花の守り手(1)
お昼を過ぎたあたりから、日差しが強くなり、晴れ渡った空模様となった。少し風は強いが、先輩たちによれば、まさに飛行訓練には相応しいといったコンディションだという。
レイブンクローとハッフルパフが、先に飛行訓練を受講していたと思い出す。みんなどうだっただろう、と、紫乃は授業の感想を聞きたくて、うずうずしていた。
箒に乗って空を飛ぶ────いかにも魔法使い、という授業だ。
日本の宮崎駿作品のアニメ映画である、「魔女の宅急便」の主人公・キキも魔女だったので、箒に乗っていた。定番といえば、定番なのだ。ぜひ乗って飛んでみたい。
────だが、本当に飛べるのだろうか。飛べなかったらどうしよう。
そんな不安が残るのも、また事実。だから、どうしても先に授業を受けたみんなから話を聞いてみたかったが、教室移動の関係からそれは叶わなかった。
若干、顔色が悪いままに、紫乃は正面階段から校庭へと急いだ。
幸村や白石を除いたグリフィンドールの1年生たちは、どの生徒たちも紫乃と同じように不安を隠しきれない様子だった。
特に、ハーマイオニーは談話室に掲示がなされてからというもの、ずっとピリピリしている。飛行訓練については座学でどうにかなるわけではない────と知っていたとしても。それでもハーマイオニーは飛行術に関する書籍を読み漁っていた。
不安な気持ちはわからないでもないが、こればっかりはなるようにしかならない。珍しく割り切って考えることにした紫乃は、校庭を横切って平坦な芝生をてくてくと歩く。
ふっきれたと言ってもよかった。
スリザリンの寮生たちはすでに到着しており、跡部は幸村や白石、紫乃を見てフン、と顎をしゃくった。
不二はにこやかに手を振ってくれたので、紫乃も振り返そうとしたが、スリザリンの女子生徒たちの目が光ったことに気づき、胸のあたりまで持ち上げた手を下げた。
いかにも王子様、といった風貌の不二は、跡部に次いでスリザリンの女子生徒から人気が高い、とグリフィンドールの女の子たちが話していたのを思い出した。跡部が王様なら、不二はスリザリンの王子様なのだそうだ。
「なにをぼやぼやしているんですか」
マダム・フーチはマクゴナガルとはまた違った厳しそうな先生で、鷹のように鋭い黄色の目をしていた。開口一番ガミガミと叱りつける先生に、ぴゃっと紫乃は駆け出し、言われた通り箒の傍に並ぶ。
偶然にも隣同士になったハリーに、微笑みかけるとハリーは手を振ってくれた。
「上がれ!」
「上がれ!」
そして始まった、飛行訓練の授業。
次々に飛んでくるマダム・フーチの指示をきちんと聞き、箒に命令する。ハリーも紫乃も、無事に箒を手にすることが出来て、二人で顔を見合わせて微笑みあった。よかった、第一段階はクリアだ。
ふとスリザリンの方を見れば、跡部が「上がれ」と命じただけで、箒が10本くらい平伏していた。「さすがアトベ様」と、スリザリンの女子生徒たちはうっとりしている。
「サナダに続き、ミスター・アトベ、貴方もですか……」と、少し疲れたようなマダム・フーチの言葉に、ハリーは「何かあったのかな」と紫乃に呟いた。
「真田くんのことだから、箒に怒鳴りつけたのかな」
そんな紫乃の概ね正解の答えに、ハリーはありえると確信していた。
「二人とも、成功したみたいだね」
「ユキムラ」
「俺も出来たよ」
箒を手にした幸村に、「やあ」とハリーは声を掛けた。にこやかに幸村は応じ、その視線を手元の箒へと移す。
「でも変なんだよね。上がれ! って俺が言う前に、ひとりでに箒が飛び込んできてね」
紫乃はきょとんとしていたけれど、ハリーには理解出来た。
────絶対に箒が逆らっちゃいけないと思ったんだ。言葉にはせず、「すごいね」と言っておいた。
続いて、箒の端から滑り落ちないように、箒に跨る方法を実践してみせたマダム・フーチは、いよいよ箒に乗りますよ、と続け、生徒ら全員を見渡す。
箒に跨った状態の生徒全員が、頬を紅潮させていた。いよいよ、空を飛べるのだ────。
「さあ、私が笛を吹いたら、地面を強く蹴ってください。箒はぐらつかないように押さえ、二メートルぐらい浮上して、それから少し前かがみになってすぐに降りてきてください。笛を吹いたらですよ──── 一、二の────」
首から提げたホイッスルを手にした、まさにその時だった。ひと足早くに、ネビルが地面を蹴ってしまったのだ。
「こら、戻ってきなさい!」
マダムの大声をよそに、ネビルは空高くへと上昇してしまった。地面からぐんぐん離れる地面を見下ろすネビルは真っ青で、助けてと叫んでいる。だが、地上にいる生徒らは十メートル以上も離れた箒にいる人間を、どう助けていいかわからない。
それは教師も同じらしく、マダム・フーチは、とにかく箒にしがみつきなさいと声を張り上げている。
紫乃もハーマイオニーも、真っ青な顔でどうしようどうしようと、狼狽する。
あんな高さから落ちたら、死んでしまう。誰かが受け止めなければ。でもどうしたら。堂々巡りの思考に、泣きそうになる。
ああっ、とハーマイオニーが顔を覆い、ネビルの悲鳴が聞こえた。ハッと見上げれば、ネビルが箒から手を離し、落ちてしまったのだ。もうダメだ、と誰もが目をぎゅっと閉じた。
「“Wingardium Leviosa”!」
完璧な発音と完璧な杖の振り方。
白石は、手首をビューンと動かし、ひょいと杖先をネビルに向ける。途端、五メートル程の高さの所で、ネビルの降下が止まる。見えないクッションにでも受け止めたかのようだった。
何が起こったのか理解できない生徒らの中で、ハーマイオニーだけは理解した。
白石が唱えたのは、呪文学の教科書に載っていた浮遊の呪文。教科書の呪文はすべて丸暗記しているハーマイオニーは驚愕した。
────あんなに教科書の記述通り忠実に、そして完璧に呪文を詠唱できる人がいるなんて! しかも、まだ授業で扱っていない、次の授業で習う予定のものを!
「ちょ、これ、きっつ……! 助けてくれへんか!!」
まだ習得してすらいない呪文を行使しているせいか、白石の魔力が安定せず、ネビルの身体が上下する。
その度に、ネビルの悲鳴があがり、白石は気が気ではなかった。過剰に放出される魔力に、腕が千切れそうだ。
「紫乃ちゃん、行くよ」
「う、うん!」
杖を上向けにしたまま、ネビルが落下するのを止めている白石は、それ以上どうしようもなかった。下ろそうにも下ろし方がわからないし、もしも下手な事をすればネビルを落としてしまう。
悲鳴にも似た叫び声の白石に、幸村の前へと紫乃が進み出た。
指先で剣印を結び、次いで懐から紙片を取り出した紫乃は、叫ぶ。
「この息は我が息吹にあらず、神の息吹なり!」
叫ぶ紫乃に応じるように、幸村が静かに、風に囁いた。
「俺のお願い、もちろん聞いてくれるよね?」
刹那、芝生の上をザッと風が走り抜ける。少し強かった風は、強風へと変化し、ローブを攫う。風の精に命令できる幸村の命に従い、隷属たる精霊は神の子の指示通り、紫乃の指先へと吹き上がる。
目配せする幸村に、こくりと紫乃は頷き、フーっと紙に息を吹き込んだ。何かを唱える。「ニホンゴだ……」と、誰かが呟いた。そしてその紙が、人型の形をしていると気づいた頃、勢い良く投げ放たれた。
「――――急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
幸村の願いを聞き届けた風は、紫乃の放った人型の紙を巻き込み、ネビルの元へと舞い上がる。
現状の高さを維持し続けるのが限界だった白石は、「すまん! 堪忍や!」と大声で叫び、杖を下ろし、膝から崩れ落ちた。魔力が限界だったのだ。
風が、ネビルを包み込む。そして。
ズザッ! という大きな音を立て、ネビルの身体は地に落ちた。
真っ青になったマダム・フーチが駆け付け、ネビルの上へ屈みこんだ。
「なんということです……!」
まさに驚愕、という表情で、マダム・フーチは感嘆した。
「あの高さから落ちて、手首の骨折だけで済むだなんて!」
ホッとしたようにマダムが微笑む。半ば泣きそうな顔でグリフィンドールの生徒たちが走り寄って来た。
ネビルは、手首の骨を折ったため、痛い痛いと呻きながら、顔を涙でぐしょぐしょにしている。だが、生きていることに全員が、ホッとしたのだった。
「ユキムラ、シライシ、フジミヤ。貴方たちの迅速な行動と素晴らしい連携プレーを評し、グリフィンドールに10点」
わっ、とグリフィンドール生が歓喜し、拍手する。「貴方たちがいなければ、この子は骨折ではすみませんでしたからね」という言葉に、幸村は苦笑し、白石はへたり込んだままハーっと大袈裟に溜息を吐いた。
しかし、紫乃ひとりだけが浮かない顔のまま俯いた。
もしも、もっと詠唱が早く、そしてもっと正確だったら。式神はきっとネビルを助けてくれただろう。そう考えると、ネビルに骨折させてしまったのは、自分が未熟なせいだと申し訳なくなって、泣きそうになった。
「さあさあ、ネビル、大丈夫。立って」
先生は生徒に向き直る。
「この子を医務室へ連れて行きます。誰もその場を動かないように! 箒にも触れないように。言いつけを守らなければ、クディッチのクの字も言う前に学校から出て行ってもらいますからね!」
手首を押さえ、先生に抱きかかえられるようにして、よれよれになってネビルは歩いた。
二人が城内へと入って行くのが見えると、ドラコ・マルフォイが大声で笑い出し、ネビルを中傷し始めた。同調するように参加するのはスリザリンのドラコの取り巻きたちだ。
あざ笑うかのような声に、紫乃は今にも泣き出しそうになった。日本に居た頃の、いじめっ子たちを思い出したのだ。
紫乃の異変に気付いた様子の白石は、続けられるスリザリン生徒らの言葉に、眉を顰めた。
幸村も同じだ。特に、幸村は人の陰口が大嫌いだった。気に入らないのなら、面と向かって堂々と言え、というのが彼の持論である。
そういった意味で、正々堂々に向かってくる真田が嫌いではない。不愉快なのは、マルフォイのような小物だった。苛々がつのってゆく。
「……あれだけ真田に怒鳴られて、まだ懲りてないのか、あのボウヤは」
ハッフルパフ寮を馬鹿にしたドラコは、この間、大広間で真田に怒鳴られたところである。ネビルなんて真田の怒鳴り声に、椅子から飛び上がって驚いていたくらいだ。「ばあちゃんの吠えメールより怖いよ!」とは、真っ青な彼の言である。
それに、幸村の“子供っぽい悪戯”で痛い思いをしたばかりだというのに。呆れを通り越して、感動さえ覚える。
「鈍感なんとちゃう? 逆にびっくりするわー」
よっこらせ、と言いながら疲労困憊の色を滲ませながら立ち上がる。疲れている所為か、いつものように周りを安心させるような陽気さはない。どこか吐き捨てるような、言葉には諦念さえ浮かんでいる。
「意外と君も容赦ないんだね、白石」
さりげなく毒を吐く白石に、幸村はぷっと吹き出した。
「聞いてて気持ちよぉないやろ。藤宮さん、大丈夫?」
「……うん、ごめんね。あんまり、私も好きじゃないから」
半泣き状態の紫乃は、弱弱しく微笑んだ。
一方、同じスリザリン生とはいえ、不二は困ったように眉を下げた。彼もまた、誹謗中傷を好まないタイプの人間だったので、こういった争いごとを好まない。ドラコ・マルフォイに同調するような空気に、うんざりとしている様子だ。
跡部もまた、チッと舌打ちをこぼし、忌々しげだった。
「マルフォイ、こっちに渡してもらおう」
事態を静観するテニス部の面々が見守る中、ネビルの落とした“思い出し玉”を、高々と掲げるドラコ。ハリーの静かな声に、誰もが話を止めて二人に注目した。
すると、先生が「箒にも触れるな」と厳しく言ったのにもかかわらず、ネビルの思い出し玉を持ったドラコは箒へ跨り、空中へ高く舞い上がった。ハリーに向かって煽るように「ここまで取りに来い」と挑発までしてみせている。
正義感が強いハリーが、黙っているはずもなく。ハーマイオニーの制止を振り切り、彼もまた空へと飛んだ。
「……へえ」
「え、ポッタークンって確か、箒に乗んの初めてやんな?」
「そうだよ。彼が言っていたけれど、ずっとマグルとして生きてきたって」
「魔法のことなんて入学するまで全く、これっぽっちも知らなかったって」、との幸村の言葉に、白石は息を呑む。地上から空を見上げる幸村は、ハリーの飛行術に口の端を釣り上げた。
英雄と祭り上げられながら、その実のところ、ハリーはずっとマグルとして生活し、魔法界のことを全く知らないマグル同然のただの子供だ。マグルが魔法において最初に躓くのは、実は箒による飛行術である。
しかし、箒で飛ぶことについて恐怖心を抱いていないハリーは、初めてにもかかわらず自在に乗りこなしている。
これには、跡部も感心しているのか、氷の双眸を見開かせて、微笑を刻む。そんな跡部に、不二が「血、ってやつかな。彼」と微笑んだ。
地上では好き勝手に生徒たちが騒いでいたが、紫乃は気が気ではなかった。ハーマイオニーも同じだ。
片方はハリーが大けがをするのではという不安と、もう片方は校則違反への憤慨によるものである。
「っ、ポッターくん!!」
取れるものなら取ってみろ、と玉は空中高く投げられ、急直下で落下した。それを追って、ハリーが急降下する。もう見ていられない。
今度ばかりは、もうダメだと紫乃は両手で顔を覆った――――数秒後、大歓声が沸き起こる。
「え、な、なに……?」
「ポッターが地面すれすれっちゅーとこで思い出し玉をキャッチしたんや!!」
目を輝かせて、力いっぱいに拍手する白石の視線の向こうでは、ハリーがグリフィンドールのみんなから、熱い歓迎を受けていた。「さすがハリー・ポッター!」そんな声が飛び交う中、ハリーも満更ではなさそうだった。
安心から、よろよろと倒れ込みそうになる紫乃を、そっと幸村が支える。
「心臓に悪かったね」
「……うん」
「…………そしてどうも一筋縄ではいきそうにないようだよ」
「え?」
真剣みを帯びた幸村の声に、紫乃がどういうことか訊ねようとした時、悲鳴にも似た第三者の驚愕する声が聞こえた。
「ハリー・ポッター…………!」
その声に、赤みを差していたハリーの顔が、みるみる蒼褪めていく。
――――マクゴナガル先生が、其処には居たのだ。