花の守り手(2)
厳しい眼差しのマクゴナガルに、ハリーは真っ青になった。それは他のグリフィンドール生も同じで、全員の頭に「退学処分」の文字が浮かんだ。マダム・フーチが言いつけを守らなければ学校から出て行ってもらう、と前置きして立ち去ったことを思い出したのだ。
ハリーを擁護するように、ロンも、それからパーバティ・パチルという少女の弁護もマクゴナガルは聞き入れず、ハリーを連れて行った。
「ははっ! 見たか、あのポッターの顔! あの英雄様が退学処分だなんて!」
勝ち誇ったような顔でハリーを馬鹿にするようなドラコと、彼の取り巻きであるグラップとゴイル。
グリフィンドールの1年生たちは、先ほどの熱気が嘘のように消え去り、まるで風船がしぼんでしまったかのように意気消沈していた。ロンは悔しそうに歯ぎしりし、彼の髪の色よりも顔を真っ赤にさせていた。
(どうしてそんな酷いことが言えるの? ポッター君は、悪くないのに……)
ドラコに同調する声が、増えてゆく。
「こんなバカ玉なんかのせいで退学とは!」と酷く気取った言い方で、ハリーがパーバティに託した思い出し玉を引ったくって大演説すら始めて見せたのだ。
その光景を見つめ、紫乃はぶるぶる震える両手をぎゅっと握りしめた。
(わたし、言わなきゃ……っ)
誰も、助けてくれなかった。いじめっ子たちが囃し立てて、紫乃を馬鹿にして、紫乃が泣いたって遠巻きでクラスメイトは見ているだけだった。可哀相とは言ってくれるのに、やめてあげなよとは言ってくれなかった。
助けてくれたのは、いつだって手塚だけだった。
大好きな祖父が囁く。
紫乃ちゃん、そりゃあツライねぇ……でも君は、だからこそ誰よりも人の痛みを理解できる。もしも紫乃ちゃんの目の前で誰かが傷つくようなことがあれば、手塚君のように紫乃ちゃんが頑張るんだよ。
――――だから、今度は、私が。
お願い。もう、やめて。
心から、紫乃は願った。
「この授業が終われば、あのポッターが学校から去る姿を見ることが――――」
「や、やめて、あげてよ……!」
ドラコ・マルフォイは、今にも消えてしまいそうなか弱い声に、気分を害された。一体、僕の言葉を遮るのは何処の誰だ、と若干の苛立ちを隠さずに声の主を探す。
声の主は、ふわふわとした茶色の髪に、今にも泣きそうな小さな少女だった。ネクタイのカラーは深紅と黄金。グリフィンドールの中で最も小さい。
誰だ、こいつは――――? ドラコは、紫乃の存在を知らなかった。藤宮家の子供が居ることは知っていたが、幸村や跡部ほどの存在感のない、何処にでも居そうな平凡な少女だとは思ってもいなかったのである。
そのため、目の前の少女が、まさかあの藤宮家の子供だとは思わず、薄い顔立ちから日系イギリス人かチャイニーズか、としか思わなかったのだ。
「ポッター君は、なにも悪くない! ロング、ボトム君の思い出し玉、取り返そうとしただけ! ろ、ロングボトム君の、思い出し玉、返して! ぱ、パチルさんが後でロングボトム君に返すんだから!! 先生には、バレなかったかも、しらないけどっ、間違ってるのはマルフォイ君だよ!!」
びくびくおどおどしながら、なんとか言い切った紫乃の言葉に、ドラコは憤慨を隠しきれない様子だった。青白い顔が真っ赤に染まる。
貴族であり、名門のマルフォイ家である自分に刃向ったことが許せなかったのだ。どこの馬の骨とも分からないこの女が、僕を侮辱した。その一点が、彼を不愉快にさせた。しかも、あのロングボトムのように頼りなさげで、気弱そうな女に!
馬鹿にするように鼻で笑い、彼は嘲笑した。
「下賤の家柄の分際で、僕に刃向うなんていい度胸だ。誰に物を言っているんだい?」
「ま、マルフォイ君に言ってる!」
いらえに、ドラコは「ははっ!」と冷たく笑った。
「そう、僕はドラコ・マルフォイだ! マルフォイ家に逆らうとどうなるか君はわかってないようだね。これだからマグルは困る。この僕に逆らうとはどういうことか、」
「……黙れ、マルフォイ」
今の今まで静観していた跡部が、地の底から這い上がる様な冷徹な声で、静かに命令した。その迫力たるや、真田ほどの怒鳴り声ではないが、かえってたしかな恐怖をスリザリン全員にもたらした。
そしてドラコと一緒になって騒いでいた面々は、背筋に冷たいものを感じ、悟る――――King of Kings を怒らせたのだと。
だが、誰もが戸惑った。なぜ彼が、王が怒りを露わにするのかと。
「お前の言動は虫唾が走る。スリザリンの恥さらし以外の何物でもねぇ」
「なっ、僕は! こいつが立場をわきまえないから!!」
「時代遅れも大概にしておけよ、マルフォイ。だいたい、勘違いも甚だしい。お前の誇る家柄とやらは、簡単に振りかざしていいもんじゃねぇんだよ」
反論すら許さず、冷たく睥睨する跡部に、ドラコは竦み上がった。
マルフォイ家以上の家柄を持ち、次代の跡部として目される彼の言葉には重みがあった。
「その家柄はお前の築き上げたものじゃねぇだろうが。何十年、何百年をかけ、お前の先祖が築き上げてきた血筋と言う名の財産だ。誇りたきゃ、まずてめえがその振る舞いを改めやがれ。品がねぇんだよ」
ドラコに同調していたスリザリン生たちは、さきほどとは打って変わって意気消沈している。
あの跡部に品が無いと言われたのだ。恥ずかしいやら、絶望やらでそれどころではないのである。
「それから、一つ教えておいてやる。いま、お前が下賤だと散々なじりやがった、そこの女は、テメェがひっくり返ったって手に入らねぇ千年の歴史を持つ、藤宮一族の末裔。しかも藤宮一族の誰からも次期当主にと認められた女だ!!」
「!!」
この女が!? 口にこそしなかったが、ドラコの表情は全て物語っていた。もちろん、スリザリン生たちもだ。
今にも泣き出しそうに、ぷるぷると震えている幼い少女。それが、あの藤宮家の末裔だと誰も思わなかった。
「その女を馬鹿にしたってことは、どういうことかわかってんのか、アーン? 次代の藤宮の当主を馬鹿にしたんだよ、お前は。藤宮一族は自尊心が高い。当主を馬鹿にされたとなりゃ、一族が容赦しねぇぞ。藤宮門下だけじゃねぇ。安倍一族、土御門家といったあらゆる陰陽師家……それだけじゃねぇ、日本国の王、そして日本の八百万の神の怒りも買うことになるぜ」
「そ、そんなつもりは!」
「つもりだとか、つもりじゃねぇとかそんなことはどうでもいい、そういうことなんだよ、お前の発言は。藤宮一門が使役する神や妖、鬼がどれくらいいると思ってやがる」
かの安倍晴明が、十二神将を調伏させ、使役していたのは有名な逸話である。その安部晴明に教えを請うた藤宮家が使役したとされる神、妖など数知れず。鬼神など、挙げればキリがない。
ドラコの顔から温度が失われてゆく。真っ青を通り越し、まっ白だった。
「────マルフォイ、お前この落とし前、どうつけてくれるつもりだ?」
陰陽師は、歴史を紐解けば、かつては帝に仕えていた存在だ。古代日本の律令制下において、技官として占術や呪術、祭祀を司ってきた。吉凶を占い、星を詠み、帝や貴族らの政に助言してきたのである。それは武家社会へと時代が移り変わろうとも、影で日本国を支えてきた。安倍晴明に関する書物は、多く残されており、いかに陰陽師たちが天皇家、そして神々と関わり深かったのかを伺わせる。
安倍晴明に教えを乞い、その後は独自の術式を組み込ませ発展をしつつも、安倍家と共に日の本に仕え続けてきた一族こそ藤宮一族だ。その一族の娘を、次代の当主を、貶したのだ。知るとも知らぬとも、事実は変わらない。
跡部からもたらされた事実に、ドラコは倒れそうになる。
「そして、もう一つ言っておく。こいつに流れる血は、“日本の英雄”の血だ。こいつを貶せば、日本中の魔法族が敵に回る」
その台詞に、紫乃は一瞬だけ悲しそうな顔をした。瞼を伏せ、再び深い茶色の瞳を覗かせた次の瞬間には、悲しみに染まった色は消え失せて、困ったような顔をしているだけだった。
しかし、その表情を不二だけは見逃さなかった。
「もしかして、紫乃ちゃんのお父さんって────」
極限まで目を見開かれ、曝け出された琥珀の双眸は、驚愕と悲しみがない交ぜになり、不二の困惑を露わにしていた。
まさか────と、動揺しながらも、不二は冷静に、頭に浮かんだ可能性を受け入れた。「藤宮」、「人には決して術を行使しない陰陽術」、「日本の英雄」。次々に浮かび上がる単語は、その可能性を裏付ける証拠でしかなくて。
どうして、僕は、気づかなかったのか。
困惑の色がなくなれば、沸き上がったのは憐れみだった。だが、その感情を紫乃に向けるのは違うのだと言い聞かせ、不二はス、と目を細めた。やるべきことは違うだろう、とすぐに思い直したからだ。
「俺様も詳しくは知らねぇが、呪われて祟られるかもしれねぇぜ? せいぜい、夜道には注意しな」
膝から崩れ落ちたドラコは、その場から脱兎の如く、逃げ去った。取り残されたグラップとゴイルも、恐怖のあまりに後を追いかける。
誰もが発言を許されないような静けさの中、跡部が胸元に手を置き、紫乃へと頭を垂れた。
「……同じスリザリンの生徒として、心より非礼をお詫びする」
まるで中世の騎士が忠誠を誓うような、完璧な所作に女子生徒たちは頬を染めた。
けれど、当人である紫乃はポカンとした後、ちょっとだけくすりと笑った。
「ううん。ありがとう、跡部君。私、気にしてないよ」
「……少しは気にしろ。お前はお前の価値を過小評価しすぎなんだよ。自覚を持ちやがれ」
だから舐められるんだぜ、と囁く跡部に、紫乃はやっぱり苦笑する。
「いいの。それからね、跡部君。私の術は、呪ったり祟ったりなんてしないよ。私の力はね、困ってる人のためにあるから。絶対に、人にはしないの。たとえ、どんなに馬鹿にされても。パパが、言ってたから」
「! お前、」
跡部の脳裏に、祖父の言葉が響く。
────その男は、勇敢だったよ。逃げなかった。みっともなく泣いて、泣いて。枯れるほどに泣いても、それでも。
若い命を散らせてしまった、と悔悟し、神に許しを乞うように懺悔した祖父。祖父が見せてくれた写真には、若い男と女、それから赤子。焦げ茶色の瞳の赤子は、ふにゃりと手を振った。
そうして────いま、焦げ茶色の瞳の少女は、跡部に微笑みかけている。
────逃げ出すことも出来ただろう。その気になれば、反撃することも……。だが、しなかった。どんなに馬鹿にされても。
馬鹿にされても逃げなかった男の娘は、男と同じく、“逃げなかった”。
「……もっと、堂々としろ」
滲んでいた涙が引っ込み、小動物のように純粋な輝きを放つ瞳。
はあ、と溜息を一つ零しながら、跡部は言う。
「お前は、誰が何と言おうが、グリフィンドールに相応しい人間なんだ」
「あ、とべくん……」
いつでも自信たっぷりの跡部から断言され、胸の内が熱くなる。おどおどしている自分を、グリフィンドールに相応しい、とハッキリ言われて、震えないはずがなかった。
「藤宮の血は、グリフィンドールの素養があるんだろう……俺はそう思ってるぜ、紫乃」
「藤宮なんざ何人もいるからな。名前で呼ばせてもらう」と、そう言いながら、パーバティ・パチルを見つけた跡部は彼女の手にネビルの思い出し玉を握らせ、パーバティにも「悪かったな」と静かに詫びた。ドラコが走り去る拍子に、落としてしまったのを跡部が拾い上げたのだ。
そして、フン、と鼻を鳴らし、ローブを翻した彼は、スタスタと歩き、距離を取る。他のスリザリン生たちは、跡部のご機嫌を取ろうと彼の後を追いかけた。
――――その瞬間、グリフィンドールの女子生徒の黄色い悲鳴が割れんばかりに沸き起こる。
「アトベ様!」「なんてカッコイイの!」等々、多種多様の賞賛だったが、だいたい似たようなものだ。そして、そんな跡部に手を握られたパーバティは、みんなから羨ましがられ、頬を染めて、目を白黒させた。
これに良い顔をしないのは、残されたスリザリンの女子生徒である。彼女たちは、紫乃とパーバティに鋭い視線をぶつけた。その視線たちはすべて、あのアトベ様にお声をかけてもらうばかりか、アトベ様に頭を下げさせるなんて!という非難するものばかりだ。
けれど、睨みつける女の子たちの前へと、一歩進み出たのは不二だった。
「僕はね、人の悪口を言ったり、酷いことをしたりするような女の子は好きじゃないな。むしろ────」
にこにこと穏やかな頬笑みを浮かべた王子様ではなく、冷たい色の瞳を見せた不二に、スリザリンの女子生徒たちは背筋が凍るような恐怖を覚えた。
「むしろ、嫌いだよ」
跡部の冷徹な声も恐ろしかったが、不二の感情のない声も怖い。そして「嫌い」という不二の言葉に、女の子たちは傷ついたような表情になった。あんなに優しい王子様みたいな不二に、嫌われたらどうしよう、と、どの女の子の顔にも書かれている。中には、涙を薄ら浮かべる子もいた。
「ふ、フジ……」と、縋るような声を絞り出した女の子も居たが、不二は聞き入れなかった。その姿を見た彼女たちは、不二に嫌われた、とショックを受ける。
しゅん、と肩を落とすスリザリンの女の子たちを前に、グリフィンドール生らは戸惑うしかない。
静まり返った空気の中、不二はそっと瞳を閉じ、いつものように笑って見せた。「だから、みんな仲良くしようね」と微笑んで。
いつもの王子様に戻った不二に、スリザリンの生徒らは一様にホッとし、こくこくと頷いてみせた。
「グリフィンドールとスリザリンってだけで、いがみあうのは悲しいからね」
「そ、そうね」
「わかってくれて、嬉しい。きっとみんななら、わかってくれるって思ってたから」
蕩けるような微笑みを見せられ、跡部様崇拝者の一人が、くらりときた。
「跡部と不二が出てこなかったら、うっかり五感を奪っちゃうところだったよ」
「……幸村君、シャレにならんわ、それ」
幸村の一言を、ロンは聞かなかったことにした。