【2014 新春特別番外編】
蓮の上の教授
道をどんどん歩いてゆくと、木は一層大きく茂り、森の中、という様相がふさわしい様子になってきた。
暗い森ではないのが救いだが、やはり人の気配は一切なく、紅梅は弦一郎が入った籠を抱えて、黙々と歩く。
「おい、紅梅。疲れたら、休んでも良いのだぞ」
「へぇ、おおきに。まだ大事おへんえ」
「そうか。無理はするな」
籠の中から気遣ってくれる弦一郎ににこにこしながら、紅梅が石畳の道を歩き続けると、やがて少し開けたところに来た。
そこは、大きな池だった。
池は一面の蓮で埋め尽くされており、丸くて大きな蓮の葉が浮き、白や薄紅色の美しい蓮の花がたくさん咲いていて、それはもう見事な有り様である。
「お釈迦様?」
紅梅が、呆然と言った。
池の中央、ひときわ大きな蓮の葉の上には、紅梅が言ったとおり、幾枚もの薄布や薄金色の飾りを身につけた細身の男が、背筋をしゃんと伸ばして座っていた。ただ、髪型などは仏陀のようではなく、つやつやの黒髪を、短めのおかっぱのようにしている。
そして、目を閉じているようなのに、手元にある古そうな本のページを、ぱらりぱらりとめくっていた。あれで読めているのだろうか。
更に、その側には美しい細工の水煙管があり、煙管を銜えた彼は、本を読みながら、桃色だか紫色だかわからぬ美しい煙を、時々、その薄い唇からふうっと吐く。
そしてその煙は、不思議なことに、なにか難しげな文字の形になって、また薄っすらと空中に溶けるように消えていくのだった。
二人がぽかんとその優美な光景に見入っていると、男が振り返った。
「客かな」
「あ、へぇ、……ひゃ!」
紅梅は弦一郎が入った籠を深く抱え込み、崩れかけた態勢を直した。
いつのまにか、彼女は水に浮かんだ蓮の葉の上に立っていて、その葉がすぅーっと滑るように動いたのだ。そして蓮の葉は、中央に鎮座している男の巨大な蓮の葉に、ふわん、と柔らかくぶつかると、そこで止まった。
煙管の先でちょいちょいと手招きする男に従い、紅梅は小さい蓮の葉から、大きな蓮の葉にそっと移った。
男は神仏の類ではないようだったが、柳蓮二という名前で、教授と呼ばれているらしい。
「教授……、あっ、大会の参加要項に、“博士もしくは教授に汁等を提供してもらう”て書いてあったんとちゃう?」
「そういえば」
確かに、と弦一郎は頷くと、籠からひょいと飛び出した。
「教授殿、大会に出場するのに、大きくなりたいのだ。なんとかしてもらえんだろうか」
蓮二がどう見ても釈迦牟尼にしか見えないからだろうか、弦一郎はきちんと頭を下げて、とても礼儀正しくお願いした。同じように、紅梅も正座をして、深々と頭を下げている。
「ふむ。しかし実は、『汁』は品切れ状態でな」
蓮二は、ふう、と、形の良い薄い唇から、桃紫色の煙を吹き出した。煙は細かい漢文になって、それから空気に溶けて消えていく。
「作るのは少々時間がかかるので、加工する前のものでもよければ……」
「効果が同じなのであれば、構わない」
「そうか。それなら」
蓮二は腕を伸ばし、側にある蓮の花の間に手を突っ込んで、何やらごそごそしはじめた。そして、ぱきっと音がしたかと思うと、丸々と膨らんだ実が詰まった、大きな蓮の花托を二人に示した。
「一方なら小さくなり、一方なら大きくなる」
「……何だって?」
弦一郎は怪訝な顔で聞き返したが、蓮二は同じことを繰り返しただけだった。
「お釈迦様みたいやし、禅問答みたいなことしはるんやろか」
「そうかもしれんな……」
紅梅と弦一郎はひそひそとそう言い合って、とりあえず、花托から蓮の実をひとつ取り出した。皮を剥いてそれを口に放り込もうとした弦一郎だが、しかし、蓮二はそれを、すっと優美な仕草で止めた。
「どちらか一方だけでは、いけないな。どちらかを一方が、どちらかが一方を食べるんだ」
「……どういうことだ?」
「ええと……、二人でふたついっぺんに一個ずつ食べんと、効果ない、いうこと? それで、どっちかが大きゅうなって、どっちかが小さなる?」
「そのとおり」
相変わらずとてもわかりにくいが、蓮二が肯定したので、紅梅は花托から弦一郎がとった蓮の実と逆の場所の蓮の実を取り出して、皮を剥いた。
「せぇの、」
掛け声をかけて、二人はそれぞれ、蓮の実を口に放り込む。
僅かに苦味もあるものの、カリッとした歯ごたえの、ほんのり甘い実で、『汁』よりは比べるべくもなくマシな味だった。
「む……?」
視界の低さが変わらないので、ハズレか? と、弦一郎は眉を顰めた。
「おい、紅梅──」
お前はどうだ、と言いかけて、弦一郎は、目も口も真ん丸にした。
そこにいたのは、長い黒髪の娘だった。
ほっそりと華奢で、僅かに抜いた襟から伸びる首は細長く、肩幅の狭い撫で肩と相まって、凄まじく和服が似合う。
触れば手に色が付きそうなほど黒黒とした艶やかな髪と相反するようにして肌は白く、小さめの唇が、化粧をしている気配もないのにやけに赤い。
鼻は低いというよりは小さく、あまり主張がない感じだ。だが、つるんとした広めの額や華奢な顎の輪郭と、とてもバランスがとれている。
「ほう」
蓮二が、切れ長の目をうっすらと開き、微笑んだ。
「ひゃ、もしかして、うち、大きゅうなっとる?」
そう言って、少し面長になってすっきりした頬に当てた指先は、まさに白魚のような、というそれだ。
紅梅は作法通り、中途半端な膝立ちのまま蓮の葉の縁に向かうと、水面を覗き込み、自分の顔を確かめた。
「んー……、うちは、そない変わった感じでもあらへんなぁ?」
「そ、そんなことは……」
弦一郎は、どぎまぎして、浮ついた感じの声で言った。
確かに、基本的な顔立ちや印象は、弦一郎の時ほど変わっていない。同一人物だとすぐに分かる程度だ。
しかし、鈴を転がすようだった声は水気を含んだようにしっとりとしているし、のんびりした感じの顔だちは、大人になると、おっとりと優しげなお姉さんというのがまさに当てはまる様子になっていた。
そのくせ、子供の時は眠たげに見えて愛嬌のあった垂れ目は、長い睫毛が目尻を伸ばし、ちょっと妖しげで、流し目でもしようものなら、魔力のようなものを感じるほどだ。
さらには、上半身はとても華奢でいかにも嫋やかなのに、フリルのエプロンのリボンの下、きっちり正座をした尻や太ももはなんだか肉感的で、むっちりしている──ような気がするが、弦一郎はとても直視できなかった。
「そやけど弦ちゃんえろぅ変わってはったから──……、あらぁ」
弦ちゃんは元に戻ってもうたんやねえ、と紅梅に言われ、弦一郎は、自分の身体のスケールはそのままに、年齢は元に戻ってしまっていることに気付いた。
「こないなると、なんや可愛らしなあ?」
「ふむ、二重の意味で小さいからな。確かに、これはなかなか愛らしい」
うふふ、と微笑む紅梅はまるで菩薩のようで、隣で同意しやはり微笑む蓮二は、そのまま釈迦牟尼のごとしである。
もはや巨人の大きさにしか感じられない二人から籠を覗きこまれた弦一郎は、まさに仏陀に対峙した孫悟空のような気持ちになって、一歩後ずさった。
「こちらはなかなか美人になったな。ふむ、これはまた」
「へぇ?」
蓮二が、水煙管の先で、紅梅のほっそりした顎を掬い上げ、まじまじと見た。──といっても、やはり目は閉じているのだが。
紅梅はきょとんとしているが、弦一郎はそのさまを見て、なんだかよくわからないむかむかしたものが胸に沸き上がってくるのを感じ、気づけば思い切り声を上げていた。
「──蓮二! 戻せ! 今すぐだ!」
「どないしたん、弦ちゃん」
顔を赤くして怒鳴る、小さな──、本当に小さな弦一郎に、大人の紅梅は、しっとりした声で言った。本人はそんなつもりはないのかもしれないが、その声がいかにも小さい子供をなだめるようなものに聞こえて、弦一郎はますますむかむかする。
しかも、蓮二はなぜかにやにや笑っていた。
「紅梅もだ! 今すぐ戻るぞ!」
「戻るて、弦ちゃんは今のが普通どっしゃん、歳は」
「うるさい、早く!」
「もう、なんやの」
うるさいと言われたせいか、紅梅は子供の時と同じように、ほっそりした頬を、ぷっと軽く膨らませた。ただ微笑んでいれば、和服を着た、優しそうで大人っぽいお姉さん、という感じなので、そういう表情をすると、なんともいえないギャップがある。
弦一郎の顔が、なお赤くなった。
「──駄目だ!」
「何がやのんな」
高く戻った声できゃんきゃん喚く弦一郎に、紅梅は唇を尖らせる。
そして蓮二はといえば、釈迦牟尼のごとき衣装が乱れるのも構わず、蓮の葉の上で転がって、腹を抱えて笑っていた。
「……つまり、蓮二の作るものは年齢を大きくしたり小さくしたりするもので、博士、とやらの作る『汁』は、身体のスケール自体を大きくしたり小さくしたりするもの、ということなのか」
「そのとおりだ」
元通り──、つまり、スケールの小さい十五歳になった弦一郎に確認された蓮二は、穏やかな仕草で肯定した。
弦一郎の隣には、これまた元通り、こちらはスケールも年齢も本来のものになった紅梅が、ちょっとおもしろくなさそうな顔で座っている。せっかく大人の姿になったのに、弦一郎が散々戻れ戻れとわめきたてたので、少し臍を曲げているのである。
「なぁ、うちも大人になられへんの? そしたら歩くのも早なるかもしらんし──」
「駄目だ」
紅梅の申し出を、弦一郎が、低い声で遮るようにしてぶった切った。
「なんでやのんな、さっきから。弦ちゃんは大人のカッコのままやのに」
ぷっと頬を膨らませた紅梅が言うと、弦一郎はきまり悪そうな、苦虫を噛み潰したような顔をした。
なかなか恐ろしい形相になっているが、スケールが小さいせいか、それともその形相になっている理由のせいか、そこまで迫力はないな、と蓮二は密かに思いつつ、そして密かに笑いを堪えている。
「あ、あんな……」
「なん?」
「あああ、あんなに、う、美しくなったら、何が起こるかわからんだろうが!」
弦一郎が真っ赤な顔でそう叫ぶと、紅梅は目をまん丸くし、蓮二はアルカイックスマイルを保ったまま盛大に噴出するという器用なことをして、後ろにひっくり返って爆笑し始める。
蓮二如来の爆笑をBGMに、紅梅は数秒、ぽかん、とした顔で、赤い顔を逸らして口をへの字にしている弦一郎をまじまじと見た。
「ひゃふ」
しかしやがて、ふにゃ、とその口元が緩んだかと思えば、みるみるうちに満面の、しかも蕩けそうな笑顔になる。
「ふふふ、さよかぁ。そらおおきになぁ」
「ふん」
弦一郎は目を合わせないが、紅梅は先ほどまでの膨れ面とは比べるべくもないほどにこにこして、「弦ちゃんがそこまで言うんやったらしゃあないなあ」と、とても機嫌良く言った。
その様子を見て、蓮二が更に笑う。
「何が起こるかとは、何が起こるのだね弦一郎」
「うるさい! 知るか!」
完全にぶんむくれている弦一郎に、蓮の上の教授は、親しげながらもにやにやとした笑みを向けた。