仔猫の憂鬱(3)
「私ね、ネコに変身してみたいとは言ったけど、こんな風に変身したかったわけじゃないの」

 澄んだ眼差しで洩れた本音に、諸悪の根源の弟であるロンは、とても申し訳なさそうに、そうだね、と呟いた。そうだね、わかるよ、うん。いつも双子の兄にからかわれ、騙されている身としては、とても他人事とは思えない心境である。
 「だ、大丈夫よ! シノ! あなた、とっても可愛いから!」という、ハーマイオニーのよくわからない励ましに便乗するように、白石も「似合うとるで!」と言った。秀才の二人だが、友人に猫耳としっぽが生える、という異常事態にちょっと混乱しているのかもしれない。

 どう考えても、いわゆるテンパった状態の二人を見て、逆に冷静になったハリーは、不安そうに瞳を揺らす紫乃を、ぽんぽんと撫でた。女の子に触れたのは初めての経験だったので、ハリーは少し照れた。

「元に、戻れるよね……?」
「大丈夫だよ、きっと。悔しいけど、スネイプだって曲がりなりにも教師なんだから」
「うん、そうだよね……」
「それにもしスネイプがダメだったとしても、ユキムラがこのまま放置するはずがないと思うし……」
「ポッターの言う通りだよ」

 ハリーの言葉を引き継ぐように、幸村が殊更に優しい声で囁く。

「あの陰険教授が失敗するはずがないと思うけど、万が一、ダメだった時は、俺が蓮二と乾に言うから。材料なら跡部だってなんとかしてくれるはずだよ。それでもどうにもならなかったとしても、榊監督がいる。だから、大丈夫」
「ゆきちゃん……!」

 手を取り合って見つめ合う少年少女の姿は、とても絵になる。変身術の教室でのこのやり取りに、事情を知らない他の生徒は、なんだなんだと注目しているが、渦中の二人は気づいていない。
「ス、スネイプ先生……失敗したら、ユキムラが許さないよね……」
 か細い声で言ったネビルに、ハリーはこくこくと頷いた。


 変身術が始まる直前、いつもの通りに紫乃の隣の席へとやって来た不二は、開口一番に「なにがあったの、紫乃ちゃん」と目を見開いた。
 とても言いにくそうに視線を逸らす紫乃に、彼女から事情を聞けないと察した不二は、さらに隣のハーマイオニーに事情を訊ねた。ハーマイオニーからの分かりやすい説明に理解した不二は、ちょっと眉を下げて「そっか」とだけ言った。

「災難だったね、紫乃ちゃん」
「うん……」
「とりあえず、授業が終わったら手塚に知らせないとね……とてもびっくりするとは思うけど」

 苦笑交じりの声に、嫌々ではあるが紫乃は頷いた。この姿になってから、なんだかとても心細くて、手塚に会いたくて仕方ないのだ。
 これが動物の感情なのかはよくわからないが、無性に手塚に撫でられたい。


 変身術の授業が始まって早々、スネイプから話を聞いたらしいマクゴナガルは、とても渋い面持ちだった。「災難でしたね」、と労るような言葉をかけ、紫乃は身体を小さくさせる。
 「スネイプ先生は、魔法薬学の権威でいらっしゃいますから、安心なさい」と、いつもの厳しい姿からは想像できないほどに、優しく微笑んでくれた。

 授業は、前回より発展して、マッチ棒と針のような小さなものではなく、少しサイズの大きい無機物を取り扱えるようになった。今度は、マグカップをワイングラスに変えるという内容だ。まだひと月も満たない内は、似たような形状を変化させるレベルに留まるようである。
 目標としては、1年の期末試験で、ハツカネズミを美しいゴブレットに変身させられるようになること。動物を無機物に変化させることが、果たしてできるだろうか────と、大半の生徒が不安に思いながら、それでもわくわくとしていた。

 いつもの通りに、授業の前半は変身術の理論の座学だ。生徒たちは、黒板と手元の羊皮紙、教科書の三つに、視線を何度も行ったり来たりさせる。
 厳しいマクゴナガルは、1限目の眠気さえも許さず、うとうとしかけていたネビルとロンをピシャリ、と叱責し、起こした。もちろん、減点は忘れない。おそらく、昨日の件で睡眠不足なのだろう。
 同じように眠気に誘われていた紫乃は、すぐに背筋を伸ばした。だが、不思議なことに、たびたび眠気が襲ってくるので、今日の授業は眠気との戦いである。不二もハーマイオニーも、眠たそうな紫乃を気にしていた。

「前回までは、同じように棒状の形質でしたが、今回はほんの少し形を変化させます。ワイングラスは、丸い本体のボウル部分に脚のステム部分、そして台のプレート部分によって成り立ちます。マッチ棒から針への変化は、どちらも均一な長さ・太さでしたが、今回は形状を変化させなければなりませんし、また、前回と違って、サイズが大きくなっています」

 「つまり、使用される魔法力も増えるということです」と締めくくり、マクゴナガルは実技の指導に移ったのだった。



 授業の後、マクゴナガルはすぐに紫乃に声を掛けた。
 出された課題をようやくメモし終えたところだった紫乃は、びっくりしたが、厳しい面持ちではなく、孫の怪我を憐れむような表情だったので、その緊張を解いた。

「ああ、ミス・フジミヤ。耳としっぽの方はどうですか」
「時間で治るようなものではなさそうで……」

 困ったような表情で、どう答えていいかわらかないでいる紫乃に代わり、白石が答える。
「ええ、ええ。そうでしょうとも」と、何度も頷き、マクゴナガルは紫乃の耳をそっと撫ぜた。

「……スネイプ先生の魔法薬を待つしかないんです」
「彼の技術なら、今日中には元に戻れるでしょう。それにしても、ああ、まあ、なんてこと」

 へにゃん、と垂れる耳としっぽ。「貴女を責めているのではありませんよ」と諭すような声は、いつになく優しいそれだった。
 何度か猫の耳を触ったり、摘まんだりして何かを確認していたマクゴナガルは、難しい顔のまま深い溜息を洩らし、次いでキリっと表情を引き締めて言った。

「ミスター・シライシ、それにミスター・ユキムラ。今日は出来るだけミス・フジミヤについてあげなさい。突然こんな姿になってミス・フジミヤも落ち着かないでしょうから」

 言われなくてもそうするつもりだった二人は、素直に頷く。
 一緒に居たハーマイオニーにも、「ミス・グレンジャーも。頼みますよ」と言われ、教師からのお願いに力強く頷いた。

「見たところ、外見だけではなく内面も一部、猫になっているようですね」
「……と、いうと?」
「授業中、何度か眠そうでしたね」

 控え目に質問した不二に、マクゴナガルが即答した。
 怒られる、と思った紫乃は、目をギュッと瞑ったが、「仕方のないことです」とあっさり続けられて、ぽかんとする。

「猫は人間と比べると睡眠時間がとても長い生き物です。今日は一日眠くてしょうがないでしょうから、ミス・フジミヤがベッドやソファ以外で眠っていたら助けておあげなさい」
 てっきり、寝不足が原因だとばかり思っていた紫乃からすれば、目から鱗だった。
「はい」
「わかりました」
 力強く頷いた幸村と白石の二人に、マクゴナガルは優しく微笑んだ。
「よい返事です。それから、耳がきちんと変化してしまっていることを考えると、かなりの音を拾ってしまうでしょう」
「あ、はい」
 「さっきからたくさん雑音が聞こえてしまうんです」と、顔を顰める紫乃に、マクゴナガルが頷いた。
「猫の五感が最も優れているのは聴覚です。今の貴女なら、あらゆる音を聞き分けることができるでしょうが……五月蠅くてたまらないでしょうね」
「はい……」
「音を遮断してしまっては不便でしょうから、とりあえずは耳栓などで凌ぐと良いでしょう。大声などには十分にお気をつけなさい」

 猫の耳は、夜間の待ち伏せ型の狩りに適するように、音源をかなり正確に特定できるようになっている。そのため、かなり聞き分けがよいので、色んな方向から聞こえる生徒たちの話し声に、紫乃はすでに辟易しているところだ。
 「双子には厳しく言い聞かせておきましょう」と険しい顔のマクゴナガルに、紫乃はあわあわとする。彼らにとっても不可抗力の事故なので、紫乃としてはもう気にしてはいないのだ。

 二コマの変身術の授業が終われば、昼食までは二コマの空きがある。
 普段通りなら、この空き時間に予習や復習をしたり、課題をしたりして時間を潰すのだが、紫乃はそれどころではなかった。マクゴナガルの指摘の通り、眠くて眠くて仕方がなかったのだ。
 談話室で集まって課題をこなしていたが、見かねた幸村と白石が、紫乃に眠ることを勧めたのである。
 「ごめんね、お昼ご飯になったら起こしてね」と言い残し、夢の世界に突入した紫乃に苦笑しながら、残された二人はさっさと課題を終わらせたのだった。

 そして、昼食時の時間。
 ぐっすりと眠っていた紫乃を起こし、三人で食堂となっている大広間へと向かう。

紫乃ちゃんの聴覚を奪ってあげてもいいんだけど、そうなると何も聞こえなくなっちゃうからね」

 大広間までの移動で、紫乃がこれ以上ないくらいに眉をヘの字にしていたのを見た幸村が、肩を竦めて言った。
 両手で耳を押さえているのを見かねた白石は、後で部室から耳当てを取ってこようと決意した。マンドレイクの栽培には、耳当ては欠かせないのである。

「……もういっそ何も聞こえなくてもいい、恥ずかしい……」

 紫乃がそう言ったのには、訳があった。
 さきほどから遠巻きに見つめる生徒たちの視線は、好奇のものばかりだ。人間の状態だったなら聞こえないヒソヒソ話も、猫の耳を持っている今なら全部が聞き取れてしまう。幸いにも、その噂話の大半が好意的なものだが、やっぱり噂されるというのは恥ずかしいものだ。

「似合ってるんだから、仕方ないよね」
「に、似合ってないもん」
「そうかな。とても可愛いと思うけど」

 一部の隙もない美しい笑顔に、紫乃は不貞腐れた。

「ゆ、ゆきちゃんなんか……っ」
「うん」
「…………っ、なんでもない。キライって言えない……!」

 完全に面白がっていた幸村だったが、半泣きになった紫乃に、不覚にもきゅん、とした。
 何だこの可愛い生き物。たまらず、ぐりぐりと撫でくり回した。
 そんなやり取りを眺めて、軽く笑う白石は、悔しそうに、ううう、と唸る紫乃を慰めるように撫でた。

「音と眠気はもうしゃあないわ。ひとまず、今日一日の授業の事は気にせんとき。俺と幸村君でちゃんとノート取るさかい」
「そうだね。幸い、午後からの授業ってあの『魔法史』だから、安心して寝ててもいいよ」
「でも、授業中に寝ちゃいけないって、みっちゃんが……」
「今日に関しては、手塚の言うことは気にしなくてもいいよ。わかった?」
「ん!」
「うん、いい返事。それじゃあ────」

 和やかに談笑しつつ、大広間の扉を幸村が開けた瞬間だった。

「たわけが────!!」

 金剛力士像様の怒号が、紫乃の耳に飛び込んできたのである。