あのイギリス行きから数日、太郎からふくろう便が届く。
入学の日はまた魔法でイギリスに送るので、九月一日の02:00、全ての荷物とこの手紙を持ち、“ひとかたまり”になって待機しておくこと、と書いてあった。
京都と神奈川、それぞれから各々直接イギリスに“飛ばす”ことも出来るのだそうだが、二人まとまっていたほうが魔法の“効き”が確実であるし、慣れぬ場所で待ち合わせをして迷子になってしまう危険性を排除しておこう、という配慮であるらしい。
──そして、九月一日、深夜。
時刻はそろそろ、指定の02:00。
太郎に指定されたこの時間に最初は驚いたものの、イギリスと日本は約八時間の時差がある。日本の02:00は、同日の10:00頃だ。
いつもどおりの生活サイクルならば非常に寝起きのいい弦一郎だが、中途半端な仮眠で深夜に起きなければならないのはほとんど始めての経験で、随分苦労して布団から這い出した。
紅梅は、弦一郎が寝ている間に、既に紅椿によって真田家に到着していた。彼女も慣れぬ時間に起きたからだろう、しきりにあくびをかみ殺している。
紅梅はいつもの着物姿だったが、荷物はトランクではなく、葛籠だった。
──葛籠。
『舌切り雀』で、翁が小さい方を選んで小判を得た、あの葛籠である。いや、トランク代わりに使うのだから、行李と言ったほうが良いのだろうか。
編み籠のままでなく、柿渋色の漆が塗られて『花さと』の紋が描かれた立派なそれは、大きさは先日持って行ったトランクよりずいぶん小さいのに、なんと実際はその何倍もの容量が入るという、まさに日本昔話に出てくるような品だった。
しかも、いくら入れても重さもそう変わらず、しかし盗もうとすると、力自慢の男でも持ちあげられなくなるほど重くなるという、とんでもないものだ。
葛籠は婚礼時の嫁入り道具にもなり、きちんと職人に頼めばそれなりの値段になる品である。魔法の葛籠ともなれば、おそらくそれ以上するだろう。
そのため、入学祝い、という名目での贈り物だそうだが、実のところ、また
紅梅にお使いをさせようという魂胆の紅椿と姐芸姑たちが、沢山の物を持って帰れるように、と、お金を出し合って購入したそうだ。
紅梅はまたあの買い物をさせられるのかと遠い目をしていたが、荷物が少なくなるのはありがたい。弦一郎も、
紅梅の勧めで、重いもの、かさばるものを中心にそちらに入れさせてもらったので、随分身軽になることが出来た。
そして家族に見守られつつ、二人揃って庭に出る。
和服を着ていたことで色々と幸運な目にあった、という験も担いで、弦一郎もまたあの日のような羽織袴である。
弦一郎は太郎からの手紙を合わせに挟み、帯刀するときにように腰帯にラケットのグリップを挿し、右手にトランク、左手で
紅梅と手を繋いだ。
紅梅も、開いた右手で、葛籠を縛った紐を持っている。これで、二人と荷物は“ひとかたまり”だ。
──そろそろ、時間である。
「しっかりやりなさい」
「手紙を出して下さいね」
「
紅梅ちゃん、弦一郎をよろしく」
「弦一郎、お
梅ちゃんと仲良くするんじゃぞ」
「困った事があれば、すぐ連絡しなさい」
真田家の面々が、それぞれ、口々に言う。
弦一郎の義姉、由利が抱いた、寝ていたはずの赤ん坊の佐助までもが「あーう」と言ったので、皆笑顔になった。
「行って参ります」
弦一郎の言葉を合図にするようにして、
ボン! と小さな爆発を起こし、子ども二人とその荷物は、真田家の庭から消えた。
二人が目を開けると、そこは、見覚えのある、ラグジュアリーな部屋。
間違いなく、リッツ・ロンドンの、トラファルガー・スイート・ルームである。大きなアンティークの柱時計も、確かに、10:00を指し示していた。
瞬間移動という常軌を逸した現象と明るい部屋に、一気に眠気が覚める。
きょろきょろと見回しても誰も居らず、しかし朝食を摂ったテーブルの上に、上品な金色のペーパーウェイトで押さえられたメモが残されているのを、
紅梅が発見した。
Good morning, students.
Green Park
↓(Victoria)
King's Cross St. Pancras
↓(Walk)
King's Cross
T.S
非常に端的なメモ──指示である。
最寄りのグリーン・パーク駅からヴィクトリア線でキングス・クロス・セント・パンクラス駅へ、そこから少し歩いて、キングス・クロス駅へ。
更に、弦一郎と
紅梅の名前が書かれた封筒もあり、中には列車の切符が入っていた。上質な紙に豪華な金の箔押しのそれは、一見とても列車のチケットには見えない。
──LONDON to HOGWARTS for ONE WAY travel
──KINGS CROSS STATION Platform 9¾
「“Hogwarts Express”──ホグワーツ行特急、……九と四分の三番線?」
奇妙なそれに首を傾げるも、発車時刻がAM11:00となっているのを見て、二人は時計に目をやった。すると、時刻は既に10:00を回ろうとしている。
途端、弦一郎が
紅梅の葛籠を車輪のついた自分のトランクの上に素早く乗せ、すかさず
紅梅が反対側から、それをしっかり押さえる。
二人は息を合わせてトランクを転がし、小走りにトラファルガー・スイート・ルームを飛び出した。
エレベーターで下に降り、フロントに尋ねると、グリーン・パーク駅からキングス・クロス・セント・パンクラス駅は、ほとんど離れていないようだ。ちょうど電車が来れば、十分もかからない。
キングス・クロス駅はイースト・コースト本線の南の終着駅で、すぐ西隣にはユーロスターの終着駅であるセント・パンクラス駅があり、更にロンドン地下鉄のキングス・クロス・セント・パンクラス駅を共有している。
つまり複数の線の駅がそれぞれの名称を持って集合している、複合駅のような形だ。
一応、“九と四分の三番線”についても訪ねてみたが、それに関してはわからなかった。
しかしとりあえずそこそこ時間に余裕があることを知って安心した二人は、九と四分の三番線を調べようとしてくれる親切なホテルの人々を礼儀正しく制止して、行儀よく歩いてホテルを出た。
相変わらず、和服の上、トランクの上に葛籠を乗せて転がす日本人の子供二人は地下鉄でも大層目立ったが、それは無事キングス・クロス駅に着いても同じだった。
案内板のおかげでここまで道に迷うことはなかったが、問題は“九と四分の三番線”とやらである。
九番線と十番線はホームを共有し、隣り合って存在するが、予想はしていたものの、どの案内板にも、“九と四分の三番線”は存在しない。
あからさまに異国からやって来た子供が道に迷っているのを見かねたのか、親切な若い駅員が声をかけてくれたが、“九と四分の三番線”と聞くと、困ったような、奇妙な顔をされてしまった。
駅員に礼を言って頭を下げた二人は、どうしたものか、と顔を見合わせたが、その時、弦一郎は、見覚えのある派手な色を視界に認めた。
「
──千石!」
「あっ! 真田君じゃーん! 良かったー!」
弦一郎がよく通る声で呼ぶと、ふわふわ跳ねた派手な橙色の髪と緑の目をした少年が、顔を輝かせ、トランクと、白い鳩の鳥籠を乗せたカートを猛スピードで押して近寄ってきた。
「おはよう、久しぶり! あー良かった〜、何だよ九と四分の三番線ってさ! わけわかんなくて迷ってたからほんと助かったよ〜、うわーしかも女の子いるじゃんカワイイー! 名前なんていうの? 俺、
千石 清純っていうんだよろしくね! そんで九と四分の三番線ってどこ?」
一気に喋り倒した清純に、二人は思わず仰け反る。
しかし話した内容は無駄なく端的、かつ態度も明るくフレンドリーだ。
騒がしいようで妙に要を心得た要領の良い振る舞いのせいか、不思議に憎めない感じの少年である──ということを、先日、イギリスに来た時のストリート・テニス場で彼と知り合った弦一郎は、既に把握している。
清純は、曾祖父が魔法使いであった──と言われて育ったものの、さほど本気にはしていなかった。
しかし生まれつき奇妙なほどに運が良い傾向があり、曾祖父の魔法の力かな、などと茶化していたら、本当に魔法の力が発現したという、本人曰く「ラッキー」なマグル生まれの魔法使いだ。
もともと、そのような自分の力の影響で、占いや天文学などにも興味があり、またテニスも出来るということで、とりあえずホグワーツに来ることを決めた、とのことだった。
非常に社交的な性格なので、単に留学ということにも興味があったのもある。
実際、清純の対人能力はかなりのもので、先日出会った時も、売られた喧嘩をそのまま買い、単なる乱闘になりかけていた弦一郎らの肩を叩き、テニスの試合になるように持って行ってくれたのは、彼であった。
しかも、まだほとんど片言の英語しか話せないのに、である。
それに、その時彼のテニスも少しだけ見たが、剽軽で派手そうな性格とは裏腹に、地道な努力で培われた基礎力に支えられた、堅実なテニスだった。
そしてそんなテニスをする少年だと知ったからこそ、このように一見軽い清純に、弦一郎は人は見かけによらないということを学び、一目置いた上で知り合いになったのだった。
「……
紅梅。この間こちらに来た時に知り合った、千石清純だ」
「ああー、テニスの」
弦一郎が、こんな奴に会った、と当時話したことを覚えていた
紅梅が、心得たように頷く。ちらりと彼女が視線を向けた清純のカートには、明るい木の色のテニスラケット──弦一郎らと同じく、魔法の杖が変化したものが入っていた。
「はじめまして。
紅梅どす」
「わ〜、京都の子? かわいいね〜、
梅ちゃんて呼んでいい?」
輝くような笑顔である。「へえ、よろしゅう」と微笑んだ
紅梅に、清純はそのまま彼女の手を握ろうとした。──が、弦一郎と繋いだ手に気付き、次いで弦一郎の顔を見て、
紅梅の顔を見て、そして一歩下がると、訳知り顔で頷く。
「なるほどね、ははん。真田君も隅に置けないね」
「何の話だ」
弦一郎は不思議そうに首を傾げたが、清純はアヒルのような口で、にやっと笑った。
「大丈夫、俺、女の子大好きだけど、人のものには手を出したりしないからさ」
「……うん?」
「うん。でも友だちにはなって欲しいな〜。気軽にキヨって呼んでね〜」
「へぇ、キヨはん」
首を傾げて頭の周りに疑問符を飛ばしている弦一郎を放置し、清純は「わーい!」とはしゃぎながら、
紅梅に笑顔を向けた。
こうして鉢合わせた清純も、“九と四分の三番線”については知らなかったわけだが、三人は、それ以上困ることはなかった。
なぜなら、それからすぐ、列車の時間が近づくにつれて、大きなトランクと、主にフクロウを入れた鳥籠やら、蛙やら猫やらを連れた、弦一郎らと同じくらいの年の子供から、高校生ぐらいまでの若者、という、どうしようもなく特徴的な人々が、続々集まってきたからだ。
彼らの多くは保護者らしき大人と来ており、そして彼らの半数くらいは、ずるずるしたローブを纏っていた。彼らはマグルと距離を置くよう気を付けて過ごしていると散々聞いたはずだが、見る限り、紛れる気があるのかどうか非常に疑問である。
そして彼らは決まって、改札口のすぐそばにある、九番線と十番線の間の大きなレンガの柱を覆う柵に向かって歩き、もしくは走って飛び込むようにして、次々に消えていく。
見るからに奇妙な光景だが、マグルの人々はそれに気付かない。おそらく、『漏れ鍋』の時のように、何か魔法がかかっているのだろう。
弦一郎と
紅梅、清純の三人は、彼らに倣って、柵に突撃した。
すると思惑通り、彼らは柵にぶつかることなく、すっと通り抜けた。そして通り抜けたその先は、なんと真っ赤な蒸気機関車が停車した、レンガ造りのプラットホームだった。
振り返ると、先ほどまで改札があった場所には、“9¾”と書かれた鉄のアーチがある。
ダイアゴン横丁での経験がなければ、きっと混乱していただろう。
しかしそれに加え、太郎によるイギリスと日本の長距離瞬間移動も経験している弦一郎と
紅梅は、驚きつつも「こういうものなのだ」とその驚きをやや無理やり飲み込んで、ぽかんとしている清純を引っ張り、空いているコンパートメントを探しに歩き始める。
座席は随分埋まっていたが、幸い、真ん中より後ろくらいの車両からは、まばらに空いたコンパートメントが目につくようになる。
しかし、列車の戸口は昔ながらの蒸気機関車の乗客車両そのままで、階段が高く、大きなトランクを運び入れるのはなかなか骨が折れそうだった。どころか、階段が高すぎて、自分が乗り込むのも一苦労、といった風の子供もいる。
周りを見ると、生徒についてきている大人たちが荷物を持ち上げて列車に運び入れているのを見て、三人は彼らの役割を把握する。
しかし弦一郎は、ふん、と列車の戸口を見上げると、袖と袴をはためかせ、ひらりと階段に飛び乗った。
和服のおかげでもともとかなり目立ってはいたが、弦一郎が難なく列車に飛び乗ったばかりか、大人顔負けの力でさっさと荷物を運び入れてしまったので、彼らは更に目立った。
清純はそんな弦一郎にヒュウと口笛を吹いたが、下から重いトランクを持ち上げて弦一郎を手伝う彼も、なかなかの力の持ち主である。
トランク数個に、葛籠、そして鳩の鳥籠。鳩は先程からずっと黙ってじっとしているが、列車に乗せた時も、一度翼をばさっとさせただけで、すぐおとなしくなった。飼い主とは正反対に、実に寡黙な鳩である。
そうして三人分の荷物を弦一郎が引き上げると、まず清純が飛び乗り、そして彼と弦一郎が片方ずつ手を引っ張って、
紅梅が乗り込む。
あまりに軽々引っ張りあげられたせいで、
紅梅は二段も階段を飛ばした。
コンパートメントは、二人用、にしては余裕のあるクッション張りの座席が向かい合った、四人がけの個室になっていた。真ん中にはテーブルまで設置されていて、本当に“個室”という感じだ。
こちらは三人なので、一人か、まるごと空いているコンパートメントを探す。しかしどこも二人か三人で埋まっている所が多く、まだ座れないうちに、汽車が線路を滑りだした。もう実際にはなかなか聞けない、蒸気機関車の汽笛の音が鳴り響く。
ガラスのはまった、これまたレトロなマホガニー色のコンパートメントを一つ一つ覗きながら、三人はぞろぞろ歩いた。
誰が提案したわけでもないが、
紅梅が先頭を歩いてコンパートメントの空きを探し、弦一郎と清純が荷物を持って後ろに続く。
そして、ぼさっとした黒髪に丸い眼鏡をかけた男の子と、燃えるような赤毛の男の子の二人組のコンパートメントを行き過ぎると、
紅梅が「あっ」と声を上げ、迷いなくガラスをコンコンと叩いた。
中の人物が、目を丸くして顔を上げる。
「お久しぶりどすなあ、せぇちゃん」
「やあ、
梅ちゃん」
窓際に一人腰掛けて外を眺め、そのまま額縁に入れて絵画にすればさぞ良い値が付きそうな風情を醸し出していた美しい少年は、
幸村 精市であった。
「なんだ、幸村か。おはよう」
「なんだとはご挨拶だな、真田。おはよう」
こちらは、いいかげん、単に幼馴染や友人というよりは、悪友、腐れ縁といったほうが相応しい間柄の弦一郎とのやりとりである。
「こちらは三人なのだが、空いているか?」
「ちょうど一人で暇してたところだよ。どうぞ」
「助かる」
頷いて、弦一郎は、自分のものだけでなく、三人分の荷物をさっさとまとめてコンパートメントに運び入れ、座席の下に押し込んだ。
最後に、白い鳩の入った鳥籠をテーブルの上に乗せると、おや、と精市が顔を綻ばせた。
「きれいな鳩だね。
梅ちゃんの? 真田の?」
「いや、千石の鳩だ。──千石!」
ドアの影でうずうずしていた清純に弦一郎が声をかけると、橙色の明るい頭が、人懐っこい笑顔付きで、ひょいと顔を出す。
「千石、幸村だ」
「幸村君ね。千石清純でーす! よろしく!」
「ふふ、賑やかだね。よろしく」
精市が穏やかにそう返すと、まず弦一郎が精市の向かい、進行方向に背を向けた窓際へ腰掛ける。
そしていつの間にかドアを手で押さえている
紅梅に礼を言い、清純が精市の隣へ。そして
紅梅はコンパートメントに入って静かにドアを閉めると、残った通路側、弦一郎の隣に腰掛けた。