【2014 新春特別番外編】
青学の柱と気まぐれネコ
蓮二のところを辞した二人は、また紅梅が弦一郎の入ったかごを持って歩く形で、彼に教えてもらった道を行っていた。
「青学というところに住んでいるから、尋ねるといい」
曰く、そこに、身体のスケールを変える効果の方の『汁』を作る“博士”がいるらしい。
そして蓮二が言ったとおり、さほども歩かないうちに、大きな建物が見えた。
「ええっ、学校?」
「学校……のようだな」
大きな門には、「青春学園中等部」と学校名が書いてある。
二人は何がなんだか分からないながらも、青学というならここであっているのだろう、と、意を決して門を潜った。
「おっ、どうした? 迷子か?」
すると突然、紅梅たちが来た方とは少し違う方向の森から、立派な軍服のようなお仕着せを着た、スキンヘッドの青年が飛び出してきて、声をかけてきた。
「うおっ、なんだ、真田。ずいぶん小さくなったな」
「お前も、俺のことを知っているのか?」
「そりゃ知ってるだろうよ、何言ってんだ」
当然、という態度なので、二人はそれ以上何を言っていいかわからず、口を噤む。
「なんや、みんな、弦ちゃんのこと知ってはる感じやない?」
「そのようだ、が……。しかし、面識はないぞ」
「ほぅなん? あ、そういえば、さっきの教授はんも、弦ちゃんのこと“弦一郎”て呼んではったえ」
「そうだったか?」
「へぇ。教授はんは、なんやお釈迦様みたいやったから、知っててもおかしないんかなあとも思たんやけど……。そやし、弦ちゃんも、“蓮二”て呼んではったし。ほんまに知り合いやないのん?」
「む……?」
「で、なんでお前らこんなところにいるんだ?」
再度話しかけられたので、二人はひそひそ話をやめた。
いかにもというほどではないが、中南米系を思わせる濃い肌色と、それに見合ったくっきりした顔立ちの彼は、ジャッカルといって、女王のテニス大会の招待状を、この学校のテニス部部長に届けに来たらしい。
よく見れば、確かに、手紙の束のようなものを小脇に抱えている。
「俺、スタミナあっからさ。いろんなとこ走らされてんだよなあ。ま、いいけど」
蓮二のことを知っているようで、もともと気のいい感じの青年だったが、蓮二に言われてここに来たというと、なお親切な様子で話を聞いてくれた。
「乾? 博士? ……汁? あー、あいつだな」
「知ってはるのん?」
「おう、俺も今からそこに行くところだ。一緒に行こうぜ」
ジャッカルがにっこり笑うと、白い歯が見え、男らしくもとても爽やかであった。
紅梅の歩幅にちゃんと合わせて歩いてくれたジャッカルについていくと、テニスコートがあり、その脇に、こじんまりとした部室らしき建物があった。
しかし二人が気になったのは、何よりも、その建物に近づくに連れて、コショウの臭いがどんどん強まってきたことだった。
たまらず紅梅はハンカチを取り出し、くちゅんくちゅんとひっきりなしに飛び出すくしゃみを押さえている。籠の中にいる弦一郎は紅梅ほど被害がなかったが、時々、太いくしゃみをした。
「こりゃあひでぇな。……おーい、いるかー?」
コショウの臭いに顔をしかめつつ、コンコンコン! と、ジャッカルがキレの良いノックをすると、「ウィーッス」と威勢のいい声が聞こえた。そして程なくして、がちゃりと音を立てて扉が開かれる。
中から出てきたのは、黒髪をつんつんと尖らせた、明るい感じの青年だった。青と白、差し色に赤といった感じのジャージを着ている。
「あ、桑原さんじゃないッスか」
「おう、桃城。ウチの女王から、青学の柱へ手紙だぜ。……ぶぇっくしゅ!」
「こりゃまたご丁寧にどーも」
桃城武、という青年はジャッカルから手紙を受け取ると、いかにも体育会系の仕草で、ぺこっと頭を下げた。
「あー、ひでえ臭い」
「いやあ、毎度すいません、ウチの先輩が……」
大きなくしゃみをして鼻をつまむジャッカルに、武はやや疲れた感じの苦笑を浮かべた。彼も、歓迎している事態ではないらしい。
「あ、こっちの子と真田が、乾に用があるみたいだぜ」
「あっれ、真田さん!? うわー、こりゃずいぶんちっちゃくなっちゃって」
紅梅が抱えた籠を覗きこんだ武は、もともと大きめの目をさらに大きくした。
またも当然のように弦一郎を知っている様子のリアクションに弦一郎は表情を歪めたが、武はその表情が見えなかったか、それとも単に細かいことを気にしない性格なのか、「ま、上がってください」と、軽い感じで、二人を中に招き入れた。
「じゃ、俺はこれで」
「お疲れ様っしたー!」
「えろぅおおきに」
去っていこうとするジャッカルに、武が威勢のいい声をかけ、紅梅が礼を言うと、ジャッカルは振り向きざまにこっと笑って、そのまま行ってしまった。
「ぶちょー、手紙でーす。乾せんぱーい、お客さんッスよ」
「は、は……、くちゅん!」
「大丈夫か、紅梅」
部屋の中に入ると、コショウの臭いはかなり強烈なものになった。顔を逸らしてくしゃみを連発する紅梅を気遣いつつ、弦一郎は、辺りを見回した。
部屋はさほど広くはないが、奥には台所のようなところがあって、大きな鍋が火にかけられている。その中身を、背の高いつんつんした黒髪の青年が怪しい笑みを浮かべながらグルグルかき混ぜていた。そして、さらさらの亜麻色の髪をした、王子様然としたきれいな青年が、開いているのか閉じているのかわからない目で、しかしニコニコとした表情で、それを見守っている。
コショウのにおいはその鍋からしているのが明らかで、薄茶色の煙が立ち上り、部屋の中にもうもうと立ち込めていた。
弦一郎はたまらず籠の中のタオルで顔を押さえ、紅梅はかわいそうなくらいくしゃみを連発していて涙を流し始めているが、信じられないことに、部屋にいる誰もが平気そうだった。
「なぜ……、なぜこんな部屋で平気でいられるのだ……」
「慣れている」
どっしり落ち着いた声で返事をしたのは、部屋の中央にある椅子に腰掛けている、リムレスのメガネをした青年だった。
こちらも皆と同じく、青と白のジャージを身につけていて、なんだか風が吹いたように毛先が跳ねた、濃茶の髪をしていた。表情はきりっとしていて真面目そうで、少し弦一郎と似た感じの雰囲気がある。
弦一郎は重さを感じるタイプの真面目さだが、彼は鋭さを感じるタイプの真面目さがあった。
手塚国光、という名前らしい──何しろ皆学校指定のジャージ姿で、ジャージに小さく名前が刺繍してあるのがありがたかった──、彼は、ここ青春学園男子テニス部の部長、すなわち青学の柱であるらしい。
武からテニス大会の招待状を受け取り、中身を確かめた国光は、「油断せずに行こう」と言って、招待状を封筒に戻し、懐にしまった。
「くちゅん!」
「あー、慣れてないとつらいよねえ」
「あらら、こすっちゃ駄目だよ」
早くもくしゃみのし過ぎでへろへろになっている紅梅に、顔に絆創膏を貼った、猫っぽい顔の少年が、気の毒そうに声をかける。菊丸英二、とジャージに刺繍がしてある。
そして、たまらずハンカチで目元をこすり始めた紅梅に、なんだか独特の髪型をした、しかしとても優しそうな青年が駆け寄ってきて、親切に濡れタオルを差し出してきた。こちらは、大石秀一郎、という名前のようだ。
「手塚ー、この子しんどそうだから、外に連れてくね」
「真田も、構わないかな? ちゃんと見ておくから」
「……うむ、ありがとう」
机の上に降ろされた弦一郎は、紅梅を丁重に外に連れ出してくれた二人に頭を下げて礼を言った。バタン、と扉が閉まり、三人が外に出ていく。
「それで、どうした、真田。何か用か」
「ああ……」
どうやら、彼も弦一郎のことを知っているらしい。
そのことについてどうこう言うのを諦めた弦一郎は、事情を説明し、ここにいる“博士”とやらに、身体のスケールを元に戻す『汁』を提供してほしいということを述べた。
「なるほど、そういうことか。──乾!」
「ああ、手塚。ちょうど出来たところだよ」
乾と呼ばれて振り向いたのは、鍋をかき回していた、何故か逆光して目元が見えない黒縁メガネをかけた、背の高い男だった。彼が蓮二の言う「貞治」であり、「博士」なのだろう。
だが弦一郎が思ったのは、そんなことではない。
「待て。出来た、ということは……」
「これがその『汁』だよ。さあ召し上がれ」
「待たんか!」
弦一郎は、絶叫した。
「それを飲めだと!? そんなものを口に入れたら……」
「大きくなるよ」
「……それはそうかもしれないが!」
「背を伸ばす汁って越前にリクエストされて、せっかく作ったのに、越前はどこに行ったのかな」
「越前なら逃げちゃったよ」
微笑を浮かべながら言ったのは、亜麻色の髪をした、王子様然としたきれいな青年だった。不二周助、とジャージに刺繍がある。
「よっぽど飲みたくなかったんだろうねえ。その『汁』、なかなかイケるのに」
「……その、コショウの塊がか」
弦一郎は、ひくりと顔をひきつらせた。どうやら彼には、味覚に問題があるらしい。
「僕は好きだけどね。オススメ」
周助は、ペットボトルの蓋に『汁』を注ぐと、戦慄した顔をしている弦一郎の前に、にこにこしながら置いた。
「まあ、苦手でも、たかがそれっぽっちだよ。男なら一気だよ、真田」
「おい……、俺の今の大きさだと、丼いっぱいより多いんだが、……うぐっ!」
物凄いコショウの臭いを放つ目の前の液体に、弦一郎は両手で顔を押さえた。至近距離だと、くしゃみが出るより何より、まず目に来るのだ。
「真田! 言い訳とはお前らしくないぞ!」
「て……手塚ァ!」
腕を組んでわずかに体を反らし、きりりっ! とした顔で言ってきた国光に、弦一郎は、自分でもよくわからないが、反射的にそう返事をした。
そしてここでこれ以上ぐだぐだ言うのはなんだか悔しい気持ちになってきて、弦一郎は意を決し、ペットボトルの蓋──、現在の弦一郎にとっては丼いっぱいよりも多い、バケツ一杯ぐらいの『汁』を抱え上げると、ぎゅっと目をつむり、一気にあおった。
「──きぃえええええええええああああああ!!」
どがっしゃあん! という何かが崩れ落ちるような音とともに響いた絶叫に、紅梅はびくっと肩を跳ねさせた。
「ほぁら!」
「おー、大丈夫だ大丈夫だ。逃げんなよ」
ふかふかのしっぽを、びーん! と立てて驚いている、ヒマラヤン──、カルピン、という名前の猫を、バンダナを巻いた青年が宥める。
彼は海堂薫といって、コショウにやられて部室の前でぐずぐず鼻をすすっていた紅梅に、抱いて連れてきたカルピンを触らせてくれていたのだった。
薫はかなりの三白眼で相当目付きが悪いのだが、礼儀正しいし、おっかなびっくりした様子で接してはくるものの、紅梅にも優しい。なにより猫が好きなようで、カルピンに構う様子は蕩けるようだ。
──バァン!
「かっ、辛っ、かっ、かっ……!」
「弦ちゃん!」
部室から飛び出してきた弦一郎は、目的通り、本来のスケールの体躯──百八十センチくらいの身長になっていたが、涙目で喉と口を押さえ、辛さのあまりに咳どころか呼吸もようよう出来ずに苦しんでいる。
「うひゃー、真田、ほんとにアレ飲んだのかにゃー」
「う〜ん、気絶もしてない。すごいな」
「フシュゥ……、さすが皇帝っすね……」
「ほぁら」
「水! お水!」
「あ、コップどうぞ」
三人が好き勝手なことを言って感心する中、紅梅はあわあわとしながら、秀一郎が差し出してくれたコップに水道の水をたっぷり注ぎ、弦一郎に差し出した。
「ぐっ……うぐっ……」
「弦ちゃん、まだお水飲む?」
「頼む……」
低い声が更に低くなっている弦一郎に、紅梅はせっせとコップに水を汲んで手渡した。
結局、弦一郎はコップに三杯も水を飲み、やっとなんとか落ち着いた。しかしそれでも辛味は口から取れないらしく、まるで薫のような、歯の間からシュウシュウと音を立てるような呼吸をしている。
「く……、今までで一番ひどいな、これは……!」
「そ、そやけど、ちゃんと元に戻りおしたな?」
「うむ。どこもおかしくないか?」
弦一郎は立ち上がり、自分の体を軽くチェックした。
紅梅はその足元で彼を見上げ、少し赤い顔でこくこくと頷いている。
「よし、では行くか。世話になったな」
「あ、ちょっと待て、……待ってください」
フシュゥ、と独特の息を吐いて言い直した薫に、二人は振り向いた。中学二年生──十四歳だからか、十五歳、になった弦一郎にはきちんと敬語を使うようだ。武もそうだったが、礼儀正しいな、と紅梅は感心した。
「あの、コイツ、ウチの部員の猫なんスけど。俺今から練習あるんで、そいつに渡してもらえねッスか。あんたたちの行く先の森にいると思うんで」
「ほぁら」
「へぇ、よろしおすえ」
弦一郎を待っている間、薫とカルピンにはよくしてもらった紅梅は、快く頷いた。
部員の名前は、越前リョーマ、というらしい。
「紅梅、大丈夫か」
「かんにん、……わわ」
「ほぁら」
もともと歩幅が小さい上、カルピンを抱いているせいで両手がふさがっている紅梅は、弦一郎と手を繋ぐことが出来ない。
そのせいで、歩いているとどうしても距離が空いてしまう。それにカルピンは猫としては軽いほうだが、雄で成猫なので、おそらく四キロくらいはあるだろう。ずっと抱いていると疲れてきてしまい、紅梅は何度も抱き直すのだが、それがカルピンには居心地が悪いらしい。
しかし、なんだか奔放な性格のカルピンなので、リードもないのに離して連れて行くのは不安があった。
「ふむ……」
弦一郎は少し思案して、やがて、すっと紅梅の側まで行くと、やおらしゃがみこみ、長くなった腕を伸ばした。
「──ひゃあ!」
「こうか。おお、軽いな!」
紅梅がカルピンを抱いていたのと同じ抱き方──、つまり赤ん坊を抱くようなやりかたで、弦一郎は紅梅を抱き上げたのだった。甥っ子の佐助を抱くので慣れているせいか、なかなか堂に入っている。
元の年齢でも紅梅より十分力はあるが、体格差はそこまでないので、こんな風にすることはとても出来なかっただろう。しかし、今なら出来る。
「げ、弦ちゃん、お、おろ、おろし、」
「何故だ?」
至近距離、目の前で首を傾げられて、紅梅はかーっと赤くなった。
紅梅がどうも、今の見目の弦一郎を格好いいと思っていることは自己申告により明らかだが、その反応がなんだかひどく気分が良くて楽しく、弦一郎は機嫌良さ気に言う。
「この方が早い。それに、俺が小さくなっている時、お前は俺を籠に乗せて運んでくれただろう? お返しだ」
「う、うう……」
「負ぶってもいいのだが、こいつがいるからな」
「ほぁら」
カルピンは密着した弦一郎と紅梅の間の部分がとても安定して居心地が良いようで、機嫌の良い時の声を出し、そこにうずくまってじっとしている。
そして、抱っこに動揺して固まっている紅梅は上手い反論も思いつかず、そのまま運ばれてしまうことになった。
弦一郎は、着物とエプロン越しにわかる紅梅のどきどきした鼓動を快く感じながら、森の中の道を歩いて行った。