【2014 新春特別番外編】
がやがや四天宝寺
「ひぎゃっ……」
「紅梅!」
黒い塊──、立派な角を持つカブトムシは、二人にとっては一抱え以上の大きさだった。
紅梅は持ち前の運動神経で間一髪それを避け、更に弦一郎が腕を強く引っ張ったので暴走カブトムシにぶつかることはなかったが、二人揃って、大きく体勢を崩してしまう。
──ドボォン!
「あー! 白石がなんやちっさいの川に突き落としたでー!」
「ひっ、人聞きの悪い事言うなや!」
「今すぐ助けたるっちゅー話や!」
真っ先にそう言って川に飛び込んだのは、短い金髪の青年だった。
ものすごい速さで走ってきた彼は、その勢いのまま足を止めず──
「右足が沈む前に左足を出しッ! 左足が沈む前に右足を出しッ!!」
誰もが小さい頃に考えはするが、実現は不可能な理論、のはずだった。しかし彼はまさにその理論でもって、いま、確かに水面を走っている。
「今すぐ行くでー! おぶっ……」
──バチィン!
しかし、再度飛んできたカブトムシから額に激突された彼は見事に後ろにひっくり返り、そのままバシャーンと盛大に川に沈んだ。
さすが浪速のスピードスター、見せ場無くなるんも速いわあ、と誰かが言うのが聞こえたが、弦一郎としては、下らん漫才をしていないで早く手を貸してくれ、という思いでいっぱいだった。
小さい体には川は深く、しかも、白くて細いものが身体に絡んで、うまく身動きがとれない。
とにかく紅梅を引き寄せて、一刻も早く水面に上がらなければ──
「ぷは!」
「おー、だいじょぶか!? 怪我ないか!? すまんなー、堪忍やで」
その時、弦一郎を引き上げたのは、さきほど「カブリエル」と珍妙な名前らしきものを叫んでいた声の主だった。弦一郎が軽く咳き込みながら確認すると、彼は弦一郎を右手で抱え、もう片手で、同じように咳き込む紅梅を抱えている。
灰褐色とでもいうのか、アッシュカラーの、少し長めの髪をした青年だった。顔立ちは完璧といっていいほど整っていて、文句なしの美形である。
弦一郎は彼をまじまじと観察し、そして、気付いた。彼自身はなぜか、水の流れで像が歪んで局部は見えないにしろ、明らかに、──全裸だったのである。
「ん、だいじょぶそうやな! んーっ、絶頂(エクスタシー)!」
──変態だ……!
一気に警戒を露わにした弦一郎は、顔を歪め、思わず彼のその秀麗な頬におもいっきり蹴りを入れ、同時に、まだ咳き込んでいる紅梅の手を離すまいと、もう一度握り直した。
「うわー、めっちゃキモがられとるやないッスか部長」
「水ん中で全裸のオッサンに捕まったらそらキモいわ」
いつの間にか側に寄ってきていたゴムボートの上から、口々に声がした。
ゴムボートに乗っているのは、それぞれ違う色のピアスを両耳に五つもつけた冷めた目をした少年と、幅広のヘアバンドと赤いマスクを目元に着けた少年だった。
「白石、キモいで!」
そして、満面の笑みで笑いながら、弦一郎と同じか少し上くらいの年齢の、赤い髪にヒョウ柄のタンクトップを着た少年が、悠々と川を泳ぎながら、元気いっぱいに言った。
「キモいキモい言いなや! 傷つくやろ!」
「せやかてキモいもんはしゃーないッスわ。ちゅーか自業自得やし」
そう返した少年は、携帯電話をかちかちといじりながら、目も合わせず、クールというか、ドライ極まりない様子で言った。
「ええから早よ水から上げたり!」
今まで気づかなかったが、襟足やもみあげを刈り上げ、上の方に残った茶髪を逆立てた青年が、至極常識的なことを言ってくれた。
弦一郎と紅梅は主に彼に手伝ってもらいながら、川に流されつつも、ゴムボートの上に引き上げられる。
「紅梅、だいじょうぶ、か……」
「うん……」
紅梅も弦一郎と同じく白くて細長いものにまみれながら、まだけほけほと咽ているが、怪我はしていないようだ。
それにほっと息をつきつつあたりを見回せば、目指していた竹林はもう景色の中に含まれていなかった。ずいぶん流されてしまったらしい。
「だぁ〜いじょ〜おぶぅ〜?」
向こう岸から、何やらなよなよした男の声が聞こえる。見れば、坊主頭にメガネをした、内股気味の男が、くねくねしながら、大きく手を振っている。
その後ろには、かなり背が高くてがたいのいいスキンヘッドの男と、細身だが更に背の高い、もじゃもじゃした髪型に浅黒い肌の男が立っていた。
「コハルゥウウウウウ!」
バンダナとマスクをした青年が、ハートマークを撒き散らすような声色で叫び、ボートから身を乗り出してぶんぶんと手を振る。
そのせいで大きくボートが揺れたので、携帯電話をいじっていたピアスの青年が凄まじくうざったそうな顔で、「先輩らマジきもいっすわ……」と呟いた。
「あっら〜、小さぁい! かンわゆぅい!」
「はー、こりゃむぞらしかねえ」
ボートを止め、少し丘のようになったところに降ろされた二人は、坊主頭のくねくねした男と、もじゃもじゃ頭の一番背の高い男にそう言われた。
背の高い方はただのほほんとしているだけなのであまり気にならないが、坊主頭の方のテンションに何やら身の危険を感じた弦一郎は、ずざっと身を引いて、警戒を強める。
「ああんカワユイ! ねね、ちょっと抱っこさせてくれへん?」
「こ、断る!」
「ええ〜」
じりじりと距離を詰めてくる、坊主頭の男──金色小春に、弦一郎は限界まで警戒しつつ、腰を落として後ずさる。ただでさえ人形サイズになっているので、普通の大きさのままの彼らは凄まじく巨大なのだ。
「浮気か殺すど!」と、ヘアバンドをした──、一氏ユウジがチンピラさながらに怒鳴るが、小春は全く聞いていないし、弦一郎は身の危険を回避するのにそれどころではない。
「それにしたかて素麺まみれやで。やっとれんわ」
「川で流し素麺なんぞ無謀やて言うたやん」
「せやかてオサムちゃんが……」
弦一郎らの身体に絡んでいた白くて細長いものは、どうやら素麺だったらしい。二人にとっては細めのロープくらいの太さがありはするが、水を吸って柔らかくなっている素麺は、ぷちぷちと千切れて簡単に取れる。
二人は協力しあってお互いの身体に絡んだ素麺を取り払い、そのさまを、もじゃもじゃ頭の男──千歳千里が、「ほんにむぞらしか〜、アリエッティ〜」と言いながら、しゃがみ込み、蕩けそうな表情で眺めていた。
「それにしても、なんでそない小さいん?」
「好きで小さいわけではない……」
立て続けに起こることにげっそりして、弦一郎はため息をついた。
「まあ、牛さん食うたら大きなるやろ!」
赤い髪の小柄な少年、遠山金太郎が大きな声で言い、焼きたての肉の山を盛った皿を、二人の前に豪快にドンと置いた。ふと見ると、いつの間にかキャンプファイヤーのような焚き火が用意され、その火を使って、焼き肉パーティーが始まっている。
まだじゅうじゅうと音を立てている肉の山は、今の弦一郎と紅梅にとっては、本当に小山のごとしである。
二人が唖然としていると、スキンヘッドの大男──石田銀が、「金太郎はん、小さいんやからもっと食べやすうしたらなあかん」と言って、キッチン鋏を使い、肉を小さく切り分けてくれた。
「……ありがとう」
「えろぅおおきに」
別に肉が食べたいわけでもないのだが、出されたものだし、身体も冷えているし、何より銀の親切を断るのは気が引けたので、二人は彼に丁寧に頭を下げてから、食べやすく切られた肉にかぶりついた。
「お……!?」
「おー! ほんまに大きなった!」
「ほらなー! 肉食うたらなんとかなんねん!」
肉を食べたとたん体の大きさが元に戻った二人は、きょとんとして、目線が近くなった彼らを見渡した。二人に肉を分けてくれた金太郎は、相変わらず満面の笑みで、顔の輪郭が歪むほど口に肉を詰め込んでいる。
「せやけど、大きなってもまだ小さいな〜。これが何年か経ったらああなるんかー」
「なー。真田君も小っちゃい時はこんなかわいかってんな〜」
「……俺のことを知っているのか!? ……っ、服を着ろ!」
振り向いた先の男──、白石蔵ノ介という名前らしい彼が相変わらず全裸なので、弦一郎は素早く紅梅の視界の前に立ちはだかり、そう怒鳴りつけた。
「そう言われてもなー、服持ってへんし」
「なぜ持っていないんだ!?」
「最初から全裸やったら、こうして急に川に飛び込むときも煩わしくないやん? 無駄ないやん?」
「…………そうか」
弦一郎は、すうっと目を細めて低い声を出し、完全に冷めたというか、理解を諦めた目をして顔を逸らした。
「アカン、完全に変質者を見る目や」
「まあまったくフォローでけへんけどな」
彼の仲間たちが、ひそひそと言い合う。いつの間にか蔵之介の頭に留まったカブトムシが、ギチギチと硬質な音を鳴らすのが聞こえた。
「いや、でも、女の子もおるしな。前だけでも隠しぃや、白石」
先程も常識的なことを言った男──、小石川健二郎というらしい彼がそう言い、皆が頷く。しかし、皆比較的薄着で、蔵之介に貸せるような余分な衣類を身につけていない。
「う〜ん、誰も何も持ってへんか〜。まあ無駄なくてええこっちゃけどな」
「あっ……、こ、これならあるぞ!」
一郎ははっとして、紅梅の目を覆ったまま、自分の腰に結びつけていた白い布を外し、蔵之介に放った。
「やる。俺はいらんから」
「そうなん? おおきになー」
そして、蔵之介が広げたのは、フリルがたくさんついた白いエプロン。いそいそとそれを装着すると、少なくとも前から見るぶんには、隠すべきところはきちんと隠された。
その有り様に、弦一郎は「捨てずにおいてよかった」とほっとした。──が、他のメンバーはもちろん、衝撃を受けた顔で固まっている。
「おいおいおいおい裸エプロンて!」
「アカンでこれ……アカンやつや……全裸よりアカンやつや……」
「しかも濡れてて若干透けとるしな……」
「やん、蔵リンセクシー」
「部長ほんまきもいっすわー」
しかしとりあえず紅梅は弦一郎の背の後ろから出され、「助けてくれはっておおきに」と礼儀正しく頭を下げた。──とはいっても、紅梅が川に落ちたのは、蔵之介のカブトムシが原因であるのだが。
「肉もええけど、川に入ったやつは、ちゃんと身体乾かしぃや。風邪引くで」
健二郎が、またも常識的かつ良心的なことを言った。弦一郎はすっかり彼らを変人と変態揃いの面々だと認識しているが、健二郎と銀、あと金太郎に関しては、比較的好印象を抱いているので、彼の言うことには従うことにした。
「うむ、紅梅、焚き火にあたっておこう。すぐには乾かんかもしれないが──」
「へぇ」
「そやったら、走ったらええねん!」
そう言ったのは、最初に二人を助けてくれようとした、金髪の青年──忍足謙也である。彼もまた水に入ったせいで前身びしょ濡れだが、肉を頬張ってもぐもぐやっており、同時に軽快な足踏みも行っている。忙しない。
「火の周りでグルグル走るんや! 服も乾くし、動いとったら身体も冷えんし、一石二鳥っちゅー話や!」
「そやけど、走りながら食べるんはお行儀悪おすえ?」
「あっ、すまんすまん」
握りこぶしを作り、口から焼肉のタレを飛ばしながら力説していた謙也は、紅梅に注意され、ぺこりと頭を下げて皿を置き、きちんと口の中のものを飲み込んだ。
なんだか勢いの有り過ぎる人物だが、小さな少女から行儀の悪さを指摘されて素直に謝るさまは、わりと好感が持てる好青年ぶりである。
しかし、特に腹が減っているわけでもないし、体の大きさも元に戻ったので、二人は謙也と一緒に、火の周りを走ることにした。
同じくずぶ濡れだったはずの蔵之介はもともと全裸だった上、薄手のエプロンもすぐに乾いてしまったらしく、「せやから俺は無駄ないて言うてるやん」と言いつつ、もりもりと肉を食べている。タンクトップに短パンという軽装だった金太郎も、服はほとんど乾いているようだ。
「ほないくでー!」
先ほど水の上を走るという信じられないことをやってのけたのでわかってはいたが、謙也はすさまじく足が速かった。
「はっ、速っ……」
よく考えなくてもとてもついていけないスピードであるはずなのだが、謙也の背中を見ながら走ると、なぜだか彼と同じスピードで走ることが出来る。
「調子出てきたでー!!」
「速っ、速い、うわっ……」
「弦ちゃん、手、わわわ」
しかし、手を繋いだまま、焚き火の周りという狭いところを物凄いスピードで走っていると、変な遠心力がかかって、直ぐに目が回ってきた。周りの景色の色は混ざり、もはや進行方向に流れる線の集合体にしか見えない。
そして、ブゥン、という、聞き覚えのあるモーター音のような羽音がした。
──バチン!
「痛っ!!」
「きゃー!!」
こめかみに激突してきたカブトムシによって、弦一郎が体勢を崩す。
そして超スピードでグルグル回っていたところに加えられたその衝撃により、まるでぶつかった独楽が負けて場外に吹っ飛んでいくようにして、紅梅と手を繋いだまま、二人揃って思い切り宙に投げ出されてしまった。