夜のこどもたち(1)
 ――――ハリーやロン、ハーマイオニーが深夜のホグワーツ校内へと足を踏み入れる少し前。
 時刻にして11時20分。ホグワーツの規則では0時以降、校内をうろついてはいけないという決まりがあり、その決まりに従い、次の日に備えてどの寮の生徒も就寝準備をしている頃のことだ。

「お、おおおおオバケ……! オバケ出たらどうしよう……!!」
「ゴーストとかヴァンパイアとか僕こわいよ……! ピーブスでさえ無理なのに……!」

 震える仔羊が二匹ほど、グリフィンドール寮前で情けなくも震えていたのである。



 昼間、たくさんの植樹を終えた後、眠りについているネビルのお見舞いにどうしても行きたかった紫乃は、面会謝絶だと知りながらも晩御飯の後に、ハーマイオニーに断って、ネビルの元へと向かった。
 校医のマダム・ポンフリーは一向に入室しない生徒を不思議に思い紫乃に声を掛けてくれたので、紫乃はネビルが薬の影響で眠ってしまっているから会えないことや、安静にした方がいいことをわかっている、と伝えた上で、それでもどうしても様子を知りたかったから来た、ということを一生懸命に説明した。

 最初は、花束と果物を携えた生徒に目を丸くしていたマダムだったが、たどたどしいながらも、寮の仲間を思い、たとえ面会が叶わなくともそれでも見舞おうとする紫乃のいじらしさに胸を打たれ、「特別ですよ」と唇に人差し指を押し当て、部屋へと招き入れてくれたのである。
 「日本人にはハチの心があるのですね……」としみじみ洩らしたマダムだったが、紫乃には聞こえていない。最近、日本マニアではないかと疑ってしまうほど日本のあれこれに詳しくなったダンブルドアから、忠犬ハチ公の小説を借りていた影響である。


 静かに寝息をたてて眠っているネビルを起こさないように、紫乃はそっとネビルの枕元に腰かけた。泣きじゃくっていた姿と違い、穏やかで幸せそうな寝顔から薬が効いているのだとようやく実感できた紫乃は、やっと一安心したのだった。

 周りのみんなが紫乃のせいじゃない、いやむしろ手首の骨折で済んだのはすごい、と言ってくれても、それでも紫乃自身が許せなかった。もっと術師として最高であればと、後悔は尽きないのだ。だからこそ、どうしてもネビルのお見舞いには来たかったのである。
 グリフィンドールが、ハリー・ポッターのシーカー就任について寮限定のお祭り騒ぎとなっていようとも、頭の片隅には残っていたのだ。他のみんなは、全員で明日の朝にネビルに思い出し玉を手渡して、その際に驚かせようとサプライズを楽しみにしているようなので、ハリーのことは黙っているつもりである。

 しばらくネビルの寝顔を数分ほど眺めた紫乃が退室しようとすると、来たばかりなのだから少しはゆっくりしていきなさいとマダム・ポンフリーに促されるまま紅茶やお菓子をいただくことになり、学校生活はどうですか?と質問され、するすると言葉が出てきた。
 さすがはホグワーツでたった一人の校医だけあり、慣れない寮生活によりホームシックになってしまう生徒のスクールカウンセリングにも長けているため、マダム・ポンフリーはとても聞き上手だった。
 入学してからどうだったとか、グリフィンドールでの寮生活がこんなものだったとか、後から後から言葉が溢れる。あまり饒舌とはいえない自分の舌が、まるで魔法にかかったように次々と言葉を生み出すのだ。マダムの相槌は、指揮者のタクトのようだった。気がつけば、あっという間に10時すぎだったのである。

 時刻に気がついたのは、うとうとし始めた紫乃の様子に、マダムが壁掛け時計を見たからだった。「まあ、もうこんな時間」と声だけは穏やかに、焦るマダムの姿に紫乃は出そうになった欠伸を引っ込めた。
 夕食後すぐに医務室へとやって来たので、お風呂にも入っていないし、明日の授業の準備すらしていない。いや、それよりも。
「み、みっちゃんに怒られる…!」

 9時にはベッドでなければ、幼馴染は怒るのだ。
 そんな、今にも飛び出さんばかりに慌て始めた紫乃に、マダム・ポンフリーは「ミス・フジミヤ、少しお待ちなさい」と言った。

「ミスター・ロングボトムの怪我は完治しているはずです。薬を飲んで6時間ほど安静にすれば骨はくっつきますから」
「えっ、本当ですか!?」
「ええ。複雑な骨折ならそうはいかないでしょうが、手首の骨ですもの。もっとも、彼はあまり丈夫な体とは言えませんから、これから毎日ミルクを飲んでもらう必要がありますが」
 まったく、マグルの栄養学は医療従事者として必要な学問ですね、とマダムは笑みを覗かせた。
「翌朝まで寝ていても構いませんが、明日の授業の準備もあるでしょう。治療中、授業に出られなければ授業に追いつけなくなる、とずっと不安がっているようでしたから」

 勉強でわからないところがあると、先生よりもハーマイオニーに質問しているネビル。先生相手だと気後れしてしまうのだろう。セブルス・スネイプに至っては、ネビルにとって恐怖の対象でしかないため論外である。こうした経緯から、自然と同級生のハーマイオニーを頼っているようだった。
 頼られて張り切りすぎたハーマイオニーから、授業の復習に限らず予習の課題も与えられたことにより、「このくらい勉強しなきゃ僕は授業に追いつけないんだ」という認識が勝手に植え付けられたのだった。

「あれだけ勉強してるのに、何がそんなに不安なのかな、ロングボトムくん……」
 という、紫乃の疑問はごく自然なものであった。

 校医の判断であれば何ら問題はないだろうと、共にグリフィンドールへ戻れることに、素直に喜んだ紫乃はるんるんと鼻歌でも歌いそうな雰囲気だった。
 その様子を微笑ましく思うマダムは、優しい笑みを見せてネビルのベッドへと紫乃を誘った。
 「失礼しますよ」と一声かけ、シャッと間仕切のカーテンを開けると、相変わらずネビルはぐっすりと眠っている。
 こんなに気持ち良さげに寝ているネビルを起こすのはしのびないが、本人のためだ、と薬瓶を手に杖を取り出したマダムを見つめ、紫乃はじっと待った。

「お友達が待っていますよ。起きなさい、ミスター・ロングボトム」
 言いながら、マダムは薬瓶の蓋を開けて、コツコツと杖で瓶の口を叩いた。
 すると、すうすうという寝息は消え、パチリとネビルの目が開く。急に目が開いたものだから、紫乃はびっくりして「ひゃっ」と声を出してしまった。

「……あれ? フジミヤ?」
 一方、目覚めたネビルはというと、目の前に紫乃がいたものだから、どうして?と瞳で問いかけている。すかさず、「あなたのことが心配で様子を見に来たそうですよ」と答え、ネビルが起き上がるのを手伝った。

「ええ? そうなの? でも、僕、フジミヤのおかげでこの程度で助かったって聞いたよ」
「そっ、そんなことは……っ」

 裏返った声が飛び出てきたものだから、紫乃はぎょっとしてマダム・ポンフリーの背中に隠れた。
 ネビルの身を案じるあまり、深く考えていなかったが、よくよく考えてみればこうしてネビルと二人きりで会話したことなど皆無だったのだ。男の子が苦手で、人見知りな性格であることを失念していた。幸村か白石に付いてきてもらえば良かった、と思ったが、ネビルに対して失礼だ、と思い直す。
 ハキハキと喋っていた先ほどと打って変わって、ぎこちない姿の紫乃だったが、ネビルは同じグリフィンドールの仲間だ。それに乱暴者でもないし、怒鳴ったりもしない。大丈夫、と言い聞かせ、フーッと深呼吸をして、紫乃はネビルと一緒に医務室を出たのだった。

 道中の会話は、どこまでもぎこちないものだった。紫乃の緊張感が、ネビルにも伝わったのだろう。
 「きょ、今日の夜空は一段と綺麗だね……」、「そ、そうだね!」などの天候から始まり、「魔法薬学の課題はもう終わった?」という学業についてなどの、お見合いの会話かと聞かれるほどに当たり障りのない話題を選んだが、どれもこれも長くは続かない。
 お互い、嫌いな相手ではないのだが接点があまりにもなさすぎたのである。

 会話とも呼べない言葉のやりとりを何度か交わした後の、何度目かの沈黙後。ネビルが急に、珍しくハッキリとした口調で言った。

「ありがとう、フジミヤ」
「えっ?」

 驚くほど静かな声だった。シン、とした夜のホグワーツは、静謐さが立ち込めていた。高窓から差し込む月光が、二人の影に模様を作る。
 どういう反応を返せばいいのかわからず、紫乃はじっとネビルを伺った。

「フジミヤだけじゃないよ。僕、君たち留学生にはいつも助けてもらってばかりだ」
 この間のスネイプの授業でもそうだ、とネビルは言う。ハーマイオニーほどではないが、授業で分からないところがあれば気軽に幸村や白石が教えてくれたりもする。
 それに、入学初日にサナダにも助けてもらったよ、とも。
「なんだか僕、君たちに迷惑ばかりかけている気がするんだ」
「そんなことないよ!!」
 大きな声の紫乃に、今度はネビルが吃驚する番だった。
 目を丸々とさせるネビルに、もう一度、そんなことないといつになく強い口調で紫乃が断定する。

「だけど、僕、思うんだ。どうして僕なんかがグリフィンドールに組分けされたんだろうって。君たちみたいに特別な何かがあるわけじゃないし……」
 こんなだし、と小さく言う。
 紫乃は、ネビルの気持ちが痛いほどに理解出来た。きっと、誰よりも。

 日本に居たころ、手塚が居てくれてよかったと思ったが、同時に迷惑かけてばっかりで申し訳ないとも思った。こんな自分が、とさえ思った。
 テニス選手としても将来有望で、学業面においても模範生で、常に賞賛される手塚に庇われるしかない自分。何も返せないことが申し訳なくて、辛くて、とても惨めだった。
 ――――だけど、手塚が言ってくれた。

「じゃあ、もし私が、私たちが、ロングボトムくんに迷惑をかけても怒らないでね?」
「へっ?」
 にこにこと言った紫乃の言葉に、ネビルがぽかんとする。
「同じ寮の仲間で、友達で……これからずっと一緒にホグワーツで過ごすんだよ。だからきっと私も迷惑をかけることがあると思う。ゆきちゃんだって、白石くんだって」
 特にゆきちゃんは、ちょっとヤンチャだからと朗らかに笑う。
 ドラコやスネイプ相手に真正面から喧嘩を売る幸村の姿を思い出したネビルは、紫乃が「ヤンチャ」と笑って流しているところに絶句したが、あえて何も言わなかった。賢明な判断だった。

「日本語にはね、持ちつ持たれつって言葉があるんだよ。お互いに助け合う関係って意味なの。仲間としてそういう関係になれたらいいなあって思うの。それからね、」
 言葉を区切って、紫乃は続ける。
「私もね、どうして私なんかがグリフィンドールになったんだろうって思うことがあるの。でも、考えるのはやめたんだ。私のパパはね、グリフィンドールだったの。だからパパみたいにグリフィンドールに相応しい生徒になれたらいいなって思うようになったよ」

 廊下の絨毯を踏みしめて、歩く。神聖な静けさの中に、紫乃の声がよく響いた。大きくもなく、小さすぎない声だったけれど、この夜の空気によく透り、綺麗に溶けてゆく。
 紫乃もネビルも、互いに、こんな風に相手と長い時間話したことがなかったことを実感し、そしてそれが不快な気持ちではないことを感じとった。

「私のパパはね、デス・イーターと戦って……殺されてしまったの」

 衝撃のあまり、ネビルは息すら出来なかった。

「パパは気弱で優しくて、争いごとが好きじゃない性格で、グリフィンドールよりハッフルパフ向きって、学生時代にはよくからかわれてたって、パパのお友達から聞いた」
 まさに、紫乃みたいな人間だなとネビルは思った。争いを好まず内向的で、優しい性格。
「でもパパは、逃げなかった。誰もが逃げて、投げ出したお役目をね、最後まで全うしたの。デス・イーターに馬鹿にされても…………最後の最期まで」
 紫乃の声が震えたような気がして、ネビルはとてもじゃないが紫乃の顔を覗き込む勇気なんて持てなかった。さっと視線を逸らした。
 だって、紫乃の気持ちはネビルには理解できる。遺族としては、「逃げて欲しかった」から。

「最後までパパが頑張ってくれたから、私はいまここに居る。パパがいなかったら、きっと今はなかったと思う。パパだけじゃなく、色んな人の犠牲の上で、私が生きてる未来があるの。だから、私、頑張ろうって思うんだ」
 自分なんて、と後ろ向きにならずに、犠牲になった人々の救いになるように。
 パパが誇らしく思えるように、パパが生きたグリフィンドールで、みんなから認められたい。
 穏やかな声であるのに、強すぎる決意にネビルは己を恥じた。どうせどうせ、と俯くしか出来なかったからだ。

「私たちがグリフィンドールに選ばれたことには、きっと意味があるんだよ。まだ1年生だからその意味はわからないかもしれないけど、きっと見つかるよ。一人では無理でも、二人なら、みんなが居れば、きっと出来るよ」

 ネビルの手のひらをきゅっと握って、紫乃は微笑む。

「だから一緒に頑張ろうね、ロングボトムくん」

 ネビルと同じか、もしかするとネビルよりも小さい少女が、同学年の女の子の誰よりも綺麗に笑った。もしかすると聖母マリアが微笑めば、こんな風に笑うのだろう、というような。
 とりたてて美人というわけではない。どちらかと言えば、十人並みよりか少し可愛いと思える少女。だが、ネビルの記憶に鮮やかに刻み込まれるその笑顔を前に、ぽーっと頬を赤らめた。

「……ネビルでいいよ……シノ

 情けないほどに小さい声だったけれど、二人きりの空間ではきちんと紫乃の耳に届き、紫乃もまた、小さな声で「ありがとう、ネビルくん」と再び笑ったのだった。


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