仔猫の憂鬱(1)
昨晩の三頭犬遭遇から一夜明け、翌日のテニス部の朝練。
死に物狂いで寮へと戻って来てから、極度の疲れからすぐさま眠ってしまった紫乃やネビルとは反対に、幸村と白石は興奮のあまりなかなか眠れなかった。
お陰で、着替えながら二人とも何度も欠伸ばかりしており、不二や千石が「夜更かしでもしたの?」と不思議そうにしている。
「実はさ、」
「いやー昨日はマンドレイクのドラちゃんとゴラちゃんの良さをわかってもらおうと熱く語っとってん!」
幸村を遮り、努めて高いテンションで「せやけど全然幸村クンには伝わらんかったわー!」とさらに覆い被せた白石に、幸村は脹れっ面となった。
どう見ても何かを隠している、と不二も千石も思ったが、視線で牽制し合っている幸村と白石を見る限り、なんだか面倒くさそうになりそうな気がしたので、そっとしておくことにした。
「なんで言わないの」
「もうあの場所には絶対近づきとないねん」
二人から離れ、こそこそと小声で会話する。
幸村としては昨日のことを全員に伝えて、あの三頭犬について徹底的に調べたい気持ちでいっぱいなのだが、白石は真逆の考えなのである。
「一歩間違えたら殺されかねんかったやん。あんなえげつないんをあえて生徒にも秘密にして、ただ“とても痛い死に方をしたくなければ入るな”だけて、どう考えてもおかしいやん? こういう理由で危ないし行くなって言うところやろ」
「……それは最初っから思ってたけど」
組分けの儀式のすぐ後に、全生徒に向けられた注意事項。監督生のパーシー・ウィーズリーも、「立ち入り禁止の場所がある時は理由を教えてくれるはずなのに」としきりに不思議そうに首を傾げていたので、よく覚えている。
「せやろ?」と同意を促すように言って、白石はこんこんと諭し続ける。
「そんなきな臭い場所にあえて行って、危ない目におうて、退学とかなったら踏んだり蹴ったりやん。そら幸村クンなら無傷でどうにかしてまうかもしれへんけど、何かあってからでは遅いねん。それはわかるやろ?」
「……まあ、そうだけど」
白石の言い方は、偉ぶったり、上から目線の命令だったり、頭ごなしに幸村を否定したりするものではなかったので、幸村は不満を露わにしながらも、反論はしなかった。
何があるか分かっていて突入するならまだしも、三頭犬以外に何があるかわからない場所に行って、三頭犬以上に手に負えないような事態になったら。更には退学になったら――――そう考えると、白石の言うことは正論だ。
そもそも、昨晩の事件は、白石にとっては想定外の出来事だった。バレないように夜の校内を冒険することについてはノリもよかったが、命の危険すらある絶対禁止の場所に立ち入るつもりなんて、さらさらなかったのである。
「……わかったよ。今は黙っておく。情報も少ないしね」
三頭犬が居る向こう側について、何もわからない状態は確かに危険だ。
渋々といった様子で受け入れたかと思えば、にっこりと笑って幸村がそう言ったので、白石は力なく笑うしかなかった。
とりあえず、「ほどほどにしぃや」とだけ声を掛け、ラケットを手に部室を出たのだった。
「遅れてすまない。おはよう、諸君」
ポン! という音と共に、何処からともなく現れたのは監督の榊。号令がなくとも、部員らはサッと整列し、元気よく「おはようございます!」と挨拶を返す。
その姿に、榊はうむ、と頷き、ゆったりとした足取りでコートへと彼らを誘い、テニス部の一日が始まりを告げた。
朝の練習を終えたテニス部の面々が、朝食のテーブルに着いたのはちょうど7時15分頃だった。ホグワーツの朝食は、7時半から8時半頃の1時間以内に終わることになっている。
それぞれの寮に全員が着席し、美味しそうな朝食を自身の皿へ取りわける頃に、少し疲れた様子でハリーとロンが大広間へとやって来た。スリザリン席でにやにやしていたドラコは、ハリー・ポッターがまだホグワーツに居るのを見て我が目を疑ったのだが、その姿を間近で見ていた跡部が怪訝そうに眉を顰めたので、ドラコは何かを言うのを止めた。
一方、跡部の姿を見たハリーは、満面の笑顔ですぐに駆けよった。
「おはよう、アトベ!」
「ああ、おはよう」
当然だが、グリフィンドールのハリー・ポッターがスリザリンの王たる跡部の元へ向かって行ったばかりか、声を掛けたという事実が何よりも許し難い。
物凄い怨念や殺気を込めて睨まれていることに気づいていないのは、ハリーただ一人であり、一緒に居たロンは眠気など何処へやらだ。
「アトベ。前にくれたビーフジャーキー、本当にありがとう。僕、ビーフジャーキーに救われたよ!」
興奮しきった様子で、目をキラキラさせながらそう言ったハリーに、跡部は器用にも片眉を眇める。
「話が見えねぇが、何があった? そこのマルフォイと何か関係でもあんのか、アーン?」
「あー……えーと、」
ようやくドラコ・マルフォイの存在に気付いたハリーは、ドラコだけではなくスリザリンの全生徒、更には朝食に集まっている生徒らからの視線を集めていることにも気付いた。
事情を聞かれたものの、ビーフジャーキーを誰に与えたかを言えば、昨晩の出来事をすべて話さなくてはいけない。ドラコ・マルフォイの所業について、アトベに話せばアトベがなんとかしてくれるかもしれない――――と、ちらっとでも思ったものの、そうすることはなんとなく憚られた。
上手くは言えないが、アトベの力を借りてマルフォイをとっちめるなんてことをすれば、アトベに軽蔑されるように思えたからだ。
ハリーが跡部に何を話し出すのか気が気ではないドラコ・マルフォイは、さっきからチラチラとこちらに視線を送って来る。それがなんだか面白くて、しばらく不安な気持ちで過ごせばいい、とちょっぴりハリーは思った。
「ちょっと詳しくは言えないんだけど、犬にあげたんだよ。とびっきり凶暴な」
「アーン? ……フン。事情がありそうな様子だが、あえて聞かないでおいてやる。やたら眠そうだった幸村たちグリフィンドール組も関係ありそうだが……。とにかく、あのジャーキーが役に立ったなら良かった。まだ余ってるから欲しかったら言え」
気になるだろうにあえて踏み込まずに、優雅に笑って紅茶に口をつけるその姿に、同性ながら「カッコいいなあ」とハリーは思った。その思いが、うっかり声に出ていたらしく、「当然だ」と跡部が笑ったので、くすっとハリーは微笑んだ。
しかし、そんな光景を良く思わない者は当たり前だがいる訳で。
「アトベさまがカッコいいのは当たり前でしょう、ハリー・ポッター……!」
「グリフィンドールの分際でアトベさまと談笑するなんてなんて羨ましいのハリー・ポッター……!!」
「ジャーキーって、何をアトベさまからもらったのよハリー・ポッター……!!」
ある者は、冗談でもなんでもなく、白い絹のハンカチーフをぎりぎりと噛みしめながら。またある者は、朝食のポテトを何度も何度もナイフで突き刺しながら。またまたある者は、テーブルクロスに爪を立てながら、呪っているかのように静かに叫ぶ。
「……ハリー、僕、怖いよ…………」
和やかに跡部と談笑を続けている親友に、待たされているロンは死にそうな思いをしていたのだった。
朝練に精を出した部員たちにとっては、朝ご飯が抜きという事態など考えられない。美味しい朝食に今日も舌鼓を打ち、ゆったりとしたティータイムを楽しみ、余裕を持って授業へと向かう。
グリフィンドール1年生の、今日の最初の授業は変身術だった。
幸村・白石・紫乃の三人は、勿論きちんと課題を済ませていたし、課題を出されてすぐのあたりから、談話室でハーマイオニーを交えて、今日のために予習もしておいた。途中、ハーマイオニーが合流し、さらにその後、ハリーとロン、ネビルにも会ったので、全員で教室へ向かうこととなった。
「ねえ、昨日のことなんだけどさ、」
挨拶もそこそこにロンが切り出したが、
「僕は知らない、何も見てない、聞いてないよ、二度とあの犬には近づかないよ……!!」
ネビルは即答だった。
昨晩の件については、紫乃はもちろん、ハーマイオニーもネビルも三頭犬と仕掛け扉の下に何が隠されているのかについて、まったく興味を示さなかった。
白石から朝練前に言われていたこともあって、幸村は静観していたが、三人の様子を見て、黙っておいた方が賢明だろうと判断した。
あまりにも早すぎる返答だったので、ロンはムッとしたのだが、「禁じられた廊下については忘れようよ」と親友であるハリーが言うので、渋々頷いたようだった。
「針の次は、何やろなあ?」
今日の白石は、特に機嫌がいい。ルンルン、と今にも鼻歌を歌いそうなほどだ。
「シライシ、どうかしたの?」と、隣を歩く紫乃に、こっそりとハリーは聞いた。
「他の子たちが元気よく育ってるんだって」
「子?」
ふわあ、と欠伸しながら紫乃が答えた。
白石がご機嫌なのは、順調にマンドレイクが育っているからである。1年生ながらに、すでにホグワーツ中の誰よりも毒草や薬草の知識が深い白石は、特別にスプラウトから温室の魔法植物たちの世話を許されている。特に、マンドレイクの扱いに関しては、かなりの信頼を得ており、授業で使うマンドレイクの手入れさえも、白石に任せるほどに全幅の信頼を置いているのだとか。
「ゆきちゃんと周ちゃんも、危なくない植物なら自由に出入りしてもいいみたいだよ」
それを聞いて、ハリーは、魔法薬学と闇の魔術に対する防衛術の授業で、必ず紫乃たちの所へとやって来るスリザリン生徒を思い出した。彼もまた、幸村のようにとても整った容貌をしていて、幸村が神の子だとすると、王子様のような少年だったな、と素直に思った。
ちなみに、ロンはというと、彼のアンチ・スリザリンは今に始まったことではないが、不二に対しては「スリザリンでも嫌味ったらしくない生徒」くらいには認識しているらしい。
「対象の物体が少し大きくなるんじゃないかな」
「ティーカップとか?」
幸村の言葉に、ロンが言う。先週、マッチ棒でさえ手間取ったのだから、きっと今週も苦労するに違いない。
「早く机をブタに変えたいね」
「あれはまだ私たちには早いわ」
「マクゴナガル先生だから出来ることだけれど」と、すまして言ったハーマイオニーに、ロンはひどく気分を害した風に「君に言われなくてもわかってるさ!」と、唇を尖らした。
よりにもよってロンとハーマイオニーが並んで歩いているので、間に挟まれているネビル、真後ろのハリーと紫乃は、とてもいたたまれない。
「で、でも、僕、ユキムラなら出来そうな気がするなあ」
「え、そう?」
ピリピリしたロンとハーマイオニーの間に漂う空気に、耐えきれなかったのか。走って幸村へと近づいたネビルは、どもりながらも、にこりと笑う。
ネビルの発言に、全員が頷いたので、幸村はフフっと優雅に微笑む。天窓から降り注ぐ光によって、天使の輪さえも冠したいまの彼は、神々しい程に美しい。
「変身術を会得したら、カッコイイ生き物に変身してみたいよね。ドラゴンとか」
「俺、火を吹いてみたいよ」無邪気に笑って幸村は言うが、初めて出会った時に、「五感くらいなら奪えるよ!」と、満面の笑顔で言っていた幸村の姿を思い出したハリーは、蒼褪めた。
すでに、この神の子に出来ないことなどないのではないか、と疑っているハリーからすれば、これ以上、幸村がとんでもない魔法を身につけることに、若干の躊躇いがあった。昨晩の三頭犬にだって、笑顔でブチのめそうかと言っていたし。そもそも幸村に怖いものなんてあるのだろうか。
ドラコやスネイプを相手にする幸村は、心から頼もしい仲間だと思っているが────それとこれとは、話が別である。
「ゆきちゃんのドラゴンはきっと綺麗な龍神様なんだろうなあ……」
「ふふっ、ありがと紫乃ちゃん」
────えええ……!? フジミヤ、それは笑っている場合じゃないんじゃ……!?
そんなハリーの心境など知らず、うっとりした様子で幸村を褒めた紫乃に、ハリーとしては信じられない気持ちだった。
動く階段を使ってなんとか移動し、やっと広い廊下まで辿り着く。
「紫乃ちゃんは何に変身してみたい?」
「私? んーとね、ネコにもなってみたいし、でも白鳥にもなってみたいし……迷っちゃうかな」
「そんなに?」
「だって────」
「なっ、────全員、避けて!!」
変身術の教室まで、目と鼻の先といったところで。
何かが飛んで来たかと思えば、紫乃はよくわからない何かを全身から引っ被ってしまったのである。