#095
★メイプルキティの冒険★
10/24
「甘いので良かったよな?」
「うん、ありがとう」
「ジュニア君も、はい」
「どうも」
ルーカス医師に出されたお茶は飲んでいたので、喉が渇いてはいないが、身体がカフェインや糖分を欲している。
皆もそうだろうと思ったライアンは、自動販売機で買ったドリンク缶を楓の手が触れないように丁寧に渡し、バーナビーには投げて寄越した。バーナビーが楓と手を繋いだままもう片方の手で缶を受け取ると、ライアンは楓から少し距離をとって、中庭の見えるテラスのベンチに座る。
「まあでも、良かったな。オッサンの減退が減退じゃなくて」
「ええ。本人もホッとしたというか、吹っ切れたのではないかと思います」
バーナビーが微笑み、楓もまた笑顔になって「うん」と頷いた。
「ジュニア君もな、過剰に心配しなくてもよくなったってことだし」
「ええそれは……、いえ、別に心配などはしていませんが」
「そのツンデレ、今更じゃない?」
咳払いをしてツンと顎を反らしたバーナビーを、ライアンが半目で誂う。
「ギャビーは、まだ怒られてるの? 大丈夫かなあ」
「どうだろうな。こないだやらかしたばっかりだから、ちょっとキツめかも」
ライアンが言っているのは、バイク盗難事件のときのことである。「ああ……」と、バーナビーが重々しく頷いた。
虎徹は無菌室を借りたことについての手続きや診断書について病院側と話しているのでここにはいないが、ガブリエラもまた姿がない。なぜなら、部屋を出て間もなくやってきた、ドミニオンズのブレンダ女史に引っ立てられていったからだ。
今回彼女がのした掏摸の怪我の程度がひどかったため、過剰防衛だと支部長のダニエルから厳重注意があるということだった。
「死なない程度でしたのに! 能力を使わなくても死なない程度です! ちゃんと手加減しました!」とガブリエラはきゃんきゃん喚いて抗議したが、犯人たちの具体的な怪我の程度を聞かされたライアンに「行って来い」と命じられ、心底納得いかないという顔で、とぼとぼとブレンダ女史についていった。
「掏摸の怪我、そんなにひどかったの?」
「おー、膝なんかぐっちゃぐちゃ──」
「ライアン」
「……えーと、過剰防衛なくらいだって」
すっかり過保護な兄と化しているバーナビーに半目で睨まれたライアンは、言葉を濁した。
「ふうん。いい薬だと思うけど」
「お嬢ちゃん、言うねえ」
「だってあの人たち、常習犯だっていうし。ギャビーのお尻も触ろうとしたんだよ」
「……へえ?」
めき、と、ライアンの持った缶から音がした。
「引っ張って連れて行こうとしてね、髪も勝手に触ったの。何本かちぎれて痛そうだった」
「ふうん」
憤慨する楓の隣で、ライアンはへこんだ缶を片手で弄ぶ。バーナビーは、ずん、と空気が重くなったような気がした。
「だからライアンさん、ギャビーを怒らないでね。ギャビーは女の人を助けただけだし、お財布も取り戻したんだよ。ああしないと逃げられてたと思う。ギャビーは悪くないんだよ」
「そんな必死に言わなくても、怒らねえよ」
「本当?」
「本当、本当。まあ手加減が下手なのは事実だけどなあ。“ボール遊び”でだいぶマシになったと思ったんだけど、まだまだ猛犬注意だな」
ライアンは、いつものゆるい笑みを浮かべた。だがその手の中で原型を失いつつある缶を見て、バーナビーがひくりと顔をひきつらせる。
目前で展開される強力な重力場に引きずられないようにと進化した彼の怪力は、周りにはほとんど知られていない。つまり普段は目立たない程度に抑えられているそれを、実際にわかりやすく目にするのは珍しいことだった。
「それにしても、大変だったな。引いたろ」
「え? 何が?」
「何がって、あいつ。掏摸は半殺しにするし、あと昔の話とか。ドン引きだろフツー」
ライアンは、変形した缶からコーヒーを飲んだ。
「あいつ、自分の昔のこと言ったり、ああいうことしたら引かれるってあんまわかってねえんだよな。変わらず仲良くってのは難しいかもしれねえけど──」
「大丈夫だよ」
言葉を遮って言った楓に、ライアンは、目を丸くした。
「引いたっていうか、びっくりはしたけど。ギャビーのこと好きだよ。これからも仲良くしたいって思ってる」
「……お嬢ちゃん、器がでかいなー」
「じゃあライアンさんもそうでしょ。ギャビーといちばん仲良しなのはライアンさんだもん」
「まあそうですね」
バーナビーが、少し笑いながら肯定する。ライアンはべこべこになった缶を持って、黙ったままだった。
「ライアンさん、優しいね」
「あん?」
「ギャビーが言ってた。ライアンさんはすごく優しいって。ほんとだよね、こうしてわざわざギャビーのフォローしに来るんだもん」
「ちょっと何なのこのお嬢ちゃん。やめてくんない」
「ギャビーの言うとおりだね。ライアンさんやっさしーい」
「あーあーあーあー」
少女にやりこめられているライアンに、バーナビーが噴き出した。
「ギャビーも優しいよ。あんな事言ってたけど、ギャビーはすごく優しい」
「……馬鹿なだけじゃねーの」
「違うよ。馬鹿みたいに優しいんだよ」
あ、馬鹿は否定しねえんだ、とライアンが小さく呟いた。
「……まあなあ。確かにあんな能力だから、色々言われんだよ。聖女だ天使だって言われる反面、強烈なアンチもいるしな」
「え……? なんで?」
少し潜めた声でのライアンの発言に、楓は怪訝な顔をした。
「あいつの言ってたとおりだよ。世界にはあいつの力が必要な人間が、それこそ星の数ほどいる。それをあいつはシュテルンビルトでだけ、しかも肌荒れだの肩こりだのとか、エステみたいな感じで使うときだってある。本当に困ってる人間がたくさんいるのに、ってやつ」
「そんなの」
楓は、眉をしかめた。理屈はわかるし、理解もできる。少なくとも、悪いことではないとも思う。──しかし。
「そんなの、……ギャビーの力だよ? どう使おうと、ギャビーの勝手じゃない。それに使い過ぎたら死んじゃうかもしれないのに、それを使え使えって、おかしいよ、絶対。ギャビーだって人間だもん。ヒーローだからって、何でも出来るわけじゃないんだから」
「……みんな、お嬢ちゃんみたいに思ってくれりゃあいいんだけどなあ」
ライアンは、苦笑した。
「ま、あいつだけじゃねえけどな、こういうのは」
「そうですね。ヒーローは皆言われますよ、もっと身を粉にして人を救えと。高いワインを買っているだけで批難されることもありますし」
バーナビーもまた、肩を竦めて苦い笑いを浮かべた。
「まあ、そういうことだよ。あいつは親のことはもう割り切ってるし、メンタルに問題がねえのは救いだけど」
「そうなの? 大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。あいつがなんかブルーなもん背負ってそうに見える?」
ライアンにそう言われて楓の頭に浮かんだのは、人に構ってもらって嬉しそうにしたり、雪を楽しみにしてはしゃいだり、美味しそうにドーナツを食べたり、子供か犬のようにボールを追いかけたり、耳あてやマフラーが温かいとにこにこするガブリエラだった。楓が見る限り、確かに彼女はいつも楽しそうで、幸せそうだ。
「……確かにそうだけど」
「だろ。……まあ、あんだけヘビーな育ちでこれっていうのも逆にアレなんだけど」
ライアンの言葉に、楓は深く頷いた。
母親に死ねと言われたも同然のことを告げられた話をするときでさえ、ガブリエラはあっけらかんとしていた。それがルーカス医師の言うように、身体が生き残ることを優先した結果なのか、それとも生まれつきそうなのかはわからない。
楓は、彼女が今幸せそうであることは喜ばしいと思う反面、ガブリエラの今の心理状況や思考回路が理解できず、困惑している。
小さな少女がしょっちゅう死にかけるような、厳しい場所。そしてそこで育ち、それ以上に厳しい荒野の旅を経て今を生きているガブリエラがどういう心境なのか、キッズフィルターを施された環境で暮らしている楓には、正直なところ想像もつかない。
「でも、あれがあいつのフツーだしなあ」
ガブリエラと同じくらいあっけらかんとそう言ったライアンに、楓は目を丸くする。
「今回引かなかったってんなら、あいつの話おもしれーぞ。あんまり子供向けじゃねえかもだけど」
「……ライアンさん、優しいね」
楓は、もう一度言った。
「はあ?」
「ライアンさんこそ器が大きいっていうか……。ギャビーのこと、すごくわかってる感じ」
「いやわかんねーよ、あんなエキセントリックすぎるの」
苦虫を噛み潰したような顔で言ったライアンに、バーナビーがくすくすと笑う。
「つまり、理解できなくても有るがまま受けとめているんですね」
「なるほどー。愛が成せる技ってやつ?」
「そういうことじゃないでしょうか」
「きゃー」
「もう何なんだよこの兄妹!」
結託を見せるバーナビーと楓に、ライアンはお手上げと言わんばかりに顔を上に向けた。
「うう……」
「元気出せよ。悪い事したわけじゃねえんだし」
数分すると、肩を落とした様子のガブリエラと、その肩を叩く虎徹が姿を見せた。楓はベンチから立ち上がり、心配そうにガブリエラの顔を覗き込む。
「ギャビー、お疲れ様。……どうだった?」
「はい、とても怒られました。“死なない程度”はやりすぎ、だそうです。むずかしいです……」
情けない顔でしょんぼりと俯くガブリエラに、皆が生暖かい顔をする。
「それに私は、この間とても怒られたばかりなので……」
「ああ、バイク泥棒のときの?」
「はい。しかし相手が犯罪者であることと、今回はSSのカエデを守るためだったということで、始末書と格闘訓練の特別課題だけで済みました。タイガーも庇ってくださいましたし……」
「そりゃ、俺の娘のことだしなあ」
後ろ頭を掻きながら、虎徹が言った。
「そっか……。ごめんね、ギャビー。私を守ってくれたのに……」
「えっ、カエデが謝ることではないですよ!」
ガブリエラは、慌てて背筋を伸ばした。
「カエデを守った事自体は、クラークさんもとても褒めてくださいました!」
「……クラークさんって?」
「俺らの上司っていうか、トップ。アスクレピオスのシュテルン支部の代表だな。ヒーロー事業部のトップでもあるけど」
楓の質問に、ライアンが答えた。
「そうそう、いいヒトだよな。俺も話したけど、あっちも娘がいるってんで、楓のことも気にかけてくれてさ。アスクレピオスの設備が使いたかったらいつでもどうぞ、って言ってくれたぜ」
虎徹が、うんうんと笑みを浮かべながら頷く。
「そう、クラークさんはとても良い方です。今回の件も、怒られはしたのですが、楓を守ったことは褒めてくださいましたし。……始末書は……書けと言われましたが……」
「始末書? お前の文章で? 大丈夫かよ」
ライアンが言うと、ガブリエラは困り果てたような顔をした。
「それなのです。私は文章を書くのがとても苦手です。手書きでないだけましですが」
「手書きだと、マジで子供の作文だからなあ。字はぐちゃぐちゃだし、自分の名前の綴りもたまに間違うし」
「ううううう」
ガブリエラが、心底嫌そうに唸る。
僻地の幼年学校を出たのみという最低の学歴であるガブリエラは、事実上文盲に近い。そのぶん非常に耳は良く、音で聞けば理解も早く頭にも入るものの、文字や文章となると、読み書きともに著しく低い能力しか持ち合わせていないのだ。
すらすらと読めるのはごく簡単な絵本くらいで、今課題として出されている古典の児童文学の読破は、かなり難航している。
先日のバイク盗難事件で「汚い言葉づかいをした罰則として美しい古典詩の書き取りや朗読をせよ」とまるで厳しいミッションスクールのような課題が出された時も、ガブリエラは半泣きでこれをこなし、もう二度としませんと心の底から反省していた。
このようにガブリエラは読み書きが苦手で本人も嫌がる傾向にあり、始末書の作成はその内容よりも“文章を書かせる”というそれそのものが罰になる。そのため、今回もこの子供に対する罰のような命令が下されたのだ。
ホワイトアンジェラは間違いなくアスクレピオスの稼ぎ頭で、給料や保障はしっかり与えられているし、社員たちから“ウチの会社で飼っている犬”のような扱いを受けつつもその分非常に可愛がられており、軽く見られているわけではない。だがあまりにも柔軟な対応が過ぎる上司らに、ライアンは呆れと笑いが半々の表情を浮かべた。
「ま、始末書なんてすみませんでした反省してますって書いときゃいいんだよ。深く考えんなって」
「聞き捨てならないですよ虎徹さん」
ガブリエラの背を叩きながらの虎徹の発言に、バーナビーが眼鏡を光らせる。楓が、じっとりとした目で父を見ていた。
能力減退の真相を聞いてからというもの憑き物が落ちたようにすっきりした様子の虎徹だが、同時に呑気で適当なところに拍車がかかったのではなかろうか、とバーナビーは訝しむ。相棒に対して彼の心労が完全になくなる日は、どうやらまだ来ないらしい。
「まあでも、減俸じゃなくてよかったじゃん」
「はい。お金は大事です」
片やギャラの高さが実力評価のパラメーターであると考え、片や金銭によって生活基盤が充実していないと満足に活動できない、というそれぞれのスタンスでもって価値観が共通しているライアンとガブリエラが頷き合う。
「それとクラークさんから、手加減が下手なら、身を守るための防犯グッズを作るのはどうか、と提案していただきました」
「……防犯グッズ?」
「夜道を歩く時に女性が持ち歩くようなタイプの道具です。パワーズの主任に話しておいてくださるそうです」
「ええ……。あのオタクどもが作る防犯グッズって、凶悪なモンが出来上がる予感しかしねえんだけど……」
ライアンが、真顔で言った。
サポート特化ヒーローであるホワイトアンジェラのスーツには、武器の類が全くついていない。そのせいかスローンズモードでのチェイサーとの変形合体機構にやたら気合が入っていることをはじめとして、ギミックがいちいち凝っている。──やりすぎなほどに。
そんな連中に武器の類でもある防犯グッズの開発を任せたらどうなるか、嫌な予感しかしなかった。
「そうでしょうか。それと、ヒーローランドでヒーローたちそれぞれの防犯グッズは売っていましたが、私たちのものがありませんので……。この機会に商品化もできるものを作るのはどうか、ということもおっしゃっておられました」
「あーなるほどね。それならいいかもな」
「……ところでライアン、なぜ缶がぐしゃぐしゃなのですか?」
「ヤワい缶だったんだよ」
ライアンは素知らぬ顔で、原型を留めていない缶をくずかごに放り投げた。楓は、手元にある、ライアンと同じドリンク缶を見る。スチール缶だった。
「ま、とにかく終わったし、行こうぜ。腹減ったし」
「はい、おなかがすきました。お肉が食べたいです、おにく」
ぐう、と本当に鳴った腹を抱えてガブリエラが言う。
昼前に起こった騒ぎによって昼食を食べ損ねたまま、現在すでに夕方近い時刻だ。彼女だけでなく、全員が強い空腹を感じていた。
「肉、いいねえ。よっし、おじさんが奢ってやろうか!」
「……大丈夫なんですか? アンジェラが食べる量、知っているでしょうに」
「うっ」
ジト目で言ったバーナビーに、調子に乗っていた虎徹はぎくりとする。
「た、食べ放題で……」
「あー無理。食べ放題系の店だいたいダメだぜ、俺ら」
ライアンが言う。超人的な大食いが知れ渡っている上にシュテルンビルトの名店をふたりで巡ってレポートすることも仕事にしているR&Aは、食べ放題系の店から暗黙の了解で断られている。
最近は、“定額食べ放題!”の看板の下に“R&Aを除く”と書かれているのが定番のネタになりつつあるほどだ。
「どれだけ荒らし回ってんだよ……」
「荒らしてはねえよ。先手打たれただけ。別に困ってねえけど」
しれっと言うライアンを、格好をつけ損ねた虎徹が「セレブめ」とじっとり睨む。
「私は二部リーグ時代に、何分以内に食べられたらタダ、というところはだいたい出入り禁止になっています!」
ガブリエラが、はきはきと言った。「しかし、顔が変わって気付かれないことが多いので、もういっかい行けるかも」と言う彼女を、ライアンが「やめてやれ」と小さく首を横に振って止める。
結局5人はアントニオに連絡して優待券を都合して貰い、クロノスフーズ系列の焼肉屋で遅い昼食を取ることにした。
「綺麗なお庭ですね」
出口に向かって庭園を突っ切りながら、ガブリエラが言った。
煉瓦が敷かれた通路であるが、ナチュラル志向でデザインされた庭のそれはあえてきちんと整備されておらず、隙間から短い草が飛び出している。
楓はおっかなびっくり土の上に足を置いたが、もう、何百何千の生き物の気配は全く感じられなかった。冬ごもりのために餌を集めているのか、小さな蟻がのたのたと歩いているものの、全く恐怖は感じない。
「カエデ、花が咲きかけていますよ。冬なのに」
ガブリエラが、笑顔を浮かべて振り向いた。彼女のブーツはもちろん地面を踏みしめているが、その足の下からは、芽が伸びてくることも、眠りについている虫が這い出してくることもない。それは彼女が誰にも手を差し伸べていないからだと、今の楓にはわかる。
「冬でも花が咲くのですね」
「あんまりないけどね。椿とかは冬だよね」
「ツバキ? オリエンタルの花ですか?」
「うん、そうかな。うちの庭にあるの。雪が降っても咲くんだよ」
「それは素敵です。ええと……そう、風情。風情があります」
得意げな顔をして言ったガブリエラに、「お前言葉の意味わかって言ってる?」とライアンが野次を飛ばした。
「失礼ですね。わかりますよ! ……これは何の花でしょうか」
そう言って、ガブリエラは青白く光る指で蕾をぽんとつついた。すると、まるで時間を早送りしたように、赤い花がみずみずしく開く。
その魔法のような光景に、楓は呆気にとられて立ち止まった。
「あれっ、白っぽい蕾でしたのに。赤い花ですよ」
予想と違う結果に、ガブリエラは花をじろじろと見る。
「何の花でしょう。むう、わかりません。パオリンがいればわかるのに。カエデ、パオリンは花に詳しいのですよ、花言葉も。知っていますか?」
「え、あ、ううん」
「そうですか。後で彼女に教えてもらいましょう」
ガブリエラは端末を立ち上げ、カメラ機能で花の写真を撮ると、ライアンたちの背を追いかけた。
楓は立ち止まり、彼女の咲かせた花と、彼女の後ろ姿を見た。
一輪だけ、華やかに咲き誇る花。ガブリエラが、勝手に咲かせた花。歩く彼女に踏みしめられる、何百何千の命たち。
──この能力を制御するコツは、悪い子になることです
母の言いつけにも神様の教えにも背くことがこの力を使うコツなのだと、彼女は言った。そして、ライアンや他の者達を優しいと言う。
しかし彼女の力を自分の力として体感した楓だからこそ、わかる。彼女が“悪い子”にならなければいけないのは、この力のせいなのだと。
「カエデ? どうしましたか。どこか擦り剥きましたか? 治しますよ?」
ついてこない楓を、ガブリエラが心配そうに振り返る。
「……ううん、なんでもない」
些細な怪我でも、こうして治そうとしてくれる彼女。能力を暴走させてエネルギーを放出し続ける楓を数時間抱き抱え続け、力を循環させ、それでも消費してしまうものを、自分のカロリーで補ってくれた彼女。
彼女はお腹がすいたというが、楓はさほどではない。それは、ガブリエラが万全に力を使ってくれたからだ。おかげで、いつもより体が軽く体調も良い。
自分の命と他人の命を天秤にかけた時、自分の命を取ることを罪だと言える権利など、それこそ親にだってありはしない。彼女が自分の力や命をどう使おうがそれはまるっきり彼女の自由なはずだと、賢い少女は知っていた。
全てを救わない自分を、“悪い子”だと彼女は評した。身を削って正しいことをして、そうして死ぬのが怖かったと、当たり前のことを言って。
しかし彼女が、仲間や、友達や、好きな人のために身を削ることを全く躊躇わない人であることを、楓は知っている。それどころか、メトロで乗り合わせただけの92人の乗客を、自分の身体を削ってでも救ってみせた。
誰もが本能的に己の命を優先させるのに、彼女の能力は、自分の命を削りかねないものだ。その事実だけでも、楓はガブリエラが聖女や天使と呼ばれて当然だと思う。
「本当ですか? 怪我をしたらすぐ言ってくださいね」
「大丈夫だよ」
楓は花を放って、小走りで彼女に追いついた。
「……ギャビーは優しいね」
そう言って笑いかけてきた楓に、ガブリエラは微笑んだまま、不思議そうに首を傾げた。
「まァ〜! そんな仕組みになってるの? 初めて聞いたわ、そんなの」
ネイサンが、心底驚いたというふうに、通る声で言う。
翌日、ジャスティスタワー・トレーニングルームにて。
バーナビーらからルーカス医師の語った内容を聞いた面々はもれなく非常に興味深そうなリアクションをし、また虎徹の能力減退が正しくは減退ではなかったということを聞いて、本当に良かったと手を取り合って喜んだ。
「でも、納得したわ。……アタシは能力発動したのが遅くて20代に入ってからなんだけど、それまでは割と中性的なルックスだったのよね」
「ああ、この間見せてもらった写真の頃?」
カリーナが言った。
自分の美少女ぶりが能力の影響もあると聞いて複雑そうな様子をしていた彼女だが、気にすることでもないか、と軽く受け止めた様子である。実際、彼女は誰にも母親似と言われる顔立ちでもある。
「確かに、男の人っぽさが全然なかったわね。ちょっとびっくりするぐらい」
少年時代のネイサンは女の子かと思うような可愛らしさで、また20代に入ってすぐの頃、スリップドレスを着てロングヘアにしている写真は、女性にしか見えなかった。
「でしょ? 正直そこは自慢だったんだけど、……でも能力発動して、すっごく筋肉がつくようになっちゃって。顔立ちも変わっちゃうし、男性的な所も目立ってきてね。成人もしていまさら何なのって、一時期は真剣に悩んだわよ」
まあ今は気にしてないけどね、とネイサンはウィンクをした。
「突き詰めて洗練すれば、この身体だって美しいもの」
「あなたは綺麗だわ」
「アリガト」
カリーナの本気の賞賛に、ネイサンは微笑んだ。
実際、ヒーローの中でもアントニオの次に長身で姿勢も良く、豹などを思わせるようなしなやかな筋肉を持つネイサンは、スーパーモデルであると言っても何ら違和感のない美貌の持ち主だ。
「でも、この事実はちゃんと周知したほうがいいんじゃないの? きっと悩んでる人はたくさんいるわ。医学的な側面での理解が広まれば、差別意識の緩和にも繋がるかもしれないし……。なんで広まってないのかしら」
「去年学会で発表したばかりの内容らしいです」
バーナビーが言う。そのため、医師の間ではそろそろ広まりつつあるが、一般にはまだ浸透していないという。能力を抑制する薬に関しては、今年に入って開発されたばかりだ。
「そうなのね。お医者さん用の学会や論文の雑誌なんか読まないものねえ、普通は」
「ええ。でも今回のことは僕も色々な意味でショックが大きかったので、これから購読しようかと思っています。テレビの中で活躍してイメージアップをするのも大事ですが、NEXTに関して正しい知識や事実を知って広めるのも、僕たちヒーローの役目だと思いますし」
「そうね。アタシも読みたいから、その雑誌の名前、教えてくれる?」
「もちろんです」
真面目な顔で言ってきたネイサンにバーナビーは微笑み、ルーカス医師から聞いてきた医学誌の名前を数冊メモして渡した。
「順応かあ。じゃあ今のうちに、“背が高くないと不便だぞ!”って体に覚えさせればいいってことかな?」
「考え方は間違ってないと思います」
期待できらきらした目をして言うパオリンに、身長を伸ばしたい同士のイワンが頷く。
「よし! それじゃ高いところに登るとか、高くジャンプするとか!?」
「それだと、単に腕力とか、跳躍能力が磨かれるんじゃないかな……」
「あっそうか。うーん、むずかしいな……」
ああだこうだと言い合った結果、思いっきり背伸びをするのを繰り返し始めたふたりを、周りが温かい目で見る。
「しかし、ワイルド君の身体に何事もなくて良かった、そして本当に良かった!」
満面の笑みで、キースが言う。この話をした時、彼は涙ぐみまでして虎徹の手を握りぶんぶんと振って、最後にはハグまでしていた。
「ああ、ありがとな。死んでたか車椅子だったかもって言われて、俺もさすがに肝が冷えたよ。これからは気をつけるわ」
「私も気をつけよう。特に私はトレーニングのしすぎでトレーナーから注意されることもあるし、これを機会に真剣に反省しなければ」
「そうしたほうがいい。お前、パトロールだなんだって結構ハードに能力使ってるし……いや、俺が言えたことじゃねえけどさ」
虎徹は、ばつが悪そうに頬を人差し指で掻きながら言う。
「いや、忠告をありがとう。それにしても、ワイルド君は長く現役でいられるのだね。それは素直に羨ましいよ!」
にこにこしたキースは、感情が抑えられないという様子で、ばっと両手を高く上げた。
「ワイルドタイガーは生涯現役も夢ではない、そして夢ではないね!」
「おうよ、ジジイになっても踏ん張るぜ、俺は!」
「ホントにやりそうで怖ェよなあ、お前は……」
力こぶを作った腕を自分でバシンと叩いて笑う虎徹に、アントニオが呆れ半分で言う。
「しかしその、ルーカス・マイヤーズ先生だっけ? すごい名医なんだな」
「そりゃもうな。昨日だけで、楓のことも俺のことも、一気に色々わかったしな」
アントニオのコメントに、虎徹は深々と頷きながら返した。
「そうか。俺は特に気になってるところはねえけど、念のため調べてもらいてえなあ……」
「私もぜひ診察してもらいたいな。予約を取るのは難しいかい?」
期待した表情のアントニオとキースに、虎徹は頭を掻く。
「いや、予約自体は取れるみたいだけどな。医者って言うより研究者って感じの先生だし、1、2か月は先になるって聞いたぜ。俺も、楓のことはできればあの先生に見てもらいたかったんだけどなあ……。ひとまず、アンジェラの主治医もやってる先生が見てくれることになったんだけど」
「アンジェラ君の主治医? そんな立場の方なら、ドクター・マイヤーズに引けを取らない名医なのでは?」
「いや、まあ、悪い人じゃねえんだけどさ。実績あるのも確かだし……」
首を傾げるキースに、虎徹はもごもごと言った。
実のところ、アンジェラの能力をコピーした時、捉え方によってはアンジェラに聞けと丸投げしたようにも見えるシスリー医師より、画期的な発見とその事実、また具体的なデータを表示して様々なことを教えてくれたルーカス医師の方が、虎徹にとって信頼度が高かったのだ。
「むう。シスリー先生はとてもいい先生ですのに」
五感の精度が高いというのは伊達ではなく、彼らの会話が耳に届いていたガブリエラが、不満げに頬を膨らませる。
「カエデも、シスリー先生より、ドクター・マイヤーズのほうがよかったですか……?」
「えっ? ううん、そんなことないよ」
楓はそう返したが、正直な所、医師たちに対する印象は、虎徹とあまり変わりない。シスリー医師に悪い印象がないのも本当なのだが、どうしても、様々な情報をもたらしてくれたルーカス医師のほうに興味を惹かれるのだ。
だがガブリエラがあまりにもシスリー医師の方を推すので、半ばそれに合わせた形で楓は頷いてみせた。
「シスリー先生も、話しやすくて優しい先生だと思うし……」
「そうですよね!」
本人から同意を貰えて安心したのか、パッと笑みを浮かべたガブリエラはボールを持ち、まだ背伸びを繰り返しているイワンとパオリンのところに駆けていった。より手加減を覚えるためか、また“ボール遊び”に誘うつもりらしい。
「……ギャビーって……、もしかして、ルーカス先生のこと、苦手?」
「あー、わかる?」
ライアンが言う。楓は、マシンを動かしてトレーニングしている彼を振り返った。
「前からあんな感じだよ。明らか避けるし、極力口も効かねえし、目も合わさねえし」
「ルーカス先生は、すごいアンジェラファンなのに……」
「そうそう。何が苦手なんだかな、よくわかんねえんだけど」
ノルマが終わったのか、ゆっくりと最後の動きを終わらせたライアンは、息を整えながら首にかけたタオルで汗を拭う。
「ちょーっとデリカシーが足りねえとこはあるから、それじゃねえのって皆言ってるけどな」
「……まあ、それは確かにあるね」
楓は苦笑した。
実際、彼はガブリエラの能力だけでなく身体のことを皆の前でべらべら喋ったし、楓もまた「お嬢さんはもう月経が来てる? 何歳から?」と、虎徹やバーナビー、ライアンがいるところで堂々と聞かれたので、それは理解できる。ちなみにその時はヒーローたちのほうがぎょっとして、慌てて席を外してくれた。
その点については女性で聞き上手なシスリー医師の方が確実にいい、と楓も思う。
「で、お嬢ちゃんは調子どうよ」
「うーん……、不安な感じはだいぶマシになったけど……」
マシンから立ち上がったライアンを、楓はちらりと見上げた。
「……ねえ。ライアンさんって、なんでヒーローになったの?」
「あん?」
内緒話をするような声色で聞いてきた少女に、ライアンは片眉を上げた。
★メイプルキティの冒険★
10/24