#089
★メイプルキティの冒険★
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「メニュー、終わりました!」
小1時間経ち、ガブリエラはそう言って、端末に表示されているトレーニングのメニュー表を消去した。しかし彼女より前にトレーニングを始めた者たちは、まだそれぞれのメニューをこなしている。
「ギャビーはサポート特化だから、あんまりそういうメニュー多くないのよ。私と同じくらいかしら」
首を傾げている楓にそう教えてくれたのは、いくらか後からやってきて、今はランニングマシンで走っているカリーナである。
「体力作りはしっかりしてるけどね。あとは──」
「あっ、カリーナ! ボール遊びをしませんか?」
「ボ、ボール遊び……?」
まるで宿題が終わった小学生のようなことを言い出したガブリエラに楓は驚くが、カリーナは慣れた様子で、「遠慮しとく」と返した。
「能力を使っても良いですよ?」
「それでもイヤ」
「むぅ。……ではパオリン、折紙さん、ボールで遊びましょう!」
「いいよー!」
「わかりました。よろしくお願いします」
ガブリエラに声をかけられたふたりは組手をやめ、揃ってトレーニングルームを出ていった。
「見る?」
カリーナが、3人の背中を指差しながら言う。楓が頷くと、彼女はランニングマシンから降り、楓の前に立って歩き始めた。
ヒーローたちのトレーニングルームは、普通のジムにあるような一般的なトレーニング機器はもちろんのこと、特殊な設備が揃っている。
例えばVRを用いた、能力を全力で使用してのシミュレーションができる設備とか、市民救出の仮想ミッション訓練ができる設備とか、色々だ。
しかしカリーナが楓を連れてきたのは、特別なところの見当たらない、小さめの体育館。ウィイン、と駆動音がしたほうを見ると、バスケットボールのゴールポストが、上からゆっくりと姿を現そうとしていた。
「じゃ、今日はボクとギャビーがチームね! 負けないよ、折紙さん」
「相手にとって不足なし。油断せぬでござるよ」
「よろしくお願いします、おふたりとも」
そんな会話の後、まずバスケットボールを持ったパオリンが真ん中に立ち、ガブリエラとイワンが向かい合う。見守っていた楓は、試合開始のジャンプボール──と、当然思っていた。しかし、その予想は裏切られる。
「──ぇえ!?」
楓は、素っ頓狂な声を出した。パオリンがボールを上に投げた瞬間、ガブリエラがイワンの膝を蹴ろうとしたからだ。
全く予備動作のないいきなりの動きだったので楓はなおさら驚いたが、イワンは見事にそれを避ける。そして素晴らしい跳躍力で後ろに跳ぶと、着地点で更に跳び上がり、上空のボールをキャッチした。
「むぅ、してやられました」
ガブリエラは、口を尖らせた。
「ドンマイ、ギャビー!」
「今回は読み切ったでござるよ! 首に来るかとも思ったでござるが」
アンジェラ殿の動きは読みにくいでござるからなあ、と、ボールをドリブルしながら、イワンが笑った。
普段はネガティブでおどおどした話し方をする彼だが、こうして動いているときはヒーローモードが入るのか、ござる口調混じりではきはき話すし、声も大きい。
こうして試合が始まったが、観戦している楓は、ずっと呆然とすることになった。なぜならその試合は、“バスケットボール”と呼ばれるものではなかったからだ。少なくとも、楓が知っているものとは違う。
最初のジャンプボールのときのように、普通は思いっきり反則である攻撃的な接触は当たり前。ドリブルすらせず、まるでラグビーのようにボールを抱えて走るとか、しまいには脱いだ靴を投げてぶつけるとか、もうなんでもありの様相なのだ。
「え、これって、バ、バスケットボール……?」
「そう見える?」
疑問符をこれでもかと浮かべながら言う楓に、カリーナは呆れと笑いが半々になったような顔で肩をすくめた。
「見えない」
「でしょうね、私も見えない。──まあ、なんていうか。最初は普通だったんだけど」
ヒーロー免許更新試験の際、格闘実技の科目において、ガブリエラに問題があることがわかった。
世界有数の治安の悪さを誇る荒野の果ての僻地で、護身のために培われた彼女の身のこなしはまさにデッドオアアライブ、喧嘩殺法そのものだった。
基本的には逃げて自らの安全を確保することをモットーとしているが、攻撃を余儀なくされた場合は殺す気で。しかも、どうせ死んでさえいなければ治せるというアウトレイジ極まる理由でもって、ガブリエラの攻撃には躊躇とか、手加減とか、そういうものが微塵もなかった。
これではいざというときにまずいのでは、と全員が心配した。護身能力があるという点では頼もしくもあるが、彼女はヒーローである。ヒーローは、犯人を殺害、あるいは意図して致命的な攻撃をすることが法律で禁じられているのだ。
襲われたことで反射的に犯人に攻撃し、その結果彼女が訴えられたり罰則を受けたり、最悪ヒーローとしての立場をなくしてしまったら、元も子もない。
そこで、色々な案が出された。
結論としては、まず彼女が犯人に攻撃してしまう機会自体を与えないよう、ライアンやアークといった護衛が、より万全に側に付いていること。そして、それでも起こるかもしれない万がいちを考えて、彼女に“手加減”というものを覚えさせるということが決まった。
「てかげん」
「そう。ギャビーは手加減がすごく下手なの」
「……えっと。ホワイトアンジェラって、サポート特化ヒーローだよね?」
自分の身を削って他人の怪我を治す、天使とも聖女とも言われるホワイトアンジェラ。その彼女がなぜ躾のできていない猛犬のような扱いをされているのかと、楓は混乱した。
「ライアンが言うには、犬が子犬の時に兄弟とじゃれて手加減覚えるようなの、あれがすっかり抜けてるんじゃないか──ってことなんだけど」
「はあ……」
よく意味がわからず気の抜けた返事をする楓だったが、カリーナは構わず続ける。
「その通りみたいで。ギャビーって、子供の時に“友だちと遊ぶ”とか、平和な範囲の取っ組み合いとか、したことないらしいのよね。それで、スポーツをさせてみようって話になって」
スポーツ。
つまりルールが存在した上での、ポイントの取り合いという形での戦い。
それによって、彼女に根深く植え付けられたデッドオアアライブの感性が少しは緩和されるのではないか、という目論見である。しかもチーム戦ともなれば、味方がいること、チームワークを学ぶこともできる。
しかし、最初はうまく行かなかった。
ガブリエラがルールを覚えられないからである。
昨今のスポーツは、ルールがなかなか複雑だ。ガブリエラが素でルールを覚えることが出来たのは最もルールが単純なドッジボールぐらいで、サッカーや野球、バレーボールなど、ちんぷんかんぷんもいいところだった。
そこで採用されたのが、陣地の交換などのルールがない、しかも公式試合で用いられるルールを随分省いたバスケットボールだったのだが、これもなかなかうまく行かない。
あれもだめ、それもだめ、とルール違反をする度に指摘されてしょんぼりし始めたガブリエラに、「もういいから好きにやれば」と言ったのはライアンだった。
「スポーツっつーか、遊びで加減を覚えるってことだろ。ガキの遊びってその時その時のノリでルール変わるし、お前のやりやすい方法で遊べよ」
そのひとことで、結局、“ボールをゴールに入れた回数が多ければ勝ち”というただひとつだけのルールだけが残ったのが、現在彼らがやっている遊びである。名前はなく、ガブリエラは単に“ボール遊び”と呼んでいる。
体育館には一応ラインが引かれているが、関係ない。
壁にボールをぶつけて跳ねさせるという手段も使えるし、相手を壁に追い詰めるということもする。ドリブルもしてもしなくてもいいし、投げずに転がしてもいいし、蹴ってもいい。人数も決まっておらず、時間制限もその時で違う。自由な遊びに、ガブリエラは夢中でボールを追いかけた。
相手を直接妨害することもルール違反ではないがしかし、楽しい“遊び”で相手に怪我をさせることがいかに興ざめか実地で学んだガブリエラは、段々と手加減を覚えることが出来た。
──とはいえ、それまでに他のヒーローたちは色々と怪我をさせられたわけではあるが、それこそ綺麗サッパリ治すことができるので、と協力を惜しまなかった。
それに他のヒーローたち、特に直接犯人と肉弾戦をすることの多いパオリン、イワン、虎徹、バーナビー、ライアン、またアントニオにとっては、突拍子のない、殺傷能力の高い喧嘩殺法で動くガブリエラの相手をするのは、なかなか有意義な訓練になる。少なくとも、単にスポーツをするよりは体力も頭も使うし、緊張感もあるやり方だ。
特にパオリンやイワンは「何するか全然予測できない! 面白い!」「アンジェラ殿の動きは一撃必殺で暗殺者っぽいので勉強になるでござる」と積極的に参加していた。
「まー、ヒーロー同士で、ギャビーの能力で怪我治せるからできる“ボール遊び”だけど、正直付き合ってらんないわよね。楓ちゃんも、誘われても混ざっちゃダメ。猛獣の檻に入るようなものよ」
「し、しない」
「それがいいわ」
首をぶんぶん振って拒否した楓に、カリーナは真顔で頷く。モニターでは、イワンに掴まれたウェアを脱ぎ捨ててアンダーだけで走ろうとしたガブリエラが、さすがにふたりに怒られていた。
「はぁ……」
“ボール遊び”をしばらく観戦した後、楓は昨日のように能力の制御について皆に話を聞いて、何か掴めないかと色々頭を捻った。しかし特に進展は見られず、仕方なくトレーニングに勤しむ皆を壁際のベンチに座って眺める。
「調子はいかがですか、カエデ」
すぐ横から、独特の高さの声が降ってくる。
楓が振り向くと、トレーニングウェア姿のガブリエラが立っていた。側に来るとひんやりした空気が薄っすら漂って、彼女が外出していたことがわかる。
「あ、ギャビー……あっ」
「良いですよ、ギャビーで」
カリーナやパオリンが使う呼び名がうつった楓が口を押さえたが、ガブリエラは微笑んだだけだった。
「私は元々こちらの言葉が上手ではないので、未だにこのような話し方であるだけです。カリーナやパオリンのようにしてくださって結構ですよ」
「……そう?」
「そうですとも。ライアンが言うように、気楽にしてください」
おずおずと楓が見上げると、ガブリエラはにっこりとした。その笑顔は言葉通り親しみやすく、天使と言われるのがとても似合う。少なくとも、手加減の躾のできていない猛犬にはとても見えない。
「疲れましたか? もしよろしければ、甘いものはいかがですか?」
「甘いもの?」
よく見ると、ガブリエラはドーナツショップの長細い箱を両手に持っている。どうやらこれを買うために外出していたようだ。
「午前中に能力をたくさん使ったので、補給のために買ってきたのです」
彼女の能力が“カロリーを消費して怪我や疲労を回復させる”というものであるのは公開されているので、もちろん楓も知っている。
「それに、疲れたときには、甘いものを食べるに限る! と、パワーズの方々や、斎藤さんもおっしゃっていました。糖分は脳の栄養で、幸福を感じるホルモンも分泌されます。ケルビムの方々からも聞きましたので、確かです」
ガブリエラは得意げな顔をして、さも重大なことを教えるかのように言う。その表情はまるで、新しい知識を得た子供が得意げにそれを披露するような微笑ましさがあった。
楓は最初、自分が子供だからそれに合わせようとしてこんな態度なのだろうかと思っていたのだが、どうやらこれもまた彼女の素であるらしい。
イワンとパオリンが自分のメニューをこなすことに戻ってしまった後、ガブリエラはバランスボールの上で変なポーズを取ったり、縄跳びをするもすぐに飽きて延々と蝶結びを作ったり、ゴムボールを跳ねさせて追いかけたり、しまいにはどこかからミニカーを持ってきて、エンジン音の口真似をしながら走らせたり並べたりしていた。
稚拙な遊びに夢中になっている様はたいへんに無邪気で、公園を転げ回る子供のようだった。
「えーっと……、斎藤さんって、お父さんやバーナビーのスーツ作ってる人だよね? メガネの、小さい……声も小さいおじさん」
「はい、そうです。ちなみにパワーズは、私のスーツやエンジェルウォッチを作ってくださっている方々のチーム。ケルビムは、お医者様がたのチームです」
「へえ〜」
「とても頭の良い方たちです、とても。頭の良い人の仰ることですので、間違いありません。疲れた時には、甘いものを食べるべき。ドーナツは好きですか?」
「うん」
「それは良かったです。お好きなものをどうぞ」
そう言ってガブリエラはドーナツの箱をベンチに置き、全部開けた。色んな種類のドーナツが、ぎっしりと詰まっている。
膨大な種類のドーナツに目移りしながら、楓はピンク色をした乾燥苺の粒入りチョコレートがかかったドーナツを選び出し、ぱくりと食いついた。甘さと、それがもたらす幸福感が、じんわりと身体に広がっていく。自然に笑みが漏れた。
「おいしい」
「そうでしょう。ここのドーナツは皆のお気に入りです。私も。ライアンはこのナッツクリームのものが好きで、必ず買います。今日も」
「あ、ライアンさんと買いに行ったの?」
「はい。今は自動販売機に、飲み物を買いに行っています」
ガブリエラは頷き、砂糖がまぶされたスタンダードなドーナツを頬張った。
「ギャビーはSS、なんだよね? ライアンさんが監視員だって……」
甘いものがもたらしてくれる安心感のせいか、ガブリエラが話しやすい雰囲気であるのもあってか、楓はおずおずと訪ねた。
「そうですね。しかし私は成人していますし、ヒーロー免許も持っていますので、同じ建物の中くらいでしたら、別行動をしても平気です。行き先は告げますが」
「嫌じゃない?」
「なにがですか?」
もぐもぐとドーナツを頬張りながら、ガブリエラは首を傾げた。
「私はライアンが好きですので、いつも一緒にいられるのは嬉しいです」
「そ、そう」
いきなり発されたストレートな言葉に楓はどぎまぎしたが、ガブリエラは不思議そうに首を傾げただけだった。
「カエデは嫌ですか? タイガー……お父さんと一緒にいるのが」
「そういうわけじゃないけど」
「ひとりになりたい?」
「そういうわけでもないけど……」
「そうですか。私はあまりひとりになるのが好きではありません」
砂糖がけのドーナツを食べ終わったガブリエラは、続いて、ココナッツパウダーがかかったチョコレートドーナツを手に取った。
「ひとりは寂しいものです。ちっとも楽しくない」
やけに実感の篭った様子でガブリエラは言い、ふたつめのドーナツを頬張る。
「……ねえ。ギャビーは私と同じ歳で能力が発動したんだよね? その時、どうしてた?」
「楓くらいの頃ですか? うーん、よく死にかけていました」
「え?」
「何の話してんの?」
口を挟んできたのは、ライアンだった。片手にミルクのパックを持ち、もう片方の手では器用に2つカフェオレのパックを持っている。
「ほら、おまえはミルクな」
「ありがとうございます」
ミルクのパックを受け取ったガブリエラは、背面からストローを剥がしてパックに突き刺す。
「お嬢ちゃん、カフェオレでよかった?」
「あ、うん」
「おー、ユルくなってきた。OKOK」
そう言ってライアンは笑い、楓に渡したものと同じカフェオレのパックにストローを突き刺しながら、ガブリエラの隣に腰掛けた。おそらくはガブリエラと楓を足した重さよりも確実に重い彼が腰掛けたせいで、ベンチがぎしりと揺れる。
「それでおまえ、肝心の本はどうしたんだよ」
「うっ」
「本って?」
カフェオレの最初のひとくちを吸い上げてから、楓はぎくりとしたガブリエラの様子を見て不思議そうに尋ねる。
「こいつの読み書きがあんまり心許ないから、簡単な本の朗読と書き取りとかしてんだよ。絵本とか、詩集とか、童話とかな。で、こないだ新しく渡されたやつがあるんだけど、長いとか字が小さいとか多いとかで駄々こねてんの」
まるで古いぽんこつの機械にでもするように、ライアンはガブリエラの赤毛の頭をぽんぽんと軽く叩いた。「うう」とガブリエラが唸る。
「頭に糖分が足りないから読む気が起こらないとか言い出すから買ってきたんだろ、ドーナツ」
「ううう」
「そんなに難しいの? なんていう本?」
ガブリエラがぼそぼそと返したのは、楓も読んだことのある、ジャンルとしては古典の児童文学だった。
多数のナンセンスな言葉遊びが使われていて、作中に挿入される詩や童謡の多くは当時よく知られていた教訓詩や流行歌のパロディも多いので、言語習得の教材としてもよく用いられるものだ。キャラクターが独特でかわいいので、グッズなども定番の人気がある。
「おお、カエデも読んだことがあるのですか? 全部読めましたか?」
「うん」
「どのくらいかかりましたか?」
「1週間くらいかな」
「たったの」
ガブリエラは絶句し、「カエデはとんでもなく賢い……」と絶望的に呟いた。ライアンはカフェオレのストローをくわえて、半眼になっている。
「前はどの辺りまで読んだんだっけ?」
「……白うさぎが、扇と手袋を落とした所です」
「めちゃくちゃ最初のほうじゃねえか。それ食ったらせめてあと10ページ読めよ」
「むう、わかりました……」
ガブリエラはあからさまに渋々と頷き、ミルクをストローで吸い上げた。
「で、えーっと、俺のナッツクリームは?」
「こちらの箱にあります」
「サンキュ」
ガブリエラに箱を差し出されたライアンは、穴のないタイプのドーナツを取り出すと、大きな口でがぶりと豪快に食いついた。その端から薄茶色のクリームがこぼれ、彼の口の端にくっつく。
「ライアン、つけています」
楓がなにか言う前に、ガブリエラが指先でそのクリームを拭い、自分の口に入れた。
その様子に楓はびっくりしたが、ライアンはドーナツで頬を膨らませたまま「ん」と言っただけで特に何かリアクションをすることなく、そのままドーナツを食べ続けた。ガブリエラも、特に何も言わない。
(R&Aって、もう恋人同士だったんだっけ? あれ?)
ガブリエラ──ホワイトアンジェラがマスコミの前でゴールデンライアンに大々的な愛の告白を行ったことは散々話題になったので、楓も知っている。
だが、その後正式な交際宣言などはなかったはずだ。もしそうなら、その手の話題に敏感なクラスの女の子のグループがかなり騒ぐはずなので、耳にも入るはず。
(も、もしかして、まだ発表してないのかな。言わないようにしないと……)
そんなことを考えつつ、楓はどぎまぎしながら、苺ドーナツを食べた。
「制御ねえ」
休憩、と、カリーナ、パオリン、イワンと若者組の皆も集まってドーナツを食べ始めた時。ガブリエラが泣く泣く別室に缶詰にさせられて本を読んでいる間、楓はライアンに話を強請った。
ひとつ間違えば大惨事、重力という強大な力を軽々と扱っているライアンの話は、参考になりそうな気がしたからだ。しかし彼は、珍しく困ったように首を傾げた。
「NEXT能力ってひと口に言っても、人によって全ッ然違うからな。テクニックの面じゃ、多分俺のは参考にならねえと思うけど。話し聞いたとこ、折紙の話を掘り下げてくのが近いんじゃねえの?」
「うー……。でも、一応聞きたいです」
「まあいいけど。……んー、じゃあ、メンタル面のところかねえ」
ライアンは、肩を竦めた。
「俺の能力は……なんていうかな。自分の中に星がもういっこある感じ」
「星?」
「そう。小学校で重力とか習うんだっけ? 地球が丸いとか、ビッグバンとか」
「えっと、だいたいの仕組みは」
「じゃあ大丈夫か。別に完全に間違いってわけじゃねえからそのままにしてるけど、俺の能力って、厳密には“重力強化”じゃねえんだよ」
その発言を、楓はもちろん、その場にいた全員すぐに理解できず疑問符を浮かべた。
「わかりにくい? あーっと、磁石ねえかな、磁石」
「ホワイトボードのところにありますよ。持ってきます」
イワンが言い、軽やかに走って行ってすぐ戻ってくる。手には、大小様々な磁石が握られていた。それをライアンに渡す。
「サンキュ。……つまり、これが元々ある地球の重力」
ライアンはそう言って掌を上に広げ、シートタイプの大きな磁石を床と平行に持った。ウェイターがトレイを持つ時のような持ち方。そうすることでソフトタイプのマグネットシートの両端が下がり、ちょうど地球の表面と同じように、ゆるやかに湾曲する。
「これが生き物。植物、動物、なんでも」
マグネットシートの上に、ライアンは針金を曲げて作られた小さいクリップを撒いた。磁力によって、シートの上にたくさんのクリップがぺたぺたと吸い付く。
「重力は全方位に働く。わかる?」
「はい。だから地球は丸い、ってこと……だよね?」
「そうそう、そういうこと。地球の“下”は球の中心。それを踏まえて、って話で。……ここで俺が能力を使うと、どうなる?」
「……地球の重力が大きくなる?」
「ハズレ。重力は全方位に同じ大きさだ。1ヶ所だけ強くしたりは出来ねえんだよ」
「そうなの?」
「そうなの。正解はこう」
ライアンはたくさんのクリップが張り付いたマグネットシートを同じように楓に持たせ、空いた手で、もうひとつ磁石を取り出した。指先程の小さいものだが、強力な磁石だ。
「これが俺」
小さな磁石が近づくと、マグネットシートにくっついていたクリップの数個が、ばちばちと音を立ててその磁石に吸い付けられた。
「……ライアンさんの重力は、地球の重力じゃ、ない?」
「そ。俺が操る重力は、俺自身が生成した重力場によるもの、ってこと。でも重力ってのは引き付け合う。こんな風に」
ライアンが手を離すと、マグネットシートに小さい磁石がくっつく。小さな磁石の周りのシートにクリップが引き寄せられ、強力な磁力によって縦になったクリップがそこに集まった。小さな磁石に気が付かなければ、一見、マグネットシートの一部の磁力が強くなったようにも見える。
「地球のじゃない新しい重力場を生み出して、その重力の強弱を操作する。その結果、局所的に地球の重力が強くなる──ように見える。それが俺の正しい能力なワケ」
「……ブラックホール?」
口元に手を当てたイワンが、静かに言った。
「お、さすが折紙センパイ。そーそー、その通り。俺が生み出すのは小型のブラックホールってこと。星の成れの果て、もしくは新しい星の原型」
「そ、壮大でござる」
「俺様らしいだろォ?」
ぽかんとする面々に、ライアンはにやりと笑ってみせた。
「だから最初は宇宙とか惑星とか物理とか、そういう映像や本を見まくったね。元々NEXT能力ってメンタルが大きく関わってるっていうか、実際スピリチュアルな部分あるし。とにかくイメージが大事よ、イマジネーション。わかる?」
「……イメージが大事っていうのは、わかるわね。私も、氷がどうやってできるのか勉強して……、原子とか、電子とかね。そういうのの仕組みがわかって──いえ想像できるようになると、一気に制御できるようになったわ」
カリーナが言う。
NEXT能力は、今までの常識、物理学、科学、あらゆる学問で証明できない超常現象をたやすく起こす。だからこそ、いっそ自分の中で“そういうもの”と仮定した上での理解をし、いうなれば決めつけてルールを作ることで制御が可能になるのだと。
「自分の中で折り合いがつくんだったら、なんでもいいのよね、多分。例えば本当に魔法みたいに、呪文を唱えれば発動するとかでもいいのよ。もちろん、それを自分が心から信じられるならの話だけど」
「あ、ちょっとわかる。ボク、掛け声かけないと上手く能力発動できないんだ。直したほうがいいのかもしれないけど、なかなか難しいよね」
パオリンが、苦笑して言った。
「そーゆーコト。だからとりあえず、自分の能力について知ることだな。……その能力だと、色々試すのは難しいかもしんねえけど」
「うう」
「あとは、……そうだな。スケールを大きくして見ることかね」
「スケール?」
唸っていた楓が首を傾げると、ライアンは、足を崩して、ゆったりと言った。
「自分の能力を把握しようとすると、自分のことを根詰めて考えることになるよな。自分に問いかけるわけだ。“Who are you ?”ってな。でもそれって、視界が狭まりがちにもなるだろ。内側、内側に突き詰めていくわけだから」
そのことは楓だけでなく全員実感があるのか、それぞれ頷く。
「それ自体は悪くねえんだけど、そこでイモムシみたいに部屋に引きこもったりしちまうとどうしても気分が沈むし、考えも悪い方に行きがちになって、やり方としてあんまり良くねえと思うワケ」
「……そっか」
「そうそう。せっかくパパやジュニア君が自由に出歩けるようにしてくれたんだから、もっと広〜く、色々見たりしてみるのもいいんじゃねえ? だから今みたいに、他の奴の話を聞いて回るってのはいいことだと思うぜ。人によって見方が違うからな」
「うん、それは思う。すごく参考になる」
楓が、実感を込めて頷く。
「だろ。俺もそうだった。さっき、宇宙とか物理とかのビデオ見まくったっつったろ? あれでな〜んか気分が変わってさあ。世界は広いけど、宇宙は更に広いわけだ。そしたら人ひとりの悩みなんざ超些細なことだし、どうにでもなるんだなーみたいな気分になるっつーかさあ」
「……なんとなくわかるでござる」
イワンが頷いた。自分はネガティブな性格で落ち込みやすいので、気分が上がる手段を幾つか用意しているが、それにライアンが言うような手段も含まれている、とも続ける。
「そーそー。俺様の能力がいくらスゲェっつったって、地球の重力や宇宙の広さと比べたら、かわいいもんだし」
軽く言っているが、ライアンのその言葉には、ずっしりとした実感と説得力があった。
シュテルンビルトを支える巨大な鉄骨を地中深くまで沈められる、ライアンの能力。人間などひとたまりもなく、あっという間にトマトのように潰れてまっ平らになってしまうその力は、間違いなく、問答無用で人が恐れるものだ。しかもそれを、彼は半径30メートルほども広げることができる、と公式で発表されている。
しかし彼はヒーローで、監視が必要とされるSSレベルに認定されてもいない。むしろその高いコミュニケーション能力で友人も知人もとても多く、気安い人柄が愛されている人気者だ。
彼がこのスタイルを築き上げるまでどんな道程を歩いてきたのか、幼い楓には想像もつかない。大変だったのではないかと思う反面、ライアンならば軽く乗り越えてきたようにも感じる。
だがどちらにしろすごいことだと思ったし、強大な力を制御するという面においての精神的な心構えという点で、とても参考になるとも思った。
「そう思うとさ〜、地球の裏側にもヒョイっと行けるようになってくんのよ」
ライアンはそう言いながら、磁石を軽く投げた。小さな磁石が、少し遠くにあるホワイトボードに見事にくっつく。
「隣のエリアぐらいならコンビニ感覚だって」
「……それはライアンさんだけじゃない?」
「フットワーク軽すぎ」
「引きこもりの僕とは真逆です……」
パオリン、カリーナ、イワンが、呆れと感心が混ざったような様子で言う。ライアンはいつもの緩さで、「飛行機使えばすぐだぜ?」と軽く笑った。
「でも、気の持ち方ばっかりどうこう理屈こねててもしょーがねえよな。んー、アスクレピオスの研究チームに相談して、能力のこと色々試すか? あそこなら、俺が重力ぶちかましてもそれなり平気な特別設備とかあるし」
ライアンが、首を傾げて提案した。
「パパと相談して決めな。アポはいつでも取ってやっから」
「はい、ありがとうございます」
「だーから、固いってえ」
ひらひらと手を振るライアンに、楓は、少し笑った。
その日、結局虎徹とバーナビーは仕事が長引いたので、楓はネイサンの所に泊まることになった。
バーナビーのマンションよりも更にグレードの高そうな高層マンションの最上階というだけでも驚きであるのに、待ち構えていたネイサンの秘書たちは、モデルかと思うような美女ばかりであった。──あとから、皆がみな美“女”というわけではなかった、というのを、楓は知ることになるのだが。
楓は全力で歓迎され、ちやほやされ、構われまくった。
プールかと思うようなジャグジー付きのバスルームや、シュテルンビルトの夜景が見事に眺められる美しく広々としたリビングに最初は興奮したものの、祖母とのビデオ通話を終わらせ、ひとりでゲストルームのベッドに寝転んでいると、楓はなんだか心細くなってきた。
祖母の安寿は孫が元気でいること、また虎徹やヒーローたちが支えてくれていることに安心した様子だった。端末を持って夜景の見える窓際に行くと、「凄いねえ」と驚き、楽しんでいる様子でよかった、と言った。
確かに、楽しんではいる。都会は色々なものに溢れていて、ヒーローたちは皆フレンドリーで親切だ。退屈する暇はまったくない。
楓は端末を起動させ、虎徹とバーナビーのスケジュールを見る。バーナビーは仕事が終わるごとにこまめにチェックを入れてくれていて、時間が経つごとにチェックが入っていくのを、楓は今日ずっと眺めていた。
いちばん最後のスケジュールには、まだチェックが入っていない。つまり彼らは、まだ働いているのだ。──この、満天の星のような夜景のどこかで。
物心ついた時には母はおらず、父はずっとシュテルンビルト暮らし。そのことを、楓は寂しいと思い続けてきた。
しかし思えば、楓にはずっと安寿が側にいたし、村正も、顔を合わせない日のほうが少ない。──虎徹と違って。
(お父さんは、寂しくなかったのかな)
古い付き合いのアントニオや、ヒーロー仲間はいる。しかし虎徹のすぐ側に、家族はいないのだ。部屋を片付ける暇もないヒーロー稼業。やっと戻ってきた部屋には、おかえりなさいを言う家族はいない。
昨夜楓を部屋に迎えた虎徹は、ずっと笑顔だった。嬉しそうで、楽しそうで、楓が寝るまでずっとそばに居てくれた。仕事が終わったら、虎徹はあの部屋に戻ってひとりで寝るのだろうかと思うと、楓はシーツを握りしめて眉をしかめる。
──ひとりは寂しいものです。ちっとも楽しくない
もうごめんだという思いが、ありありと感じられる声色。
ガブリエラは、そんなにもひとりきりでいることが多かったのだろうか。そして彼女が仲間達といる時の、穏やかな笑顔。ライアンといる時は、更に幸せそうだった。楓は、あの笑顔と同じ表情を見たことがある。両親の、結婚式の写真で。
──楓くらいの頃ですか? うーん、よく死にかけていました
(どういう意味だろう)
ガブリエラが遠い、しかも非常に治安の悪いところの出身であることは有名なので、楓も知っている。
しかしネットで調べようとするとキッズ用フィルタが必ず掛かる、まだ小学校も出ていない女の子がよく死にかけるような土地とはいったいどういう場所なのか、同じような歳のはずの楓には想像もできなかった。
楓の身体にはだぶだぶの大人用のシルクのパジャマが、水のように滑らかに肌を滑る。
「……おやすみなさい、お父さん」
虎徹にそうメールを打ってから、楓は毛布をかぶって目を閉じた。
★メイプルキティの冒険★
4/24