。