翼を持った男の子1
「マルフォイ、こっちへ渡してもらおう」

 ハリーは、自分でもちょっとびっくりするぐらい静かな声で言った。
 口汚い言葉を吐きながら、ドラコが高々と掲げたネビルの“思い出し玉”が、天気のいい陽の光を受けて、きらきらと輝いている。

 緊張しすぎたせいか、箒を暴走させて空に舞い上がり、挙句墜落したネビルを、グリフィンドールの日本人留学生らが見事に助け、ネビルは手首を骨折しただけで済んだ。
 紫乃などはネビルが結局怪我をしたことに申し訳無さそうな顔をしていたが、しかし、ハリーから見ても、三人のお陰でネビルはずいぶん低いところまでゆっくり落ちて、それから地面に転がっていた。
 あれで手首を折ったのなら、太郎が先日言っていたように、魔法族で運動不足のネビルの体のほうが、あまり頑丈ではないということなのだろう。彼ら三人がいなければ、多分ネビルは手首どころか、全身の骨が砕けていたに違いない。

 そして、マダム・フーチに連れられてネビルが医務室に行った後。教師がいなくなったとみるやいなや、ドラコがネビルのことを笑い、「あの大間抜け」だの、さらには彼が落としたままの思い出し玉を拾い、「ロングボトムのばあさんが送ってきたバカ玉」などと中傷した。

 あの思い出し玉はつい今朝がたネビルの祖母から届いたもので、忘れ物の多いネビルを気遣った品だという。なにか忘れていると、赤く光るのだ。ネビルは今朝ラジオ体操に行く予定を忘れたため、玉はさっそく真っ赤に光っていた。
 この時も、目ざといというか、寮も違うのにわざわざご苦労なことに、そんな様子を見ていたドラコは、ネビルの思い出し玉をひったくった。
 この時はマクゴナガルが通りかかったためにマルフォイは思い出し玉をネビルに返したが、きっとそれが気に食わなかったのだろう。いま思い出し玉を掲げてネビルを罵るドラコの口調は、いつにもまして口汚かった。

 しかも、いつもドラコの周りをうろうろしている、パグ犬のような顔の、高いキーキー声で話す気の強い少女──、パンジー・パーキンソンが、「チビデブの泣き虫小僧」などと言ってドラコに“のった”のをきっかけにして、スリザリンの面々が、大勢で、ここにいないネビルのことを囃し立て始めた。

 ハリーは、それがとても気に入らなかった。
 人を無闇に馬鹿にしたり、貶めたりするのは、動物以下の連中のやることだ。知性のあるものなら、相手を尊重すべきだということをつい先日心の底から学んだハリーにとって、ドラコの振る舞いは、以前より更に許しがたいものに感じられた。

 そうして、ハリーは、言おうと気構えることすらせず、ごく自然な様子で、静かに、「こっちへ渡してもらおう」と口にしたのだ。
 ハリーの声があんまり落ち着いていたせいで、馬鹿笑いをしていたスリザリンの面々は、一斉におしゃべりをやめる。そして、不愉快そうにしていたグリフィンドールの生徒たちも、皆ハリーに注目していた。

「──それじゃあ」

 これだけ場の空気が不穏になれば、あっさり折れてもよさそうなものを、そうしないのがドラコ・マルフォイであった。真正面から立ち向かってきたハリーがおもしろいのか、彼はにやりと笑い、言った。
「ロングボトムが後で取りに来られる場所に置いておくよ。そうだな──、木の上なんてどうだい?」
「こっちに渡せったら」
 ハリーは、なおも静かな口調のまま言った。
 とても落ち着いたその態度が気に入らなかったのか、しかめっ面になったドラコはハリーの言葉を無視し、思い出し玉を持ったままひらりと箒に飛び乗って、浮き上がった。上手に飛べるというのは、あながちウソでもなかったようだ。
 ドラコは樫の木の梢と同じ高さまで舞い上がり、そこに浮いたまま、尊大な口調で大声を張り上げた。
「ここまで取りに来いよ、ポッター!」

 ハリーは、反射的に箒を掴んだ。ハーマイオニーがなにか言っていたが、聞こえなかった。それほど素早くハリーは箒に跨がり、地面を蹴って、宙に浮いていたからだ。

 ドクン、ドクン、と、血が騒ぐのを感じた。
 高く高く、風を切り、髪がなびくのがわかる。ローブがはためいた。

 そしてハリーは、自分にも、教えてもらわなくてもできることがあるのを知った。
 それは例えば、自分が翼を持って生まれてきたのを今はじめて知ったような感覚。そういうふうに生まれてきたのだという理解が、ごく自然にハリーの中ではじけた。

 ああ、飛ぶってなんて素晴らしいんだ──……なんて楽しいんだ!

 まるで、自分が黄金の煌めきを纏っているかのような錯覚すら、ハリーは覚えた。
 ハリーは理屈でなく、感じたままの感覚でもって、箒を上向きに引っ張った。すると箒が思い通りの高さまで上昇し、くるりと向きを変え、空中でドラコと向き合う。
 ドラコは呆然としていたし、下では呼ぶ声や、歓声が聞こえる。だがハリーはそのどれもが、まるで他人ごとのようにしか聞こえなかった。

 飛翔の高揚が導くまま、ハリーは、ドラコが持っている思い出し玉を見て、こっちに渡せ、とまた言おうとした。なんなら箒から突き落としてやろうか、と攻撃的なことすら言ってやろうかと思った。
 しかしその時、先程までハリーの中にあった静かな落ち着きが戻ってくる。

「……ねえ」

 ハリーは、先ほどと同じように、静かな声で言った。

「ちょっと聞きたいんだけど」
「な、何だよ」
 ここまで来てなお落ち着き払ったハリーを、少し不気味そうに見ながら、ドラコは一応返事をした。なるほど言葉は通じる、とハリーが思っていることなど、彼は知りもしないだろう。
「今朝も、いやもっと前もいろいろそうだけど、どうしてこんなことするのさ」
「こんなことって?」
「つまり……、だから、やたら人を馬鹿にしたり、悪く言ったり、そういうことだよ」
 冷静になって考えてみると、本当に不思議だ、とハリーは思った。今まではただ、嫌なやつだ、ムカつく野郎だ、としか思ってこなかったが、どうしてそんなことをするのかと考えたことはなかった。
 そして考えれば考えるほどわけが分からなかったし、ドラコに対する怒りやイラつきは、どんどん、彼を滑稽に感じる気持ちとか、呆れとか、そういうものに変わっていっていた。

「馬鹿にしたりなんてしてないさ。本当のことを言っているだけ」
 ドラコは、ふふん、と鼻を鳴らした。
 しかしハリーは、緑の目を怪訝そうに細めるだけだ。
「……どれを指して本当のことって言ってるのかよくわからないけど、わざわざ汚い言葉を使ったり、ネビルのおばあさんを「ばあさん」なんて失礼な呼び方をするのは、良くないことなんじゃないかな」
「ぐ……」
「君、貴族なんだろ。貴族って、そんな汚い言葉を使うものなの? ……アトベも貴族なんじゃなかったっけ。彼はそんなこと言わないけどな」
 景吾は口調こそぶっきらぼうというか、勢いのいい感じだが、汚い言葉は使わないし、教師や目上の人間には、貴族どころか王族のような振る舞いもしてみせる。靴を泥まみれにして走り回ろうが、大声で笑おうが、肉にかぶりつこうが、ミルクティーにロックケーキを突っ込もうが、彼は常に気品にあふれていた。
 先日から何度か彼と対面して話す機会があったハリーは、“貴族”の何たるかは分からないにしても、そんな景吾と、このドラコに同じ要素があるだなんて、とても信じられなかった。

「──うるさい! うるさい、うるさい!」

 ドラコは、青白い顔を真っ赤にして、きいきい声で喚いた。以前、精市は彼のことを「赤瓢箪」と言ったが、今の彼はまるで興奮した猿のようだ。

 そしてハリーは、そんなドラコの様子に、呆れ返るしかなかった。
 同じ人間同士、知性があって、言葉も通じる相手同士なのだから、まず話をしてみよう、と思った。しかし同じ英語を話しているはずなのに、さっぱり話が通じないとは、どういうことだろう。
 つまり、やはりドラコは“動物以下”なのだろうか。
 ハリーのそんな考えが顔に出ていたのか、ドラコが更に真っ赤になる。

「……とにかく、玉を返して。それを持ってたって、君には何の得もないだろう?」
「うるさい、うるさい!」
 それしか言えないのだろうか。
 ややうんざりしてきたハリーは、箒を両手でしっかりと掴むと、前屈みにになり、槍のように鋭くドラコめがけて飛び出した。誰に教えられたわけでもなかったが、やり方はわかっていた。
 驚いたドラコは危うくかわしたが、ハリーは更に小さく一回転して、すぐにドラコの脇に回りこめることを示してみせる。下で、何人かが拍手をしたのが聞こえた。

「クラッブもゴイルも、ここまでは助けにこないぞ」
 下をちらちらと見るドラコに、ハリーはまた静かに言った。ドラコはぎくりとして、そして次に忌々しそうにハリーを見てから、思い出し玉を持った手を振りかぶった。

「──取れるものなら取るがいい、ほら!」

 いっそう意地悪な顔をしたドラコは、握っていたものを、空中高く放り投げる。
 木よりも高い空中で、投げられた玉が弧を描く間に、ドラコはさっさと地面に降りて行ってしまう。──が、ハリーはもちろんそうしなかった。

 ハリーには、青い空に溶け込みそうなガラス球が、弧を描いた頂点から落下していくのが、まるでスローモーションで見ているかのようによく見えた。
 テニス部の体験入部の時だって、ボールがどちらに飛んだか見極めるのには、さほど苦労をしなかったのだ。まるで雷のよう縦横無尽にコートを飛び交う黄色いボールに比べれば、ただ重力に任せて落下する玉を捕捉するのは、ハリーにとってさほど難しいことではなかった。

 そして、そうしよう、と思った自覚すらなく、ハリーはもはや本能に近い反応で前屈みになり、体を縮め、箒の柄の先を下に向けると、玉が落ちるのよりも早いスピード──つまり地球の重力がもたらすよりも強い力で、一直線に急降下した。
 下にいる他の生徒達が、絶叫に近い悲鳴を上げているのが、風の音と混じって聞こえる。が、やはりハリーにとってはどこか他人ごとのような感覚だった。

 重力より速く落ちるハリーにとって、すぐ横にまで来た玉は、もはや止まっているのと同じこと。

 手を伸ばして玉を掴んだ時には、地面すれすれだということも理解していた。だが、どうということもない。ハリーはほとんど直角に曲がり、まるで雨の日の燕のように芝生ぎりぎりを数メートルもかすめて滑るようにしてから、草の上に軟着陸した。
 もちろん、思い出し玉は、ハリーの手の中にしっかり握りこまれている。


 ──わぁっ!!


 大歓声が起こった。
 途端、ハリーはロンを含むグリフィンドールの仲間たちに取り囲まれ、「さすがハリー・ポッター!」「すごい箒さばきだった!」「初めて飛んだだなんて、信じられない!」と、非常に興奮した様子でまくしたてられた。
 しかし、英雄だの何だのと言われる時と同じように、ハリーは少し困惑して、曖昧な苦笑いを浮かべた。飛んでみてよくわかったが、ハリーにとって、飛ぶことは特別なことだが、難しいことではなかったからだ。

「ハリー・ポッター……!」

 その時、マクゴナガルが、今しがたのハリーのダイビングよりも一直線に、ホグワーツ城のほうから走ってきた。マクゴナガルの表情は険しく、天気のいい陽の光を反射して、眼鏡が激しく光っている。

 その時、ハリーは初めて、「まずい」と思った。
 ああ、マダム・フーチはなんと言ったのだったっけ。誰も動いてはいけないと言わなかったか。さもないと、クィディッチの「ク」を言う前にホグワーツから出て行ってもらう、とは言わなかったか。
「ああ!」と悲痛な声を上げたハーマイオニーに、ハリーは、自分が飛ぶ前、彼女がなにか自分に叫んでいたことを今更になって思い出した。かといって、あそこで飛ばないという可能性はなかったが。

 しかし、──退学。その二文字が頭にちらついたハリーは、青くなった。

「まさか──、こんなことはホグワーツで一度も……。よくもまあ、だいそれたことを……首の骨を折ったかもしれないのに……」
 マクゴナガルは、ぶつぶつと言った。生徒を叱咤する前にこんな風にぶつぶつ言うマクゴナガルを見たのは、誰もが初めてだった。

「先生、ハリーが悪いんじゃないんです……」
 ドラコがネビルを中傷し始めた時もその行為を咎めたパーバティ・パチルという少女が、弱々しくも申し出た。その心優しい行為といい、口調や態度はどちらかというとハップルパフを思わせる感じの少女だが、たった一人でも自分の意見を言う勇気は、確かにグリフィンドールである。
 しかしその勇気も虚しく、マクゴナガルは「おだまりなさい、ミス・パチル」とピシャリと彼女の意見をはねつけた。
「でも、マルフォイが──」
「くどいですよ、ミスター・ウィーズリー」
 今度はロンが口を出したが、それも無駄に終わる。

「ポッター、さあ、一緒にいらっしゃい」

 マクゴナガルは、大股で城に向かって歩き出した。
 ハリーは、さっさと歩いて行くマクゴナガルと、グリフィンドールの皆を数度見比べた。ロンやハーマイオニーはもちろん、他の誰もが、心配そうに、もしくはハリー以上に真っ青になってこちらを見ているので、ハリーはなんだかほっとして、また落ち着いてしまった。
 そして、先ほどネビルやハリーをかばってくれようとしたパーバティ・パチルにネビルの思い出し玉を渡す。
「ごめん、なんだか行かなきゃいけないみたいだから、これ、ネビルに渡してくれるかな」
「う、うん……」
「ありがとう。さっきもね」
 ハリーが言うと、パーバティはいかにも納得行かない、というふうに、顔を少しくしゃっとさせて俯いた。「だって、あなたは間違ってないもの」と小さく言った彼女のグリフィンドールらしさを、ハリーは好ましく思った。彼女は誰かを尊重できる人だ。

「そのとおりよ! 確かに言いつけは破ったけど、それは悪いことだけれど──、その、理由があるんだし、な、何も、た、退学になるほどじゃないわ! 私、証言するから! 何なら署名だって集めるわ!」
 ハーマイオニーが、少しどもりながらも、しかし胸を張って言った。パーバティが、こくこくと何度も頷く。
「ぼ、僕もだ! ハリーは何一つ悪くないよ。悪いのはすべてあいつさ」
 ドラコを睨みながらロンが続くと、グリフィンドールの面々が、そうだそうだ、僕も証言する、私も、と口々に言い出した。

「そ、そうだよ! 私も証言するよ!」
「俺もや。ジブンは悪ないで」
「俺も、出来る限りのことをするよ」

 落ちたネビルを見事に助けた、グリフィンドール所属の日本人留学生ら、紫乃、蔵ノ介、精市も、そう言ってくれた。特に精市の言葉はやけに心強い。

 ハリーはとても驚いたが、──心が震えるほどうれしくて、にっこりした。
 そして、そんな“友達”たちのおかげで、ドラコやクラッブ、ゴイルの勝ち誇った顔が視界の端に見えても、ハリーはまったく気にならなかった。
 おまけに、少し視線を飛ばすと、景吾と周助が立っていて、周助は微笑んでいるし、景吾などにっと笑ってくれたので、ドラコたちのことなど、ハリーは本当にどうでも良くなった。

 そしてハリーはもう一度皆に「ありがとう」と言うと、踵を返して、しっかりした足取りで、マクゴナガルの後を追いかけた。
翼を持った男の子1//終