夜のこどもたち(4)
 ふらり、と。体が傾いだのを認めた次の瞬間、バタリとネビルの体は地に伏した。現実を受け入れられなかったのか、彼は失神してしまったようだ。ある意味、健全な脳をしているのかもしれない。
 気絶できるものなら気絶したい。心底そう思ったのはロンだったが、どちらかというと彼は幼児のようにお洩らししてしまう事の方が気にかかった。
 ――――そんなどうでもいいことが頭をよぎるほど、目の前の現実が非現実なのだと、現実を把握しきれないで居る。

 雷のような呻り声のせいで、ネビル以外の全員の耳が馬鹿になる頃。ようやく彼らの目の前の怪獣犬が立ちはだかっていることを理解した。
 ハリーは咄嗟に扉の取っ手をまさぐった。フィルチが居るかもしれない、いや他の教師が居るかもしれない――――という考えがチラついたが、死ぬか退学かなら間違いなく退学を選ぶ。
 ガチャガチャと音がするのに扉は何故か開かない。焦るハリーに白石が叫んだ。

「ロングボトムや! ロングボトムをどかさなアカン!」
 そこでようやく、ハリーは気付いた。ネビルの体が、扉の開閉を遮っていることを。
 ぼーっと三頭犬を見つめて動かないロンを揺さぶり、白石と一緒に三人の力でネビルをどかそうとしてみるのだが、思ったよりも重い体に悪戦苦闘する。
 本当は三人の力をもってすれば簡単にネビルの体を移動させられるのだが、圧倒的な恐怖が体の自由を奪ってしまっているのである。
 そのせいで、ハーマイオニーも紫乃も腰が抜けて、口をはくはくとさせているだけで、何も出来ない。

 ――――しかし、ここでも神の子だけは違った。

「大丈夫。あいつらどうやら鎖で繋がれているみたいだから、ギリギリ俺たちに食らいつくことは出来ないみたいだ。見たところ、向こう側に行けば噛み殺されかねないけど、此処ならまだ安全だね。番犬みたいな役割といったところかな……?」
「冷静すぎやろ、自分!?」
「でも一体何のための番犬なんだ……? うーん……よし! あの犬をブチのめそうか!」

 語尾にハートマークでも付きそうな、そんな軽い調子で言ってのけた神の子こと幸村精市は、その杖の形状を途轍もなく大きなハンマーに変えた。黒い鋼に、白文字で「5t」。ハリーとロンは蒼褪めた。
 「へっ、えっ、ちょ、イヤイヤ、撲殺する気っスか……!?」と、震える声で白石が慄く。裏返った敬語のあたりから動揺が伺えた。

 あんまりだ。あんまりすぎる。

 つい数拍前は命の危機に瀕したと言ってもおかしくはなかったが、幸村の言った通り、この巨大な三頭犬は鎖に繋がれている限り、ハリー達を殺すことは出来ない。逆に、犬の居る向こう側へ行けば確実に殺されるが、此処から立ち去ればその危険もないのだ。
 そもそも、「禁じられた廊下」に間違いとはいえ入ってしまったのはこちらの方なのである。
 危険な魔法生物がこんな所に居るのもおかしな話であるが、ダンブルドア校長より直々に「絶対に立ち入るな」と禁止された場所に足を踏み入れたこちらに、明らかに非がある。

 ――――それを、ブチのめすだって!?
 ハリーの中の天使の心が大暴れした。

「いやいやいやいや!! だ、ダメだよ! ダメダメ! ユキムラ、さすがにそれはいけない!」
「えー」
「なんでそんな残念そうなんだよ!!」

 不満そうな返事を寄越した幸村に反応したのは、やっと正気に戻ったロンだった。なりふり構わず叫ぶあたり、余裕など皆無に等しい。いかに恐ろしい怪獣犬でも、幸村相手では可哀相すぎる、というのが彼の認識だったようだ。
 危険な魔法生物と幸村を比べて幸村が勝るというのが恐ろしい話だが、それは一般人として普通の反応であった。無理からぬ話である。

「逃げれば何も傷つけあう必要はないじゃないか!」
 普段の自分勝手な言動からは考えられない程に、平和志向なロンの発言。まったくもって正論であった。首がもげるほど頷いて同意を示すハリーに、きょとんと眼を瞬かせる幸村。

 神というのは時に残酷だからこそ神なのである。
 にっこりと唇に三日月を浮かべ、彼は言う。

「面白いことを言うね、ウィーズリー。俺の辞書に、不可能って単語どころか、逃げるなんて単語は存在しないよ?」
 どんなナポレオンだよ、と果たして誰が思っただろう。
「せ、戦略的撤退だと思えば……!!」
「ポッターまで。そんな綺麗事で済むなら闇払いは要らないよ。生きるか死ぬか。それが答えさ。弱肉強食。それこそが世の理ってやつだよ」

 そんな風に神の子の言葉はえげつなかった。とても。


「ユキムラ、怖すぎる! 発想が怖い!!」
「さすがに殺すのはよくない!! 他の手を考えようよ!!」

 「暴力反対!」と二言目には言いそうな空気の中、やっぱり幸村は不満げにぶすくれる。
 けれども、ロンに続いてやっと平静さを取り戻したハーマイオニーと紫乃もハリーたちに賛成するように頷いて見せたので、ここでは多数決に従うしかない、とハンマーを杖に戻した。
 ちら、と紫乃を見れば、幸村のブチのめす発言に怖れおののいている。「うーん、これはマズイよね。俺のイメージが悪くなっちゃう」と、真田あたりが聞けば猫かぶりめ、と悪態でも言い捨てかねないような事を考え、にこりと神の子は微笑んだ。

「とにかく、引き返そう」
 気を取り直してハリーが提案する。
「でも、君たちは向こうが気にならないの?」

 相変わらず耳の鼓膜を破りかねないほどに吠える化け物の声を余所に、目をきらきらさせて幸村が言った。
 こいつ、心臓に毛でも生えてんのかよ、と喉まで出かかった声をロンは飲み込んだ。賢い選択である。

「あの犬を何とかする方法がない以上、それどころじゃないよ! それにいつあの鎖を引きちぎって僕たちに襲いかかるかわかったもんじゃない!」
「……音楽や」
「え?」
「こないだ、なんかの本で読んだわ。魔法生物の本やったかいな? なんかそんな感じのやつに、三頭犬は音楽を聞いたら眠ってまうってあったような気ぃすんねん!」

 救世主、ここに現れり。
 出来る限り穏便に事を運びたかった幸村以外の面々の視界が開けた。
 「ありがとう白石! 本当にありがとう!」と叫びそうな空気だった。

「けど、楽器なんてないよ」
 獣の声など気にも留めていないかと思いきや、そろそろ呻り声が鬱陶しくなってきたのか、神の子が片眉を顰めながら問いかける。
 そんな彼に対して、フフンと胸を張って白石は断言した。

「歌えばええやんか! ちょうど最高にエクスタシーな歌があるで!」

 ドン!、と胸を叩いての宣言。
 満面のその笑みは、なんと頼もしいそれであろうか。ハリーには、白石こそこの場の誰よりも信頼できると思えた瞬間であった。
 ゴホンと咳払い一つ。そして、すぅ、と息を吸い込み――――。

「ろぉおおおおっこぉおおおろおおおおしにぃいいいい!!!!!」


 あまりにも残念な歌声が反響した。

 呼応するように、三頭犬の唸り声が激しさを増す。目を血走らせ、さきほどよりも以上に暴れまわる姿は、明らかに白石の歌がお気に召さなかったらしいが、当の本人は「エクスタシーソングに心躍らせとるんやな……!!」と全く気付いておらず、逆になぜか感動していたりする。

「五月蠅いよ白石! ド下手か!!」
「ストップ! ちょっとストップ!! 何か違うよ、シライシ!!」
「ギャアアア!! 三頭犬がキレたぁあああ!!!」

 幸村、ハリー、ロンの順に、それそれが叫んだ。三人とも、ちょっと信じられないくらいに酷い白石の歌を受け止めきれないで居た。
 傍に居る紫乃とハーマイオニーは、男子4人のやりとりを前に気持ちが落ち着いて来たのか、「……ああいう歌い方する男の子、クラスで一人は居たわ」、「こう、叫びすぎて下手、というか……うん、わかる」と冷静に分析。
 まとまりのない男子を見て冷静さを取り戻すというのも悲しい話であるが、この年頃の女子というものはそういうものである。

「感動を分かち合ってるとこやねん。邪魔せんといてぇな」
「どこが!? よく見ろよ、どう考えてもお前の歌が嫌でキレてるだろ!!」
「ウソやろ!? なんでやねん! あのエクスタシー球団の応援歌がアカンてえげつないやっちゃでこの犬!!」
「むしろお前がえげつないよ! なんなんだよあの歌声!!」
「全力で歌うのが礼儀やろ!」
「がなり声で歌えばどんな歌も騒音だよ!!」
「騒音!? 阪神を侮辱したら大阪が黙ってへんで!!」
「ああもうなんかほんとにめんどくさいな!!」
 咆哮が五月蠅いからか、怒鳴りあわなければ会話できない状況ではあるものの、もはやとんでもなく幼稚な言い争いになっていることに気づかない(本来は年齢より落ち着いているはずの)幸村と白石の二人。
 比例して、どんどん冷静になってゆくその他。

「……ユキムラはともかく、シライシはどうしたんだよ」
「ちょっと……混乱してるんだよ、きっと」
 視線を泳がせながら答えた紫乃の言葉に、ロンはそれ以上なにも言わなかった。

「全力で歌うのが、礼儀……礼儀……」
「ハリー?」
 何かに気づいたように復唱するハリーに、ハーマイオニーがそっと寄り添った。
「そうだよ、ハーマイオニー。礼儀だ。“どんな相手にも礼儀を尽くす”ことが大切なんだ!」

 眩しいくらいに輝いた笑みを見せて、ハリーは唐突に叫んだ。
 そして、ごそごそとローブのポケットを漁り始めたかと思えば、何かを取り出し、何かを決意したような顔で慎重に三頭犬に向かって歩き始めたのである。

「ハリー! あなた何を!?」
「危ないよ、ハリー!」
 ロンとハーマイオニーが制止の声を投げる。
 しかし、ハリーは「大丈夫」と力強い笑みを見せる。
「アトベが僕に教えてくれたんだ」
 言いながら、掲げた彼の右手にはビーフジャーキー。取り出した何かは、そのビーフジャーキーだった。

 気でも触れたかと思えるほどに怒り狂い、唸る巨大な生き物を前に、ハリーは足が竦みそうになるが、ぐっと堪えて一歩一歩、前へと歩み寄る。
 それを意外そうに眺める幸村と白石に、ハリーはちょっとだけ自信を持てたような気がした。

「ええと、名前はわからないけれど、とにかくごめんなさい」
 まずはお辞儀。
 跡部とハグリッドから犬との遊び方や挨拶の仕方を教わったが、教えられた通りとはいかなかった。ただ、悪いことをして申し訳ないという気持ちをわかってもらいたいという気持ちでいっぱいだった。

「君たちが過ごしているスペースに急に入ってきた僕たちが悪いよね。本当に、ごめん」
 動物にとってテリトリーというものは、人間以上に重視される。己の領域に無断で踏み込んだのはこちら側だ。三頭犬が番犬のような役割をしているとすれば、こちら側が侵入者なのだ。侵入者に怒るのも当たり前の流れだろう。
「僕たちはけっして侵入しようと思ったわけじゃないんだ。偶然に入ってしまった場所がここだっただけで……でも君たちにはそんなこと関係ないよね。だから、ごめんなさい。これは、お詫びの気持ちです」

 そうして、跡部からもらったビーフジャーキーを差し出した。これが嫌いな動物はなかなかいないらしい、とそう跡部が言っていた魔法生物用の高級ジャーキーだ。
 すると、ピタリと雷のようなうなり声が止んだ。
 ハリーは思わずガッツポーズをしそうになった。
 ――――さすがアトベ印の高級ジャーキーだ!
 もうアトベになんとお礼を言えばいいか、と歓喜するハリーだったが、三頭犬が吠えるのを止めたのは、何もジャーキーだけが理由ではない。彼らは番犬としての役割を任されるだけあって、それなりに知能は有しているのだ。ハリーが礼を尽くし、詫び、さらにはとても美味しそうなジャーキーを差し出してくれたので、敵ではないのだなと理解したのである。
 知らぬは本人ばかりなり、であった。

「おおー……」
「すごいな、ポッター!」

 パチパチと感心したように幸村と白石が拍手する。
 それに気付き、ロンは力強く拍手をくれたし、ハーマイオニーと紫乃は目をまん丸にさせて「すごい」を連呼する。
 全員からの拍手喝采に、照れたようにハリーは苦笑した。


「よし! じゃあ今の内に三頭犬の向こう側に――――」
「て、撤退!! これより、戦略的撤退をする!!」

 ぐっと拳を握りしめ、とても悪どく笑った幸村に、ロンが叫んだ。「なんて往生際が悪いんだよ!」とは、彼の心の叫びであり、紫乃以外の面々の総意であった。

 幸村以外の彼らの行動は、それはそれは素早く、そして団結しており、さすがの神の子も太刀打ちできず。ハーマイオニーと紫乃の女子チームも、見事な連携で気絶したネビルを二人で担ぎ、脱兎の如く駆け出した。


 ――――そうして彼らはなんとか無事に、グリフィンドール寮へと戻ることができたのだった。
 死に物狂いだったわけだけれども。