#091
★メイプルキティの冒険★
6/24
「うーん……まだ降りませんね」
 助手席にいるガブリエラが身体を斜めにし、車の窓から空を見上げて、なんだかそわそわと言った。
「積もるでしょうか。積もりますよね」
「えーっと……雪のこと?」
「そう、そうです、雪。オリエンタルタウンは雪が降りますか?」
 楓が尋ねると、ガブリエラは、灰色の目をきらきらさせながら振り返った。
 シュテルンビルトは通年気温が低めだが、四季ははっきりしているほうだ。しかし今年は例年より気温が低く、冬は確実に雪が降り、しかも相当積もるだろうと言われているのは楓も知っていた。

「うん。毎年、膝の下くらいまでは積もるかなあ」
「膝の下! すごい!」
「ギャビー、雪が好きなの?」
「好きというか、珍しいのです。私の故郷は、とても暑いところでした。あちらに冬は存在しなかったのです。シュテルンビルトに来て、初めて防寒着というものを買いました」
 ガブリエラは、コートの襟を引っ張りながら言った。
「雪が降ったら、パオリンと雪合戦をする約束をしているのです! あと折紙さんが教えてくださった、カマクラというものを作ります。もし雪が足りなくても、カリーナが協力して下さいます。カエデも一緒に遊びましょうね!」
「どんだけ楽しみにしてんだよ。雪で大はしゃぎとか、ほんとにDoggyだなお前は」
 ライアンが呆れたように言う。

 楓も、苦笑した。
 楓は当初、ガブリエラに対してあのメトロ事故での中継映像による印象、つまり天使や聖女と言われるイメージが色濃かった。
 素顔のガブリエラは非常に細身だが女性にしては背が高く、現実味のない真っ赤な髪と灰色の目、白い肌という神秘的な容姿だった。
 そして実際に接してみると、ライアンが彼女を“Doggy”と呼ぶことにおおいに納得してしまうような人懐っこさがあり、無邪気に走り回る様子は癒し系といえるものだ。
 だが同時にライダースーツ姿で大きなバイクを颯爽と乗りこなす格好良さもあり、ハードな“ボール遊び”に興じるエキセントリックな部分もある。行動は大胆で突拍子がなく、独特のユーモアの持ち主。
 次から次に顕になる彼女のギャップに驚き続けている楓だが、その全てが彼女の素であることは、もう理解していた。それに、予想の付かない発言や行動は独特のユーモアに溢れていて、決して悪い印象ではない。──側にいて何もかもに付き合うのは、かなり振り回されそうで遠慮したい感じもするが。

「私も雪は好きだよ。スケートもするし」
「あっ、フィギュアスケートですね! タイガーから聞きました」
 ガブリエラが、バックミラー越しに目を輝かせた。
「映像も見せていただきました。発表会の」
「えっ、ちょっと! お父さん、何見せてるの!?」
 恥ずかしいものではないが、思春期の少女として、そういうものを知らないところで見せびらかされて気持ちが良いとはいえない。怒ったような顔をした楓だが、ガブリエラは相変わらずにこにことしていた。
「ライアンの映像のお返しに見せて頂いたのです」
「ライアンさんの? 何の映像?」
「……気にすんな。あ、お嬢ちゃんの発表会ビデオだったら俺も見たぜ。つーかヒーロー全員で見た」
「お父さんほんとに何してるの!?」
 悲鳴に近い声を上げた楓に、ライアンは肩をすくめた。
「いいじゃん、イケてたぜ? 父親譲りの運動神経、さすが」
「……うー」
 あっさりと褒められて、楓は呻き声を上げ、落ち着かなさ気に小さくなった。
「スケート、格好いいですね。とても速そうですし」
「確かにスピード結構出るけど。ギャビーは、スケートやったことある?」
「ありません」
「今度一緒に行く?」
「良いのですか! 行きます! ライアンも行きましょう、ローラースケートがあんなに上手ですので、スケートもきっと上手なはず」
「あーいいねースケートいいねー行く行く超行くー」
 ガブリエラの言葉を遮るようにして、ライアンは奇妙な棒読みで言った。「ローラースケート?」と楓が首を傾げる。

「っつーか、お前雪もスケートもいいけど、ちゃんと着込めよ」
 信号待ちになり、ライアンが言った。
「お前脂肪ねえんだから、冷えやすいだろ。チワワだって服着てんだからお前も着ろ」
「ライアンは温かそうですね。筋肉がすごいですし、むちむちしているので」
「なんつったお前」
 ぎろりと睨んだライアンに、ガブリエラは「素敵な体つきですねと言いました」としれっと言った。しかも、本心そう思っています、という笑顔で。
 その笑顔に毒気が抜かれたらしいライアンは、眉間に皺を寄せたまま片眉を上げ、信号が青になると、結局また前を向いて運転し始めた。
「大丈夫です。もっと寒くなってきたら、コートの中にセーターを着ます」
「あのクソセーターはやめろよ」
「ええ〜。見えないのに?」
「見えないところも気を使え!」
 軽く怒鳴ったライアンに、ガブリエラは「オシャレは大変です」と難しそうな様子で言った。

「それ以前に、セーター着たって他がその薄着じゃ絶対寒いだろうが。つーか見てるほうが寒い。マフラーぐらいしろ」
「あ、マフラー……」
 楓が呟いたので、ガブリエラが振り返った。
「マフラーがどうしました、カエデ」
「えっと、マフラーをオリエンタルタウンに置いてきちゃったなって。なくてもなんとかなるとは思うけど」
「いやいや、ダメだろ」
 楓の言葉を、ライアンが遮る。
「今年のシュテルンビルト、すげー寒いらしいぞ」
「そう言われていますね。確かに、今年は私がシュテルンビルトに来てから最も寒いです。二部リーグ時代でしたら、お金がなくて凍え死んでいましたね!」
「なんで自慢げに言うんだよ」
 満面の笑みで言うガブリエラに、ライアンが突っ込んだ。
「しかしカエデ、マフラーを買うのは私も賛成です。今日もなかなか寒いですし」
「じゃあ今買えば?」
 ライアンが、軽い調子で言った。
「どっか寄ってこうぜ。ジャスティスタワー待機だから、別にそこまで急いでるわけじゃねえし。お前もついでに買えよ」
「はい。ではそうします」
 ガブリエラが、こくりと頷く。

「えっ、でもあの、今日あんまりお小遣い持ってきてなくって……」
「あん? 子供がそんなこと気にすんなっつーの。ハイ決まり、行くぜー」

 ライアンはそう言ってハンドルを切り、ジャスティスタワーへ向かう道を方向転換した。



 そうしてやってきたのは、シルバーステージからゴールドステージに上がった所近くにある、大型商業施設。
 いかにもゴールドステージというまでの高級品ではなく、しかし最底辺の安物は置かない品揃え。高校生でも少し背伸びをすれば買えるくらいのラインの商品が揃う。以前は古くて煤けたショッピングモールだったが、最近大々的にリニューアルして話題になっている場所である。
 全体的にファミリー向けの施設で、少女向けのファンシーショップ、おもちゃ屋などのテナントも入っている。アパレル系の店舗は全体的に対象年齢層が若めで、完全に子供や学生向けのものから、いわゆるF1、M1層向けブティックが目立った。

「このへんなら、お嬢ちゃん向けじゃねえ? お前もマフラーぐらいならあるだろ」
「そうですね。あっライアン、今のうちに帽子をかぶってください」
 ガブリエラがそう言って足元の紙袋から帽子を取り出し、ライアンに手渡した。
「変装って、あんま好きじゃねえんだけどな〜……」
 ライアンはセットされた髪を押さえつけるようにニット帽をかぶり、以前ガブリエラと出かけたときもかけた、ノンフレームで薄い色のシャープなサングラスをかけた。簡単な変装だが、彼のトレードマークのひとつでもあるヘアスタイルと目元を隠すと、一見した印象は随分変わる。
 それに、ゴールデンライアンは変装をせずに街歩きをし、プライベートでも愛想良く、神対応とも呼ばれるファンサービスを欠かさないと有名なので、変装をしている時点でゴールデンライアンだと気づきにくくなる。

「ごめんなさい、面倒かけちゃって……」
 ライアンが普段しない変装をするのは、もちろん楓のためだ。ガブリエラも素顔であるし、ファンに囲まれたら確実に面倒なことになる。
「あ、いや」
「謝ることはありませんよ、カエデ!」
 楓の控えめな謝罪に対してライアン本人がなにか言う前に、ガブリエラがやけに力強い声で言った。
「なぜならライアンは、変装をしても格好いいですので! むしろいつもと違う姿でまた素敵です! しかし素敵さは変わらないので、結局注目を集めるのではと少し心配ではありますね」
 真正面から豪速球、という感じでライアンを褒め称えるガブリエラに、楓はぽかんとした。ライアンはその様子を呆れの滲んだ半目で見たが、しかしやがてフッと軽く笑みを浮かべ、片眉を上げて肩を竦める、コミカルなポーズをとった。

「そりゃあどんなスタイルだろうが、俺様の魅力はどうしたって溢れてくるからな。そこはどうしようもねえさ」
「そのとおりですね」
 ライアンの自信満々な台詞もだが、ガブリエラがあまりにも真面目な顔で頷くので、楓はつい噴き出してしまった。くすくす笑う楓に、ライアンがサングラスのブリッジを軽く上げる。
「そうそう、そういうノリで。ユルくいこうぜ、ユルく」
「……うん」
「よーっし、じゃあ行くか」
 黒いダウンコートを後ろから引っ張り出してきたライアンは、それを着ながら車から降りた。立った襟にまで羽毛が入っているらしいダウンコートは首元が暖かそうで、ライアンの端正な輪郭をわかりにくくする。
 しかし身長の高さや体格の良さ、脚の長さなどはそのままだ。それにニット帽で髪を押さえて頭蓋の形が顕になると、彼の頭身がどれだけ高いのかがよくわかる。あのボリュームのあるライオンヘアは、彼くらい頭部が小さくないと格好の付かないヘアスタイルなのだ、と楓は気付いた。
 そして、そんな彼がこうして立っているだけで、纏う雰囲気は抜群にきまっている。

「……ほんとだ。ライアンさん、顔わかんなくてもかっこいいね」
「おー、サンキュ。言われなくても知ってるけど、好きな時に言っていいぜ」
 相変わらず彼らしい返答に、楓はまた笑った。しかもガブリエラがまた「そうでしょうそうでしょう、楓はわかっていますね」となぜか得意げな顔をしてくるので、楓はしばらく笑いを止めるのに苦労することになった。



「カエデ、気をつけて。あまり離れないように」
「ん、真ん中歩いたほうがいっか。袖んとこ持っとけよ」
 テナントが並ぶ施設内に入る時、ふたりにそう言われ、楓はライアンとガブリエラの間に陣取ることになった。しかもふたりの袖を、両手でそれぞれ持たされる。確かにこうすれば、滅多なことでは人とぶつかったりはしないだろう。
「幅取るけどな。平日で空いてるから、いんじゃね」
「そうですね」
 目立つ歩き方だったが、ライアンもガブリエラもまったく嫌な顔ひとつせず、楓を他の通行人から守ってくれた。
「あの……」
「なんでしょう」
「う、ううん」
 なんでもないよ、と楓は俯いた。こんなことをしなくても、無害な能力のガブリエラと手を繋がせてくれれば大丈夫だと言おうとしたのだ。しかし「手を繋いで欲しい」と言うのがなんだか恥ずかしく、それにこうして万全に気を使ってくれるふたりに言い出せなかった楓は、そのままファッションフロアに向かっていった。

 結局、楓はかわいいマフラーと、ついでに耳あてを楽しく選ぶことが出来た。
 ガブリエラはたくさんの品物を前に早々にマフラー選びをライアンに投げ、彼が選んだ、シンプルだが素材が良く肌触りがなめらかな物を購入。そして楓が耳あてを選んでいるのを見て、それも買った。本来少女向けのメーカーのシリーズの耳あてで、楓はピンクの兎、ガブリエラは白い犬の耳あてである。

「ライアンさん、ギャビー、ありがとう」
「どーいたしまして」
「どういたしまして。おそろいですね!」
 ライアンはなんでもないように肩を竦め、ガブリエラは笑みを浮かべた。
 楓にマフラーを買ってくれたのはライアンで、耳あてを買ったのはガブリエラだった。というより、いつの間にか会計が済んでいたという方が正しい。マフラーは楓がいいなと思ったものを眺めていたらライアンが取り上げてレジに持っていってしまったし、耳あては、ガブリエラが自分のものと一緒に会計してしまった。
 ちゃんと返します、と言っても彼らは「いーよこんくらいで」「おそろいですからね」といって全く聞かず──しかもガブリエラはいまいち理屈が通っていない──、値段を教えてくれないのもあって、楓はありがたく厚意に甘える事にした。

「あー、なんか混んできた?」

 では車に戻ろうか、とした時、屋上の駐車場に行くエレベーターにぎゅうぎゅう詰めになっている人々を見て、ライアンが言った。
 見ると確かに、人がかなり多くなってきている。しかも、ベビーカーや未就学児を連れた親子連れが多いように見受けられた。
「小さい子向けのショーをするようですよ」
 そう言ったガブリエラが指差した先には、ドラゴンキッドやスカイハイがよくゲストで出演する、幼児向け教育番組のメインキャラクターがカラフルに描かれたポスターが貼られていた。しばらく決まった日と時間にショーを行うようだが、今日はばっちり開催日である。

「それでか。うーん、お嬢ちゃんがアレ乗るのは……まずい?」
「うん……」
 ライアンの問いに、楓は困った顔で頷いた。
 あの密度では、どうしても他人に触れてしまう。そうでなくても、ライアンに触れてしまうことは確実だ。少しばかりの実験で、楓の能力は手袋や服越しでも強く圧迫すれば発動してしまうことが確認されている。
 エレベーターで重力が暴走するなど、最悪と言っても足りないくらいの大惨事が容易に想像できる。ガブリエラと手を繋いでおけば大丈夫なのかもしれないが、あれほどの密着度ではどうなるかわからない。

「OK、じゃあおまえらは降りて待ってろ。車回してくる」
「わかりました」
「えっ、いいの?」
 ガブリエラもSS、特別監視対象NEXTでライアンはその監視員のはずなのに、と楓が驚くと、ガブリエラは「大丈夫ですよ」と言った。
「私自身もヒーローですので、カエデほどは監視が厳しくありません。ライアンと一緒にいなければいけないのは、ヒーローとしての就業時間内のみです。今は休憩時間扱いですし」
「そうなの? ……ずっと一緒にいるんだと思ってた」
「ふふ。それはとても素敵ですが、仕事が終わればそれぞれの部屋に帰りますよ」
「そうなんだ」
 楓は納得して頷いた。といっても、楓としては彼らが一緒に暮らしていると言っても驚かないし、むしろ別に暮らしているのか、と思ったくらいだったのだが。

 そしてライアンはぎゅうぎゅうのエレベーターに大柄な身体をねじ込ませに行き、ガブリエラと楓はエスカレーターを使って、ロータリーのある1階に降りた。
 外に出ると、野外のミニステージの前でショーの始まりを待つ家族連れがたくさんいた。彼らとの接触を避けるため、あちらの隅に寄って待っていましょうと言うガブリエラに従い、楓は新しいマフラーと彼女とお揃いの耳あてをして、ライアンを待った。
 大きな柱の陰になった場所は風除けもでき、人気もあまりない穴場だった。元々は喫煙所だったようだが、灰皿は撤去されている。壁に取り付けられた喫煙所のマークは養生テープが貼られ、煤けた壁にもシートなどが中途半端に貼ってあった。おそらく、リニューアル工事が間に合わなかった部分なのだろう。
「カエデ、喉が渇いたりはしていませんか?」
「うーん、少し。乾燥してるもんね」
「そうですか、私もです。温かいものを買いに行ければよいのですが。ライアンが来るまでがまんです」
 そう言うガブリエラに、手を繋いでくれれば一緒に行けるよ、と楓が提案しようとしたその時ふと聞こえた声に、ガブリエラが反応した。

「ねえねえ、あっち行こうよ。喫煙所あったから、煙草吸えるよ」
「すぐそこだから、一緒に行こうよ」
「いえ、もういいですから……」

 妙に浮ついた若い男ふたりの声と、困った様子の女性の声。ガブリエラは楓を後ろにかばいつつ、声がする柱の陰を観遣った。
 するとそこにいたのは、声から予想できたそのままの人物だった。楓も、ガブリエラの後ろからそっと顔を出してみる。ひとりは頭頂部の生地が余ったニット帽に厚手のジャンパー、もうひとりはダッフルコートに黒縁の眼鏡。少しだらしないだけで普通の格好ではあるが、バーナビーやライアンを見慣れてしまった楓の目には、とても安っぽく映った。
 どうも、喫煙所を探してうろついていた女性に男たちが絡んでいるようだった。だが女性は彼らを怪しんで警戒しているし、男たちは少しずつ彼女を圧迫するようにし、完全に周りから死角になる角に追い詰めようとしている。
 ガブリエラはすっと真顔になると、素早く身を引き、人混みを見渡した。

《良い子のみんなぁ〜! こんにちは〜!!》

 明るい音楽とともに、小さな子供向けのキャラクターの声が聞こえてくる。家族連れの人々はほとんどそちらに向かっていて、こちら側からは、警備員も含めて全く人がいなくなっている。しかもこの、大音量の音楽。大きな柱の陰で起こった悲鳴などは、簡単にかき消されてしまいそうだった。

 楓を連れている時点で、人混みを突っ切って警備員を呼ぶのは不可能。
 そしてガブリエラは、サポート特化とはいえヒーローである。
「ライアンは間に合いませんか。間に合わなさそうですねえ、うーん」
 ロータリーは、渋滞を起こしかけていた。

「むう、しかたがありません。……カエデ、下がって。あちらの影に隠れてください」
「えっ、あ、うん……」
「帽子のほうは、特に頭がおかしいです。目を合わせないように。──そこの方! 大丈夫ですか!」
 楓の返事を効かないうちに、ガブリエラはよく通る声で前に進み出た。女性と男ふたりが、ガブリエラを見る。女性が、あからさまにホッとした顔をした。
「こちらへ」
 そう言ってガブリエラが差し出した手を、女性が迷いなく取る。そしてガブリエラはその手を急に強く引き、女性を深く抱きしめた。
 細身とはいえ170センチあるガブリエラに急に抱きしめられた小柄な女性は驚きに頬を赤らめ目を白黒させていたが、ガブリエラがその耳元でぼそぼそとなにか言うと顔色が変わり、楓の横を通り抜け、急いで走って去っていく。

「あなたがたは、動かずにそこに。私はヒーローです」

 そして最初から最後までずっと男たちから目を逸らしていなかったガブリエラは、はっきりと言った。男たちの空気が変わる。
「……ヒーロー? マジで? 二部リーグ?」
 おとなしそうな黒縁眼鏡の男が目を泳がせ始めたのと違い、女性にしつこく声をかけていたもうひとりのニット帽の男は、いかにも興味津々という様子で一歩前に進み出てきた。
「まさか一部リーグ?」
「おい、やめとけよ」と黒縁眼鏡の男が言うが、その言葉は無視された。
「なあ、マジで? 誰? ヒーロー名なに? あ、もうひとりいる。あのコも?」

 ぐいぐいと覗きこんできたニット帽の男に楓は眉をしかめ、伸ばされた腕にびくついた。ガブリエラは楓を隠すように前に立ちなおしただけで、言葉を発しない。
「さっきのコも良かったけど、オネーサン美人だね。しかもヒーローって、すっげ〜。ねえ、一緒に遊びに行かない? 話聞かせてよ。なあ、お前も興味あるだろ」
「……あ、……そ、そうだな」
 にっこりと、しかし胡散臭く笑った男に、黒縁眼鏡の方がハッとしたようになり、気を取り直した様子で笑みを浮かべて頷き、近づいてきた。
「ちょっと……!」
 ぐいぐいと距離を詰めてガブリエラの背に腕を回そうとしたり、どう見ても尻をまさぐろうとしている男たちに、楓が声を上げる。しかし、ガブリエラは微動だにしなかった。

「財布はそこではありません」

 彼女は、静かに言った。ぴたり、と男たちの動きが止まる。
「……何の話?」
「ナンパに見せかけた掏摸ということはわかっています。私は今日、小銭しか持っていません」
 クレジットカードで耳あてを買ったガブリエラは、冷静に言う。
 子供向けのショーの時間であること、また以前は喫煙所だったこの場所での犯行も意図的なものだろう、とガブリエラは当たりをつけていた。
 ガブリエラの頭の出来はお世辞にもよろしくないが、勘については野生動物並みなのだ。しかも、敵意や害意に対してのものは誰にも引けを取らない。

「……スリとか、ないわー。何言ってんのお姉さん」
「そうそう。言いがかりつけられても困るんだけど」
 言いがかりをつけているのはどっちだ、と、楓は眉をしかめる。しかし先程よりも不穏な様子になった男たちは、絡んでくるのをやめなかった。
「言いがかりかどうかは、警察でそちらの方の上着をひっくり返せばわかります。あの女性にも、財布を返して頂きます。ここにいてください」
「……おい、もうやめよう。行こうぜ」
 ガブリエラに指をさされた黒縁眼鏡の男が途端に焦りだし、ニット帽の男の肩を引いた。しかしニット帽の男は微動だにせず、妙に目を見張った無表情でガブリエラを凝視したままだ。
「……オネーサン、決めつけ激しくない? 俺、ちょーっと気分悪いかなあ。場所変えてお話しよっか。お前も、ホラ」
「お、おう……あ、そ、そうだな」
「ギャビー! ちょっと、やめてよ!」
 ぐいぐい引っ張られるガブリエラに、物陰から出てきた楓が、悲鳴に近い声を上げて駆け寄った。しかしガブリエラは動じず、ただ飄々とした無表情で「近付かないように」と返す。
「うわ、あっちもよく見たらすげー美少女。もしかしてドラゴンキッドとか? まさかね」
「あの子に手を出さないように」
「どうしよっかなあ」
 ニット帽の男は、ニヤニヤと笑っている。黒縁眼鏡の男は、楓とガブリエラを忙しなく見比べていた。
「うーん、面倒ですね」
「面倒とか言われちゃったあ」
「おい、さっさと行こうぜ。ほら、早く」
「ひゃー、すっげえ赤毛」
 焦った様子の黒縁眼鏡の男が、ガブリエラの細い腕を乱暴に引っ張る。ぐらついた拍子に靡いた彼女の長い赤毛を、ニット帽の男が乱雑に指に絡めた。
「ああして……こうして……、こう? 武器はだめ。うーん、むずかしい。面倒です、本当に面倒……」
 ガブリエラは至極面倒そうに何かぶつぶつと呟いてから、大きくため息をつく。
「なあ、この子も連れて行かないとまずいだろ。人呼ばれたら──」
 黒縁眼鏡の男がすっかり焦った様子で言い、手を伸ばした。もしかしたらNEXTかもしれない男たちに触れてしまうかもしれないと思うと、ガブリエラのところに飛び込むこともできず躊躇していた楓に向かって。
「きゃ……!」
「……手を出さないように、と」
 腕を伸ばし、楓を掴むことに気を取られている黒縁眼鏡の男の足を、ガブリエラが引っ掛けた。男の体勢が崩れる。

「──言いました」

 ガブリエラがそう言い終わるのと、彼女の細い腕が鞭のようにしなり、その指先が、喉仏──髪を弄んでいたニット帽の男のそれを的確に打ったのは、同時だった。
「かは」
 ニット帽の男が、生理的な反射で大きく開いた喉の奥から、声にならない声を絞り出す。あまりに前触れのないいきなりの動きに、男たちはもちろん楓も何が起こったのかわからず、ぽかんとしてしまった。

 ──メキッ!

「ギャアアッ!」
 次いで、足を引っ掛けられて体勢を崩した黒縁眼鏡の男が楓に伸ばしていた手、ガブリエラはその小指を正確に掴み、逆方向にねじり上げた。
 更に、喉仏という急所を思い切り打たれて呼吸が出来ず硬直しているニット帽の男の無防備な下半身、体を支える膝を、ガブリエラは正面から思い切り踏み抜く。バキン、と何かが割れるような音がした。
「ぎっ!? アアアア!」
「ぎゃああああっ! 指、指離して、あああああ!」
 そして黒縁眼鏡の男の小指をねじり上げたままのガブリエラは、そのまま体を捻り、更にその男の脛を思い切り蹴る。全身のバネを使った、鉄の靴底のブーツによる後ろ向きの回し蹴り。既に折れているだろう指が更に容赦なくねじり上げられ、渾身の蹴りを叩き込まれた脛からは、バキ、という軽い音。

 そのすべてが、楓の目の前で、コンマ刻みの素早さで行われた。彼らがふたり揃って地面に伏すまで、おそらく5秒もかかっていなかっただろう。

「あいたた、ですので長い髪は」
 ニット帽の男の指に赤毛が絡んでいたせいで、彼らが倒れた拍子に髪が数本ちぎれたらしいガブリエラは顔をしかめ、頭から外れかけた犬の耳あてを首にかけ、長い赤毛を手櫛で後ろに流しながら、地面でのたうち回る男たちを観察した。
 ニット帽の男は喉と膝、黒縁眼鏡の方は小指と脛。離れた箇所を強烈に痛めつけられた男たちはどちらの痛みを重視すればいいのかわからず、言葉になっていない悲鳴を上げている。

「むむ、よし! 治さなくても死なない程度です。手加減、成功です!」

 腰に手を当てて胸を張り空恐ろしいことを言ったガブリエラは、そのまま脚を思い切り振りかぶり、倒れた男たちの肩の後ろを、妙に慣れた様子でリズミカルに連続で蹴った。ごき、ごりっ、という鈍い音とともに、また男たちの悲鳴が上がる。
 後ろに腕が回ったまま動けない男たちの様子から、楓は、彼女が彼らの肩を的確に外したことを理解する。あれではなかなか立ち上がれもしないだろう。
 さらにすかさず、ガブリエラは彼らが着ている上着を使って腕を後ろ手に縛り、更に靴紐を解き、複雑なやり方で両足を固く結びつけた。徹底している。
 怪我と拘束で立ち上がれず、痛みでもんどりうつ男たちの妙に厚手の上着の内側から、身悶えする度にいくつかの財布やカード類がこぼれ落ちてきた。カードに記された名義はどれもばらばらで、明らかに盗品とわかる。

「警備の者です! どうしましたか!」

 そしてやっと、制服を着た数人が人混みを避けながら駆け込んできた。その後ろから、最初に絡まれていた女性が走ってくる。ガブリエラが耳打ちしたとおりに警備の者を呼んできた彼女は倒れて呻いている男たちを見て目を丸くしたあと、散らばっている財布のひとつを指差して「あっ、私の財布!」と声を上げた。
 ガブリエラは警備の者たちと話し、ヒーローであることを示す身分証明書を提示する。途端に彼らが背筋を伸ばし、事態を重く見て警察が呼ばれた。

「うーん面倒くさい。面倒くさいことになりました。ライアンはまだでしょうか」
 あっという間にチンピラを伸してしまったガブリエラに、楓はぽかんと口を開けた。
「すみませんカエデ、少し面倒なことになるかもしれません。なぜなら私はサポート特化なので、悪者をやっつけるのは苦手なのです。他の皆様なら、上手く手加減して、ちゃんと捕まえられるのですが……」
「え、あ、うん……」
 困ったように言うガブリエラに、楓は呆然と返事をした。
 ガブリエラは楓が今まで見た女性の中で最も細身で、コートを着込んで厚着をしている今でも、彼女がいかに華奢であるかはよく分かる。
 もちろんガブリエラがヒーローとしての技能を備えていることも、大型バイクを颯爽と乗りこなすことも知っている。しかし犯人確保はしないと明言しているサポート特化ヒーローが、まさか成人男性ふたりをものの数秒でノックダウンしてしまうとは、楓は想像もしていなかった。
 サポート特化ヒーローなので悪者をやっつけるのは苦手、というところまでは理解できる。しかしそれは、手加減が下手ということと同義であっただろうか。

 ──そう。ギャビーは手加減がとても下手なの

 楓は、彼女の手加減の訓練でもあるという“ボール遊び”を見学しながら、カリーナが遠い目をして言っていたことを思い出した。
 その時は疑問符を浮かべるばかりであったが、その言葉が真実であったことを目の当たりにし、──しかし目の当たりにしてなお、目の前の光景がまだ信じられない。

「しかし、今回は手加減成功です! 私はやり遂げました!」
「う、うん……?」
 教えられた芸を成功させた犬のように得意げな顔をしているガブリエラに、楓は呆然としたままだ。
「警察などには私が対応しますので、ライアンが来たら、すぐ車に乗ってください。それまでそこでじっとして」
「わ、わかった」
 楓は、おっかなびっくり頷いた。
「ええと電話、電話。──あ、ライアンすみません、面倒なことになりました。……その、掏摸にあっている方に出くわしまして──はい、カエデは無事です。私もなんとも。……いえ大丈夫です死んでいません。むしろ手加減できました! 褒めてください! ……ええ〜。あのはい、はい。……あ、もう警備の方々がいらっしゃって、警察も呼んでくださいました。……いえ、しかし、カエデもいますし……なぜなら私はサポート特化で……」
 ころころ表情を変えながらライアンと電話で話しているガブリエラを見つつ、楓はほうっと息をつき、なるべく人に触れないように、大きな柱を背にして立った。

「──え」

 楓は、ぎょっとした。
 感じたのは、独特の感覚。青白い光が、視界に滲むように広がる。かっと熱くなったような手を見れば、楓の指先が透明になって消えようとしていた。
「ひ……!」
 NEXT能力。どこで能力者に触れてしまったのか、コピーした能力が発動している。どんどん消えて行く手に、楓は軽くパニックを起こしかけた。
(落ち着いて……! 落ち着け!)
 血の気が引くのを感じながら、楓は何とか気持ちを立て直す。
 当事者がパニックを起こしてしまうのがいちばんいけない、と虎徹にもよくよく言い聞かされている。落ち着くことが、能力を暴走させない最良の対処法であるのだとも。

「──ギャビー!」

 そして楓が思いついたのは、ガブリエラに触れることだった。無害も無害、天使の力とも言われる彼女の能力で上書きすれば誰にも迷惑はかからないし、自分も大丈夫。そう思って、楓は彼女に手を伸ばした。
「カエデ!?」
 透明になりつつある手を伸ばしてきた楓に、ガブリエラが目を見開く。彼女が持った通信端末から、《おい、どうした!?》と、ライアンの声が僅かに聞こえた。

 目視できない指先が、ガブリエラの白い頬に触れる。

 その瞬間青白い光がこぼれ、楓の指先が可視化した。──ガブリエラの能力が上書きされたのだ。
「よ、よかった……」
 通常通りに戻った手に、楓は安堵の息を吐く。
「カエデ! 大丈夫ですか!?」
「あ、大丈夫。なんか誰かに触っちゃったみたいで……」
 心配そうに声を上げたガブリエラに、楓は微笑んでみせる。
「ギャビーの能力で上書きしたから、大丈夫。これで──……!?」
 その時、ぶわ、と、青白い光が広がった。楓の全身から、NEXT能力発動時の光が漏れているのだ。

(──なに、これ)

 楓は、足がすくんだ。
 足元は、煉瓦敷の歩道。いや違う、その隙間に、敷き詰められた煉瓦の裏に、芽を出すには力の足りない小さな種や虫たちが、何百何千と眠っている。空気中にも、目に見えない何かが漂っている。花粉か、黴か、それとも何かの菌だろうか。
「ひっ……」
 楓を取り巻く、ありとあらゆる、“生きとし生けるもの”の気配。それら全てが、楓に手を伸ばしてくるようだった。──寄越せ、といわんばかりに。
 楓の足元から、瑞々しい芽が伸びてくる。楓を吸い取って、糧にして、命を膨らませ、成長してくる。その光景に、周りの人々が目を向ける。
「いや……!」
 種や虫、小さな菌などとは比べ物にならない“人間”という命の大きさに、楓は恐怖した。膝が震える。それはまるで、捕食者に囲まれた小さな草食動物になったような心地だった。
 吸い取られる。奪われる。食べられる。茎が伸び、蕾をつける。花を咲かせる。根を張り、石の隙間から這い出してくる虫達。もっと寄越せとでもいうように。
 全ての生きとし生けるものたちが、楓を吸い取って、大きくなっていくのがわかる。そしてそれによる歓喜、安らぎ、さらに求める強い飢え。

 ──誰も彼もが、楓を貪り喰らおうとしている。

「いやああああああ!!」
「カエデ!」

 悲鳴を上げて崩れ落ちた楓に、ガブリエラが手を伸ばした。
★メイプルキティの冒険★
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BY 餡子郎
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