ホグワーツ特急
「うわっ、ネズミ」
コンパートメントに入るなり、テーブルの上に散らばったお菓子に混ざって寝ている太ったネズミを見て、清純が仰け反った。ロンが頭を掻く。
「ごめんよ……、それ、スキャバーズ。僕のペットなんだ。パーシー、三番目の兄のお下がりだけど」
ロンは恥ずかしそうだった。
しかし白いハツカネズミですらなく、汚らしい灰色で、しかもぶくぶく太ってろくに動きもしないネズミを前にしては、誰もがロンに同情的になった。
その目線にさらに情けない気持ちになったのか、ロンが溜息をつく。
「昨日、少しは面白くしてやろうと思って、黄色に変えようとしたんだ。でも呪文が効かなかった。やってみせようか……見てて……」
ロンはトランクを引っ掻き回して、あちこちが欠け、端から何やらきらきらしたものがはみ出た、くたびれた杖を取り出した。
「一角獣(ユニコーン)のたてがみがはみ出してるけど、まあ、いいか……」
「ねえ、誰かヒキガエルを見なかった? ネビルのがいなくなったの」
ロンが杖を振り上げた途端、誰かが廊下から声をかけてきた。
皆が振り返ると、そこには、ふわふわした栗色の髪に、前歯が少し大きな、やけにしっかりしていそうな女の子が立っていた。
既に、新品のホグワ−ツの制服を、ローブまできっちり着込んでいる。その影に隠れるようにして、なぜか半泣きの、丸顔の男の子もいた。
「見なかったって、さっきも言ったよ」
「やあ、君かわいいね! 残念ながらヒキガエルは見てないな、蛙チョコレートはまだあるけどね! それで、君の名前なんていうの?」
うんざりしたようなロンを押しのけるようにして、清純が一瞬のうちに満面の笑みを浮かべ、一気に喋る。
女の子は面食らったようだが、しかし必要なことは答えてもらったので気を取り直し、「名前も名乗らず失礼したわ。ハーマイオニー・グレンジャーよ」と名乗った。
そして、“失礼”という言葉に反応したのか、後ろにいる気の弱そうな少年も、「僕は、ネビル・ロングボトム」と小さく言う。
「ハーミ、オゥ……?」
「ああ、発音が難しい人もいるのよね」
「う〜ん、俺、まだ英語が下手で、ごめんね。今度会う時までには完璧に言えるようにしておくね!」
苗字で呼ぶ、という選択肢はないらしい。明るく言った清純に、ハーマイオニーはくすっと笑った。
「どうも。難しければ、ハーミーでもいいわ」
「ハーミー! 素敵な呼び方を許してくれてありがとう。俺は千石清純だよ。キヨって呼んでね! あ、ミスター・ロングボトムも」
清純が元々飛び抜けてフレンドリーな性格であることは、精市も、そしてハリーもロンももうわかっている。
しかし、女の子というだけで名前どころで愛称で呼び、すさまじくでれでれしている彼に、三人とも、呆れたような顔をしていた。そして、あっさりと苗字呼びされたネビルも。
そして、その流れで、精市とハリー、ロンも自己紹介をする。
ハーマイオニーとネビルは“あの”ハリー・ポッター、ということに驚いたが、精市が「でも火は吹けないんだよ」と言ったので、ぽかんとして、特に何も言わなかった。
ハリーはそれを見て、なんだか愉快な気持ちになる。
そう、ハリーは確かに“生き残った男の子”だが、しかし、口から火が吹けるわけでもない、普通の男の子なのだ。
「ところで、魔法を使うの? 見てもいいかしら」
「もちろんだよ! ねえ、ロン」
「あー……いいよ」
やけにはきはきしているハーマイオニーにか、それとも彼女が何を言っても「もちろんだよ!」と言いそうな清純にか、ロンは少したじろいだが、気を取り直して、一度咳払いをする。
そして、もう一度杖を持ち直した。
「──“The sun, daisies, melted butter. Turn the fat, stupid rat yellow.”」
そう言って、ロンは杖を振った。一角獣(ユニコーン)のたてがみがきらきらと輝く。──が、何も起こらない。
デブで間抜けなネズミことスキャバーズは相変わらずネズミ色のまま、ぐっすり眠っていた。
「その呪文、間違ってないの?」
ハーマイオニーが言った。
「まあ、あんまりうまくいかなかったわね。私も練習のつもりで簡単な呪文を試してみたことがあるけど、みんなうまくいったわ」
「へえ、そうなの? すごいね」
精市が、感嘆を滲ませた声で言った。皆が彼の方を見る。
「真田──ああ、隣で寝てる奴のことだけど──、あいつ、教科書を買った時にひとつ呪文を試したら、大変なことになったって言ってたよ」
「大変なことって?」
ハリーが、ごくりと息を呑んで聞いた。次いで、ハーマイオニーが、「何の呪文を使ったの?」と興味津々で尋ねる。
「トランクに荷物を詰める呪文だって」
「初歩的な呪文ね。ただ、熟練者になると、服がきれいに畳まれて収納できたりもするそうよ」
「へえ、便利だね。……でもあいつが使った時は、荷物どころか、部屋中のものがトランクに詰まろうとして、一斉に飛んできたんだって」
ベッドまで持ち上がりかけて、冷や冷やしたって言ってた、と続けた精市に、皆が驚く。
「それ……、多分、魔力が強すぎるからだよ」
ぼそぼそ、という感じで言ったのは、今まで一番黙っていた、ネビルだった。
一斉に彼の方に目線が行ったので、ネビルはびくっとして身体を縮こまらせたが、ハリーが「魔力が強すぎるって?」と促したので、おそるおそる口を開いた。
「魔力が弱すぎると、呪文を唱えても発動しなかったり、効きが弱かったりするんだ。逆に強すぎると、効きすぎたり、ひどいと暴走したりする。だからホグワーツの教室みたいな、制御の魔法がかかったところできちんと練習してから使った方がいい、だからみんな学校に行くんだ、って、おばあちゃんが」
「へえ〜」
いかにも感心した、といった声を出したのは清純だが、皆同じような表情でネビルを見たので、ネビルは顔を赤くした。
しかしそのことで勇気が出たのか、ネビルは更に続ける。
「とっても魔力の強い人は、呪文を唱えなくても、勝手に何か起こったりもするんだって。マグル生まれの魔法使いは、魔法を知らないのに不思議な事が起こってしまって、それで困ったりすることもあるって」
「ああ……」
思い当たることのありすぎるハリーが、納得した、といった表情で、しきりに頷く。そして、今までの災難の原因が明らかになって、とてもすっきりした。
その気持を込めて、ハリーが「知らなかったよ。ありがとう」と言うとネビルは更に赤くなったが、少し得意げで、口の端が緩んでいた。
「ええっ、でも、待ってよ。なら僕は、魔力がないってこと!?」
「いや、ないってことはないと思うよ。入学許可証が届いたんだからさ……」
真っ青になったロンを、ハリーが慌ててフォローする。
「そう……そうだけど! でも、呪文が発動するほどはないってことじゃないか!」
「呪文が間違ってるのかも……」
「そうね。私は教科書を全部暗記したけれど、あなたがさっき使った呪文は、教科書には載ってなかったわ」
ハーマイオニーが言う。
ロンは、教科書を全部暗記したという彼女に驚けばいいのか、それとも教科書に自分が使った呪文など載っていないということに安心すればいいのか、複雑そうだった。
「呪文は、兄貴のジョージから習ったんだけど……」
「デタラメ呪文だったのかも」
「おおいにありうる」
ハリーが言うと、ロンは苦い顔で、深く頷いた。
「じゃあ、俺が試してみるよ」
清純が、わざわざ手を上げて言った。
「俺はマグル生まれだけど、別に周りで変なことが起こったことなんてないし」
「あら、あなたマグル生まれなの? 私もよ」
「ハーミーも? ワオ、運命を感じるね!」
「何のだよ」
スイッチを入れたように過剰に喜ぶ清純に、精市がやや冷えた声で言う。
「じゃ、とにかく、試してみるね」
そう言って、清純はずっと開けっ放しのコンパートメントのドアから出て、隣のコンパートメントに戻った。「ごめん梅ちゃん、ちょっと」と、紅梅にことわる声がする。
「おまたせー」
そして、清純が持ってきたものに、精市以外の四人は、きょとんとした。
「どうしてテニスラケットなんか持ってきたの? 杖は?」
「テニスラケットってなんだい?」
「ええと……マグルのスポーツで使う道具よ。あれでボールを打つの」
首を傾げたロンにハーマイオニーが説明し、ハリーが頷く。
ボールを打つ、という説明と、それにふさわしいラケットの形状に納得したのか、ロンとネビルも頷いた。
「魔法界には本当にテニスがないんだなあ……。ま、いいや。これが俺の杖なんだよ」
「ええっ?」
「あ、俺もだよ」
驚く四人に、精市が畳み掛けるように言い、更に四人は驚いた。しかし精市は、構わず続ける。
「俺達だけじゃなくて、真田もそうだよ。聞いたところによると、今回日本から来る奴らは、みんな杖がラケットになったんだって」
そして精市もまた、オリバンダーの店で杖を買ったが、合ったものを手に持って振った途端にラケットになった、と言って笑った。
「そんな現象、教科書に載ってなかったわ! 日本の魔法使いって変わってるのね」
ハーマイオニーの意見に、他の三人も全く同意のようで、こくこくと頷いている。
「とにかく、いくよ。ええーと」
清純は魔法の杖──もとい、ラケットを振りかぶる。今からサーブでも打つかのような姿だった。
「──“お陽さま、雛菊、溶ろけたバター。デブで間抜けなねずみを黄色に変えよ”!」
雰囲気を出そうとしているのか、少し低い、真面目ぶった声で清純は言い、ラケットを振り下ろした。
すると、その軌跡で、何かがきらっと光ったような気がした──と同時に、テーブルの上のねずみ色が、みごとに明るい黄色になった。
「やった! ラッキー!」
「わあ! 成功だ!」
「すごいわ! 本当に黄色よ!」
清純本人を含め、全員が声を上げ、テーブルの上のネズミを見る。
「なんか、テニスボールみたいな色だね」
精市が言った。
黄色いネズミ、と聞いて、なんとなくひよこのような風情を想像していたが、毛どころかひげや尻尾の先まで黄色になったスキャバーズは、蛍光っぽい、目に痛いほどの明るい黄色である。この色なら、夜でもひどく目立ちそうだ。
「黄色……ほんとうに黄色になった……成功した……。僕には魔力がないんだ……」
黄色くなったネズミを囲んでわいわいやっている皆に対し、ロンはひとり真っ青だった。
気づいたハリーとネビルが慰めにかかるが、ロンは席に座り込み、頭を抱えている。くたびれた杖が、床にからんと転がった。
ロンはそんな二人に構わず、兄たちは優秀で自分も期待されていること、グリフィンドールに入れないばかりか魔力がないなんてことになったら、などということを、ぶつぶつ言い始めた。
「ええと、それで、──大きい兄さんたちは、卒業してから何をしてるの?」
あまりに追い詰められたような感じのロンに、責任を感じたのか、清純が話を逸らすように言う。だがハリーも、魔法使いって学校を出てから何をするんだろう、と思っていたので、それは単純に興味のある質問だった。
「チャーリーは、ルーマニアでドラゴンの研究。ビルはアフリカで何かグリンゴッツの仕事をしてる……」
力なく、ロンが答えた。
「そ、そういえば、グリンゴッツのこと、聞いた?『日刊預言者新聞』にも、ベタベタ出てたよ」
更に話を逸らそうと、ネビルが一生懸命言う。
「グリンゴッツって、確かあの、ゴブリンの銀行だよね?」
「あ、そうか、マグルのほうには配達されないよね」
首を傾げた精市に、ネビルは頷いた。
精市やハリーらの知らないことを何度か聞かれ、更に感心されたりもして自信がついたのか、それとも単に慣れたのか、彼の最初のびくびくおどおどした態度は、いくらか改善されている。少なくとも、声は普通の音量になっていた。
「誰かが、特別警戒の金庫を荒らそうとしたらしいんだ」
「ほんと? それで、どうなったの?」
ハリーが目を丸くした。
「なーんも。捕まらなかった。だから大ニュースになってる」
少し気分が回復したのか、ロンが言った。
「グリンゴッツに忍びこむなんて、きっと強力な闇の魔法使いだろうって、パパが言うんだ。でも、なんにも盗っていかなかった。当然、こんなことが起きると、影に“例のあの人”がいるんじゃないかって、みんな怖がるんだよ」
ハリーは、今のことを、頭のなかで反芻した。
誰かの口から“例のあの人”という言葉を聞く度に、恐怖がちくちくとハリーの胸を刺すようになっていた。これが魔法界に入るということなのだとも思ったが、何も恐れず、「ヴォルデモート」と言っていた頃のほうが気楽に感じられる。
「ふぅん。まあ確かに、大規模な犯罪をやるには資金も要るだろうしね」
だが、精市があっけらかんとそう言ったので、ハリーははっとし、そして、胸を刺すどんよりと重たいものが晴れていくのを感じた。
「それにしたって、なんでもかんでも“例のあの人”のせいにするのもどうかと思うよ。単にお金がほしいだけの犯罪者だって、たくさんいるのにさ。それにその人、死んだんだろ?」
あまりにあっさり言うので、誰もが、声もなく彼の言うことを聞いていた。ハリーが「……そうみたいだね」と言って小さく頷くと、精市がにやっと微笑む。
「なら、違うのさ。なんでもかんでもそのせいにするなんて、なんだか、小さい子に“早く寝ないと例のあの人が来ますよ!”って言うみたいで、もういっそ笑えるよ」
とうとうけらけらと声を出して笑った精市に、全員ぽかんとしていたが、やがてハーマイオニーが「それもそうね。犯罪者は“例のあの人”だけじゃないんだから、気を緩めずに警戒するべきだわ」と言い、他の皆も次々にそれに同意したので、ハリーは肩の力を抜いた。
「そうだよ。彼は死んだんだ」
他でもないハリーがそう言うと、皆納得したのか、しっかりと頷く。
しかし、精市と清純は、当然そうだろう、という平然とした顔をしていたので、ハリーはつい笑ってしまった。