──ドサ!
「ふぎゃっ……」
「うぐ……」
二人はまとめてごろごろと転がり、やがて何か弾力のあるものに支えられて止まった。
弦一郎はまだ目を回していたが、三半規管の強い
紅梅は、すぐにぱっと身体を起こすと、辺りを伺った。
そこは青い竹がたくさん生えた竹林で、落ちてきた二人を受け止めたのは積もった笹の葉で、転がっていったのを止めたのは、大きくしなる竹であったようだ。
また、吹き飛ばされたかいあってか、着物はすっかり乾いていた。
「弦ちゃん、元のとこ戻ってきたえ!」
「む……、うん?」
紅梅に揺り起こされ、弦一郎はまだぐらぐらしている頭を振りつつ、身を起こした。
「……おお、あの竹林か!?」
「多分そうやと思うけど……、あっ、あそこのお寿司屋さんで聞いてみよ」
紅梅が指さした方には、『かわむらすし』と力強い筆字で屋号が書かれた寿司屋が建っている。
太郎を見ていないかということ、もし見ていなくてもこのあたりの道を聞こう、と、二人は『かわむらすし』に足を進めた。
「ヘイらっしゃい!」
がらがらと引き戸を開けて中に入ると、壮年の男性と、その息子だろうとすぐわかる顔立ちの、気の良さそうな青年が、異性のいい声を上げて出迎えてくれた。二人共ねじり鉢巻をしてカウンターの中におり、寿司を握っている。
「すみません、客ではないのです。このあたりで、うさぎの耳をつけて、スカーフをした、背の高い男の人を見なかったでしょうか」
「榊太郎はんていわはるんどす」
「あー、榊監督ね。知ってるよ」
息子のほう、隆という名前らしい青年が、優しそうな声で言った。
「ほんまどすか? どこにいてはりますやろか」
「一回家に帰るって言ってたよ。念のため、ラケットを持って行くって」
「ラケット?」
弦一郎が首を傾げると、隆は頷いた。
「うん、テニスラケットをね。女王様がテニス大会を催すんだけど、榊監督はそれに呼ばれてるんだ。急いだほうがいいとは思うんだけど、あんまり急いでなかったねえ」
隆によると、あまり乗り気でないらしい太郎は、急ぐ様子もなく、悠々とここで寿司を食べてから、ラケットを取りに行ったらしい。
「榊監督の家は、この竹林の道を抜けて、少し行ったところにあるよ」
「おおきに」
「ありがとうございます」
ぺこり、と、二人は礼儀正しく頭を下げて礼を言った。
女王様やら、テニス大会やら、よくわからない情報も気になるが、今はとにかく太郎に追い付くことが先決だ。「礼儀正しいちびちゃんたちだねえ」と感心している隆の父にも一度頭を下げて、二人は店を出ようとした。
「あっ、ちょっと待って」
隆がカウンターから出てきて声をかけたので、二人は振り返った。
「なんか大変そうだし、お腹は空いてない? 良かったらこれ、どうぞ」
差し出されたのは、笹の葉でくるんだ巻き寿司だった。
「……ええんどすか?」
「うん、俺はまだ修行中だけど、これぐらいなら普通に美味しいと思うよ」
二人に合わせてわざわざしゃがんでくれている隆は、にこにこしている。
「あの、……これは、食べると身体が大きくなったり、小さくなったりは……」
「え? どういうこと?」
「いえ、なんでも」
弦一郎は首を横に振り、再度きちんと礼を言って、巻き寿司を受け取った。
「じゃあね、……真田君。気をつけて」
隆がくれた巻き寿司は、最初こそどうしても警戒してしまってはいたものの、さすがに色々あっておなかがすいていたこともあって、結局手を付けた。
だが恐れていたことは起こらず、二人の背は伸びも縮みもしなかった。当たり前のことではあるのだが、突拍子もないことばかり起こり続けているので、ことが普通通りに進むことがなんとも心強く、安心をもたらすのだ。しかも、巻き寿司はとても美味しかった。
竹林の傍らで腹ごしらえをした二人は、ほっこりと落ち着いた気持ちで、再度歩き出す。
「ええお人どしたなぁ」
「そうだな。今度は普通に客として来てみたい」
「ほんまに。『かわむらすし』はん、覚えとこ」
「うむ」
手を繋いで、二人は竹林の中をてくてくと歩いてゆく。
そうして竹林を抜け、しかしまだ続く道を歩いてゆくと、物凄く大きな高層マンションと、その手前に立っている、背の高い象牙色のスーツの後ろ姿が見えた。頭には、やはり白くて長い耳。
「たろセンセ!」
紅梅が呼び声をかけながら、手を繋いだ二人は、立ち止まっている太郎の元へ小走りに駆ける。今まで一切反応してくれなかった太郎が初めてこちらを振り向いてくれたので、二人はほっとした。
「あの、榊監督、ここは──」
「どうした、メアリ壇。ラケットはどうした」
「……メアリ壇?」
色々訪ねようとした弦一郎を遮ってよくわからないことを言い出した太郎に、
紅梅が首を傾げる。
「榊監督、メアリ壇とは……?」
「メアリ壇はメアリ壇だろう。メアリ壇太一のことだ」
人名のようだが、なんだかリングネームのようだ。そしてその割になんだか弱そうである。
「試合に出ないなら出ないでも構わんが」
「試合?」
「テニスの試合に決まっているだろう。出場するならラケットを取って来なさい」
二人は目を見合わせて、太郎の言葉の意味を噛み砕いた。
「それは、あの、女王さまが催すテニス大会のことどすやろか?」
「それ以外に何がある」
「たろセンセが出はるんやないの?」
「私は監督だ」
答えになっているのかなっていないのかわからない返答に、二人は頭の周りに沢山疑問符を浮かべて首を傾げる。しかし太郎はどこまでも堂々としていて、その様子を見ていると、まるっきりこちらが悪いように思えてきてしまう。
「とにかく家からラケットを持って来なさい。参加要項もきちんと熟読すること」
「はあ」
「
行ってよし!」
「……とりあえず、ラケット取って来よか」
「うむ……」
どうにも話が通じないので、二人はしかたなく会話を諦めて、太郎の家であるという、高層マンションのロビーに入った。エレベーターに乗って最上階へ行き、このフロアにはひとつしかないという玄関ドアに向かう。
「……なぜ入口がいちいち小さいのだろうか……」
「自分で潜られへんから、壇はんいう子に取ってこい言うたんかな?」
玄関のドアは、子供の二人でも少し無理をしなければ入れないほど小さい。
二人は這うようにして何とか中に入り、ラケットを探すべく、家の中に入っていった。
家の中は近代的で、まさに高級なマンションの一室という感じだった。
「ほんまにたろセンセのおうちや。うち、一回来たことあるよって」
「そうなのか」
「へぇ。お風呂がな、自動なん」
お風呂沸いたら喋るんよ、と言う
紅梅にとってはそれなりに勝手知ったる家らしく、彼女と一緒に、弦一郎は部屋の中をひとつひとつ見て回り、テニスラケットを探した。
手分けして探したほうが効率は良いのだろうが、なんとなくどちらもそれは言い出さず、手を繋いだまま部屋を見て回る。しかし、いくら広いといえどマンションだけあって部屋数自体はさほど多くなく、一番奥まった書斎らしき部屋で、二人は、窓際にきちんと置かれているテニスラケットを見つけることが出来た。
「おお、BABOLATのVSドライブ!」
「弦ちゃん、これ、『女王杯参加要項』やて」
弦一郎が真っ先にラケットに目を引かれたのに対し、
紅梅はその横にある、きれいな紙の書類を手に取った。
ついテニスに関することに夢中になってしまったのを軽く恥じつつ、弦一郎は、
紅梅の手にある紙を覗きこんだ。
【女王杯参加要項】
・場所:女王の城
・参加条件:12歳から15歳の男子
・優勝賞品:この国
・特別ゲスト:跡部王国国王
※規定の年齢に達していない者は、博士もしくは教授に汁等を提供してもらうか、寿司を食べること
「……なんだこれは」
文字は少なく、非常に簡潔だ。しかしそれだけに、わけがわからない。
「お寿司があるえ、弦ちゃん」
紅梅が言うとおり、机の上には『かわむらすし』の折り詰めがあった。
そっと中身を見てみると、さきほど食べた巻き寿司ではなく、つやつやとネタが輝く、美味しそうな握り寿司が五貫並べられている。
さきほどの巻き寿司でかの店の寿司がいかに美味いかを知っており、さらにあの巻き寿司が呼び水になってお腹が空いてきた弦一郎は、ごくりと喉を鳴らした。
「十二歳以下やから、弦ちゃん、参加するんやったら、お寿司食べな」
「うむ……」
「ええと、汁? でもええみたいやけど」
「
汁は嫌だ」
“お飲みなさ乾汁”のひどい味を思い出した弦一郎は、顔を顰めて、首を横に振った。
「お寿司、食べる?」
「まあ、『かわむらすし』の寿司は食べても何もなかったから、大丈夫だろう」
「ほな、お茶淹れよ」
紅梅は勝手知ったる様子で弦一郎を台所に連れて行き、戸棚を開けて、お茶を淹れ始めた。曰く、「たろセンセのことやし、そんなじじむさい事言わはらへんやろ」とのことだ。
じじむさいとは、趣味が悪いとか、けちくさいとか、気が利かなくて無粋であるとか、そういう意味合いの京ことばのようである。
確かに、あの太郎の優雅な様子からして、お茶っ葉の数グラムや湯呑みを勝手に使ったことでいちいち文句を言ってきそうな感じはしないので、弦一郎は、素直に
紅梅の淹れてくれたお茶を飲むことにした。
「いただきます」
「へぇ、おあがりやす」
暖炉のあるダイニングのテーブルで、お茶と寿司をいただく。
寿司を独り占めする罪悪感はあったが、一応“規定”であるらしいし、
紅梅は巻き寿司で腹が膨れているとの事だったので、弦一郎はその言葉に甘え、寿司に醤油をつけて、まず赤身の鮪を口に入れた。
ネタは新鮮で、筋張ってもいない。シャリはほどよい酢の加減で味付けされており、ほろほろと崩れていく。
お茶で喉を潤してから、今度は海苔で帯が巻かれた玉子。こちらもいい具合の厚焼き玉子で、甘すぎず、塩辛すぎず、とても美味しい玉だった。次いで三貫目、いくらの軍艦巻き。これも美味い。
「巻き寿司も美味かったが、握りも美味いな」
「そらよろしおし、た……」
お茶を飲んでほっこりしていた
紅梅であるが、顔を上げて弦一郎を見た途端、目をまん丸く見開いて固まった。
だが寿司に夢中になっている弦一郎は彼女の反応に気付いておらず、四貫目のかんぱちを口に放り込んでいた。
「──弦ちゃん! それ、待って!」
「む?」
紅梅が慌てて立ち上がるが、弦一郎はすでに最後、五貫目の、つやつやのつぶ貝を口に放り込んだところだった。
口をもぐもぐやっている弦一郎に手を伸ばした姿勢のまま、
紅梅は目も口も真ん丸にして硬直している。
ごくり、と、弦一郎が口の中のものを飲み込んだ。
「……すまん、食べたかったのか?」
「ちが、……ええ? 弦ちゃ、……えええ? 弦ちゃん?」
「どうした? ……う、ん?」
なんだか喉の具合がおかしいな、と思い、弦一郎はお茶をひとくち飲んで咳払いをしたが、具合は変わらない。痛いわけではないのだが、と喉に手を当てて、弦一郎は、さらなる違和感に気付いた。
「え……?」
弦一郎はもともと声が低めだが、まだ声変わりはしていない。しかし今出た声はずいぶん低く、触れた喉にもしっかりと出っ張った突起があって、そしてその喉に触れた手も、ずいぶん大きいような気がする。
──いや、気がする、だけではない。
「なん……」
なんだこれは、と立ち上がって、弦一郎は盛大によろけた。
だがそれは身体の具合が悪いということではなく、ぐんと視点が上がった視界と伸びた脚を持て余したからだ。
咄嗟に壁に手を着いた弦一郎は、おそるおそる、近くにあった姿見の前に移動する。
──鏡の中に映っているのは、どう見ても、小学生の少年ではなかった。
ぺたり、と弦一郎が自分の頬に触れると、鏡の中の男も、己の肉の薄そうな硬い頬に触れる。
その手は大きくて骨ばっており、手の甲には、血管が薄く浮いていた。
背丈はおそらく、百八十センチくらいだろうか。ひと目で鍛えていると分かる身体つきで、肩や胸も厚めなので、背丈以上に大きく見える。
「……成長している?」
そう呟いた声は、やはり低い。
まじまじと観察すれば、眉の感じや鼻筋などに先程までの面影も確かに残っているのだが、いかんせん大人っぽくなりすぎていて、変化は十分に劇的だった。
少し猫っぽかった大きめの目は、猫というより猫科の猛獣じみて鋭く、やや濃い目のしっかりした眉が、それを助長している。鼻筋の高さの感じはあまり変わっていないようだが、子供らしくふくふくしていた頬の肉が削げて頬骨の高さが目立ち、耳から顎にかけてのラインがしっかりしたので、とても硬質な印象になっていた。
変わらないのは、成長に合わせて変化した、浅葱色の長着に白の袴という衣服だけである。