あるコウモリの受難への幕開け(1)
ホグワーツで迎える金曜日。
入学式から、たった数日しか経っていないが、組分けの儀式で大泣きしてから数日だと考えると、紫乃は随分と昔のことのように思えて、なんだか可笑しかった。
グリフィンドールに組分けされた時には、大好きな幼馴染と引き離されたように思えて、絶望感しかなかったはずなのに、列車で出会った白石と、泣いている自分に優しく声を掛けてくれた幸村が、同じ寮で友達として一緒に居てくれる。ハーマイオニーだって、不二だって。
紫乃にとって、手塚以外で大切だと思える存在が出来たことが、たまらなく幸せだと感じられる。
「そんなに幸せですか」
「…………はい」
囁くように洩れ聞こえる声に、紫乃はにこにこしながら頷いた。
ゆらりと立ち上る清冽な空気は、どこまでも澄み渡り、どこまでも神聖なそれ。白い靄は、まるで御簾のようで、声の主の姿をうまく隠しているが、とても優しい声なので怖れることは何もない。
ホグワーツの近くの湖──水が湧き出ているので、湖というよりは泉かもしれない──の畔に佇む影。泉の精だ。女神なのか精霊なのかわからないが、とても気高く美しい存在だった。間違っても、邪悪な存在ではない。
彼女は、フ、とたおやかな笑顔を浮かべる。
「初めて此処に来た時と、随分と様子が変わりましたね」
「ええと、それは……」
言われて、少しだけ照れる。そりゃあ、あの時は、これから上手くやっていけるだろうか、授業についていけるだろうか、と、たくさんの心配事や不安があったのだから、ホグワーツでの数日を乗り越えた今の自分とは、比べ物にはならないだろう。
照れ隠しから、ローブの裾を引っ張ったり伸ばしたりしている紫乃に、そっと近寄り、風をふわりと起こした。柔らかな風は、紫乃のふわふわとした髪を撫でていく。
「人の子よ。そなたのように、このホグワーツの生徒たちも幸福であると願いたいものです」
優しい彼女の言葉に、紫乃も笑みが零れる。
「貴女が見守ってくださっている限り、きっと」
「そうだといいのですが……不穏な気配を感じます。とても、よからぬもの」
自然界の理の一部として、また時として神と崇められながら、存在し続ける彼女が言うのだから、重みがある。それは、紫乃も予感していたものの、「何が」悪しきものなのか、良からぬものなのか、断言出来る何かを見つけられてはいない。
けれどきっと、動物でも植物でもなく、────人間だ。
「かの闇に染まりし者でなければ、よいのですが」
「……私も、そう願いたいです」
「人の子」
つい、と薄い色できらめく視線を寄越される。
詠え(うたえ)、と声もなく命じられていることを、正しく理解した紫乃は、やはり嫌な顔をせずに淡く微笑んだ。
そして唱えられるのは、すべて神への感謝の言葉。そして、祓えの言葉だ。
「────諸々の禍事、罪、穢れあらむをば、祓へ給ひ清め給へと、」
日本古来より存在する神道は、まず神様への感謝から始まる宗教だ。山、川、滝、火、海等のありとあらゆる自然に感謝し、畏敬し、崇め奉る。そのための言葉が、祝詞である。
此処はイギリスなので、日本とは全く勝手が違うのだが、大目に見てくれるらしく当初はホッとしたものだ。どうもこの精霊は、やけに日本の祝詞を気に入っているようなのである。欧州諸国は一神教であり、日本のように多神教ではないので、馴染みがないから新鮮だったのかもしれない。
一心不乱に感謝の言葉を述べた後に、平伏し、乞う。
「凶悪を断罪し不浄を祓うことの由を、神々にお願いしたく謹請し奉る────」
怨敵、退散。
呟く言葉に迷いはない。
目を閉じて思い浮かぶのは、優しい幼馴染と、テニス部のみんな。グリフィンドールの友達や先輩。振り返って、笑みをくれるみんなの顔を、一人ずつ思い浮かべ、ぎゅっとローブの裾を握りしめる。
大切だと思うからこそ、役に立ちたいと、初めて思ったのだ。
「終わったのか」
「うん」
霧が霧散するように、フワリと立ち消えた気配を察し、後ろからやって来た手塚に、紫乃は振り返る。
昨日、約束した通り、手塚は朝練の前に、ちゃんとグリフィンドール寮まで来てくれた。迎えに来てくれた手塚を連れて、湖畔へと訪れたのは紫乃だ。ちょうど、朝練まで時間があったので、助かった。
ほう、と深呼吸して肩の力を抜く紫乃に、手塚は目を細める。
やはり気配の正体は、薄らとしか見えなかったが、人ならざる者であり尊い存在であることだけはわかる。そんな存在を相手に、一生懸命に尽くしている様子の幼馴染を見て、自身も励まねば、と手塚は思うのだ。
「行くぞ」
「うん……みっちゃん」
「なんだ?」
ともすれば、消えてしまうような声だった。
躊躇いがちに掛けられた言葉を、手塚は決して聞き逃すことはなく。じっと見つめ、辛抱強く紫乃の言葉を待った。
「……ありがとう」
「どうしたんだ」
「ううん。でも、一緒に居てくれて、嬉しいから。大好きだから」
「…………そうか」
この幼馴染は、変なところで恥ずかしがる癖に、言うことはいちいち恥じらいがなくストレート一直線である。
にこにこしながら唐突に言われたので、理解するまで時間がかかったが、理解した途端に恥ずかしくなる。
けれど、言葉にはしないが手塚だって同じ気持ちだった。
────守るから
ホグワーツへ入学する前から、決めていた。レイブンクローへと入って、手塚の思いに揺らぎはない。紫乃も同じだ。
「遅刻する。急ごう」
「あ、うん」
「はぐれるといけない。ほら」
日本に居た時のように、手を差し伸べる。
すると、花が咲いたような笑顔が、手塚を待っていてくれる。
「うん! ありがとう、みっちゃん」
きゅ、と握り返される手だけは、離さないでいようと願うのだ。
テニスで軽く汗を流し、美味しいイギリスの朝食をしっかりと食べた後。
グリフィンドールとスリザリンの、金曜日の初っ端の授業は、魔法薬学だ。
魔法史や変身術、呪文学と同じく、1年次からの必須科目の扱いである。魔法薬やその材料についての知識を学ぶだけでなく、魔法薬の調合も行う。魔法界では実技の授業が多く、この授業も例に洩れず、である。
薬草と毒草に造詣が深い白石は、人一倍に今日の科目を楽しみにしていた。薬草学の授業と同じくらいの意気込みで、その興奮たるや、勉強の鬼のハーマイオニーさえ一歩引くほどだ。
「毒草が本領を発揮すんのは、魔法薬学があってこそやねん。毒草あっての魔法薬学。魔法薬学あっての毒草。お互いに切っては切りはなせへん関係なんや……運命なんやでえ……!」
人情系の演歌もかくやというほどの、こぶしをきかせた演説である。
「そういえば、乾もこの授業を殊更に楽しみにしていたね」
にこやかな笑顔でさらりと言った不二に、顔を顰めたのは幸村であり、紫乃は冷や汗をかいた。
脳裏で、フフフと不気味に微笑みながら、シュワシュワと白い煙が立ち上るビーカーを手にする、白衣の乾が想像できた。専攻しているのが経口薬品と断言するだけあって、乾の魔法薬学への傾倒ぶりは、控え目に言ってみれば一途である。つまり、常人から見ると常軌を逸するレベルだ。
榊をも苦悶においやる“汁”を開発するような科学者に、毒物を取り扱うのはいかがなものか。
まったく、それこそ運命の神とやらは、何を考えているのか────と、声を大にして発言したいのは、乾汁の実験台(テニス部部員)だったりする。
「俺様からすれば、あんなクソ不味いもんは認められねぇ」
通路を挟んで隣に着席している跡部が、不快感たっぷりに言う。一流の舌は、とうてい乾汁を受け入れられそうにないようだ。良薬は口に苦し、とか、そういう次元ではない。
吐き捨てるように言った跡部の言葉を受けて、不二がきょとんとした。
「みんな不味いって言うけど、あれ美味しいよ? けっこうイケるのに」
「……テメェの感想だけは、ぜってーに信用しねぇ」
「こればかりは俺も跡部と同意見だよ」
「えー」
プン、と可愛らしく頬を膨らませた不二は、「酷いと思わない?」と紫乃とハーマイオニーの二人に同意を求めたが、紫乃はただただ、ぎこちない笑みを浮かべるだけだった。日本人らしい否定である。
事情を知らないハーマイオニーだけが、不思議そうにしている。
「にしても、寒いわ、ここ……」
ぶるっと身体を震わせて、ローブを握りしめた白石。ようやく興奮の熱も冷めたらしい。
「地下だもんね……」
同じく、寒さからか紫乃も腕をさする。
朝食時に雨が降り始めてから、一気に気温が下がり始めたことも相まって、この地下の教室はかなり冷える。冬場は堪えると教えてくれた先輩たちの言う通りだ。
魔法薬学の教室は、もともと地下牢として使用されていたとされる場所で行われる。
あえてこの教室で授業が行われるのには、材料保管という必要性からだ。魔法薬の調合の際には、ありとあらゆる薬草や骨、動物の一部が材料として使用されるため、瓶詰めにした上で、一定の温度での保存管理が欠かせない。
この点、地下であれば、地上と比べると急激な温度変化が起こりにくいため、光の差し込まないこの場所が最適なのだ。
アルコールに浸し、瓶に閉じ込められる動物や昆虫の死骸に囲まれて、生徒のほとんどが気味悪そうに表情を歪めている。間違いなく、嬉々としていられるのは乾くらいだろう。
「いくら材料保管に地下が適切だとしても、授業だけは別の教室で行えなかったのかしら」
眉を顰めるハーマイオニーは、いたって真剣だ。冬場に手がかじかんで、もしも授業内容を書きとめることが出来なかったらどうしよう、と顔に書かれている。
「教師個人の事情か、性格の問題とちゃう? 性格の問題の気ぃもするけど」
魔法薬学の初授業を前に、朝食の席でジョージとフレッドが教えてくれたことを思い出す。ご丁寧に両手を合わせて拝む、日本人のようなジェスチャーまでされた。ご愁傷サマ、ということだ。
魔法薬学の担当教師、セブルス・スネイプは、ホグワーツの嫌われ者だ。スリザリンの生徒にだけ好かれるのは、スリザリン生だけを優遇し、その他の生徒らには理不尽な減点と嫌味をぶつけるからだという。非常に陰湿で、陰険な教師だそうだ。
話を聞いた時、日本の学校教育はまだまだ捨てたもんじゃない、とグリフィンドール組の日本人三人の意見は一致した。昨今、教師の質が問題として取り上げられてはいるものの、きちんと「問題」として取り扱われているだけ、マシである。
「性格に難があるのは、たいていの学者・芸術家にもあてはまる。才能と人格は必ずしも伴わねぇ」
次代の跡部を担う存在の言葉は、納得させるだけの重みがある。
「ま、学者としてなら許されるだろうが、“教師”という点ではどうだかな」と一言添え置き、跡部は鼻を鳴らした。
「個人の事情、ね……個人の事情といえば……フフ、思い出すだけでイラっとするよね」
「え、どうしたのユキムラ……」
手のひらの指を組み、顔に押し当て、不穏な影を背負う。
ぞっとするような笑みを浮かべた幸村を前にした面々は、神の審判を前にする犯罪者の気持ちってこんな感じなのかな、と現実逃避をした。
「地下の寒さとニンニクなら、俺は地下の寒さを選ぶよ」
「……僕も」
「……私も」
「……わ、私も」
「……上には上がおったな」
忘れとったわ。げんなりとした表情の白石に、幸村は爽やかに笑った。
「大丈夫。蓮二といろいろ考えてるから。跡部、そっちはどう?」
「アーン? 俺様が下手を打つと思ってんのか?」
自信満々に、滞りなく準備は整っている、と即答した跡部に、幸村の笑みがさらに深まったのが見てとれた。
王様と神の子の不敵な笑みを前に、白石とハーマイオニーは顔を見合わせ、そっと見て見ぬふりをする。
しかし、そんな二人を気にすることもなく、幸村はこれ以上ないほどに悲しそうな表情をさせて、「精神に異常を来たしているんだろうね……だからあんなことをしているんだよ……部屋を綺麗にして、安心させてあげさえすればいいんだけど……」と、これまた悲しそうに言った。神が慈悲を見出すような、可哀相な人間を憐れむような、そんな表情だ。
何も知らない大人なら、神の子のこの演技にコロッと騙されても仕方ないと思わせるほどの表情に、紫乃が騙されないはずがなかった。
「……クィレル先生、なんとかしてあげられないのかな……」
「大丈夫だよ! 俺に考えがあるから!! ただ、その時は紫乃ちゃんにも協力してもらうかもだけど、協力してくれる?」
「も、もちろんだよ!」
友達の力になれるなら! と、手塚以外で初めて出来た「友達」の頼みに、頬を染めながら快諾した紫乃。
「いっそ清々しいよ」と、苦笑しているのは不二くらいだ。
「……洗脳ちゃうの、それ」
引き攣ったような白石の笑い声を掻き消したのは、けたたましいほどの音を立てて開かれた扉だった。