──ちりん、
と、目覚まし時計がいざ鳴り始めようとするその瞬間、弦一郎はその響きを止めた。
布団に未練もなく、むくりと起き上がる。一度伸びをすれば目はぱっちりと覚めており、“いつもどおり”の体調のリズムになったことを自覚した。
時刻は、明け方04:00。
天蓋のカーテンを開けても、丸窓から差し込む光はまだ全くない。イギリスは高緯度に位置するため、全体的に気温は低く、短い夏の日照時間は驚くほど長いが、冬に近づくに連れて、真逆に短くなり、降水雨量が凄まじく増える。
九月はじめ、ロンドン近辺の緯度ならば、だいたい日の出は06:00、日の入りは19:00頃といったところだろう。
清純とセドリックを起こさないよう、洗顔、歯磨き、用足しを済まし、剣道着に着替えた。
部屋の床が板張りでなく半地下ゆえの石床な上に絨毯が引いてあるので、普通に歩いても全く響かないのがありがたい。そのかわり冬場は底冷えすると思われるが、今はまだ火の付いていない暖炉もあるし、ベッドは足が高いので、問題無いだろう。
道着姿になった弦一郎は、少し迷い、上にローブを羽織った。
寮にいるのだから生徒であることは間違いないが、一応、証明になるものを身につけておいたほうがいいだろう、と思ったからだ。後ろ暗い理由は全くないが、制服を着ずに校内をうろつくというのは、違反行為と取れなくもないし。
そして、いざ出かけようとした弦一郎は、あっと声を上げそうになった。
(しまった)
鍛錬用に持ってきた木刀を、
紅梅に預けたままだった、ということに、たった今気付いたのだった。
竹刀でも良かったが、こちらにいる間は誰かと打ち合うこともないので、木刀を持ってきていたのである。あえて真剣以上の重さにし、太く作る事で、正確な手の内を鍛える事等を目的とした、鍛錬用の、黒檀製の木刀。
そして、その長さ故にトランクに入らず、また木刀とはいえ慣れぬ外国で刀剣を持ち歩いてどういう目で見られるかよくわからなかったので、
紅梅の魔法の葛籠に入れてもらったのだった。
相手が
紅梅でなければ、弦一郎は、木刀を自分で持って歩いていただろうと思う。
しかし大事な木刀を
紅梅に預けるのに、弦一郎は何の迷いもなかった。「
紅梅だから大丈夫」という、もはや絶対的な信頼が、そこにあったからだ。
紅梅が隣にいることで、精神的に落ち着き、余裕を持つことが出来るということは昨日確信している。しかしそのぶん、全面的に
紅梅に管理や判断を投げてしまう癖もあることに気付いて、弦一郎は反省した。
しかたがない、今日は代わりにラケットでテニスの素振りでも──と思い、魔法の杖でもあるラケットを手に取った瞬間、今度こそ、弦一郎は息を呑んだ。
──グリップを握った瞬間、
杖が木刀になった。
ううん、と、隣のベッドの清純が、天蓋の中でむずがるような声を上げて身動ぎしたので、弦一郎は慌てて左手で自分の口を覆った。
しかし清純が再び寝息を上げ始めたことと、どうやらセドリックも眠ったままだということを確認すると、弦一郎は口から手を離し、右手に握った、どこからどう見ても木刀にしか見えないそれを、まじまじと観察する。
紅梅に預けっぱなしのものと全く同じ形、長さ、重み。しかし色が少し薄い。
弦一郎は、それがこの杖を店で買った時──これが“杖”の形で箱に収まっていた時と同じ色だ、ということに気付いた。
──杖は持ち主の魔力を伝え、外に放出するためのもの。そして全ての杖は持ち主を選び、持ち主に対し忠誠心を持ちます
オリバンダー老人の言葉を思い出す。
──持ち主に尽くし、持ち主の良いように振る舞う忠義者。そして日本の方が持つ杖はその傾向が一際高い場合が多く、その見目さえ、持ち主の望む形になる──と聞きます
ならば今、弦一郎がラケットではなく木刀が必要だ、と思っているのを察し、姿を変えたということか──と弦一郎は理解し、感動した。
杖は、持ち主に対する大変な忠義者である、とあの老人は言った。そしてその言葉がまさに相違ないということを、今まさに実感したからである。
うずうずと盛り上がってきた気持ちを持て余しながら、弦一郎は木刀になった杖を腰帯に挟み、ローブを羽織って、そっと部屋を出た。
しかし有機的に曲がりくねり、いくつも分岐する道はやはり複雑で、これはちゃんと戻ってこれるのだろうか、とつい不安になる。
「何かお困りかね」
すぐ近くで聞こえた声に、びくん、と弦一郎は肩を跳ねさせた。
きょろきょろとあたりを見回すが、しかし誰もいない。混乱していると、すぐ横から、「横だよ、壁を見たまえ」と、先ほどの落ち着いた声がまた聞こえた。
言われたとおりに壁を見ると、そこにかかっていたのは、猟犬を連れた、狩猟姿の紳士の絵だった。
「おはようというべきか、こんばんはというべきか、迷うところだ。こんなに早起きな生徒は、未だかつて居なかったよ」
絵の中の紳士は、感心した、というよりは、驚愕だ、という様子で言った。
しかし本当に驚愕していたのは、弦一郎の方である。
ホグワーツのどこにも、いたるところに、額縁に入った絵が飾られている。
だいたいは肖像画であるが、なんと、これら、ほとんどが動いて喋る。人間とも、そして他の絵やゴーストとも会話が可能で、外には出てこれないが、他の絵には移動が可能であるという。
そして、ハッフルパフ寮のこの廊下にもたくさんの絵がかけられているのだが、こうして話すのは初めてだった。よく見れば紳士の背景の草木も風で揺れているし、足元で利口そうにお座りしている垂れ耳のビーグル犬は、弦一郎を見て、ぱたぱたと尻尾を振っている。
「……おはようございます」
絵であるが、相手は丁寧に話しているし、一応大人である。そして今から頼み事をすることになるので、弦一郎は敬意を払った。
「相すみません。外に出る道を教えていただけまいか」
「見ない顔だと思ったら、新入生かね。ああ、お安いご用だとも。私の犬を貸してあげよう」
丁寧な態度の弦一郎に感心したような様子で髭を撫でた紳士は、犬の背をぽんぽんと叩き、「案内しておやり」と言った。
命令を与えられたのが嬉しいのだろう、犬は黒い目をきらきらと輝かせ、「わん!」と吠えると、タッと左方向に走り、絵からフレームアウトした。
慌てて犬が走った方向へ小走りに行くと、今度はまた違う絵、揺り椅子に座った恰幅のいい男の絵の中で、さっきの犬が尻尾を振っている。男はぐっすり寝ていて、鼻提灯がぷうぷうと大きくなったり小さくなったりしている。
犬は弦一郎が自分を見つけたことを確認すると、またタッと走ってフレームアウトする。弦一郎は、それをまた追った。
それを繰り返し、時に犬が通った絵の中の人物に挨拶したりしながら、弦一郎は無事、談話室まで辿り着いた。
「ありがとう。かたじけない」
弦一郎が言うと、犬はまた「わん!」と吠えた。
千切れんばかりに尻尾を降っている犬の頭を撫でてやれないのを至極残念に思いながら、弦一郎は談話室を更に抜け、樽の後ろの通路を抜けた。
外に出ても、絵たちのおかげで、道に迷うことはない。
そうしているうちに、弦一郎は、彼らがこの上なく優秀な道案内であることを実感し、おそらく監視カメラのような役割も果たしているのでは、ということを予想した。そしてそれは、おそらく間違っていない。
しかも、ただ道案内をするだけでなく、礼儀を重んじれば、喜んで相談にも乗ってくれる。
最初は絵ということで戸惑い混じりだった弦一郎だが、全く人間と変わらず、しかも至極丁寧に接してくれる彼らに、すっかり敬意が沸いていた。
「ランニングと──筋力トレーニング。あと剣の素振りなどを行いたいのだが、どこかいい場所はないだろうか」
「実に感心なことである! それならば──」
絵の人々に慣れた弦一郎が、初めて自分から話しかけたのは、ずんぐりした、背の低い老騎士であった。カドガン卿、という名前らしい。
カドガン卿は木にもたれてうとうとしており、弦一郎が話しかけた途端に飛び退いて、わあわあ喚きながら自分の背丈より長い剣を振り回し、最後に自分が寄りかかっていた木に剣が刺さって、また喚いた。
しかし弦一郎が剣道場でするような挨拶をすると、途端に落ち着き、騎士らしい重厚な挨拶を返してくれた。
更に、弦一郎が剣の鍛錬に励むために早起きをし、良い場所を探しているということを聞くと、とたんに感心し、上機嫌になり、ふさわしい場所をいくつか教えてくれた。
「さらば、我が戦友よ! もしまた汝が、高貴な魂、鋼鉄の筋肉を欲することあらば、カドガン卿を呼ぶがよい!」
弦一郎は、こういうノリの老人には慣れているし、決して嫌いではない。
カドガン卿に深々と頭を下げて場を辞し、弦一郎は、教えてもらった道から中庭に出た。
完璧に整えられた、広い芝生の中庭だ。上部の方には石造りの、空中庭園のような中庭もまたあるらしいが、ハッフルパフ寮からはこの地上の中庭が一番近い、と騎士が教えてくれた。
まだ薄明かりの兆しもない星空を見上げると、自分の息が僅かに白くなる。
芝生の草には夜露が光っていて、九月というのにこの気温か、と、弦一郎は、イギリスに来たことを改めて実感した。
中庭はちょっとしたグラウンドくらいあったので、ぐるぐる走って回れば、それなりの距離を走ることになった。ただ中庭故に景色が全く変わらず少しつまらないので、慣れてきたらホグワーツの周囲を走ったりできればいいのだが、と弦一郎は思う。
だが、入学したばかりの今、こんな時間に校舎の外に出て、しかも制服でない姿でなにか起こったら、と思うと、面倒なことになる想像しか働かなかったため、自重したのであった。
木刀を上段に構える。
ラケットだった時と全く同じように、その持ち手は、弦一郎の手にとても良く馴染んだ。
その感触ににんまりとしそうになるのを堪えながら、弦一郎は深呼吸をし、冷たい空気を切り裂くように木刀を振り下ろした。
──ちりりん、りん、りん、……
「んん、……」
弦一郎がカドガン卿と話している頃、ベッドの中でもぞもぞと身動ぎした
紅梅は、布団の中から手を伸ばし、鈴のような音を鳴らし始めた目覚まし時計を、素早く止めた。
そしてまた「んん」と唸り、上半身を起こすと、伸びをしながら、大きく欠伸をする。寝乱れた浴衣がずるっと肩から落ちたのを引き上げながら、ベッドから降りた。
ハッフルパフ寮は、全体的に、アナグマの巣をイメージしてか壁も天井も丸っこく湾曲していて、家具類も半分壁に埋まるようにして設置されているのが特徴だった。
紅梅が寝ていたベッドも、天蓋付きのものが左半分壁に埋まっていて、向かいの壁には、同じくベッドがふたつ。寝ているのは、同室になった五年生の先輩がただ。
不慣れな場所に戸惑うであろう日本人留学生らのために、先輩を同室にして面倒を見よう、と決めたという。実にハッフルパフらしい、思いやりに溢れたはからいだ、と思い、
紅梅はもうすっかり好きになっているハッフルパフを、更に好きになった。
二人共、いかにも女性らしい感じの美人で、
紅梅の容姿や持ち物に、とても関心があるようだった。
しかも茶目っ気もたっぷりで、洋室自体に馴染みがない上、この独特の内装に目を白黒させている
紅梅に、「男子寮も同じ感じよ」と、いたずらっぽく微笑みながら、こっそり耳打ちしてきた。
一応、男子寮と女子寮の行き来は禁じられているはずなのだが、彼女がなぜ男子寮の内装を知っているのかは、推して知るべしである。
だが
紅梅が置屋『花さと』にて寝食を共にしている姉芸姑たちもまさにこういうノリであるので、
紅梅は彼女らに問題なく馴染み、昨夜はシャンプーとトリートメントを交換してシャワーを浴びたりもした。
椿油を使った
紅梅のシャンプーに、彼女らは「エキゾチック!」と感動していたし、
紅梅は彼女らの、好きな香りになるというシャンプーボトルにびっくりした。
おかげで、今日の目覚めは、自分の髪から香る、甘酸っぱい梅の香りでいっぱいだ。
先輩を起こさないようにそっと朝の支度をするのも、
紅梅にとっては慣れたものだ。
しかも、京伝統の木造町家造りである『花さと』と違い、石床に絨毯なので、床板の軋みに気をつけたりもしなくていい。楽なものだった。
顔を洗って歯を磨き、髪もきちんと梳いて、リボンを結ぶ。
そして浴衣は着替えず、しかしきちんと着つけ直した
紅梅は、葛籠の蓋を開けて両手を突っ込むと、ずるりと大きな筒状のものを取り出した。茣蓙である。
茣蓙を肩に担ぎ、他のもろもろの道具を風呂敷に包むと、部屋を出る。
曲がりくねった廊下を前にきょろきょろしていると、壁にかけられた絵の、猫を抱いたきれいな婦人が、穏やかに声をかけてきた。
丁寧に挨拶をしてから、道を尋ねる。
「へぇ、三階のお手洗いに行きとおすのやけど……」
いつもの稽古内容を終わらせる頃、ちょうど朝日が昇ってきた。
清々しい気持ちでそれを眺めた弦一郎は、とても満足し、暑くなってきたので脱いだローブを抱えると、袴を翻して校舎に戻る。
すると出入り口付近に飾ってあったのどかな農場の絵に、あのビーグル犬がいた。
相変わらず利口そうな犬は尻尾をぱたぱた振っていて、弦一郎と目が合うと、「わん!」と鳴き、また額縁からフレームアウトする。
なんと、迎えに来てくれたらしい。
思わず笑みを浮かべながら、弦一郎は犬を追いかけて走った。
ここに来てから、弦一郎は人から親切にしかされていない。とても幸福で、いい気分だった。
迷うことなく寮にたどり着いた弦一郎は、犬と、そして犬の飼い主である絵の紳士に丁寧に礼を言い、部屋に戻った。
現在、時刻は06:00を回ったくらい。
まだ二人が寝ているかどうか微妙な時間だったので、そうっとドアを開けたが、すぐに、ベッドの上に座っているセドリックと目が合い、「おはよう」と挨拶された。
「おはようございます」
「ワオ、それ、日本の服? 持っているのは刀? ちょっと見せてもらってもいい?」
世界共通、男の子は剣が好きなものだ。
セドリックもその例に漏れなかったようで、弦一郎の剣道着と木刀に、目をきらきらさせている。弦一郎は快く、そして少し自慢気に、セドリックに木刀を手渡した。
そして、小さな物音がしていた洗面所から、清純がひょいと顔を出した。橙色の髪は癖っ毛なのか、盛大に寝ぐせがついていた。
「うわ、居ないと思ったら、剣道? すっごい。何時に起きたの」
「四時」
「うへえ!」
「毎日こうだ」
弦一郎が胸を張って言うと、信じられない、というような顔をして、清純は寝ぐせを直しに、再び洗面所に戻っていこうとした──が、その時、ほとんど天窓と呼ぶに近い場所にある窓を、コンコンと叩く者があった。
見上げると、大きなふくろうが、くりくりした丸い目でこちらを見ている。その傍らには、紙袋があった。
「こんな時間にふくろう便?」
木刀をしげしげ眺めていたセドリックは、立ち上がると、壁に立てかけていた専用のかぎ付き棒を使って高い窓を開けた。
「あ、ここの窓、雨が降っている時に開けると大変なことになるから気をつけてね」というセドリックの忠告に弦一郎が頷いていると、ふくろうは窓から入り込み、脚で掴んだ紙袋を、共同のテーブルの上に置いた。
紙袋には、手紙ともいえないメモがついていた。
Good morning, students.
君たちのウェアとジャージだ。
これを着て、上からローブを羽織り、必ず杖を持参すること。
なお、そのまま寮の部屋に戻らずに朝食を取り、授業に参加することになるので、制服と教材類も持参しなさい。
T.Sakaki
紙袋の中には、テニスウェアと、揃いのジャージが入っていた。
基調は白、次に赤といういかにも日本国らしい色合いに、黒のラインが全体を引き締め、スタイリッシュなデザインになっている。
弦一郎は、ひと目でそれを気に入った。
寝ぐせを直して出てきた清純も同じのようで、二人共にやにやしながら、一方は寝間着から、一方は剣道着からそれに着替える。
クィディッチ・チームのシーカーであるセドリックは、「俺も初めてユニフォームを貰った時、あんなふうだったなあ」などと思いながら、年下のルームメイト二人を、微笑ましく眺めていた。