あるコウモリの受難への幕開け(2)
バーン! と、扉が開かれる大きな音が聞こえ、生徒らの雑談がピタリと止むと同時に、教室へとやってきた黒尽くめの男の姿を認め、皆一様に緊張した面持ちでかしこまった。
見るからに人が良さそう、とは言い難い風貌の彼こそ、魔法薬学の担当教師である、セブルス・スネイプその人である。
ねっとりとした黒髪に、大きな鉤鼻、濁った沼の底のような瞳。重たそうなローブ姿は、なるほど噂の通り、育ち過ぎたコウモリのようだ。
「まずは出席を取る」
薄暗い声が、教室内に響く。あまり大きな声ではないが、きちんと聞きとれた。
しかし、ハリーの名前になると、一瞬止まった。
「あぁ、さよう」
澱んだ闇の瞳がハリーを捉える。ぞっとするような猫なで声に、呼ばれたハリーが固まった。
「ハリー・ポッター。我らが新しい────スターの登場だね」
その言葉に、ハリーはもちろん、幸村たちも顔を顰める。
魔法界へとやって来てから、「英雄」だともてはやされ、慣れない「特別扱い」を受ける事に対して、ハリーはうんざりしていた。多少、好意を持った上での賞賛は、嫌々ながらも表面上は笑って受け入れていたが、侮蔑するような視線に、馬鹿にしたように鼻で笑うスネイプに、ハリーはムッとした。
助長するようなドラコたちの冷ややかな笑い声も、癪に触ってしまう。
白石は、一目見た時から「なんやけったいなオッサンやな……」と困ったような表情だったが、ハリーへの一言に、不快感を露わにしている。薬草学と同じくらいに楽しみにしていた授業だっただけに、担当の教師の有様に閉口するしかない。
幸村に至っては、あからさまだ。口をヘの字にして、頬杖をついている。不二は、困ったような顔をした。
紫乃は、教室へ入って来たスネイプを見た瞬間、凍りつき、どうすればいいのか分からない、という表情で、俯いたまま。冷たくて深い、闇のような瞳が、紫乃は怖かった。
「このクラスでは、魔法薬調剤の微妙な化学と、厳密な芸術を学ぶ」
淡々とした口調だった。しかし、独白のようなそれでありながら、マクゴナガルと同じように、何もしなくとも人を静かにさせる力がそこにあった。
「このクラスでは杖を振り回すようなばかげたことはやらん。そこで、これでも魔法の授業かと思うような諸君も多いかもしれん。ふつふつと沸き立つ大釜、ゆらゆらと立ち上る湯気、人間の血管の中を這い巡る繊細な液体の力、人の心を惑わせ、感覚を狂わせる魔力……諸君がこの見事さを真に理解するとはとうてい期待しておらん。我輩が教えるのは、名声に蓋をし、栄光を醸造し、死にさえも蓋をする方法である」
おどろおどろしいようなスネイプの大演説は、教室内の時を止めたかのようだった。永遠にも似た時間の中で、日本人組は彼の演説に共感するのは乾だろう、と頭の片隅で考える。
「────ただし、我輩がこれまでに教えてきたウスノロたちより諸君がまだましであれば、の話だが」
嫌味もここまでくると、いっそ清々しいものである。
ハッ、と鼻で笑ったのは跡部くらいなものだ。跡部は、自身の能力と裏打ちされた努力に絶対の自信がある。ウスノロなどではない、と自信満々だった。
その跡部の姿を認め、スネイプは一瞬だけ跡部に視線を寄越したが、特に何も言わずに視線を戻し、ハーマイオニーの姿を見て、顔を顰めた。
純粋に勉学に励む彼女は、自分がウスノロではないと証明したくて、うずうずしているのだ。
「ポッター!」
スネイプが突然、叫んだ。その叫びに、ハリーを含む生徒ら全員が、突然のことに驚いた。
「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか」
ハリーが困惑したのも、無理はない。新入生にとっては、新しい呪文のようなものを矢継ぎ早に質問されたも同じだろう。
「無茶苦茶や……」
白石が呟いた。
「こんなん5年生の内容や。ほんま何を考えとんねん」
いつになく厳しい白石の発言だったが、何も言わずに不二はその眼を見開かせ、スネイプを見つめている。
「闇の気配を、感じる」
「え……」
小さな囁きだったが、隣の紫乃にはしっかりと聞こえた。ちょうど紫乃も、スネイプから微かに感じ取っていたので、少し驚いた。
黒魔術を専門に扱う不二が言うのだから、気のせいなどではないのだろう。なにより、紫乃の脳裏に、朝の泉の精の言葉が焼きついて離れない。
────しかし、翳もあるように思えて仕方ない。
世界の不条理を憎み、嘆くような、絶望のような闇をも思わせる何かは、果たして悪しき何かと同一なのだろうか。
「気配はあるけど……」
「うん。紫乃ちゃんの言いたいこと、わかる。今にどうこうってわけでもなさそうだ。少し様子を見よう」
二人の会話を耳にしながら、幸村の機嫌は急激に悪化していく。
白石ほどではないにしろ、幸村だって、魔法薬学という授業を楽しみにしていたのだ。最近になって仲良くなった双子のフレッド&ジョージ・ウィーズリーの作る悪戯グッズの中には、魔法薬だって含まれている。
自分も魔法薬を作れるようになって、お茶目な──真田が聞けば「どこがお茶目だ! どこが!」と烈火の如く怒るだろう──悪戯をしたいと考えていたのだ。
それが、どうだ。
さっきからハリー・ポッターの公開処刑のような場になってしまっている、スネイプの質問攻めは、そのどれもこれもが「新入生」という立場を考慮していないものばかりだ。
────どう考えても、ハリー個人に私的な恨みでもあるとしか考えられない。
だが、ハリー本人は、とても謙虚で心優しい少年だと、短い付き合いだが幸村たちグリフィンドール組は知っている。
そのため、どう考えてもハリーに原因はないので、一同は首を傾げる。
「授業にくる前に教科書を開いてみようとは思わなかった、というわけだな、ポッター、え?」
睥睨するスネイプを前に、果敢にもハリーは真っすぐに見つめ返している。このくらいの年頃なら、萎縮してしまうだろうに。
「……よく言うぜ」
呆れたような声で、跡部が言った。
白石ほどの薬草の知識はないにしろ、跡部はすでに全科目、全学年の内容は頭に入っている。スネイプの質問が、新入生に求められる内容を逸脱していることなど、とっくに見抜いていた。
くだらねぇ、と気怠げに背凭れに身体を預け、さっさとこのやりとりが終わることを願っていた。
テニス部の面々をよそに、スネイプによるハリーへの質問攻めは勢いを増してゆく。
かわいそうに、ハリーは「わかりません」以外に答えることが出来ず、そんなハリーの様子に、ドラコはにんまりとほくそ笑むだけだ。他のスリザリン生も似たり寄ったりである。
「────ハーマイオニーがわかっていると思いますから、彼女に質問してみたらどうでしょう?」
とうとうハリーも限界だったのだろう。半ば反抗的に答えていたのが、声でわかった。
何人かが笑い声を上げる中、心臓を貫くような冷たいスネイプの睨みに、ヒッと小さな悲鳴をあげる。
誰も何も発言が許されない空気を、スネイプが支配する中。
高い少年の声が、響いた。
「……くだらないな」
酷く退屈そうな、神の子の言葉だった。
ハリー・ポッター。その名前は、彼にとって呪いの名でしかなかった。
あの世界中の誰よりも憎い男の影を色濃く残し、あの男の姓も継いだ少年。エメラルドグリーンの瞳は、憎い男の面影に穢されている。
この少年を守ると誓ったとはいえ、あの男の生まれ変わりではと思わせる容姿の時点で、彼の中で少年に対する優しさや思いやりなど、欠片ほど存在しなくなった。守るには守る――――命がけで。それが彼にとって、愛する百合への償いであり、贖いだからだ。
だが、少年を愛するとなると、話は変わってくる。
冗談ではない。あのジェームズ・ポッターの息子を愛せだと? 死んでもお断りだ。そんなことをするくらいならば、百味ビーンズの臓物系を50粒だろうが100粒だろうが、食してくれる。何千倍もその方がましだ。
それほどに、彼にとってハリー・ポッターという少年は、愛憎のすべてを結集させた存在であり、彼にとってのトラウマであり、彼の生きる理由だった。
少年を徹底的に攻撃することで、彼は自身を自己肯定する――――はずだった。
「……くだらないな」
酷くつまらなさそうに、頬杖をついて呟いた、紺色の双眸を目撃するまでは。
「……ミスター・ユキムラ。我輩の授業に、何か言いたいことがあるならばはっきりと言いたまえ」
「たくさんあります」
掠れるような呟きと打って変わって、教室中に響く明瞭な声。水を打ったように静まり返った室内ゆえに、声がよく通るのかもしれないが、それを差し引いてなお、少年の声は最も響いた。
何人かの生徒は、幸村の発言に戦く。スリザリン贔屓で有名なスネイプを前にして、正気かと疑うしかないでいる。
にっこりと笑みを浮かべて、挙手までしてみせた幸村は、それはもう満面の笑みだった。見る者が見れば────例えば千石あたりに言わせれば「うっわ、機嫌悪っ」と言っただろう。
しかし、セブルス・スネイプにとってはどうでもよいことであった。
「……言ってみたまえ」
「先生のご質問は、俺にとっては簡単な問題ですが、ハリー・ポッターを始めとした新入生に出題するには、かなり難易度が高い問題ではありませんか?」
「まあ、彼の言う通り、ミス・グレンジャーなら話は違うでしょうけど」そう補足する声に、反応して見せたのは名指しされたハーマイオニーだ。
肩を竦め、おどけてみせる幸村に、スネイプの眉間にビシリと皺が刻まれる。険呑さを増した瞳に、この少年はちっとも怖がらない。余裕ある態度で、優雅に笑って見せるのだ。スネイプにとっては、不愉快この上ない。
「では、ミスター・ユキムラ。さぞや素晴らしい解答を用意しているのでしょうな? 簡単だと言い切る、その傲慢な発言に偽りがないのであれば」
「ええ、もちろん」
ぴくり、とスネイプの米神の神経が引き攣った。小憎たらしい満面の笑顔で、いけもしゃあしゃあと断言したのだ。
幸村の前の席の紫乃は、小声で一生懸命に「ゆきちゃんっ」と呼びかけて制止したが、なんら抑止力になっていない。
「フン。強がりも見苦しいぞ、ユキムラ。素直に認めてはどうかね。わかりませんと」
「生ける屍の水薬」
強い語調で返された単語。
かすかに開くスネイプの瞳に飛び込んだのは、うろたえる様子もなく、スッと立ち上がる幸村の姿。そして、息を吸い込んだかと思えば。
「正確には、アスフォデルの球根の粉末、煎じたニガヨモギ、刻んだカノコソウの根、催眠豆の汁を混ぜて決まった回数だけ混ぜれば、この魔法薬は完成します。非常に強力な眠り薬で、その性質上、取扱いにはかなりの注意が必要となります。分量を間違えば、一生眠ることになってしまうから」
一息で告げられる。後続の言葉は、まるで教科書を読みあげるように、澱みがない。
「それから、二つ目の質問は、山羊の胃から取り出す石。三つ目の質問は、同じ植物。ウルフスベーンとモンクスフードは……」そこまで言いかけて、幸村はくすりと微笑む。
「そんなにうずうずしないでよ、白石」
微笑みの先には、白石の姿。
「せやかて、毒草は俺の専門やで、幸村君」
「じゃあ、譲るよ」
「おおきに! えー、オホン! ウルフスベーンとモンクスフードは同じ植物で、学名はアコナイト。キンポウゲ科トリカブト属の総称として、トリカブトっちゅー名前で広く知られてマス」
幸村の後を引き継ぐ形で、勝手に白石が発言を始めた。
生徒らは間抜けな顔で、口をぱっかりと開け、喋り続ける二人を凝視しっぱなしだ。さっきまで挙手をしていたハーマイオニーは、一言一句聞き逃すまいと羽ペンを滑らせているようだった。
興奮気味に話す白石の目は、らんらんと輝きを放つ。
「――――そいで、英名のモンスクフードは僧侶のかぶりものっちゅー意味で、根っこを乾燥させると漢方薬にも毒にもなんねん。古くから暗殺に使われるえげつない薬や。ドクウツギ、ドクゼリと並んで日本では三大有毒植物の一つで、めっちゃ有名やで。まあ、ヨーロッパやったらギリシャ神話の方が有名やな。地獄の番犬ケルベロスのよだれから――――」
「長ぇ。魔法草博士レベルじゃねぇか、アーン?」
今の今まで沈黙を保っていた跡部が、発言に加わった。
「あ、うっかりしてたわ。堪忍な、跡部君!」
「テメェの趣味丸出しじゃねーか」
授業中に軽快に交わされる会話。スネイプの授業において、前代未門の出来事だった。
何筋にも浮き上がった青白い血管が、いまにも切れそうだ。怒りのあまりに拳は小刻みに震える。
「ミスター・シライシ、授業中の勝手な発言により、グリフィンドール5点減点。ユキムラの教師への無礼な態度に、グリフィンドールより10点減点する!!!」
教室中に響き渡る大声に、生徒らは竦み上がった。怯える何重もの瞳。中には半泣きの生徒もいる。ネビルは恐怖のあまり、今にも泣き出しそうだ。
しかし、減点された幸村本人は、スネイプの怒鳴り声にも何処吹く風。相変わらずにこにこと笑みを浮かべたままだ。
「跡部だけ減点対象外って、完全にスリザリン贔屓だと思うんだけどなあ」
「アーン? ナマ言ってんじゃねぇよ。スリザリンだからじゃねぇ。俺様だから許されるんだよ」
フン、と鼻で笑い飛ばし、美しい所作で髪をかきあげる跡部の姿に、スリザリンだけではなくグリフィンドールも含め、女子生徒のほとんどの頬が色づいた。
「はいはい、さすが跡部様」
棒読みで揶揄する幸村に、跡部はさして気にした風もない。
教師を無視したこの態度。スネイプからすれば言語道断だった。当然、たいして高くもない沸点はすぐに頂点に達した。
「……どこまでも教師を馬鹿にするその態度。さすがは傲慢なグリフィンドール生だ。いっそ感嘆の息が洩れるというもの。同時に我輩、30点ほど減点したいと思うのだが、いかがかね」
30点減点との発言に、さっきまで幸村を英雄のように見つめる視線は、咎める視線へと変わり、グリフィンドールの生徒のほとんどが蒼褪めた。特にハーマイオニーは顔色が悪い。
紫乃はもう泣きそうな表情で、「ゆきちゃん! めっ!」と小声で叫ぶ。
しかし、やはり幸村は動じない。
「その分、俺が30点取り返すだけです。あらゆる教科で」
ぶちりと。もしも血管の切れる音が聞こえるのならば、こんな音をしていたのだろう。たいして長くもない緒の切れる音が聞こえた。
もはや冒頭のハリー・ポッターなど、いまのスネイプには眼中にはなかった。この幸村精市という生徒の傲慢さは、忘れもしない憎きジェームズ・ポッターに通じるものがある。この世に手に入らないものなどないと言いたげに、余裕の表情を見せ、何者にも動じない怖れを知らぬ驕り。忌々しいことこの上ない。
「グリフィンドールに30点減点!!!!!!」