#092
★メイプルキティの冒険★
7/24
──とても良い気持ち。
ぼんやりとした意識の中で楓が思ったのは、まずそれだった。
ゆっくり流れる、体温と同じくらいのぬるま湯に、ゆらゆらと揺蕩っているような。しかし息苦しさは全く無く、大きく息を吸い込めば、全身に心地よいものが染み渡るようだった。
意識が浮いたり沈んだり、目覚ましをかけない日曜日の遅い朝のような、心地よい微睡み。じっくり周りを感じれば、とくとくと、とても心地よいものが流れ込んでくるのがわかる。
あまりの心地良さに、楓は膝を縮め、体を丸める。母のお腹にいる時の胎児は、こんな心地なのだろうか。自分もかつてはここにいただろうか。
ああ、ずっとここにいたい。
「──起きましたか、カエデ」
覚醒した楓の視界にまず入ったのは、周りに流れ落ちる、長い真っ赤な髪だった。次いでくるりと目を動かせば、青白く輝く灰色の目が近い。
「気分はいかがですか?」
朝日のように綺麗な声が、楓の鼓膜を震わせる。
「……とってもいい……」
「それは何よりです」
楓を後ろから抱きこむようにしているらしいガブリエラは、にっこりした。細い腕が、楓の体の前で組み合わさっている。楓が頭を預けるガブリエラの胸は薄くて平べったかったが、とくとくと聞こえる心臓の音が心地よい。
(ああ、この音)
暖かな水の中でずっと聞こえていた心地よい音はこれだった、と楓は理解した。
「楓! 楓、大丈夫か!? 痛いとこないか!?」
「お父さんうるさい」
「ひどい!」
無粋な声に楓が不機嫌そうな声を出すと、実は側にいた虎徹は嘆き、しかし「元気そうでよかった」と、ほーっと大きく息を吐いた。
「ここ、どこ……?」
「アスクレピオスの研究棟です」
ガブリエラが答えた。
楓はそこで、自分がガブリエラとともにベッドの上にいることと、ここが白い病室のような部屋であることに気付いた。
「あなたは私の能力をコピーして、それが暴走して気を失いました。覚えていますか」
「……うん」
楓は小さく頷き、眉をしかめる。はあ、と息を吐いたが、自然、身体が震えた。その時の感覚も蘇ってきて、眼の奥がじんわりと熱くなる。楓は、唇を噛み締めた。
「こわ、……怖かったあ……!」
「そうでしょう」
薄い手が、楓の頭を労しげに撫でる。
例えるならば、すべての生命が求める、特別な食べ物になったような気分。
自分はあらゆる生命にとって滋養強壮になる存在だということが、感覚でわかる。そしてその血肉が、常に求められてしかるべきものだということも。自分からはそれを知らせるにおいが次から次に溢れ出ていて、皆がよだれを垂らしてこちらを見ている、そんな気分だった。
「これが、ギャビーの能力なの……?」
「そうです。言ったでしょう、能力を発動した頃、よく死にかけたと」
ガブリエラは、静かに言った。
「今もあなたは自分のエネルギー、カロリーを放出し続けています。いま人間のような大きな生き物に触ったら、一気に吸い取られてしまいます」
「うん……わかる」
ありとあらゆるものが自分を吸い付くそう、喰らい尽くそうとしてくるようなあの感覚を思い出し、楓は恐怖で身を縮こませる。
「でも、……ギャビーは、そんな感じしない」
べったりと密着しているのに、ガブリエラからは、楓を喰らい尽くそうという感じが全く感じられない。むしろ、常に楓に何か心地よいものを流し込んできてくれているような感じがした。
「私も、能力を発動していますので。カエデが放出しているものを取り込んで、またあなたに戻しているのです。……自分の能力を受けることになるとは思いませんでした。変な感じですね」
ガブリエラは苦笑し、楓の顔にかかった黒髪を指先で優しく払った。その細い指先までもが、楓にはひどく心地よい。
「……あ。そういえば、あの男の人達どうなったの?」
「きちんと警察に引き渡しましたよ。あの辺りで犯行を行う常習だったそうです」
ひとりが女性に声をかけ、しつこく迫る男を警戒することに集中した隙を狙い、もうひとりが金品を掏り盗るというのが犯行のパターンであったという。
「ひとりは手が透明になるNEXTで、掴んでいるものも透明にできるそうです。それを使って掏摸を」
楓がコピーした能力の持ち主です、とガブリエラは言った。男が楓に手を伸ばした時、おそらくほんの僅かに触れてしまったのだろう、とも。
「私が、タイガーのように犯人確保が上手なら良かったのですが。掏摸の方は普通の人でしたが、もうひとりはいやなにおいがしていて頭がおかしいようだったので、危ないことはわかっていたのですが……」
「いやでも、聞いてる状況だったらしょうがねえよ。特に、ナンパ担当の方は危ねえ奴だったみたいだからな。お手柄だぜ、アンジェラ」
虎徹が、深く頷きながら言った。ガブリエラが苦笑する。危ない奴とはどういうことか、と楓が質問する前に、彼女は話を戻した。
「それで、楓が気を失った後、すぐにライアンが来ました。警察も事情聴取をひとまず免除してくださって、私がカエデを抱えて車に乗り込み、ここへ」
「そっか……」
「私の能力は周りに迷惑をかけませんが、自分自身には無害ではないのです。……きちんと説明するべきでした」
ガブリエラは本当に申し訳無さそうに、虎徹と楓に頭を下げた。
「タイガー。あなたの大事な子供を、怖い目に合わせてしまいました。信頼を裏切って、本当に申し訳ありません。カエデ、本当に怖かったでしょう。申し訳ありません」
しょんぼりとするガブリエラに、楓は慌てて首を振った。
「ううん、私も勝手に、コピーしても大丈夫な能力だって思ってて……。ギャビーはずっとコピーしないように気をつけてくれてたのに、ごめんなさい」
「……俺もだ。アンジェラの能力はその、無害も無害とか言われてるし……まさかこんなことになるとは思ってなかった。確認不足だった。ふたりとも、ごめんな」
広げた膝のそれぞれに両腕を突き立て、虎徹も頭を下げる。
NEXT能力の詳細というのは、非常にプライベートな情報である。カルテや健康診断の内容を詳しく聞くのは失礼、というのと似たものがあり、本人から話さないかぎり、根掘り葉掘り聞いたりしないのが自然なマナーである。
しかしガブリエラは自分のことに関してその感覚が薄く、特に親しい人やヒーロー仲間達に自分の能力や身長体重を聞かれても全く気にせず、あっさり話してしまう性格だ。だからこそ、何も聞かれなかったので話していない、という状況になってしまっていた。
「いいえ。あのときは、私が一時管理人でした。私に責任があります」
「そんなことねえよ」
「そんなことないよ」
「しかし……」
異口同音に言った父娘に、ガブリエラは困った顔をした。
「や、確かに説明不足だったけど、俺も勝手な思い込みで確認しなかったしな。責任ってんなら、親の俺にいちばん責任がある。……ライアンにも頭下げられたけど」
あいつあんな見た目とキャラのくせに、謝るときすげえ潔いよなあ、と虎徹は感心の篭った、柔らかい表情で笑った。その表情を見て、ガブリエラもやっと笑みを浮かべる。
「……そうでしょう。ライアンは誠意のある方ですからね」
「そうだな。良い奴だよ、あいつは。楓にも謝りたいって言ってたぞ」
「ライアンさんは悪くないよ。……あっそうだお父さん、私ライアンさんにマフラー買ってもらったんだ。ギャビーもね、お揃いの耳あてくれたの」
楓が言うと、虎徹は「へえ」と頷いた。
「そっか。ありがとな、アンジェラ。ライアンにも礼言っとくわ」
「……はい。……ありがとう、ございます」
ガブリエラは、苦笑した。そして何かを切り替えるように、いちど目を閉じ、顔を上げる。
「それで、タイガーのハンドレッドパワーで上書きしようにも、私の能力が暴走するのと、カエデのコピー能力がタイガーの能力の上書きをするのと、どちらが先になるかわからない、とお医者様が仰っていました。申し訳ないのですが、しばらく私にくっついていて下さい、カエデ」
「……うん、わかった」
「動けますか?」
「動けるけど……、部屋を出るのは、怖い」
楓が身を縮こませると、ガブリエラは「そうですか」と言って、ただ楓の頭を撫でた。
「この部屋は大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。生き物がいる感じがしないから」
「……わかんのか、そういうの」
驚いたように言う虎徹に、楓はガブリエラに縋り付くような姿勢のまま、こくりと頷いた。
「この部屋、無菌室なんだよ」
「無菌室?」
「ああ。アンジェラの主治医の、シスリー先生がな。アンジェラの能力をコピーしたんだったら、無菌室のほうがいいだろうって用意してくれたんだ」
「そうなんだ」
「でもそっか、部屋出るの無理か。うーん、皆心配してんだけどな。こっちに呼ぶのもダメか?」
「……ごめん、無理。お父さんでもちょっとギリギリな感じ」
申し訳無さそうに、楓は首を振った。「そ、そっか」と虎徹がうなだれる。
「映像なら大丈夫でしょう。だめなのは気配のはずです」
ガブリエラが言った。楓が、彼女を見上げる。
「あ、うん。それなら平気、たぶん」
「ホントか? じゃあ繋げるぞ」
虎徹がもたもたと手元のリモコンを操作する。なかなか思うように行かない操作に、ガブリエラが口を出し、「タイガー、違います。そちらのスイッチ」「え、こっち?」などという会話を交え、やっと、壁についたモニターが点灯した。
《──楓ちゃん! 大丈夫!?》
大写しになったのは、バーナビーの心配そうな顔だった。
心配してくれていることがひと目で分かる彼の姿、そして映像の彼に恐怖を感じないことに楓がホッとした表情をすると、バーナビーもまた、似たような顔になった。
《大変だったね。体調は?》
「大丈夫」
《そう、良かった。……ああ、ライアンが謝りたいと言ってるよ》
そう言ったバーナビーが横にずれると、ライアンが映像の中に現れる。いつも飄々としていて自信たっぷりな彼がどこか申し訳無さそうな様子なので、楓はなんだかおかしかった。
《あー……。大丈夫か? 目ぇ離して悪かった》
「ライアンさんのせいじゃないよ」
《いやいや、大人なんだから俺の責任だって。本当ゴメン。この通り》
「ちょ、や、やめてください!」
ライアンが頭を下げたので、楓はぎょっとした。
《ちょっとライアン、あなたみたいな厳つい男に頭を下げられるなんて、引くに決まっているでしょう。これ以上ショックを受けさせてどうするんです》
《……ジュニア君、さっきから俺のことメッタクソだよな》
容赦のないバーナビーに、ライアンはジト目を向けた。
《なあ、ひどくない? このお兄ちゃん超怖いんだけど》
いつもと同じ軽い物言いに、楓はつい笑った。
「ライアンさん、バーナビーに怒られたの?」
《怒られた怒られた、すげー怒られた。可愛い妹になにしてくれてんだってもう》
《当たり前でしょう》
バーナビーが自分のことを妹と言ったことに楓は頬を赤くし、そして、それこそいつも優しいお兄ちゃん、王子様のような振る舞いをする彼がライアンに容赦のない態度をとっていることが面白くて、くすくすと笑った。
《……良かった。笑えていて》
笑う楓を見て、バーナビーが、殊更優しい表情をして言う。
それから映像はジャスティスタワーのトレーニングルームに切り替わり、他のヒーロー全員がモニターに入れ代わり立ち代わり現れ、楓に心配や、激励の言葉を投げかけてくれた。
楓は映像とはいえ彼らとちゃんとコミュニケーションが取れたことにホッとし、不安さからずっと握りしめていたガブリエラの手から、ほんの僅かだが力を抜くことが出来たのだった。
《アンジェラの能力を、ある程度制御できるようになるしかありませんねえ》
そう言ったのは、モニターの中の女性。ケルビムのリーダーのひとり、シスリー・ドナルドソンである。
楓が運び込まれた際、コピーした能力の持ち主であるガブリエラの主治医であり、また制御のきかない児童のカウンセリングや治療に最も長けた彼女が召喚されたのだ。
情報を共有するため、引き続きバーナビーとライアンもその隣に映っている。
「……まあ、それしかねえか」
虎徹がそう言って、頭を掻いた。
「せ、制御? これを?」
未だ青白く光り続ける自分の身体を見て、楓は不安そうに言った。
《そうです。人に触っても、自分のカロリーをその人に与えないようにする制御》
「あの、制御のコツなどはありますか?」
《こればかりは、自分で覚えるしかないものですねえ》
「えええ……」
世界的なNEXT医師であるシスリー医師からあっさりさじを投げられ、楓は正直失望した。虎徹も、がっかりした顔をしている。
《そうですね。私からアドバイスをするとしたら、アンジェラをよく知ること》
「ギャビーを?」
カウンセラー独特のゆったりした声色のシスリー医師を、楓はモニタ越しにきょとんと見つめた。
《NEXT能力は、その人の本質ととても深く関わりのあるものです。その制御のためには、自分がどういう人間なのか見つめ直すことが必要になります》
シスリー医師のその言葉には皆覚えがあるのか、それぞれ小さく頷く。
《ひとりで考え込むことも大事ですが、人と話しながら考えたほうが、発見は多い。私たちは、カウンセリングという形でそのお手伝いをしているのです》
「なるほど……」
閉じこもって考え込むよりいろんなものを見て視野を広げて考えた方がいい、というのは、ライアンを始めとして他のヒーローたちからも受けたアドバイスだったので、楓は納得した。
《しかしあなたの場合、その能力はアンジェラのものです。アンジェラとたくさんお話して、能力のこと、彼女のことを教わり、知っていくことが、コピーした彼女の能力を制御できるようになる近道ではないでしょうか》
「そっか。……ギャビー、お願いします」
「おまかせあれ! 大丈夫、私の能力の制御はとても簡単です」
手だけを青白く光らせ、楓が放出しているものを循環して彼女に戻しているガブリエラは、自信ありげに言った。
「そうなの?」
「はい!」
楓が不安そうに見上げるが、ガブリエラはにっこりとした。
「なぜなら、できなければ死にますので!」
シン、と、部屋が静まり返った。
「出来なければ死ぬとなれば、人間なんでも出来るものです。バイクで走ることでもそうです。転んだら死ぬ、だからこそ転ばないのです」
「……えーっと」
「生きるか死ぬかです。もちろん生きたいですね? ならばできます。簡単なこと」
にこにことしているガブリエラに、楓は困惑した顔を向けた。虎徹とバーナビーも同じような様子で、あるいは冷や汗を流して目を泳がせている。ライアンが、なぜか気まずそうな顔をしていた。シスリー医師だけが、《あらあら》と呑気な顔をしている。
「ですので、本当はこの無菌室もいけないのです。いっそ、人がたくさんいるところに行くとか──」
「むむむ無理!! 無理だよ! 死んじゃう!」
「はい。ですのですぐ使えるようになります」
《お前ちょっと黙っとけ》
「え? はい、わかりました」
ライアンが苦々しい声で言うと、ガブリエラは首を傾げたが、本当にぴたりと黙った。
《あー、こいつ本当……いつもこういう感じでな、なんつーかその、脳筋っていうか、フィーリングで生きすぎっていうか……言うとおりにしてたら本当に死ぬから、参考程度っていうか、話半分で頼むわ。ぶっちゃけ“何言ってんだコイツ”ってとこ多いと思うんだけど、そのへんは俺も通訳できそうだったらするし》
「えっと、……わかった。ギャビーの話を聞きながら、安全なやり方を探すね」
《お嬢ちゃんが察しのいい子でホント良かった……》
ライアンが、遠い目をしながら言った。
「むう、なにかおかしいことを言いましたでしょうか……。私は教えるのが上手ではない……申し訳ありません……」
しょんぼりとしたガブリエラに、楓は慌てて「そんなことないよ」と言った。
「ギャビーに教わるしかないんだもの。私こそ迷惑かけるけど、教えてくれる?」
「俺からも頼むわ。……なるべく危なくないやり方で」
虎徹も、手を合わせて言った。──少し冷や汗を流しつつ。
《アンジェラから教えるのではなく、楓さんから色々聞いて、それにアンジェラが答える、というやり方ならどうでしょう》
シスリー医師が提案する。
「なるほど、さすがシスリー先生です。さあカエデ、なんでも聞いてください」
「えっと……じゃあギャビーが能力発動した時って、どんな感じだった? どうやって制御したの?」
楓は、無難に尋ねた。うんうん、と虎徹たちが頷く。
「私ですか。私はあなたと同じで、10歳の時にこの能力を発動しました。当時、私はとてもショックなことがあって、大泣きしながら自棄酒を飲んでいました。しかし買い出しに行かなければならなかったので、馬を引いて、フラフラの状態で歩いていました。なぜ自棄酒を飲んでいたかというと、車が燃えたので──」
《おいそこは端折れ》
「そうですか?」
初っ端から突っ込みどころ満載で始まったエピソードを、ライアンがすかさず軌道修正した。ガブリエラは首を傾げつつ、話を続ける。
「その時に、能力が発動しました。暴走した、と言ってもいいでしょう。荒野はいちめん花畑になり、そして私は花畑の真ん中で死にかけました」
「し、死にかけ……!?」
「一気にカロリーが消費されたせいで、今回の楓のように、すぐ気絶してしまったのです。その時のことははっきり覚えていませんが、砂だらけの地面に草や花がたくさん生えていて、怪我で変な歩き方しか出来ないはずの馬が周りで跳ねまわっていたので、夢かと思ったのは覚えています」
どこか懐かしそうでもある呑気な様子で、ガブリエラは語った。
「当時の私はかなり太っていましたが、起きた時には、体重が半分以下になっていました。太っていなければ死んでいたでしょう。……今回は、本当に間に合って良かったです。カエデは細いですので」
あっけらかんとした彼女の言葉に、全員がぞっとした。
「そして、その馬──ラグエルというのですが。ラグエルは人間嫌いでとても気難しい馬でしたが、私が意識を失っている間も、目が覚めても、ずっと側にいたがったのです。おかしいなと思いながら鬣を撫でたら、ぼろぼろのラグエルのたてがみが、とても綺麗に、つやつやになりました」
年寄りで体力がないはずのラグエルに触れると彼が元気になること、また怪我に使うと治ることなどを発見して、自分の力がどういうものなのか理解したのだ、とガブリエラは言う。
「しかし制御ができないために、土の上に立っているだけで痩せ細ってしまう、という状態でもありました。土の中には、いろいろな生き物がいます。虫、植物の種、菌や黴。空気の中にも」
「うん……私にも、分かった」
楓は、真剣な顔で頷いた。舗装された煉瓦の道でさえ、その下に蠢く数多の命を感じることが出来た。
「すべての命が、私の力を求めます。皆、生きようとしている。生きるために食べようとする、どんな命でも同じことです」
ガブリエラが話すそれに、バーナビーは、自然公園に行った時のことについて思い出していた。彼女の周りに集まる動物たち、その神秘的な光景にバーナビーは感動したが、当の本人はいつも淡々としていた。
──動物たちも、ある意味私を食べに来ているのです。お互い様です
彼女が咲かせた花を、一心不乱に貪っていた動物たち。
なるほど、ガブリエラは人間として食物連鎖のピラミッドの頂点に位置すると同時に、植物よりも裾野の存在でもあるのだな、とバーナビーは正しく分析し、理解した。
全てを癒す力は、全てにとって捕食対象であるのと同義。つまり生きとし生けるものすべてが、彼女を食べようとする天敵でもあるということだ。
地球上で絶対的な非捕食者、生きとし生けるもの全てに貪り食らわれる存在。しかもその栄養価は、どんなものよりも万能の滋養がある。
「それで? すぐに制御できたの?」
「いいえ。私も今の楓のように、ずっと体が光っているような状態でした。食べても食べてもずっとおなかがすいていて、どれだけ食べてもおなかいっぱいにはならない」
「……それは、つらいね」
楓も今空腹を感じているが、耐えられる程度だ。そしてそれは、ガブリエラが能力を使ってカロリーを還元してくれているからだということを、楓は確信する。しかし当時のガブリエラに、そんな存在はいなかった。
「はい。カロリーが能力の元になっていることに気付いたのは、ファーザー、……私の育て親の、神父です。彼がくれた砂糖の大袋を抱えて、砂糖を手づかみで口に詰め込んで、なるべく濃いお酒で流して、ずっとそれを繰り返しました」
「そんなことしたら、病気になっちゃう!」
「しかし、そうしなければ死んでしまいましたので」
楓が引きつった声を上げ、皆も過酷なそのエピソード眉をひそめている。
「しかも、私の能力のことはすぐに町中に知れ渡って、教会にたくさんの人が押しかけてきました。私は、それがとても恐ろしくて……。殺されるかと思いました。死ぬかと思いました」
それはそうだろう。ガブリエラにとっては、まるで飢えた獣が群れで襲ってきたようにしか感じられなかったに違いない、と楓は深い共感をもって大きく頷いた。
「大騒ぎになったこともあって、ファーザーは教会を閉めきってくださいました。しかし、母は違いました。母は、私の能力をとても喜びました」
「……喜んだ?」
虎徹が、怪訝な顔をした。娘が他のあらゆるものに奪われ吸い尽くされて死にかけようとしているのに、母親がそれを喜ぶとはどういうことかと。
「はい。母はとても敬虔な信徒です。母は常に私に言いました。困っている人は助けるべきだと。たとえ自分が貧しくても。それはとても良いことで、何よりも尊いことであると。……私の能力は、困っている人を助けられる力です」
ガブリエラは、目を細めた。
「母は言いました。お前はやはり天使だったと、泣いて喜びました。それは神様から与えられた力だと。求めている皆に、惜しみなく与えるべきであると」
「それって──!」
死ねと言われているのと同じことではないか、と全員が表情を歪める。あっけらかんとしているのは、ガブリエラだけだった。
「はい。母にとって、正しいことをするのがいちばん善いことなのです」
「……わかんないよ、ギャビー」
どんな理由があれ、母親が子供に死ねと言うなど。そして、それを正しいというなどということが楓にはさっぱり理解できなかったし、世界で最も悲しいことであるような気がした。
「そうですね。私もよくわかりません、あの人の考えていることは」
ガブリエラは、あっさりとした様子で、言葉を続けた。
「母は、頭がおかしい人なので」
それは、遠くの空を見て晴れですねとか雨ですねとか言うような、無感動な声だった。
「……どうやって制御できるようになったの?」
遠くを見ているガブリエラを引き戻すようにして、楓は尋ねた。
「それは、ラグエルのおかげです」
「ラグエル? さっきの馬?」
「そう。私の最初の友達です」
ガブリエラは、目を柔らかく細めながら言った。
「彼はものすごく性格の悪い、神様の教えに全力で逆らっているような、凄まじく根性のひん曲がった、最低最悪の馬でした」
表情と全く合わない台詞にぽかんとしている皆を置いて、ガブリエラは、ただ懐かしそうに言う。
「私が土の上を歩くと、足をついたところから芽が生えました。教会の周りには、私の名前を呼びながら、怪我をした人たちがドンドン扉を叩いていて、母は早く彼らのもとに行けと言う」
シン、と静まり返った白い部屋で、ガブリエラは淡々と語る。
「私は何もかもが恐ろしくて、砂糖まみれで泣きながら、とにかく誰もいないところを探してうろついていました。そうしたら、ラグエルが私の服をくわえて、馬小屋へ引きずり込んだのです」
「馬が?」
「ラグエルは、とても頭が良い馬でした。私の能力がどういうものなのか、彼はちゃんと理解していました。自分にとって、どれだけ私が有益かも」
「……つまり?」
「つまり彼は、私の能力を独り占めしようとしたのです。彼は元々サーカスの馬で、しかし怪我のせいで私達のところに売り払われて、人間が大嫌いでした。怪我をして身体が悪いのに、人間が近付こうとすると蹴り殺そうとするのです」
「よくそんな暴れ馬飼ってたな……」
虎徹が、冷や汗を流しながら言う。
「車が壊れたので、荷馬車がないと生活できません」
「それにしたって、危ねえだろそんな馬」
「買い出しにさえ行ければいいので、荷馬車を引かせる時は、スタンガンや鞭で言うことをきかせていました。彼も死にたくなかったのでしょう。しかしそのせいで、ますます人間嫌いになっていました」
「……馬も馬だけど、お前らもお前らだなあ……」
虎徹は、何ともいえない様子で言った。
「そんなラグエルが、私の能力で怪我が治って、元気になっているのです。彼の小屋に行くなど、自殺行為。蹴り殺されます。誰もがそう思っていました」
そもそもラグエルは体高160センチ程度、体重は600キログラムくらいある重厚な品種で、力の強い馬だった。そんな馬が髪をむしってきたり、糞を顔めがけて蹴り出してきたり、唾を吐きかけてきたり、挙句蹴り殺そうとしてくるのだ。そんな猛獣の小屋など、どんな悪ガキだろうと近付くことはなかったのである。
「誰もがそう思って、馬小屋を探しませんでした。私はラグエルに能力を使う代わりに、彼の寝床を間借りしました」
「安全なところが見つかって、よかった」
楓がホッと息をつく。
「はい。待遇はとても、とても、とても悪かったですが。馬小屋で、馬糞まみれの藁に隠れて砂糖とまずいアルコールを泣きながら口に詰め込んだこと、今でも忘れません」
「うっ……」
ガブリエラは笑って言っているが、もちろん楓を含め、他の面々は引いている。シスリー医師は、目を細めてガブリエラの話を聞いていた。
「彼は常に私を馬鹿にして、しかし力を使えと催促してきました。お前などどうでもいいが、その能力は有益なので使えと言っているのが、言葉など通じなくても、とてもよくわかりました。私はそれがものすごくむかついて、こんな奴を癒やしてなどやるものかと、とても強く思いました。そうしたら、能力を使う使わないをコントロールできるようになったのです」
「ええー……」
少し笑って言うガブリエラに、楓は微妙な顔をした。
「そう、つまり──ああ、言葉を見つけました。こうです、教えましょう」
ガブリエラは、何か閃いたというように何度か頷き、楓を見た。その灰色の目に、楓は少しだけびくりと肩を跳ねさせる。美しく、吸い込まれそうな、そして奥底の知れない目。
「この能力を制御するコツは、悪い子になることです」
口にしてより納得したのか、ガブリエラはひとりで、「そう、そうです」とまた頷いた。
「困っている、求めるものに手を差し伸べる。だめです。見捨てます。自分の命を大事にします。私が力を使えば生きられるものがたくさんいても、全部無視します。母の言いつけにも、神様の教えにも、全部逆らうのです。とても悪い子になるのです。ラグエルのように、──私のように」
確信のようなものをもって言うガブリエラに、楓はごくりと息を呑んだ。
「自分のしたいようにするのです。ただ、自分が生き延びることを考えて」
ガブリエラは、楓の手から、そろそろと、ゆっくり手を離し始めた。
「……カエデはとても良い子ですから、難しいかもしれませんが。今だけ」
その言葉と同時に、ガブリエラが楓の手を完全に離す。
楓の身体から溢れていた青白い光が、引いていく。
「──楓」
虎徹の声に、楓が振り向く。
「楓、大丈夫だ。お父さんは怪我なんかしてない。すごく元気だから、お前の力はいらない。お前に元気でいて欲しい。大丈夫」
「お父さん……」
伸ばされた虎徹の手に、楓は、おそるおそる手を伸ばす。
──固い手に、楓の小さな手が、重なった。
「……楓! 良かった!」
虎徹が、楓を抱きしめる。
「お父さん……」
自分の中にあるガブリエラの能力に集中していた楓は、自分の能力が父のハンドレッドパワーに書き換えられたことを悟った。──そんなことを感じられたのも、初めての事だった。いつも、いつ能力をコピーしてしまったのか、全くわからなかったのに。
「ああ、良かったです」
楓から離れたガブリエラが、柔らかく微笑んで言った。父の腕の中から、楓はガブリエラに振り向く。
「ギャビー」
「カエデ。先程のは、今だけです」
ガブリエラは、口元に人指し指をあてた。
「悪い子になっては、いけません。カエデは良い子」
そう言ったガブリエラの表情は、教会にある聖母像にとても良く似ていた。
★メイプルキティの冒険★
7/24