#098
★メイプルキティの冒険★
13/24
「……で、どう? うまくいきそう?」
「うぁっ、は、はい!」

 運転席でハンドルを握るライアンからの問いかけに、楓は明らかに大丈夫でなさそうなひっくり返った返事をした。バックミラーに映っているライアンの表情が、苦笑に変わる。
 ガブリエラに手を引かれてトレーニングタワーを出た後、ジャスティスタワーの駐車場で待っていたのは、愛車に乗ったライアンだった。彼の運転する車の後部座席に楓はガブリエラとともに乗り込み、いまガブリエラの部屋に送ってもらっている。
 先日の騒動があったためにスケジュールが詰まり、昨日も夜遅くまで仕事をしていたらしいガブリエラは、車に乗り込んで間もなく、楓にもわかる静かでゆったりした運転とふかふかのソファに負け、幸せそうにすやすや寝入っている。
 そして彼女の能力をコピーしているがゆえに冷や汗をかくほど気を張り詰めている楓は、不安な子供が大きなぬいぐるみに抱きつくのと全く同じ心持ちで、寝ているガブリエラに抱きつき、能力が暴走しないよう、自分の中で渦巻く力に必死に耐えていた。

 そんな状態で、感覚的に最も恐怖を感じる大きな動物、人間であるライアンに意識を向けられ話しかけられるのは、楓にとってかなりの負担である。
 しかし車に乗り込む時、ガブリエラに「ライアンが楓に危害を加える訳がないでしょう。触れてもいませんし、怯えるだけ無駄ですよ!」とまた朗らかに、そして容赦なく言われたばかりだ。それに楓自身、いつまでも周囲のすべてに怯えていてはどうしようもないことはわかっている。
「うう……」
 そうなりたいわけではないのだが、自然、涙目になってしまう。呑気にぐうすか寝ているガブリエラが恨めしくもあるが、だからこそ自分がしっかりしなければ、という生温さの欠片もない危機感が楓に湧き上がる。

「まあ、選んだのはお嬢ちゃん本人だからな。しっかりやれよ」
「……はいぃ」
「サポートはしてやるよ」

 そう言うこの黄金の獅子も、基本的には子供を谷に落とすタイプであるということは、楓も感じ取っている。今までも、彼は様々な問いかけやきっかけ、また楓が体験したり考えたりするための環境は用意してくれるが、答えを言うことはいちどもなかった。
 そして楓が答えを出しても、それが正解、とは言わない。かといって間違っていると決めつけることも絶対にしないが、ではこういう場合はどうするのか、というさらなる問題提起を投げかけてくる。
 気長で、穏やかで、とても器が大きいやり方。それその事自体は、ある意味優しさの極地であるように思う。しかしやはり、自主性を重んじる分だけ基本的には厳しいことに変わりない。
 そして楓はライアンのこういう広く見渡すようなやり方や、ガブリエラの“保護者”の枠から外れた独特のやり方に、どうしても興味を惹かれたのだ。だからこそ、今回彼女は得体の知れない穴に飛び込むような気持ちで、彼らに体当たりをかましたのである。

「ラ、ラ、ライアンさん。ア、アドバイスをください」

 ガブリエラにぎゅっとしがみつきながら、楓は思い切ってというよりも、なりふり構わず言った。
「あん? アドバイス?」
「ラ、ライアンさんは、ギャビーのパートナーで、ギャビーのことを、よくわかってて……、ギャ、ギャビーが力を使うところを、たくさん見てるから。な、なにか、参考になること……」
「参考になることねえ」
 信号待ちで、ライアンはハンドルを持つ手の指で、コツコツと本革のフレームを叩いた。

「そーだなあ。……お嬢ちゃんてもしかして、そいつの事、聖女とか天使とか思ってない? まあ世間でよく言われてるやつだけど」

 ライアンの問いかけに、楓はきょとんと目を丸くした。確かにそれはホワイトアンジェラに対する一般的な認識で、そして楓の認識でもあった。
「そりゃ、……そ、そのままとは言わないけど。この間も言ったけど、ギャビーだって人間だし……」
「あー、それな。それ、間違い」
「えっ」
 ライアンが、はっきりと“それは違う”と言うのは珍しい。楓は目を白黒させて、バックミラー越しに彼を見た。ライアンは目を細め、よだれを垂らしそうなほどよく寝ているガブリエラを鏡越しに見ている。
「聖女とか天使とかは、あれじゃん。他人や神様のために尽くして、滅私奉公、それが尊いとかそういうやつじゃん。少なくとも、そいつが言われてるのはそういう意味だろ。あとは、無垢でー、ピュアでー、みたいな」
「う、うん……」
 自分の命を削り、絶望で閉じ込められたメトロの中で92人を救ってみせたホワイトアンジェラ。その行為とあり方が世間で聖女、天使と呼ばれているのは確かであり、楓もそのとおりだと思う。
 そして実際に近く接して、彼女がとても無邪気な人柄だということも。

「全然そういうんじゃねえぞ、そいつは」
「え……」

 ホワイトアンジェラを聖女でも天使でもないと言う人物を、楓はテレビ、ネット、そして彼女を身近に知っている人々の中でも見たことはない。
 どんなアンチとて、メトロ事故の時の彼女は聖女以外の何者でもないと認めざるをえないのだ。いくら楓の世界にキッズフィルターがかかっているとしても、それは確かなはずだった。
 だが、何のフィルターもなしに誰よりもガブリエラの近くにいるライアンは、彼女は聖女でも天使でもないと言う。

「言っとくけど、ヒーローだってひとりの人間とか、そういう方向の話じゃねえから」
 楓が思考をぐるぐるさせていると、ライアンが先に釘を刺してきた。
「そいつはなあ、いつだって自分のしたいことしかしねえんだよ」
「えっと、確かに、ギャビーはいつでも自由な感じだけど……」
「だろ?」
 ライアンは、深く、とても深く頷いた。まったくもってそのとおりだという、これ以上ない実感のこもった様子で。
 信号が変わり、車が静かに発進する。

「だからその力を使うのに、ホワイトアンジェラみたいな立派な聖女様にならなきゃ、天使様みたいにピュアな心を持たなくちゃ──なんて思ってやってたら、頭がイカレるぞ。それこそ誰だってひとりの人間なんだからさあ、ムリムリ、絶対無理」

 またも、しかも重ねてライアンは断言した。
 冷や汗を流すほどの緊張もやや忘れ、楓はぽかんとする。そして、気付いた。
「……ライアンさんって、ギャビーのことになると“絶対”とか結構言うよね……」
「だってそうだもん」
 口角の上がった口元を尖らせて言うライアンは、何だか妙に子供っぽい。
 その表情で、楓は気付いた。
 いつも余裕綽々で、気長で、穏やかで、とてつもなく器が大きく、答えを決めつけないはずの彼は、彼女が関わるととたんに少年じみた様子になるのだ。絶対そうだもん、と小さな答えを絶対に譲らない男の子の姿を、楓はぼんやり想像した。

「まず無垢とかピュアとか、ないない、ない。むしろ考え方とかいちいちグロいし。ほんっと引くから。ワイルドとかいうレベルじゃねーから」
「う、うーん」
 楓は、戸惑いつつ唸った。彼女が今思い出しているのは、掏摸の男たちをあっという間に半殺しにし、“死なない程度にできました!”と得意げな顔をしたり、“死んでいなければ治せます”とけろりと言い放っていたガブリエラである。
「おバカちゃんとか言ってるのもなあ。まあ馬鹿なのは本当なんだけど、変な所で頭回るしな。自分が頭悪くて、悪いって思われてるのわかってる上でちゃっかりやらかすからタチ悪い。そーいうとこ結構小賢しいぞこいつ」
「ええ……」
「聖女とか天使とか、冗談でもねえわ。そいつはただの犬だ、犬」
「いぬ」
「今だってそうだろ。腹出して寝てるし」

 楓は思わずガブリエラの腹部を見たが、服を着ていてもわかる薄い腹があらわになっているわけではなかった。しかし頭をゆらゆらさせ、喉を晒して幸せそうに寝ているガブリエラは確かに、腹を見せて油断しきって爆睡する犬にとても良く似ている。
 だが、この能力のオリジナルであるガブリエラは、楓が感じているものと同じ感覚を持っているはずなのだ。しかしガブリエラはいつも初対面の人間にも人懐っこく、仲の良い人の前ではこうして無防備に眠りさえする。
 だがそれは、彼女が全面的に人を信じ切る聖女や無垢な天使だからではない。ライアンはそう言ったのだ。

「そこんとこ、今のお嬢ちゃんは箱入りから初めて外に出されて、なにもかもにビビってぷるぷる震えてる子猫Kittyちゃん、てとこ?」
「う……」
 持ち出された例えにそれなりに自覚があったので、楓は苦々しく顔をしかめた。子犬ではなくて子猫なのは、虎の娘だからだろう。

「俺も、よくはわかんねえけどさ。図太くて自由なDoggyじゃないと、その力は扱えないんじゃねえのかね」

 多分、とライアンは付け加え、危なげなく夜のシュテルンビルトに車を走らせた。






「ふおお! 寝ていました! 申し訳ありません!」

 ゴールドステージの高級住宅街にあるマンションまで辿り着き、楓が体を揺すると、ガブリエラは飛び起きた。口の端に、僅かによだれの跡がある。
「ギャビー、疲れてたんだね」
「はい、実は昨日は少し睡眠時間が……、あれっ、カエデ、先程よりもリラックスしていますね? さっそく慣れてきましたね! すばらしい!」
「……ライアンさんと話したら、少しね」
「そうなのですか。よくわかりませんがさすがライアンです!」
 とにかくふたりを絶賛しながら、ガブリエラは楓のトランクを車から下ろし、楓の手を引いて車から降りた。

「ん〜じゃ、業務連絡でーす。ペトロフ管理官から聞いてると思うけど、片っぽヒーローとはいえお前らふたりともSSだから、基本的には俺と3人行動な。ムリな時はアークに頼む。明日は8時に迎えに行くから、合流してモーニング食って出社」
「はい!」
「わ、わかった」
 運転席に座ったまま窓を開けて連絡事項を伝えてくるライアンに、ガブリエラははきはきと元気に、楓はおずおずと返事をする。

「じゃあオヤスミ、子猫Kittyちゃん」
「うう、はい、おやすみなさい……」
「ライアン! ライアン、私には! 私にも!」
「はいはい。おやすみDoggy
「はうう! 素敵! おやすみなさいませ!!」
 ウィーン、と上がって閉まるドアウィンドウの向こうで、ウィンクとともに軽く手を振り、不敵な笑みを浮かべたライアンにガブリエラは頬を染め、胸を押さえた。犬と呼ばれてときめいているガブリエラを、楓は珍獣でも見るような目で見た。
 しかし犬呼ばわりはともかくとして、ライアンの動作はコミカルにもとれるが、とにかく見た目が良い上にやり慣れている感がすさまじく、ただただ決まっているとしか言えない。強烈なインパクトの余韻を残しつつ、ライアンは車を発進させて去っていった。
「……バーナビーといい、顔出しヒーローってすごいなあ……」
 あれがプロのイケメンというものか。まだ胸を押さえて至極幸せそうに悶えているガブリエラの隣で、楓は呆然とそう呟いた。



「洗濯物はここです。洗濯物は、私と分けなくても平気ですか?」
「うん、気にしない」
「わかりました。色落ちするものはこちらの籠に入れて、あとは直接洗濯機に入れてください。いつも、朝に洗濯機を回して出かけます。乾燥までやってくれます」
「わかった」
「あっ、ミネラルウォーターのストックはここに入っています。冷蔵庫で冷えているボトルがなくなったら、入れておいてください」
「うん」
「冷蔵庫の中のものは、自由に食べてください。そちらにあるレトルトのパックも」
「……なんでこんなにジャムばっかりあるの?」

 部屋に入ると、ガブリエラはさっそく楓に室内を案内し、一緒に暮らすに当たってのやり方を手早く決めていった。メモを取る必要があるようなことは特になく、楓はガブリエラの説明をひとつずつ飲み込んでいった。
 エキセントリックなキャラクターが目立つガブリエラだが、その暮らしぶりは概ねまともだった。
 部屋は片付いているし、掃除ロボットがあることを差し引いても掃除が行き届いている。シーツや枕カバーは毎日交換して洗濯しているというし、ごみの分別などもきちんとされていて、空き缶や空き瓶も既に濯いであった。
 冷蔵庫にぎっしり詰まったジャムやハムなど時々不思議なところもあるが、既にライアンやカリーナたちから指摘されて改善されていることがほとんどだったので、楓は特に戸惑うことはなかった。

 他に目につくのは、どんと壁際に置いてある分解されたバイク。
 また、たくさんのピアスが壁にかけられたふたつのケースに入っていて、その近くにある小さい本棚に本が置いてあるのは1段だけ。その他の段はすべて、こまごまとしたおもちゃ類が非常にマメに整理整頓されて並べられていた。
 テレビの近くにコンピューターゲームのハード機などは見当たらないが、アナログなボードゲームはあった。

 ガブリエラのコレクションは、どれもこれも独特だった。
 半端に揃ったシリーズもののミニフィギュア。何のキャラクターかわからないカプセルトイ。ちょっと高級そうなチェスの駒が3つだけ。ミニカーが数台。いろいろな種類のデコパーツを瓶詰めしたもの。鮮やかな色のビールの王冠もある。
 おもちゃ類の集め方はいわゆる“大人買い”とは真逆のもので、シリーズをすべて集めるのではなく、気に入ったところだけをピンポイントで購入しているようだ。しかもその飾り方もおそらくガブリエラの好みと自分ルールが適応されていて、並べる順番などは謎に満ちていた。
 一見するとガラクタの集まりなのだが、妙に大事そうにちまちま丁寧に並べられているため“宝物”感が漂っており、見ていてなかなか飽きない。

「ギャビー、これ何?」
 本当はもっと種類があるようなのにいくつかの種類だけしかない動物のミニフィギュアを指して、楓が尋ねる。台座には、珍獣シリーズ、というロゴの刻印。
「こちらはフラミンゴ。これはハリネズミです」
「……なんでこのチョイス?」
「クロケーをする動物です。あちらはヤマネ。ドードー鳥もあります」
「ああ、そういうことね。じゃあ半分以上読めたんだ。すごいね!」
「はい! がんばりました! とても、とても大変ですが……とても……」
 褒められたガブリエラは嬉しそうに頷いたが、すぐげっそりした顔をした。達成感の喜びを凌駕して、本当に読み書きが苦手なのだ。
「しかしちゃんと読めましたら、ライアンが好きな章を朗読してくださるのです! とてつもないご褒美です!」
「とてつもないんだ」
「録音の準備は万全です! 私はがんばります! がんばるのです!」
 ふん、と鼻息も荒くやる気を出しているガブリエラだが、確かにライアンはいい声をしているし朗読も巧そうなので、聞き応えはありそうだなと楓は思った。ちょっと聞いてみたい気もする。

「ていうかギャビー、人が来るのなんか慣れてる?」
「そういうわけではありませんが……。アカデミーを出てすぐの頃は、シンディのところでお世話になっていましたので」
 突然転がり込んだ楓に対して妙に手際良く対応するガブリエラを不思議に思って尋ねると、そんな返答がされた。シンディはガブリエラの前の会社の上司で、とても世話になった、恩人とも言うべき女性である、と彼女は説明した。
「アパートが決まるまで、今の楓のように、シンディの部屋で寝泊まりさせて頂いていたのです。シンディも、私に対して同じようにしてくださいました」
「そうなんだ」
「シンディと暮らすのは、とても楽しかったです。楓と暮らすのも、きっととても楽しいです! うれしいです!」
 その歓迎ぶりが社交辞令ではないことは、どう見てもうきうきわくわくしているガブリエラの様子から明らかだった。自由に過ごして、寛いで、と言われるより、楓はなんだかホッとした。
 それに実際、ガブリエラの気配がそこらじゅうにあるこの部屋は、楓にとってとても居心地の良い空間だった。

「シンディは、私に色々なことを教えてくださいました。いいアパートの選び方や、水道や電気の契約のしかた。家具を安く買う方法。洗濯機の使い方、掃除のしかた。電子レンジの使い方は、残念ながらマスターできませんでしたが……」
「ええ? 電子レンジ、便利なのに」
「皆さんそう言うので、買ってはみました」
 ガブリエラが指差す先を見ると、あまり物のないキッチンに、真新しい電子レンジが備え付けられていた。
「わー、新しいやつだ。色々機能ついてていいね」
「も、もしかして、その、……楓は、電子レンジが使えますか?」
「うん」
「なんと……では、私が教えることは、おそらくほぼない……」
「なんで!?」
 急にしょんぼりしたガブリエラに、楓は全力で突っ込みを入れた。
「電子レンジはむずかしいのです……それが使えるとなれば、きっと他のこともすぐできるようになるのです……能力の制御などすぐです……」
 どれだけ電子レンジのハードルが高いのか。ガブリエラの中の価値観がよくわからず、楓は慌てた。

「あっ、あっそうだ、お風呂ってどうやって入れるの? 家によって違うよね」
 楓がなんとか話題をひねり出すと、ガブリエラの表情がぱっと明るくなった。
「お風呂ですか! お風呂はあちらです。操作パネルはここ。なんとこのお風呂は、バスタブの掃除も自動でやってくれるのです!」
「えっ、そうなの? すごい」
 オリエンタルタウンにある鏑木家の風呂釜はガス湯沸かしタイプであり、祖母の安寿の腰の具合を慮って風呂掃除は楓の仕事なのもあり、楓は素直に感心した。“すごい”という言葉が楓の口から出たことで、ガブリエラも表情をさらに明るくする。
「そうでしょう! 浴室乾燥もあるので、洗濯物も干せます!」
「浴室乾燥、雨の日とか便利そうだよね。おばあちゃんが欲しいって言ってた」
「便利ですとも! バスタブのお湯もボタンひとつでたまります! 声で教えてくれます! さあボタンを押すのです! さあ!」
 さあさあと操作パネルを勧めてくるガブリエラに従い、楓はバスタブに湯をためるボタンを押した。《10分後ニ、オ湯ガタマリマス》という音声が流れ、ガブリエラが拍手をする。

「他にも困ったことやわからないことがあれば、なんでも聞いてください! 私はおバカちゃんですが、なんとかしてどうにかすべく、がんばります! 私は師匠! カエデの師匠ですので!」
 どうやら師匠という言葉を気に入っているらしいガブリエラは、やる気満々で気合を漲らせた。
「うん。頼りにさせてね、ギャビー師匠」
「おまかせあれ!」
 腰に手を当てて仁王立ちしたガブリエラは、うむ、と重々しく頷いた。






 やらなければ死ぬとなればなんでもできる、というガブリエラの主張を、楓はさっそく思い知った。
 小一時間ほどの練習で、楓は割とあっさりと、ガブリエラの能力をほぼ押さえ込むことに成功したのだ。
 ぼんやりとは漏れ出ているものの、最初の時のように壊れた水道のごとくエネルギーを放出してしまうことはなくなり、ガブリエラにくっついていなければすぐに痩せ衰えてしまう、という危険は消えた。
 今までは、他の生物にとって食料としてとんでもなく魅力的な存在になった上に、常に出血しているような状態だった。これを、においを漂わせるのみに抑え込んだような形だ。

 だがしかし、“他の生物に触れる”ということに感じる強い恐怖感はまったく拭えなかった。
 本来の楓のNEXT能力も他人に触れることを憚る状態ではあるが、それはあくまで“危ないので気をつけて避ける”という、理論的な対処行動である。
 ガブリエラの能力によって今感じているのはいわゆる本能的、生理的な忌避感で、今の楓にとって他の生物に触れることは、自分から野生の猛獣の口に手を入れることとほとんど同じような感覚だった。

 最低限の制御に成功し、密室の部屋でふたりきりとはいえ、能力が暴走するかもしれないという恐怖から、楓はガブリエラの手を離すことを嫌がった。
 ガブリエラは「しょうがないですね。最初ですからね」と言い、この日は風呂も一緒に入った。寝ている時は意識が働かないからという理由で、初日だけでなく同じベッドで眠ることが医者の勧め付きで既に決定していたが。
 能力の暴走を警戒してあまり眠れないだろうと楓は思っていたのだが、結果として、それは杞憂だった。アスクレピオスの無菌室でそうだったように、ガブリエラに抱き込まれて横たわると、楓はまるで寝付きのいい赤ん坊のようにぐっすり眠ってしまった。

 そして翌朝、妙にすっきり目覚めた楓がまず感じたのは、強い空腹感だった。

「おはようございます、カエデ。おなかがすいたでしょう」
「すいた」
 断言するほど空いていた。
 しかもその程度といったら、空腹であるというより飢えていると言ったほうが正しいほど強烈だった。ガブリエラによると、この能力は意図してぴったり抑え込まない限り、ほぼ際限なく空腹を覚えるものであるらしい。
 冷蔵庫を開けるとぎっしり詰まっているジャムの瓶に手を伸ばした楓の手を、ガブリエラが止める。口の中の唾液も乾くほどの飢餓感に苛まれている楓は泣きそうな顔をしたが、「栄養のあるものを、ちゃんと食べなければいけません。私もよく叱られますが」と言い、ギフトボックスらしき高級感のある箱から、レトルトのシチューのパックを取り出した。
「これを鍋のお湯で、15分ほど温めてですね──あっ」
 飢えた野良猫よろしくガブリエラの手の中のレトルトパックを素早く奪った楓は、水切り台に伏せてあった皿に中身を出して、電子レンジで2分温めた。ガブリエラがいなければ、おそらく温めもせずにそのまま飲んでいただろうほどの空腹。
 数字がだんだんと減っていき、チン、という音が鳴るコンマ数秒前に扉を開けると、湯気の立つシチューが出来上がっていた。
「おお、すばらしい! 本当に電子レンジが使えるのですね、カエデ!」
 感嘆するガブリエラに応えることもせず、楓は震える手でスプーンを持ち、キッチンの調理台でシチューをがっつきはじめる。鏑木さんちのお行儀のいいお嬢さん、という評価が地に落ちる有様だったが、楓は形振りかまっていられなかった。

「落ち着きましたか、カエデ」

 決して少なくはない、ごろごろと肉や野菜が入ったシチューをあっという間に食べきった楓に、ガブリエラは穏やかに訪ねた。
「……うん」
 けふ、とシチューを掻き込んだげっぷを誤魔化すような咳払いをし、楓は少し恥ずかしそうに頷いた。空腹感はまだおさまっていないが、手が震えるほどの飢餓感はとりあえず薄れた。
「それは良かったです。おかわりもしていいですよ。そちらにあるのは、こうやってお腹が空いたときのためのものです」
 ガブリエラは、部屋の隅に山になっているギフトボックスを示した。
「カロリーの高いものが欲しいと思います。しかしカエデは成長期なので、砂糖や油ばかり食べるのは良くないと聞きました。お菓子より、なるべくレトルトや缶詰を食べてください」
 楓は、電子レンジという文明の利器が存在すること、そして自分がそれを使えることに深く感謝した。

「私はシャワーを浴びてくるので、その間は好きなだけ食べていていいですよ」
「うん、……あの、ギャビーのも温めようか?」
「おおっ、それはとても助かります! うれしいです! ではハンバーグが入ったシチューを温めておいてくださいますか?」
「わかった」

 ガブリエラがシャワーを浴びている間に、楓はチキンのトマト煮を平らげた。無論、普段なら考えられない量である。食べても食べてもまだ食べたい気持ちをこらえ、楓はガブリエラが出てくるタイミングに合わせて、彼女が希望したハンバーグシチューを電子レンジで温める。
「おおっ、おいしそうです。ありがとうございます!」
 ある程度身支度を整えて出てきたガブリエラは、湯気の立つ皿を見て嬉しそうな顔をした。
「あ、カエデはもうだめですよ。今のを食べたらシャワーを浴びて」
「えっ、うっ、も、もう1杯だけ……」
「だめです。時間がありません」
「シャワーをやめて……」
「だめです。人前に出るのに臭うのは失礼です」
 能力の影響で代謝が非常に良くなるので衛生的なところをよく気をつけないといけないということは、昨日の夜ガブリエラと風呂に入ったときに教わったばかりだった。
「ライアンと合流したら、会社に行く前に食堂でちゃんと食べますので」
「うっ」
「カエデは賢いですので、わかりますね?」
「うう、わかった……」
 楓はとぼとぼとバスルームに向かった。楓も自分が臭いのは遠慮したいし、清潔なほうが好きなことは確かなのだから、と自分に言い聞かせながら。

 楓がシャワーを浴びて着替える頃には、ガブリエラの用意はすっかり終わっていた。目元に簡単な化粧をしていて、ピアスももう両耳に着けている。いちばん下で揺れているのは、いつもの金色の細長いフックタイプのピアス。その上には小さいパールのピアス、更にその上にはオレンジがかった赤い石のピアス。右耳にだけもうひとつ、銀とターコイズのピアスをしていた。
 服は個性的な切り替えのワンピースで、いつものリバーシブルのコートを着て、あの日ライアンに選んでもらったマフラーを首に巻いている。
 楓も同じように彼に買ってもらったマフラーをし、ダウンコートを着込んだ。

「ううう、おなかすいたぁ……」
「あと少しの我慢ですよ」
「つらいよ〜……」
「むぅ、しょうがないですね」
 涙目になっている楓に、ガブリエラは冷蔵庫からひと瓶のジャムを取り出し、先程シチューを食べて洗っておいた大きめのスプーンでたっぷりジャムをすくうと、楓に差し出した。
「はい、アーンです」
「あー」
 楓は素直に口を開け、ジャムが乗ったスプーンを口に入れた。直接的な糖分。すぐにエネルギーに変換されるということがわかる感覚に、楓は非常にホッとした。
「ゆっくり舐めるのですよ」
 スプーンの柄を両手で持ってこくこくと頷いている楓に言い聞かせたガブリエラは白い犬の耳あてをし、楓にもおそろいのシリーズのピンクのウサギの耳あてを嵌めてやると、彼女の手を取って部屋を出た。



「おう、おはよ……って何食ってんのそれ」
 あくびを噛み殺しつつも既にマンションの下で車を停めて待っていたライアンは、スプーンをしゃぶっている楓を見て、怪訝な顔をした。
「ジャムです」
「ジャム!? お前さっそく何食わせてんだよ。もっとちゃんとしたもん──」
「ライアンさんはなにもわかってない!」
「うおっ」
 スプーンをくわえているせいで若干発音が不明瞭な楓の叫びに、ライアンはびくっとした。
「ギャビーも私もジャムが必要なの! これがないと、どれだけ大変か……」
「ええ……なにそれ……」
「ライアンさんにはわかんないよ」
「いやうんまあ本気でわかんねえけど……」
 スプーンをくわえたまま深刻な目つきで膨れっ面をする楓に戸惑いつつ、ライアンは車の後部座席のドアロックを解除した。

 車に乗り込んだ後、ガブリエラと手を繋ぎ、彼女の腕にぺったり張り付きながらジャムつきのスプーンを舐めている楓を、ライアンはバックミラー越しに微妙な表情で眺めていた。



 アスクレピオスの社員食堂。
 大食漢で有名な自社ヒーローふたりはともかく、見た目からは考えられない量の朝食を平らげていく華奢な少女に、距離を取って控えている護衛のアークたちがひそかに唖然としていた。

「──へえ」

 常時とは比べ物にならない量を平らげ、とりあえずある程度気が落ち着いたらしい楓から話を聞いたライアンは、軽く驚きの声を漏らした。
 彼女がもたらした情報は、ガブリエラの能力による強い飢餓感は、すぐカロリーに変わりやすいもの、主に糖分のほうが即座に気分が落ち着きやすいこと。その点で、ジェル状の糖分の塊であるジャムはとても都合が良い食べ物である、ということだった。
「マジか。単にコイツが無精してるのかと思ってた」
「無精? うーん、手っ取り早い食べ物だというのは合っています」
 いつもどおりではあるものの、楓をはるかに上回る量をぺろりと食べきったガブリエラは、首を傾げて言った。
「しかし一部リーグになった時に、栄養学を少し勉強しました。カロリーと、生きていくのに必要な栄養は違う、そう習いました。以前の私でしたら、あのくらいのジャム、2、3日で食べ尽くしています」

 つまり、あのものすごい量のジャムや糖分の多いお菓子の山は、あくまで早急にカロリーを補給したい時や、どうしても耐え難い空腹感に見舞われたときのためのものなのだ。ジャムは未開封のままちゃんと保管すれば腐るものではないので、まとめ買いもできる。
 糖分の塊ということだとキャンディなどでもいいのだが、舐めて食べると少しずつすぎてどうしてもイライラしてしまうし、噛み砕くと顎が痛くなったりする。持ち歩くのなら、キャラメルやチョコレート、ヌガーなど、雪山に登る時などに非常食として持っていくようなものが良いのだ──ということを、ガブリエラはたどたどしく説明した。

「う〜……。まだ、まだお腹空いてるのに、お腹いっぱい……」
 最後の皿の上にある大きなエビフライを前に、楓はしょんぼりした、そして辛そうな様子で言った。彼女が押さえている胃のあたりは、傍目から見てもぱんぱんに出っ張っている。
 能力はまだまだエネルギーを求めているのに、楓の身体は限界を訴えている。際限のない空腹感、限界まで食べ物を詰め込んで苦しい胃、そしてそれらふたつが矛盾するという辛さに、楓は弱りきった顔をした。
「カエデ、あまり無理をしないように」
「でも、まだ食べたい感じで……」
「私も最初の頃はそうでした。しかし、あまり詰め込むと戻してしまいますよ」
「でも」
「だめです」
「ああああ! 食べた──!!」
 エビフライをフォークで突き刺し、さくさくと食べてしまったガブリエラに、楓が悲痛な声を上げる。
「私の……私のエビフライ……」
「残すのはもったいないでしょう」
「食べたかったのに!」
「食べられないでしょう」
 理屈の通っていない駄々をこねる楓と淡々とそれをあしらうガブリエラに、彼女たちの対面に座っているライアンは、目を丸くした。しかし気を取り直して、ひとつ咳払いをする。

「あ〜、ドクター・ルーカスが言ってたやつだな。能力をコピーしても、素地の身体機能までコピーしきれるわけじゃねえってやつ」
 要するに楓には、ガブリエラのように食べたものを超スピードで消化吸収するほどの内臓機能が備わっていない、ということだ。
 とはいえ、ガブリエラの部屋で食べたレトルトに加えて今食堂で食べた量は普段の5倍以上はあるということなので、ある程度は強化されているのだろう、とライアンは判断する。
「吐く手前まで食べるのを繰り返していれば、私はだんだんたくさん食べられるようになりましたが……」
「いや、お嬢ちゃんはこの能力と一生付き合うわけじゃねえんだから、元に戻った時を考えねえと。太るぐらいならまだしも、糖尿病とかなったらあれだし」
「むう、なるほど。おっしゃるとおりです」
 ライアンも能力の影響でガブリエラと張る大食漢であるが、専属モデル契約もしており、筋力トレーニングによるスタイルづくりに気を使ったりすることから、ガブリエラよりもそういった知識量はかなり多い。短期間ではあるが油断はいけないというライアンの意見に納得し、ガブリエラは大きく頷いた。

「では1回の量を少なめにして、回数を分けましょう。どうしてもがまんできない時は、甘いおやつを少しだけ」
 楓は常に微弱にエネルギーを垂れ流しているような状態、つまり劇的に燃費の悪い状態なので、普通の時の量では痩せ細って弱ってしまうが、欲しいままに食べすぎても今後に響く。それを考えれば、ガブリエラの提案は妥当だった。
「いいんじゃねえ? なんかちっちゃい子みたいだけど。離乳食卒業したぐらい?」
 歳の離れた弟妹がいるライアンは、少し笑いを含ませて言った。赤ん坊扱いされて、楓がむっとする。
 だが実際、出掛けにぐずってガブリエラからジャムのスプーンをくわえさせられ、そのことをライアンから指摘されて機嫌を損ねる様子や、また朝食をたくさん食べたいが食べきれず、食べきれないくせにそれを片付けられて駄々をこねる様は、まるで幼児のようである。
 そしてそれは、昨日までの、いかにも優等生といった楓とは非常にギャップが激しい姿でもあった。
★メイプルキティの冒険★
13/24
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る