#099
★メイプルキティの冒険★
14/24
「ふう、ごちそうさまでした! では会社に行きましょう!」
最後のひとくちを食べ終わり、ガブリエラが立ち上がる。
「カエデ、まずシスリー先生のところに行って、健康診断とカウンセリングです。終わったらクラークさんとマネージャーにご挨拶をして、そのあとはパワーズに行きましょう。カエデのエンジェルウォッチをお願いしています」
「うっ、人に会うの……」
肉眼で確認できない微生物程度なら耐えられるようになったものの、大きな生き物、特に人の気配がとにかく恐ろしく、アスクレピオスに入ってからもガブリエラにべったりしがみついて他人を避けていた楓は、腰を引かせて青ざめた。
「いつまでも避けていても、しょうがありません。触らなければ平気だということは、説明しましたね?」
「でも……」
「むぅ、説明してもわからない? ならば実際にやるしかありません。行きましょう」
「あああああああ」
ガブリエラは、楓をぐいぐい引っ張っていく。楓はおそらく抵抗したいのだろうが、ガブリエラの手を離すのも恐ろしいために、ただへっぴり腰になってガブリエラについていった。
「大丈夫ですよ。皆さん良い人です。そうでなくても、普通の人です」
ガブリエラは妙にはっきりと言い、楓を引っ張っていく。そしてその後ろを、あえて少しだけ距離を取りながら、ライアンがついていった。
「直接お会いするのは初めてですね。シスリー・ドナルドソンです」
「ひっ、ひいい」
穏やかそうな年配の女性医師は、100人中100人が警戒心を捨てるだろうというほど柔らかい雰囲気の持ち主だ。しかし人間、いや生物だというだけで恐怖を覚える状態の楓は、ガブリエラの背中に縋り付いて必死に距離を取る。
「大丈夫ですよカエデ! シスリー先生はとても良い先生です。さあここに座るのです。ご挨拶をするのです!」
「ううう」
ガブリエラの説得に、楓はおそるおそる彼女の影から顔を出す。椅子に座っている小柄な女性医師はちんまりとしていて、穏やかそうで、まるで無害そうな雰囲気を放っていた。
それから数秒まごついたものの、楓はやがて腕の力を抜き、ガブリエラにしがみつくのをやめて、おそるおそる椅子に座った。
「おおっ、えらい! えらいですよカエデ! ひとりで椅子に座りました! すごい! えらい!」
「えらいですね〜」
「うう」
まだ完全には抜けていない恐怖感、そして幼児のように扱われている羞恥に、楓は涙目である。
「ほら、カエデ! ご挨拶です!」
「か、か、鏑木、楓です。よ、よよろしくお願いしま、す」
「はい、よろしくお願いします」
いくらか冷静になって意地と羞恥が戻ってきたせいか、何とか挨拶ができた楓に、シスリー医師が微笑む。
「では、健康診断を始めたいのですが。……楓さん、採血をしたいのだけど、注射は大丈夫そう?」
「絶対無理です」
楓は、青くなった顔をぶんぶんと横に振った。生物の気配だけでも恐ろしいのに、実際に他人に触れられる上に物理的に血まで抜かれるというのは、恐慌状態、パニックに陥りかねないほどの恐怖だった。
「眼球検査もだめ? アンジェラに後ろから抱えてもらって……」
今度は対処法もセットで提案されたが、やはり楓は首を横に振る。NEXT能力は発動する時に眼球に発光現象が見られるため、特殊な波長のライトを当ててその反応を見る検査は一般的なのだ。
「う〜ん、では仕方がないですね。スキャンだけにしましょうか」
「いいのですか?」
ガブリエラが、首を傾げて言う。
「無理をして多大なストレスを与えるのも良くありませんからね。この間、マイヤーズ先生が取ったデータはこちらでも受け取っていますし」
「そうなのですか。シスリー先生がおっしゃるなら」
「今日はまずお話をして、その後スキャンして終わりましょうね。では楓さん、いくつか質問させてもらってもいいでしょうか」
「は、はい」
そうして、楓はシスリー医師のゆっくりとした質問に答えていった。
多くはガブリエラとの比較のための質問で、本来の能力の持ち主である彼女とどこがどう違うのか、ということを確認する内容だった。
「なるほど、非常に興味深い。楓さんは説明が上手ですね」
「そうなのです! カエデはとても賢いのです!」
暗に説明が下手だと言われているにも関わらず、ガブリエラはそのとおりだと言わんばかりに頷いて言った。
「私が前から思っていたことを、カエデが言ってくださるのです」
「それはそれは。こちらとしても助かります。楓さん、気がついたことや疑問に思ったことは、なんでも言ってくださいね」
「はい」
楓は頷く。これは、ルーカス医師にも言われていたことだった。
NEXT能力は千差万別で、同じ能力が被ることはなくもないが、珍しい。
バーナビーがデビューした時、ワイルドタイガーが解雇されずにバディとして売り出されたのも、能力が同じであるのは珍しく、そして同じ能力であるだけに比較がしやすくバーナビーの引き立て役として適任である、とみなされたからだ。今となっては、引き立てどころか相乗効果を発揮しているが。
そしてガブリエラの持つ能力は、今のところ世界でも報告例のない唯一のものである。楓の能力とイワンの能力のように、類似点のある能力もほとんどない。
そのため詳細なサンプルデータがないというのに、肝心の本人が超感覚派の説明下手。物理的な検査でわかることも色々あるが、やはり本人の感覚がどうなっているかも重要なのだ。
その点、作文が得意な方で、フィギュアスケートで表現力も鍛えられている楓なら、少なくともガブリエラより詳細かつ的確に自分に起こっていることを伝えられる。ガブリエラの能力をコピーした楓がより多くの報告をすることは、ガブリエラの能力を解明する大きな助けにもなるのだ。
また単純に、違う人間でありながら同じ能力を持つふたりを比較しながら観察しデータを取ることは、その能力の詳細を把握する切り分け実験として、大きな助けになる。
これこそが、クリスマス前で大変な時期にガブリエラが楓を預かることにアスクレピオスが許可を出した理由のひとつでもあった。
「しかし、こんなに人が怖いようでは大変そうですね。アンジェラ、あなたも最初はこうだったのですか?」
何とか背筋を伸ばそうとしているものの、衝立の向こうにいる看護師たちの足音だけでもびくびくしている楓に、シスリー医師はガブリエラに話を振った。
「はい、そうですね。私も最初はこんな感じでした」
「どうやって克服したのですか?」
「慣れです!」
「慣れ。……楓さん、慣れそうですか」
身も蓋もないガブリエラの言葉を受けてシスリー医師が聞くが、楓はショックを受けたのか、悲痛な顔をしていた。とてもそうは思えない、というのがありありと分かる表情である。
「大丈夫ですよ。アンジェラは使いこなせているのですから」
ゆったりとそう言ったシスリー医師に、楓は顔を上げる。
「単純な話ですよ。この能力を使いこなしているアンジェラをよく観察して、その真似をすれば、同じように使いこなせるということ」
「確かに、そのとおりです!」
ガブリエラが、深く頷いた。
「……NEXT能力は、その人の本質ととても深く関わりのあるものです。その制御のためには、自分がどういう人間なのか見つめ直すことが必要になります」
前言ったことと同じことを、シスリー医師は繰り返した。
「私からのアドバイスは変わりません。アンジェラをよく知ることです」
「……ギャビーを?」
「そう。私はNEXTではありませんが、NEXT医学の医師であり、NEXTのみなさんのカウンセラーをしています。私がまずすることも、患者の皆さんのお話をよく聞いて、観察し、思い込みをせずに想像力を働かせること」
世界的にも有名なNEXT医学の権威のひとりは、穏やかに言う。
「ですから、あなたもアンジェラのことをよく観察して、たくさんおしゃべりをして。一緒に遊んだり、食事をしたり、色々なことをしてみるといいでしょう。アンジェラも、そんな風にしてあげて」
「はい! わかりました!」
ガブリエラは、にっこりした。
「師匠になるとはどういうことかと悩んでいたのですが、そのようにすればいいのですね! それなら私にもできます!」
「あらアンジェラ、師匠なのですか」
「師匠なのです」
責任感の滲み出たきりっとした顔になって、ガブリエラは頷いた。
「そう、それならなおさらですね。弟子は師匠をよく見て技を盗むものですよ」
「なるほどー」
わかっているのかいないのかよくわからない顔で、ガブリエラが呑気に頷く。
「かんさつ……」
楓は、ガブリエラを見上げる。
視線に気づいたガブリエラは、不安そうな楓に、真正面からにっこりと笑いかけた。
「違う人間でありながら同じ能力を持ったふたりを調べることで、その能力の詳細がよく分かるようになる。それはつまり、逆に言えば、同じ能力を持つことでふたりの違いもよくわかるということでもあります」
シスリー医師は、そう言った。
ガブリエラにできて、楓にできないのはなぜか。何がどう違うのか。それを観察することは、あなたたちそれぞれの本質そのものを切り分け解明していくことにもなるのだと。
「アンジェラを観察し、よく理解することで、あなた自身のこともきっとよく分かるようになるでしょう」
こうして、シスリー医師のところを退室した後。
ライアンと合流し、楓はアスクレピオスホールディングス・シュテルンビルト支部におけるトップであるダニエルに挨拶をした。
「すげえな。ほんと、昨日まで別の子だったみてえ」
ガブリエラの後ろに隠れてその腰や背中にしがみつき、ろくに挨拶もできない楓を見て、ライアンが言った。呆れたとか失望したというのではなく、単に驚いた声だ。つい昨日まで、大人っぽくてしっかりした素晴らしい優等生ぶりだった楓が、人見知りな赤ん坊のようになっている。
同じお偉いさんへの挨拶でも以前アポロンメディアのロイズにした挨拶とは雲泥の差だったが、自分も娘がいるというダニエルはおおらかに楓を受け入れた。とはいえ、彼の娘がまだ小学校にも上がっていない年齢だと聞いて、楓は逆に落ち込むはめになったのであるが。
そしてまた、彼らはアスクレピオス社内を揃って移動する。
「あ、この子がカエデちゃん? よろしくね〜」
「ひぃ!!」
ガブリエラの後ろに隠れていた楓は、短く悲鳴を上げて青ざめた。壁になっているガブリエラの後ろをひょいと覗き込むようにして挨拶してきた男性は、パワーズの副主任であるバート・オルセン氏。
「美少女に怖がられた……」
両手の人差し指をいじいじとすり合わせながら、副主任はわかりやすく落ち込んだ。
「だめですよ、カエデ! オルセン副主任にご挨拶をするのです!」
「ううっ、ご、ごめんなさい」
振り返って楓に注意するガブリエラ、震えながら謝る楓。そんな彼女らに、副主任は「全然いいよぉ!」と舌まで出しておどけたポーズを取ってみせた。
彼は、ヒーロー事業部に配属されパワーズでホワイトアンジェラ関連のものを作る前は、義手や義足、また車椅子などの設計・開発が本職だった男性である。
しかも、そういったものを必要とする人々が負い目を感じない、むしろそれを自慢に出来るように、ロボットのようなギミックがついている少年用の義手や、スポーツカーのようにスタイリッシュな男性に人気のデザイン。女性向けとして一部が優美なレースのように透けていたり、マニキュアを塗ったり剥がしたり出来る指先を開発したりしたことでいくつもの賞を獲得しており、患者の要望をヒアリングするため、コミュニケーション能力も高い。
「時間が短かったから少しだけだけど、ちょっとデザインを変えたんだ。カエデって、メイプルって意味だよね? あとタイガーの娘さんだっていうから、にゃんこのキャラクターにしといたよ。頑張ってね」
「ワォ、とてもかわいいです! カエデ、良かったですね!」
ガブリエラが彼から受け取ったのは、楓のデータがインプットされたエンジェルウォッチである。見ると確かに、かわいい子猫のナビ・キャラクターが画面内で動いている。しかも楓の葉の飾りがついた首輪をしていて、芸が細かい。
「あ、ありがとうございます……」
見守るような目をしている副主任に、楓は何とかちゃんと礼を言った。ガブリエラは「ちゃんとお礼が言えましたね! えらいですよ!」とにこにこ顔で褒めながら楓の手を取り、手首にエンジェルウォッチをはめてやる。動作に問題がないかもチェックした。
「よしよし、問題ないね。……で、ゴールデンライアンは何してるの」
2、3歩離れたところでしゃがみこんで目線を下げ、片手で持てる家庭用ビデオカメラを構えているライアンに、バート主任は訪ねた。
「何って、ビデオ撮ってんだよ」
「子煩悩なお父さんみたいな姿だよ君」
「冗談。大丈夫なのかって、ホンモノのおとーさんが心配してんの」
「ああ、なるほどね。確かに子煩悩そうだもんね、彼」
「ルーカス先生からも、なるべく記録とっといてくれって言われてるしな」
主観的なレポートよりも動画のほうがいいかと思って、と言って、ライアンはビデオカメラを構え直す。
「お嬢ちゃーん、調子どう〜?」
「が、頑張る……」
「あれ、ゴールデンライアンにはちょっと慣れてるんだね」
手を振ってきたライアンに対し、へっぴり腰ながらも片手を上げて応えた楓に、バート副主任が感心する。
「その調子ですカエデ! では他のパワーズの皆さんにもご挨拶しますよ。お菓子を配るのです!」
「うわああああん人がいっぱいいるぅううう!」
「お菓子を渡すのは私がします。カエデはご挨拶するだけ! 触るわけではないので大丈夫です。ほらちゃんと立つのです! 腰抜けから死ぬ! 教えましたよ!」
ぎゃあー、と叫ぶ楓を、ガブリエラはパワーズの研究室に引っ張っていく。もし能力が暴走しても、他人には全く被害が及ばないゆえの暴挙である。
「……アンジェラ、意外にスパルタだね」
容赦のないガブリエラに、バート副主任がぼそりと言う。
「さあ次はスローンズです! 私のバイクの後ろに乗ることがあるかもしれません、ヘルメットを借りておきましょう! それが終わったらドミニオンズ!」
半泣きで挨拶回りに引きずられていく楓を、ライアンがビデオカメラで撮影し続ける。「がんばれ〜」という完全に他人事じみた声が、ビデオカメラに度々収録されていった。
──BLEEP!! BLEEP!!
スローンズの挨拶回りが終わり、次はドミニオンズに──というタイミングで、BLEEP音が鳴った。出処はもちろん、ガブリエラとライアンそれぞれの手首にあるヒーロー専用PDAである。
《──Bonjour HERO !! シルバーステージで強盗事件発生。逃走時に使用された爆弾のせいで建物に引火したわ。R&Aは医療スタッフと連携して怪我人に対応。他のヒーローは犯人の確保と、ビルの上に固まってる被害者の救助!》
「了解」
「了解です!」
きびきびとしたアニエスの通信に返事をすると同時に、ふたりが走り出す。楓もガブリエラに引っ張られ、必死で走った。
さすが自社ヒーローと感心するような最短ルートで、あっという間に専用エリアにあるアスクレピオスホールディングスのトランスポーターに辿り着く。ヒーローの送迎を行うために各社が抱える大型トレーラーだが、ふたり分のヒーロースーツの装着チャンバーが設置されているためか、そこらのバスよりも大型の車両である。
「急げよ!」
ライアンはそう言って、すぐにスーツの装着チャンバーに飛び込んでいく。ガブリエラは車内の短い階段を駆け上がり、2階建てになっているポーターの上に設置されたラウンジエリアに楓を放り込んだ。
「ではカエデ。私たちが仕事をする間、ここでひとりで待っていてください」
「う……」
「おなかがすいたときの非常食はここ。飲み物はこちら。しかしお手洗いはないので気をつけて」
本来なら今すぐ飛び出してヒーロースーツの装着チャンバーに飛び込むべきところである。急いで説明するガブリエラに、楓は息を呑む。
事件が起きて出動要請がかかり、ガブリエラがホワイトアンジェラとしてヒーローの仕事をする間、楓はひとりで待つことになる。そしてコピーした彼女の能力の特性上、以前のように誰か側につくことは出来ない。
事前に話し、納得したはずのことだった。だがいざそうなると、不安でたまらない。ガブリエラの手をぎゅっと握りしめる楓の手をそっと外し、ガブリエラは彼女の両肩を掴んだ。
「ポーターは密室です。法律で決まっているので、外にSレベルNEXTのアークの方にひとり待機して頂きます。しかしエンジェルウォッチを通じてあなたのバイタルサインに異常が見られない限り、この部屋には入ってきません。わかりましたか?」
ギリギリまで顔を近づけて、ガブリエラは淡々と言う。
灰色の目に吸い込まれそうになりながら、楓は何とか頷いた。ガブリエラが、にっこりと笑う。ふたりの額と額が、こつんとぶつかった。
「あなたならできます、カエデ。私は必ず戻ってきます。それまで我慢です。待っていてください。WAIT、あなたは“待て”が出来る子。そうですね?」
「……う、ん」
「良い子ですね、カエデ。では行ってきます」
楓の両頬を薄い手で包むようにして言い、ガブリエラは飛ぶようにしてラウンジを出ていった。
「お待たせしました!」
ヒーロースーツ装着チャンバーに飛び込んだガブリエラは迷いなく服を脱ぎ、パックに入った極薄のアンダースーツに足を突っ込む。変な皺が入らないようぐいぐい引っ張りながらアンダースーツを装着し、最後にアンダースーツに入っている目印のラインが身体に沿っているか確認する。そして、フル装甲のスーツを装着する装置に身体を滑り込ませた。
「ゴールデンライアン、スーツ装着完了! ケルビム! ポーターとチェイサーどっちだ!?」
ひと足先にヒーロースーツを装着し終わったライアンが、声を張り上げた。
R&Aの最優先は、人命救助である。その際、ヒーローふたりだけでも先に現場に到着したほうがいいか、専門知識のある医療スタッフや設備とともに到着した方がいいのか、という判断が必要になるのだ。
そしてその指示請求に、アスクレピオスの各種医療設備の揃った遠隔指示ルームに揃ったケルビム担当医師たちは、すぐに応じた。
《不完全燃焼の火災であるという情報があります。一酸化炭素中毒患者が多いことが懸念され、治療法は酸素吸入や高圧酸素療法。携行するボンベを増量中。あと2分かかります》
「んじゃ、俺たちだけチェイサーで先行。アンジェラが保たせる間に、医療スタッフはボンベ持ってカーゴポーターでついてきてくれ。聞いたかスローンズ! 急げ!」
ゴールデンライアンの指示に、スローンズたちが威勢のいい了解の返事をする。
「急げ、野郎共! 速ければ速いほどいい!」
「速ければ速いほどいい!」
「人助けは速さが命!」
「人助けは、速さが命!」
スローンズの主任が声を張り上げ、スタッフたちが一糸乱れぬ復唱を行う。その言葉通りにあっという間に用意が整い、ピカピカのエンジェルチェイサーがポーターの真横に着けられた。
「ホワイトアンジェラ、スーツ装着完了です! モードチェンジ!」
《──Thrones mode!!》
まずアンジェラがエンジェルチェイサーにまたがると、ヒーロースーツから機械音声が響く。スーツの各所が変形し、アンジェラとチェイサーが一体化したようなフォルムになった。そしてその後部座席に、ゴールデンライアンが堂々と跨る。
「Angelraid!」
「Angelraid!」
「Angelraid!」
スローンズのメカニックスタッフたちの、力強いコールが響く。
「さーて。犯人確保ポイントが危うい分、イチバン乗りの現場到達ポイントはいただくぜ、気合は充分か、犬(Doggy)?」
「当然です」
フォオオオオオン! と、全くノイズのないクリアなエンジン音が上がった。
「──ふふ」
メットの下から、熱に浮かされたような小さな笑い声。
それを聞いたのは、彼女の腰を抱えて密着しているゴールデンライアンだけだった。
《さすがのエンジェルライディングーッ!! R&A、安心の一番乗り! ポイントが入ります! さっそく救護テントに向かっております》
備え付けのモニタが、HERO TVを流している。しかし楓はその画面を見ることなく、アスクレピオスのポーターラウンジのソファの上で膝を抱え、ぎゅっと小さく縮こまっていた。
(──こわい)
生きとし生けるもの全てが恐ろしかった。先程の挨拶回りも、数をこなしてある程度慣れるかと期待したが、全くそうとは思えなかった。
薄いスライドドアの向こうには、人の気配。彼か彼女かが、SレベルNEXTであるアークのひとりだろう。絶対に近寄ってこないとは言われているものの、生命の気配だけでも楓には恐怖だった。また走るポーターの外にも、流れ行くたくさんの市民たちの気配がする。
《到着と同時に、ヒーローたちが消化組と犯人確保組に迅速に分かれます! ポイントよりも事件解決を優先し、協力し合う姿。当然ながらさすがです。犯人たちが分散して逃げたことが市民の不安を煽ります。──人質をとって逃げた犯人もいるとの情報が入りました!》
昨日からガブリエラと過ごして、楓は彼女がとても良く自分の面倒を見てくれている、と感じていた。
楓が何か反応すると、ガブリエラは何も言わなくても強めに引き寄せてくれたり、レトルトの食事を用意してくれ、スプーンに乗ったジャムを口に放り込んでくれる。
ガブリエラがいなかったら、自分はおそらく、恐ろしさのあまり赤ん坊のように泣き喚くしかできないはずだ。彼女の能力がもたらす様々な感覚に翻弄されながらも、賢い少女はそんな認識がきちんとできていた。
ガブリエラが常に先んじて楓に対処できるのは、明らかに、今の楓が自身も通ってきた道にいるからだ。
例えば今も、アスクレピオスの無菌室で楓を待たせる事もできたはずだ。だがガブリエラはそうせず、楓をポーターで待たせた。それは車というものが安心できる場所だと知っていたからではないだろうか、と楓は思う。
頑強な鉄で作られた走る密室は楓にとって安全地帯で、ただ部屋で待たされるよりも心強い。部屋だと、逃げ場のない状態で入ってこられたらもうおしまい、という気持ちになるのだ。その点車なら、高速で走っていれば人は絶対に入ってこられない。止まっている時に誰かが近寄ってきても、そのまま走って逃げることが出来る。
楓が乗っているポーターはもはや事件後にしか役目がないため割とのんびりと道を走っているが、楓はもっと速く走って欲しかった。誰も手を伸ばせないくらいに。
とにかく他人が恐ろしかった。今の楓にとっては、人肌よりも固い鉄の壁、体温よりも、駆動によって温まった機械熱。ゆったりした心臓の音よりもエンジンの轟音のほうが安心できた。知らない人に抱かれると泣き喚く赤ん坊が、ゆりかごの中では眠れるように。
──彼女も、車をゆりかごにしたのだろうか。
うう、と楓は震えながら唸った。
すべての命が恐ろしい。命は尊いもの、かけがえのないものであることもわかっている。ましてやそれが父親や世話になっている人、友人、親しい人々であれば尚更。
しかしそうであっても、今の楓には彼らに対してまず恐怖を感じてしまう。なぜなら彼らを含め、この星の全ての命が、間違いなく楓の命を奪う存在だからだ。楓は、この車の中、この星の上にたったひとり。
「う……」
ぽろり、と楓の目から涙がこぼれ落ちた。
走る鉄のゆりかごは、安全だ。安全だが、楓はひとりきり。外に出れば、何かに触れようとすれば、ありとあらゆる生命が楓を貪り食らうだろう。父親の虎徹でさえ、それは例外ではない。
そしてそれを思うと、どうしようもなくつらかった。外に出るのはとても怖い。まさに死ぬほどに怖い。しかし、この狭い鉄の密室にいることもまた、心臓がぎゅうと締め付けられるようだった。
なぜなら今、楓はひとりきりだからだ。
「……さみしい」
ぐす、と楓は洟をすすりあげた。
安全な鉄のゆりかごは、安心ではある。しかし、どうしようもなく寂しかった。
外にいる沢山の人々。自分以外のすべての命は、楓に優しい存在ではない。すべての生命が捕食者で、自分は被捕食者。
世界に、ひとりぼっち。
──そうですか。私はあまりひとりになるのが好きではありません
砂糖がけのドーナツを食べながら、実感の篭った様子で言った彼女。
──ひとりは寂しいものです。ちっとも楽しくない
彼女もかつて、ひとりぼっちの寂しさに泣いただろうか。
この寂しさに、彼女はどうやって耐えたのだろう。ガブリエラのことを思い出そうとして頭に浮かぶのは、人に構ってもらって嬉しそうにしたり、雪を楽しみにしてはしゃいだり、美味しそうにドーナツを食べたり、子供か犬のようにボールを追いかけたり、耳あてやマフラーが温かいとにこにこする、楽しそうで、幸せそうな姿。
ひとりは寂しいと言った彼女がどうやって寂しくなくなったのか、楓には見当もつかなかった。
──私はライアンが好きですので、いつも一緒にいられるのは嬉しいです
彼が運転する車の中で、幸せそうに眠っていた彼女を思い出す。
ガブリエラは、なぜああも無防備に眠ることが出来るようになったのだろう。
《ワイルドタイガー、無事に人質を救出! 犯人はバーナビーが確保! さすがのコンビプレーが光ります!! 救助ポイントと犯人確保ポイントがそれぞれに入ります》
モニターには、人質になっていた子供を抱えているワイルドタイガーが映し出されている。助かって良かった、と思う。自分を傷つけ利用するしか考えていない犯人たちにとらわれて、あの子がどれだけ怖かったか、楓にはわかる。だが同時に、やるせない気持ちにもなった。
心細くて、怖い思いをしているのは、自分も同じなのに。
虎徹が出来る限りのことをしてくれているのは、痛いほどわかっている。スケートの発表会、授業参観、誕生日。絶対に帰ってきてねと言っても、虎徹は約束を破ることが多い。しかし楓が危ない目にあった時は、絶対に助けに来てくれた。ひとりにしないでおいてくれた。
しかし、虎徹にもどうしようもないことはある。だからこそ、彼はヒーロー仲間に助けを求めたのだ。娘を自分の手で助けることが出来ない無力感に苛まれながら、虎徹が無理やり笑顔を作って元気づけようとしてくれていることも、楓はちゃんと理解している。
──辛かったら泣いてもいい。我慢と、隠し事だけはしないでくれ
そう言った虎徹に、お父さんが言うかなあ、と楓は返した。そして、今でこそやはりそう思う。我慢せざるをえないこと、隠さざるをえないこと。──「助けて」と言えないことが、人にはあるのだ。もちろん、楓にも。
NEXTは学校に来るなと言ってきたクラスメイト。だが楓が学校に行かないことを決めたのは、その子の言葉があったからではない。そんなことないよとかばってくれた子の目の奥にも恐怖の色があるのを感じた時、楓は学校に行くのをやめた。
迷惑だと、恐ろしいと言いながら楓を避ける、アポロンメディアの社員たち。かわいそうだと言う人も、結局はこちらを見下しているからこその同情だ。子供でもNEXT、しかもSSだと慄きながら、子供だから何を言ってもわからないと思っている人々。
「なんで、私、ばっかり」
きっかり5時に仕事を終わらせて帰ってくるというクラスメートの父親を羨ましいと思ったことも、何度もある。
だが、そんなことを言えるはずがない。言えば、きっと虎徹は悲しそうな顔をする。申し訳無さそうな顔をする。楓は、そんな顔が見たいわけではない。そしてそこで虎徹がヒーローとしての仕事を放り出して自分のところに戻ってきても、やはりヒーローとして楓を置いて他の人を助けに行っても、楓も虎徹もつらいだけだ。
楓さえ我慢すれば、何もかもうまくいく。なら、我慢するしかない。ひとりきりのゆりかごで、楓はそうやってまた言葉を、思いを飲み込んでいく。
「……お父さん」
楓や安寿、家族と離れ、シュテルンビルトでヒーローとして仕事をする虎徹。ぎっしり詰まったスケジュール。散らかった、眠るだけの部屋。楓がこうしてひとりで家を出て、虎徹もまたあの部屋で、寂しい思いをしてきたのだろうか。──いや。
「おかあさぁん……」
ぽろぽろと、涙がこぼれていく。
こうして寂しさに泣くのは、どのくらいぶりだろう。
「しょうがないわねって、私のところにも、来てよぅ……」
しかし聞こえるのは、心なく頼もしいエンジンの音だけだった。
★メイプルキティの冒険★
14/24