テニスと杖
 全員がテニスに興じられるようになり、紅梅紫乃は、揃ってほっと息をつく。

「ねえ、良かったら、コツを教えてくれない?」

 すると観客席から、どうも杖を変化させられないらしい生徒たちが声をかけてきた。
 愛用の自分の杖が、剣になったり、今よりきれいな杖になったりするのは、彼らにとっても非常に魅力的なことであるようだ。ものすごく目がきらきらしている。

「今のうちに言っておきますが、先ほどサカキ先生がおっしゃったとおり、危険なものに杖を変身させるのは、厳重に。とても厳重に禁止いたします」

 いつの間にか側に立っていたマクゴナガル先生が、この上なく厳格な態度で言った。
 生徒たち、特に弦一郎が次々変身させていた武器類に興味津々だった男の子たちは皆不満そうだったが、マクゴナガルに逆らえるわけもなく、「はい、マクゴナガル先生」と良い子の返事を口にした。

「しかし、変身術の教師としては、非常に興味深いことです。私も参加させていただきましょう」
「へぇ、よろしゅうお頼申しますぅ」
「よ、よろしくおねがいしますっ」

 近くのベンチにすっと腰掛けたマクゴナガルに、片やにっこりと、片や緊張もあらわに頭を下げる。

「ええと。……うちんとこは、こちらさんでいうとこの杖が、この扇なんどす」

 紅梅は、通常の状態に戻っている白い扇を取り出し、示した。全員が注目している。
「扇は、日舞で基本の小道具やさかい」
「ミス・ウエスギ。失礼、日舞というのは……」
「日本舞踊。日本の伝統的なお舞どす。ダンス、とは、ちぃとちゃいますけど」
 質問をしたマクゴナガルは、なるほど、といった風に頷いた。

「さっきうちが変えたんは、まず、簪。髪の毛に飾るアクセサリー」
 紅梅はまた扇を振って、花かんざしに変えた。そしてリボンを結んだ自分の髪に、つぃ、と差し込む。その華やかさに、女子生徒の目が輝いた。
「ほいで、これは、『藤娘』いう演目の時に使う小道具」
「きれい……」
 髪から抜くなり、簪は、大きな藤が垂れ下がった枝に変化した。これは女生徒だけでなく、皆がほぅと息をつく。
 見たことない花だ、と誰かが言えば、「へぇ、日本にしかないお花どす」と、藤枝を担いだ紅梅はにっこりした。

「とても美しいですね。しかし、……となると、貴女が変えられるのは、『ニホンブヨウ』で使う小道具だけ?」
「今んところは、そうどすなあ。そやし、棒状のもんしかよう変えられんて、おばあはんも言うてはりましたえ。あと、極端に違う素材のもんとか、よう知らんもん、想像がつかんもんも難しおすなあ。さっきもみぃんな、そやったし」

 紅梅は、嬉々としてテニスボールを打ち合っている男性陣をちらりと見て言う。
 弦一郎が変えた武器類も、全て稽古用の、木製のものだった。

「ええ、私も先程からいろいろ試しましたが、木製で、棒状のものにしかうまく変えられませんでした。多少の融通は効くようですがね」
 根本の素材自体を変化させられないというのは、変身術においてもある一定の条件で必ず見られることです、と、マクゴナガルは言った。

「我々イギリス魔法使いが“杖”という道具を使い続けているのも、この長細い形や、必ず木材を使うところに理由があるのかもしれませんね。とはいえ、日本の魔法使いは、道具を選ばないところもあるそうですが……、ああ、たいへん興味深いことです」

 このテーマで一本論文が書けそう、と言うマクゴナガルが、いつものポーカーフェイスながらもたいへん興奮していることに、その場の全員が気付く。
 その口調も、授業でのものや、生徒たちに言い聞かせるときのものではなく、ほとんど私的なものとなっている。

 そして紫乃は、厳しそうな先生と対等な様子で話している紅梅を、すごいなあ、と思っているのがありありとわかる表情で見つめていた。

「あと、こっちの魔法使いはんらァは、やっぱり、“呪文を唱える”いうことが大前提どっしゃろ? それがイメージを邪魔するんやて。マクゴナガルせんせは変身術の玄人はんやし、呪文を唱える、いうことより、変身する、いうことのほうに意識が行ってはるよって、うまくいったんちゃいますやろか」
「非常に納得の行く説明です。ああ、本当に興味深い……。これは、あなたのお祖母様……マダム・ルージュ・カメリアからの教えですか?」
「へぇ」

 紅梅は、にっこりしたまま頷いた。
 そして周囲は、紅椿、の名前が出たことに、にわかに浮き足立っている。

「浅学ながら私はあなたのお祖母様のことをよく知らなかったのですが、ダンブルドア校長から改めて話を聞くところによると、呪文学と変身学で様々な発見をなされたとか……。しかも、その成果を何一つ書き記さずに卒業なさったと」
「へぇ。おばあはん、なんやもう、字ィ書くんがえろぅ好かんらしゅうて」

 あっさりとした紅梅の返答に、マクゴナガルは、思わず目眩を堪えるように、指先で眉間を抑えた。
 こうして“さわり”を又聞きするだけでもカルチャーショックと新発見の連続なのに、「字を書くのが好きではない」という理由だけで、その数々の研究成果を、一文字も記していないとは!

「う〜ん、やっぱりダメ! 呪文を唱えないっていうのがネックね。こう、どう集中していいかわからなくなっちゃう」

 グリフィンドールの女生徒が、お手上げ、といった風に言った。
 そしてそれは他の生徒達も同じらしく、呪文を口にすることが集中とイメージの鍵となっているため、成功させられた者はひとりもいないようだ。

「ねえ、あなたは杖を変身させないの?」
「わ、わたし?」

 フェンス越しに見知らぬ生徒に話しかけられた紫乃は、あわあわとした。
 国光が思いの外手こずったためにそのサポートに徹していた紫乃は、太郎が“必須ではない”と言ったこともあり、積極的にチャレンジしていない。
 しかし、“挑戦してみなさい”とも言われているし、それに、今の状態だと、杖を変身させられていないのは紫乃だけだ。なんとなく、それは嫌な気がした。

「日本の魔女っぽい道具がいいわ。興味あるもの」
「そうだな。扇子はミス・ウエスギ独自のものだって言ってたし」
「他の魔女は、どういうものを使うんだ?」

 焦る紫乃のことなど露知らず、生徒たちは、和やかかつ無責任に、期待の目を向けてくる。

(えっと、えっと、うちの道具で杖っぽいもの……ううう、思いつかないし、あんまり見せるのも……うう、魔女? 日本の魔女、変身、杖ぐらいのもので、魔女、まじょ……)

 紫乃はパニックに陥りそうになるのを堪え、ぐるぐると思考を巡らせる。
 しかし紅梅が「しーちゃん、お気張りやす」とにっこりしてくれたので、なんとか杖を握りしめ、意を決して、具体的なイメージの固まらぬまま、えいっと杖を上に向ける。

 途端、ピカーッ! と、白とピンクの光が放たれた。

 思わず皆が目を覆ったり、声を上げたり、マクゴナガルが警戒したりしたが、思い切り天を指すようにした紫乃の杖は、どう見ても、危なそうなものには見えなかった。

「あら、何あれ! きらきらしてるわね」
「ピンクと金色ですごくカワイイ!」
「ハート型だわ。小さい羽もついてる。いいわねあれ、私も欲しい!」

 きゃっきゃっとはしゃぐのは、女生徒たち。
 そして、自分の手にあるものを見た紫乃は、カーッ、と顔を赤らめた。

 清純が、ぼんやりしたイメージのせいで、杖を大きなキャンディにしてしまった時を思い出す。今回も、日本の魔女、変身、杖ぐらいの大きさ、という、漠然としたイメージが悪かったのだろう。だから、こんな、色々混ざった──

 紫乃が真っ赤になって固まっていると、うきうき、わくわく、といった、輝かんばかりの表情をした紅梅が、興奮した様子で顔を近づけてきた。

しーちゃん、それ、ぷりきゅあ?
「ちが、どっちかっていうとセーラームーンとかカードキャプ、……ちがうー!」

 真っ赤になった紫乃は、いかにも魔女っ子、女の子向けのアニメで出てくるような、金とピンク、白のカラーリングに、ハートモチーフ、小さな翼、そして可愛らしい色の宝石がこれでもかとついたステッキを振り回した。

 しかし非常に目立つそれは皆の目を引き、ひそひそ話が始まる。

「ぷりきゅあ?」
「せーらーむーん?」
「かーどきゃぷ?」
「すっごく目立つわね、あの杖」
「でもカワイイ」
「それに、なんだか、あの子があの杖を持ってるの、すごく似合うわ

 その声が聞こえたのか、紫乃は「うわーん! ちがうの、こんなの持ってたの、もっとちっちゃい頃だもんー!」と喚く。
 しかしその拍子に振り回したステッキは、あろうことか“ティロリロリ〜ン、ファファファファ〜ン! ピッポー!”という、ファンシー極まりない音を響かせ、しかも、ちかちかとピンクに点灯した。

 藤宮家の、昔遊んでいたオモチャが入っている箱のなかに、これと同じ音を鳴らすものが入っているのを、紫乃は思い出す。祖父が買ってくれたものだ。小さい頃は宝物で、よく振り回して──

「音が鳴ったぞ!」
「ピンクに光った!」

 おおおおおお、という歓声とどよめきに、紫乃はもういたたまれなさの余り、走って逃げ出したくなった。

「見る限り、木製ではありませんね。もっと軽い……、装飾も細かいですし、音も鳴れば光も出るとは……。すばらしい! ミス・フジミヤ、グリフィンドールに10点!」

 マクゴナガルが、非常に感心したような表情で宣言する。
 途端、グリフィンドールの生徒たちが湧きに湧き、「すごい! 一年生では、いや今年度では、グリフィンドールの初めての得点だぞ!」と叫んだ。
 見れば、紅梅も満面の笑みで、全力の拍手をしている。

 初得点の快挙を成し遂げ、多くの人の拍手と笑顔と歓声に囲まれ、しかし紫乃は、これでもかとキラキラのステッキを握りしめて、真っ赤な顔で涙目になった。

「いやー! 嬉しいけど嬉しくないー!」

 しかしその後、羞恥に悶える紫乃を置いてきぼりにして、“日本の魔女が使う杖はとても綺麗”、“魔女が小さい時に使う杖も、きらきらしていてとてもカワイイ”という認識がされたのだった。



「……紫乃。あれは確か、小さい頃に持っていた……」
「もうその話はしないで、みっちゃん」

 練習終了後、紫乃が掲げていたキラキラのステッキについて話しかけた国光だが、珍しくもふてくされた様子の紫乃に、なんとなく口を噤んだ。紫乃の杖はもうもとに戻っているが、心なしか、前より地味になっている気がする。
 ちなみにあの、色んなモチーフが混ざってメーカー不明の状態になった、ファンシーというファンシーをかき集めたようなステッキは、一番向こうのコートからも、とてもよく見えた。

「藤宮さん、気にしなや。うちの妹も持っとるで、ああいうの」
 蔵ノ介が言うが、何の慰めにもならない。むしろ追い打ちである。紫乃は黙りこくり、返事をしなかった。

「そうだよ紫乃ちゃん。似合ってたよ、すごく。すっごく
「な、なんで二回言うの、ゆきちゃん……」
「大事なことだから?」

 きゅっと首を傾げる精市は、やたらに美しい。
 ふてくされているせいで少し気が大きくなっている紫乃は、「ゆきちゃんのほうが似合うよ」と喉まで出かかったが、すんでのところで口にするのをやめた。

「よろしい、全員が課題をこなせて何よりだ。ではこれからロッカーで着替え、その後大広間で朝食を摂り、授業へ向かいなさい」

 間違いなく女児用アニメやオモチャには詳しくないだろうせいか、特に何も気にしていない様子の太郎が言った。「はい!」と、テニスが出来てとりあえず満足した少年たちが、威勢のいい返事をする。

「全ての授業終了後は、再度ここに集合。練習メニューを置いておくので、各自こなしておきなさい。また、その際、部長、副部長の役職についてと、昨日言った『日本の文化と魔術に関する特別講義』についての連絡事項を伝えるので、必ず来るように」

 全員が、また威勢のいい返事をした。しかし紫乃はびくりと反応し、少し俯く。

 そしてウェアとジャージを着替え、制服姿になる。
 汗を吸ったウェアは屋敷しもべ妖精が洗濯してくれるのでそのままで良い、という至れり尽くせりのシステムに感動しつつ、勉強道具と、各々携帯しやすくなった“杖”を持って、全員で大広間へ向かった。



「ねえちゃん、ちゃんは、日舞をやってるの?」

 大広間に向かう途中、紫乃が聞いてきた。
 するとその声を聞いた蔵ノ介が、「せやせや、俺も思とったんよ。一人だけ杖もちゃうしな」と会話に加わってきた。

「上杉さん、やんな? ジブンが来た時、俺ら自己紹介しとったんよ」
 あとジブンだけやで、と言った蔵ノ介に、紅梅は、「あらぁ、そやったん? 堪忍なあ」と、おっとりと言った。

「……えーと、京都やんな? 俺、大阪やねんけど」
「へぇ、京都どす。こないなとこでお隣さんと会うなん、思わんやったわ」
「いやー、お隣さんやけど、やっぱ全然コトバちゃうなあ。なんや上品っちゅーか」
「こらあ、地元同士で盛り上がるの禁止ー」

 抑揚あるリズムのいい会話に入っていけなくなっている紫乃の後ろから、清純が割って入った。

「おお、スマンスマン。で、自己紹介お願いしてもええ?」

 蔵ノ介が頭をかくと、紅梅は、「へぇ」と言って、微笑を浮かべた。

「上杉紅梅どす。日舞やっとる、いうか、京都の置屋で暮らしとおすのや」
「おきや?」
「舞妓や芸姑を抱えて、座敷に派遣する伝統的な家業だ」

 首を傾げた紫乃に補足したのは、蓮二。

「おはそこの生まれで、自身も将来舞妓になるために修行を積んでいる──いや、既に座敷にも出ているし、日舞は紅椿殿の直弟子。他にも三味線、茶道、華道、唄やら色々やっている」
「ええ!? ちゃん、舞妓さんなの!?」
「ほんま!? 本物ホンモンの舞妓さん!?」
「ええっ、マジで!?」

 紫乃と、蔵ノ介、清純が、同時に驚愕の声を上げる。日本人にとって、舞妓、芸姑はやはり特別な存在だ。
 同じく知らなかった周助も、「へえ……」と、静かながら驚いた顔をしていた。

「へぇ、おばあはんも芸姑どっしゃん」
「あ、紅椿っちゅー有名な魔女やんな?」
「有名も何も、まず日本の人間国宝だろうが。知っとけ」

 景吾が、呆れたように言った。しかし普通、彼らくらいの年齢の者が、京舞の人間国宝の名前など、知っている方が珍しいだろう。

「え、もしかして、芸姑さんって、魔女が多いとか?」
「まあ、多いいうたら多おすけど」
「けど?」
「お姐はんらァはなァ……、魔法使えても使えんでも、なんや、……魔女やし

 興味津々で聞いた清純は、扇で口元を隠し、どこか違うところに目線を流して言った紅梅に、ごくりと唾を飲み込んだ。

「そやから、魔法使いやとか、魔力なん、今まで、ぜーんぜん。知らんやったんよ」
「そうなの? でもさっき、すごい慣れてて……」
「へぇ、まあ。……おばあはんが一番そやけど、お姐はんらァが“ああ”やから、もう“そういうもん”なんやて思うとったんえ。今でもどの姐はんに魔力があってどの姐はんにないんか、ようわからんよってなあ」
「そ、そうなんだ……」

 紫乃もまた、ごくりと唾を飲み込む。
 よくわからないが、とにかく、紅梅はいわゆる“女は魔物”的な環境で育った、ということなのだろう、と全員が理解した。そしてそれは、大方間違っていない。

「で、柳はなんで彼女に詳しいの?」
「蓮二の姉さんが、彼女のところの舞妓見習いだからだよ」

 周助の疑問に答えたのは、貞治だった。

「蓮二の姉さんも魔力も持っているが、魔法学校へは行かず、舞妓になるついでに、紅椿殿の弟子になった。しきたり上、紅梅さんとは姉妹の関係になるので、蓮二とも元々面識がある──あっているかな、教授」
「そのとおりだ、博士。……まあ、一番付き合いが古いのは弦一郎だがな」

 途端、全員が、一斉に弦一郎を見る。
 弦一郎は紅梅と少し離れ、景吾に近いところを歩いていた。紫乃紅梅に話しかけたそうだったので、紅梅から離れたのだが、その気遣いを知るのは、察した紅梅だけである。

「そうそう、前から気になってたんだよね。俺たちは神奈川で、ちゃんはずっと京都だろ? なんで仲良いの? しかも、そんな」

 精市が、弦一郎を半目で見ながら言った。
 弦一郎は、うっと詰まるようにして、若干仰け反っている。

「……何でもいいだろう」

 ややしての沈黙の後、弦一郎は、ぶすっとして言った。

 彼女との出会いや付き合いの流れを話すことは、つまり、ずっと手紙をやりとりしていること、本来は一年に一度しか逢えないことなどを話すことになる。

 二人は、片や置屋の家娘、片やそこから出入り禁止を食らっている剣道道場の息子という、本来口を利くこともない間柄だ。だからこそ、もう亡くなった祖母と、そして彼女の祖母である紅椿しかもう知ることのない、ごく秘密のやりとりをしていたのだ。

 そして、それもあるが、ただ、単純に──、常に、お互いの目にしか触れることのない、ふたりきりの、ごく親密な手紙のやり取り、それを安易に大勢の前で話すのは、なんだかどうしても嫌だったのだ。

 不機嫌になった──ように見える弦一郎に、皆訝しげな顔をしている。
 ただ、景吾はフンと見透かしたような笑みを浮かべてすぐ視線を外し、当の紅梅は、僅かに首を傾げ、なんでもないような微笑を浮かべているが。

「行くぞ」

 大広間の扉は、すぐそこだ。
 朝食を摂るために、大勢の生徒ががやがやと集まっている。

 弦一郎はわざわざ紅梅に歩み寄り、その手を取って引くと、皆から離れ、ハッフルパフのテーブルへと歩いて行った。
テニスと杖1/4/終