組分け後〜グリフィンドール(4)〜
 ピーブスを追い払ったのは幸村だが、あのピーブスを黙らせたのが紫乃だ、と知ったグリフィンドール生たちの興奮は、凄まじいものだった。
 冷めやらぬ興奮に、おろおろと狼狽していた紫乃だったが、やがて向けられる視線が好意の類だと理解しはじめたのか、最初のころは緊張していた声音も、だんだんと柔らかでおっとりしたものへと変わった。単に慣れたというのもある。

「そんなたいしたことじゃないのに……」
「あなた何を言っているの!?」

 困ったように笑った紫乃の言葉に、上級生たちは絶句した。ハーマイオニーなんて、今にも信じられない、と叫びそうだ。
 ピーブスが監督生達の言うことを利かないのは、ホグワーツの生徒なら誰もが知るところだ。ピーブスに何かをされた時は、血みどろ男爵を呼ぶしか方法はない。だから、ピーブスに会わないように注意を払うのが、自衛策だったのだ。

 それなのに、ぷるぷるびくびくしている小動物的な少女が、あっという間に黙らせた。
 これは、彼らにとって、あの陰険な魔法薬学教授がグリフィンドールに加点するくらいに、ありえないことだった。
 これがきっと幸村であったのなら、「さすがは神の子」で話は片付いていたのだが。

「何か唱えていたわよね? あれが日本の魔法なの? 杖は使わないの?」

 大興奮といった様子の、ハーマイオニーからの怒涛の質問攻めに、紫乃は目を回した。

「あれが、陰陽術だよ」

 見かねて助け船を出したのは、幸村だった。俺も専門じゃないから詳しくはないけどね、と言葉を添えて。
 こんな早くに東洋の魔術を目の当たりにすると思っていなかった面々は、感激といった様子だった。

 各々好き勝手に喋りながら、廊下の突き当たりに辿り着く。その頃には、すでに舟を漕ぎそうだった紫乃は、今にもしゃがみこんで寝てしまいそうだった。
 上級生たちがその場で寝てしまわないように、ちらちらと視線を送っているのがわかって、白石は小さく笑った。お祭り騒ぎが大好きでありながら、こうした優しい一面を持っている先輩に対し、この寮に組分けされてよかったと安堵する。

 ピンクの絹のドレスを着た、太った貴婦人の肖像画がかかった突き当たりの壁。
 その前に、パーシーが立つ。合言葉を問う貴婦人に、素早く唱えた。

「カプート ドラニコス」

 上級生らによれば、寮へ入るには必ず合言葉を唱えなくてはならず、鍵の代わりになる、とのことだった。今はこの合言葉だが、ひと月毎に変わるから忘れないようにね、と注意を受けた。
 肖像画は前に開き、壁の後ろに丸い穴が見えた。全員がやっとの思いでその穴に這い上り、ようやくグリフィンドールの談話室へと到着したのだった。
 ドーム型の部屋は、あちこちに肘掛椅子が置かれている。ランプのおかげか、室内は思っていたよりも明るい。

「藤宮さん、まだアカン。あとちょっとや、もうちょいきばり」
「ほら、紫乃ちゃん。女子寮はあっちだって」
「う、ん……」
「グレンジャーさん、頼んだわ」
「ええ、もちろん。心配だもの」

 さあ、行くわよシノ、と声を掛け、紫乃を引っ張るハーマイオニーの姿に、幸村と白石の二人は苦笑した。
 女子は女子寮に続くドアがあるようで、ぞろぞろと出て行く。それは男子寮も同じのようで、二人は先輩の後を追いかけた。


 螺旋階段の天辺を目指せば、やっとそれぞれの部屋が見つかる。
 深紅のビロードのカーテンがかかった、四本柱の天蓋つきベッドに、新入生の女子生徒らは、きゃあと手を叩いた。女の子なら、誰もが一度は憧れるお姫様ベッドなのだ。
 本来は5人部屋だが、人数の関係か、紫乃は、ハーマイオニーと二人だけの部屋割になっていた。仲良くなったばかりだったので、離れなくてよかったと二人で喜び合った。

 ふかふかのベッドに、火の付いていない暖炉、可愛らしい装飾のシャンデリア。
 一度は、夢見る世界の部屋そのものだった。すでにトランクは、魔法によって届けられている。なんとも便利なことだ。

 疲労困憊、という言葉が相応しいほどに、くたくたに疲れ切っていた。それは、紫乃だけでなく、ハーマイオニーも同じだったようで、あんなに元気だった彼女だが、今や喋る元気もなく、早々にパジャマに着替え始めたほどだ。

(ねむたい……)

 このままで寝てしまおうか。
 そんな考えが頭をよぎるが、頭を振って邪念を打ち消す。

「みっちゃんに手紙……それに、おふろはむりでもシャワー……」

 部屋に備え付けられているシャワーを使わせてもらおうとベッドから降りる。
 ふと、ベッドサイドのテーブルに視線が行く。そこには、小さなメモと見覚えのあるワシ。

 


油断せずに行こう。



 ────たった一言だが、誰からかだなんて考えるまでもない。

「運んで来てくれて、ありがとう」

 大人しく紫乃を見つめているワシに、そう言うと理解しているのか羽をバサリと広げた。ハヤテ号と名付けられたそのオジロワシは、手塚のペットだ。手塚からの手紙を運んできてくれたのだ。
 感謝するように嘴の部分を撫でてやると、かしかしと甘噛みされる。

「お返事書くから、持って行ってもらえるかな?」

 訊ねれば、最初からそのつもりだ、と言わんばかりにバサバサと羽を揺らした。急いでトランクから髪とペンを取り出し、すぐさま文章を書く。手紙とは言えない走り書きだが、それだけで伝わると知っている。
 ────ありがとう。大好き。
 手紙を受け取ったハヤテ号が、心得たとばかりに窓枠から飛び立つ。

 紫乃は、にこにことしながらバスルームへと向かったのだった。






 瞼に差し込む、薄らとした日差し。眩しさから意識は覚醒し、睫毛を震わせる。むくりとベッドから起き上がり、サイドテーブルの上の眼鏡を手探りでようやく掴み、視界はクリアとなった。
 濃紺を基調とした部屋をぐるりと見渡し、ようやっと手塚は気がついた。日本ではなく、ここはイギリスのホグワーツだった。
 同室の先輩を起こさないよう、ベッドから降りて洗面所へ向かう。手早く顔を洗い、早々に着替え、彼は部屋を出る。

 部屋を出てすぐ辿り着くのは、西の塔の天辺にあるというレイブンクローの談話室。
 広い円形の部屋で、青で統一されたインテリアには、星座の意匠が施されており、空の海のような世界である。また、知識を求めるレイブンクローの精神を反映するかのように、壁一面を本棚が並び、その高さは天井まで続いている。天井にはやはり星が散り、それは地上でも輝きを損なわないことを表しているのか、床にも星の装飾がある。落ちついた雰囲気のこの部屋を、手塚は一目で気に入っていた。

 ぴっちりと閉ざされたカーテンを広げ、アーチ型の窓を開ける。まっ白い光の洪水が、室内を明るく照らし出した。
 此処は、ホグワーツの敷地を360度すべて見渡せる。
 創設者である、ロウェナ・レイブンクローの“高みより全てを学ぶ”、というメッセージが込められているのだ。昨夜は暗くて何も見えなかった景色が、すべて飛び込んできた。

 扉を開けた手塚は、思わず息を呑み、その雄大な自然に感嘆した。去年の夏休みの旅行で行った、北海道の原生林を目の当たりにした衝撃だ。
 ほう、と溜息を洩らし、暖炉の上の大理石製のレイブンクロー像と、タペストリーに織り込まれたレイブンクローのシンボルを眺める。時間にしては十秒にも満たなかった。

 バサバサと羽音を響かせ、手塚が開けた窓から勢いよく何かが飛び込んできた。
 手塚の視線は、すぐさまその何かを捉える。

「……ハヤテ号」

 白い尾羽に褐色の羽毛。手塚のペットのオジロワシ。昨夜、紫乃への手紙を運んでくれたばかりか、紫乃からの返事も持って帰って来てくれた。非常に利口なこのワシは、手塚の言うことが分かっているのか、とても賢いのだ。
 いまも、手塚の肩へは止まろうとせずに、ランプの上へと止まった。手塚がペットショップで出会ってから、このワシは一度も手塚の肩を止まり木に選ぼうとしないのだ。
 テニスは肘と肩が生命線である。それを理解しているかのような振る舞いをするこのワシを、手塚は殊更に気に入っていた。

「お前の体躯なら、鳥籠の中は窮屈だっただろうな。外は気持ちがよかったか?」

 そっと指の先を差し出せば、ギャッとひと鳴きした後、手塚の指を甘噛みした。
 そうか。口の端を緩め、首元を撫でる。

「……そろそろ行かなくては」

 暖炉の向かいの柱時計の時刻は、5:30を示している。日課のトレーニングであるランニングに行かなければ。
 すると、ハヤテ号はランプから降りると、ぴょんぴょんと飛び跳ねて絨毯の上を移動する。一体、何をするのかと見守っていれば、窓枠へと飛び乗り、ギャッと鳴いた。黙って観察していると、何度も何度も鳴き声をあげる。

「どこか良い場所を、知っていると言いたいのか?」

 そんなまさか、と半信半疑ながら声にすれば、バサバサと羽をはためかせる。応、ということらしい。
 感心したように薄らと目を丸くさせる手塚だったら、お前は賢いなと緩やかに目を細めた。

「すぐに外へ出る。案内してくれないか」

 そう言ってドアを押し開けた手塚を見たハヤテ号は、主人のお願いのために窓から飛び立ったのだった。




 ハヤテ号が案内してくれたのは、ホグワーツ城に隣接する場所にある巨大な湖だった。一周するだけでも十分にトレーニングになるだろうそれに、手塚は満足した。湖の傍に立てられた看板によると、この湖には大きなイカや水中人、水魔が生息しているとのことで、引きずり込まれないようにと注意が促されていた。とても油断できそうにない。
 父親がよく祖父に向かって「敵って誰ですか、お父さん」と言っていたが――――お父さん、お祖父さんのおっしゃられた通り、いま俺は油断できない世界にいます。やはり、お祖父さんの言うことに間違いはありませんでした。
 日本に居る家族に向けて、心の中で呟いた。

 そうして、いつものペースでランニングを済ませ、小高い丘に座り込む。冷たいと思っていた空気が、火照った身体には心地よい。
 本来なら壁打ちや素振りなどをするところだが、榊監督から7:00に集合するようにと言われている。そこで思う存分に朝練が出来るのだから、今日はこれで切り上げることに決めた。
 いまから寮へと戻り、身支度をすれば、かなり時間が余る。さて、どうするか。

(……迎えに行った方がいいのだろうか)

 考えたのは、紫乃のことだった。小学校の登校は、当たり前だが同じ集団登校のグループだったので、毎日一緒に登校していた。
 これから寮生活になるので、寮が違う以上、一緒に登校することは出来ないのだろう。しかし、そうなるとなんだか違和感が残る。

 眉を顰め、黙ったまま考え込む。
 聞き覚えのある羽音が、近づいてくる。ランニング中も付き添うように空中を旋回していたハヤテ号だろう。

「みっちゃん!」

 ぴくり。聞こえるはずの無い声を拾った耳が動き、手塚は、声が聞こえた方向へ振り仰いだ。その先には、ぶんぶんと大きく手を振る紫乃の姿があった。転ぶのでは、とヒヤリとしたものの、それは免れた。
 朝が苦手なあの少女が、自主的に早起きしてきたことに驚いたが、それよりも。こんな広い敷地内を、臆病な幼馴染がいったいどうやって、という疑問の方が大きかった。

「おはよ! 昨日、お手紙ありがとう」
「あ、ああ」
「えへへ。今日はちゃんと早く起きれたよ」

 どこか誇らしげに言う姿が、なんだかおかしくて。ついつい頬も緩まってしまう。

「どうしてここへ? そもそも、どうやって此処に来れたんだ」

 もっぱらの疑問を口にすれば、きょとんとしたような表情の紫乃。だって、絵画の人たちやゴーストさんたちが親切に教えてくれたよ、と一言。まさかの返答に、手塚はぎょっとした。

「怖くはなかったのか?」
「うん? だって幽霊なんてどこにでもいるよ?」
「ああ、そうだったな……」

 誰にも見えない幽霊が見えるということで、ウソツキ呼ばわりされていたのが紫乃だ。ただでさえ、チビとからかわれていたのに、より一層にいじめられるようになったのは小学2年の冬のことだったか。そんな紫乃なのだから、いまさら幽霊に驚きはしないのだろう。

 そして紫乃曰く、「物には魂が宿るんだよ。付喪神って言うんだよ。だからあの絵画の人たちもきっとそうなんだよ」とのこと。それは手塚も祖父より聞いていたので、「あの絵画は付喪神なのか」と、得心した。本当は違うのだが、二人は知らない。

「それでね、色々と挨拶回りしてたら、みっちゃんが此処に居たから」

 会いたかったから、会えてうれしい。そう言って、にこにこする紫乃に、照れ臭くなった。
 俺もだと言いかけて、恥ずかしくなってやめた。代わりに、そうか、と一言。

「挨拶回りとは、先生方にか?」
「ううん。ホグワーツの土地神さまとか。すごいね。やっぱり歴史があるから神様の年季も違うんだよ! あっちのオバケみたいな柳の木はね、すっごいおじいちゃんだった!」

 大興奮した様子で話す紫乃に、手塚は戸惑いしかない。「お神酒でよかったのか不安だったの! ここ、外国だから。でも日本酒でもいいよって! 優しいよね」……そうか、神様は優しいのか。いや、そりゃあそうか、神様なのだから。そんなことを手塚は思った。

「それでね、ついさっき挨拶してたのはね、この湖の水神さまで。あ、此処が最後だったからなんだけどね」
「……なるほど、それで此処へ来たのか」
「祝詞を英語にすればいいのか、それもわかんないし……お賽銭もコインにすればいいのかわからなくて……困ってたら、優しく声をかけてくださってね。とっても優しいの!」

 「女神さまなんだよ! とってもきれいな神様なの!」なんだか、新しく友達になった子を紹介する軽さだが、まさか神様を紹介される日がくるとは、思ってもなかった。
 ホグワーツに来てからというもの、紫乃の家柄がどれほどのものかを耳にする機会が増えたが――――いつも背に隠れる幼馴染の姿から、連想できなかった。
 だが、今は違う。
 目の前に居るのは、藤宮紫乃。陰陽師の一族、藤宮家の幼き鬼才なのだ。

(……そうか)

 ようやく、手塚は紫乃を「藤宮紫乃」と「紫乃」の両方を、知ったのだと理解した。

「やっぱり、お前はウソツキなんかじゃなかった」
「みっちゃん……?」

 ────ほんとうだよ。あそこでね、女の子が泣いてるんだよ。お家に帰りたいって。ママに会いたいって。帰れないんだよ? 助けてあげようよ…………ほんとうなんだよ……うそつきじゃないもん……っ

 紫乃を取り囲んで5人くらいの男の子が、囃し立てるようにウソツキと連呼する。目の淵を涙いっぱいにためて、か細い声が必死で訴える。
 下校途中、たまたまその光景を目撃した手塚は、当惑した。大切な幼馴染だが、彼女の言う女の子はいない。いじめっ子たちの言うとおり、「嘘」だ。
 でも、手塚は「嘘」を信じなかった。

「ゴーストも居た、絵は喋った。魔法は、存在していた」
「みっちゃん……」
「俺が信じた紫乃は、やっぱりウソツキなんかじゃなかった」

 大きく目を開く茶色の瞳。円らな眼は、やがて涙の膜が覆う。
 小さな手のひらを取り、己の手のひらを重ねる。

「ようやく俺は、お前の見る景色を少しでも知ることができたのだな」

 泣き出した紫乃に、調子に乗ったリーダーの男子が紫乃の髪ゴムを引っ張った。引き倒され、地面に倒れ込んだ紫乃は、わんわんと泣いた。
 ウソじゃないもん……っ、助けて、あげてよぉ……!
 その瞬間に、手塚は飛び出し────いじめっ子に掴みかかり、思いっきり殴り飛ばしたのだった。

「今なら、言える。あの時に、俺も言い返してやればよかった。女の子は居るんだと。紫乃は嘘をついていないと。だが、俺は言えなかった。……俺には見えなかったから」

 紫乃の言葉を嘘だと疑ってはいなかった。手塚は、一度だって紫乃を疑ったことはない。
 だけど、どうしても「見えないもの」を「見える」とは言えなかったのだ。────いまは、「見える」のに。
 ふわりと漂う清冽な空気。抱きしめるように纏わりつく風の主の顔が、一瞬だけうっすらと見えた。紫乃の言う通り、美しい女神だった。

「すまなかった。言えなくて」

 お前は、俺の知らない世界から、俺を守ると言ってくれたのに。
 ぎゅっ、と紫乃の手を握りしめた。

「……だが、これからは違う」

 お前の見る世界を、少しでも知ったのだから。そう告げると、ぼろり、とこぼれた涙のひとしずく。指の腹で、ぬぐってやる。泣きながら、紫乃は笑っていた。

「あり、がとう……みっちゃん」

 頭を振るう。お礼を言われるようなことなど、何一つない。
 きゅ、と互いが互いの手を握りしめた。近づけたと、なんとなく思ったのだ。

「これからたくさんのことを教えて欲しい。俺はマグルだから……紫乃の力が必要だ」
「!」
「俺が今まで見えなかったすべてのことも、他のあらゆることも」

 いつだって手塚が手を引いてくれた。だというのに、その手塚が助けて欲しいと頼ってくれた。爪先から立ちのぼるじわじわとした熱は、飛び跳ねたいくらいの幸福感を紫乃にもたらした。
 大好きだと、紫乃は思った。大好きな手塚に頼られて、喜びで胸がいっぱいになった。

「寮が違っても、仲良くしてくれる? 一緒に、居てくれる?」
「ああ」

 手塚が頷いた瞬間、湖から水柱が立ちのぼり、水しぶきが散る。
 唐突な出来事に、呆気にとられた二人だったが、やがて現れた光景に目を輝かせる。

「……虹だ」

 くすくすと微笑み、水面へと消え去る水の精。
 美しい祝福に、手塚と紫乃は見つめ合い、微笑み合ったのだった。


組分けの儀式後のあれこれ。今後、手塚と彼女の関係性や葛藤なども書けたらいいなと思ってます。