#084
★わんわんキューピッドのご機嫌伺い散歩★
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「こんにちは、はじめまして! ホワイトアンジェラです。おじゃまいたします!」
「いらっしゃい。はじめまして、アンジェラ」

 続いてやってきたのは、ポセイドンライン本社である。次にどこを訪ねよう、と思っていたら、また虎徹が、だめで元々とキースに連絡をとってくれたのだ。
 俺もTop magに決まる前は飛び込み営業もしたもんだ、と言いつつ割と大胆な行動に出る相棒と、全く物怖じせず「お願いします!」と手を挙げるアンジェラにバーナビーは少し驚きつつ、彼女が今日だけで集めた名刺の数とその歴々の名前に、「営業には思い切りの良さも大事なのですね」と何やら感心して頷いたりもしていた。

 そうしてなんだかんだしつつ、キース経由でアポが取れたアンジェラは、ポセイドンライン本社のエントランスでスーツにスカイハイメットという自分と似たような姿の彼に迎えられ、最上階のCEOルームに連れてこられた。
 ポセイドンラインのCEOは、豊かなヒゲと潔いスキンヘッド、太い眉、広い肩幅が逞しい壮年の男性である。

「アスクレピオス、というか、ゴールデンライアンは、面白いことをするなあ。ご機嫌伺いか……」
「お菓子をどうぞ! センベイと、マドレーヌです」
「おお、ありがとう。センベイを貰おうかな」
「スカイハイも、お菓子をどうぞ。このレモンピールのマドレーヌなどいかがでしょう」
「ありがとう! おいしそうだ」
 CEOとアンジェラのやりとりを微笑ましそうに見守っていたキースは、包装されたマドレーヌを受け取った。CEOしかいないので、彼はメットを取っている。

「あとは、肩こり・腰痛・眼精疲労、肌荒れなどを改善できますよ! いかがですか」
「な、なんと。いいのかね?」
 どんな高級エステもかなわない美肌・美髪効果を含め、あらゆる怪我や疲労疾患を瞬時に改善できるという彼女の能力は、アスクレピオスでは常に何かの企画やイベントごとの賞品としても定番だ。
 その効果を体験してみたい、と思っている者はとても多く、何かとその恩恵に預かっている自社ヒーロー、すなわちスカイハイからその凄さをよく聞いているポセイドンラインCEOは、あからさまにそわそわとした。
「アンジェラ君の能力はすごい、そしてすごいですよCEO! ぜひやってもらうといい! ぜひ!」
 にこにこして、キースが絶賛する。「では肩こりと眼精疲労を頼んでもいいかね」と期待した様子のCEOの後ろに回ったアンジェラは、まずはその広い肩に手を置いた。青白い光が輝き、能力が発動する。

「こ、これはすごい……!」

 そして頑固な肩こりと眼精疲労がすっきり改善したCEOは、体を捻ったり、肩を回したり、高層ビル最上階の窓から景色を眺めたりなどして、その快調ぶりを嬉しそうに確認した。
「いや、これほど劇的に治るとは……! 医者には“ゆっくり休むしかない”などとさじを投げられていたというのに! 本当にありがとう!」
「お役に立てて何よりです」
 CEOは、アンジェラの細い手をがっしと握り、感動を表現した。今までよほど辛かったらしい。

「これはぜひお礼をしなければ。おお、ちょうどお茶の時間だから……」
 そう言って、CEOはどこかに手早く電話をかけた。幾つかのやり取りの後、わずか15分程度でメイドやボーイの格好をした給仕が数人やってきて、応接テーブルをセッティングする。
「ワォ。とてもおいしそうです!」
 ケーキスタンドには様々なプチケーキやサンドイッチ、スコーンが並び、ジャムやクロテッドクリーム、高級バター、あらゆるディップが用意され、口直しのサラダやハム、チーズまである。温かい紅茶が湯気を立てた豪華なアフタヌーンティーセットは、ポセイドンラインの近くにある、人気のカフェのものだった。
「頂いてよろしいのですか?」
「好きなだけ食べてくれたまえ。こんなことしかできないのが心苦しいほどだが。ああ、本当に目がすっきりしている……!」
「あっ、このスコーンおいしいです」
「アンジェラ君、紅茶がいい頃合いだよ」
 感動して天を仰ぐCEOを尻目に、アンジェラはキースに紅茶を注いでもらい、遠慮なくアフタヌーンティーを楽しんだ。



「そういえば、春頃にメトロが完全復帰することになったよ」
「そうなのですか! そろそろとは聞いていましたが」

 シュテルンビルトのすべての交通網を運営を行うポセイドンラインのCEOからの確かな情報に、アンジェラは喜色の篭った声を上げた。
 あの事故で地下道が崩壊したメトロは、現在崩落が起きたエリアの線路を全面封鎖している。メトロ自体は動いているのだが、いったん仮の終着駅を作り、臨時の乗り換え用シャトルバスを用意して、乗客を次の駅まで運ぶ、という運用がなされているのだ。
「君の像も、新しい駅にちゃんと移す予定だ」
「あれは少し恥ずかしいのですが……」
 アンジェラは、本当に恥ずかしそうに俯いた。

 あの未曾有の大事故で、死亡者どころか重傷者もゼロという快挙を成し遂げたホワイトアンジェラは、ヒーローであるという以前に歴史に残る功労者であると判断され、事故現場から最も近い駅に像が建てられた。
 現在、像は仮の駅の乗り換え改札の前に建っており、目印としてもよく使われている。駅前の売店では、その像のキーホルダーまでちゃっかり売られていた。
 今のところ、公共の場に像が建てられている正式なヒーローはMr.レジェンドだけなので、ヒーロー史上なかなかの快挙である。
 しかし、褒め称えられる事自体は嬉しいし誇らしくも思うものの、像が建てられるともなると本人としては照れくさく、今も像の前を通るときはなんだかそそくさとしてしまうのだった。

「いいじゃないか。あれ、評判が良いよ。いつもカップルで賑わっていて……」
「カップル? なぜですか?」
「え? 知らないのかい?」
 レモンティーを飲んでいたキースが、小首をかしげた。
「あの像の前で待ち合わせて相手が時間通りにちゃんと来たら、そのカップルはうまくいく、というジンクスができているようだよ」
「ええっ!?」
 のほほんとキースが言ったそれは、アンジェラにとって完全に初耳だった。驚いた声を上げる彼女に、CEOが軽く目を丸くする。
「本当に知らなかったのか? いや、あの像もそうだが、そもそも君自体が恋愛成就のマスコットみたいになってるじゃないか、最近」
「な、なんですかそれは。知りません。知りませんよ」
「若い子たちの間での話だから、私も知ったのは最近だがね」
 CEOは、スキンヘッドの頭を掻いた。

「ほら、君、ゴールデンライアンに大々的に告白しただろう。今までヒーローに恋愛の話はタブー、とまではいかなくてもあまり取り上げられたりしていなかったから、インパクトがあったんだろう。アンジェラ、と天使のイメージもあって、恋愛成就のキューピッドとか、そういう感じのようだぞ。マスコットとか、お守りというか」
「そのようだね。私もつい先日知ったことだが、よく見ると、街中を歩いている若い女の子が君のキーホルダーやグッズをよく持っているね。特にローズ君くらいの歳の子が多いような」
「は、はじめて知りました」
 像を建てられた事自体が気恥ずかしかったため、そのことについてあまり調べたり、話題を避けたりしていたせいだろう。本当に初めて聞いた、と、アンジェラはぽかんとする。
 そしてアンジェラは、今日マドレーヌを買った時握手を求めてきた、あの女子高生のことを思い出した。
「……“なので”というのは、そういうことだったのですね」
「何かあったのかい?」
「明日好きな人に告白するので、と仰って、握手を求めてきた女の子がいたのです」
「ああ、なるほど。ご利益があるといいね」
「ご利益……」
 キースは微笑ましそうに言ったが、アンジェラとしては、知らないところで勝手に恋愛成就の守り神のように扱われて、嫌というわけではないが、微妙な気持ちだった。

「クリスマスが近いのも、このジンクスが盛り上がっている原因だろうな。最近はクリスマスにカップルで過ごすのが流行だから」
「クリスマス……」
 そう聞いて、アンジェラは、むっと口をへの字にした。
「クリスマス、……クリスマス。この時期は、みんなクリスマスばかりですね」
「クリスマスだからね」
「むうう」
 キースの頷きに、アンジェラは何やら唸ると、最後のサンドイッチを頬張って、立ち上がった。

「そろそろ予定がありますので、失礼します。とてもおいしかったです、ありがとうございました!」
「いやいや、何のお構いもせず。ライバル社と気にせずいつでも来なさい、はい連絡先」
「わあ、ありがとうございます!」
 にこにこしたCEOは、自分の直接の連絡先が書いてある名刺を彼女に手渡した。それを受け取ったアンジェラは、そろそろ余裕がなくなってきた名刺入れにそれを仕舞うと、頭を下げながら部屋を出ていく。

「いやあ、最初は突然来てなんだと思ったけど、いい子じゃないか」

 CEOは、ほくほく顔だった。
「アンジェラ君はとてもいいヒーローですよ。うちのジョンとも仲良しで……」
「確かに犬っぽい子ではあったな。懐っこいし、愛嬌がある」
 スタッフが来て下げられていくティーセットを見ながら、CEOはうんうんと頷いた。ちなみに、皿の上にはスコーンのひとかけらとて残ってはいない。

「メトロ開通の式にはもちろん呼ばせてもらうとして、バレンタインに合わせて、スカイハイと天使モチーフのコラボ企画なんかどうだろう。ゴールデンライアンも羽がついたデザインだし、スカイハイをふたりの真ん中に配置して、天使トリオ。羽つきの特別デザインスーツとか、うん、いいかもしれない。企画室に……」

 何やらイマジネーションが炸裂しているらしいCEOは、軽くなった肩を回しながら、仕事に取り掛かり始めたのだった。






「ネイサン、もういちどこんにちは!」
「ハァイ、今日2回目ね、天使ちゃん。どうしたの、突然」
「ご機嫌伺いです! お菓子をどうぞ!」
 ヘリオスエナジー最上階、オーナールームに突撃してきたアンジェラに、ネイサンは美しく整えられた眉を上げて対応した。
 ポセイドンラインを出たアンジェラが、随分分厚くなってきた名刺ファイルから次に選びだしたのは、ヘリオスエナジーオーナーのネイサン・シーモアの名刺だった。言わずもがな、ケア・サポートが営業停止になって路頭に迷っていた時に貰った、最初にこの名刺ファイルに仕舞ったものである。

「ご機嫌伺いねえ」

 受け取ったマドレーヌを指先で弄びながら、ネイサンは頷き、立ち上がった。
「そうです。最近いかがですか?」
「そうねえ……。新しい事業がまあまあうまく行きそうで、このまま安定してくれたらいいと思うわね。あとは最近寒くなって乾燥してきたから、喉とお肌の調子に気をつけなきゃね」
「もし私の能力が必要でしたら、いつでも仰ってください!」
「ありがとう。何よりの心遣いだわ、天使ちゃん」
 にっこりと微笑んで、ネイサンはデスクから立った。

「ええと、お偉いさんに会ってこいって言われてるんだったかしら? 今から提携会社の代表たちと重役会議だけど、ついてくる? タイタンインダストリーのCEOもいるわよ」
 ヘリオスエナジーの新しい事業は、電気自動車の普及に伴うエレクトロニックのエネルギースタンド。重機なども電気式のタイプは近年とても増えており、重工業事業を担うタイタンとも深く関わりがあるのだ。
「いいのですか?」
「お菓子配るだけでしょ。いいんじゃない」

 ネイサンはそのままアンジェラを伴って、本当に会議に出席した。
 目を丸くする重役たちにアンジェラはお菓子を配り、挨拶。ネイサンと同じ濃い色の肌を持ち、豊かな総白髪を持つタイタンインダストリーのCEOからは、まるで孫娘の話をするように「これからもうちのブルーローズと仲良くして」と言われ、アンジェラは大きく頷いた。
 そして全員に“センベイ”を配り、軽く肩こりを治して回り、そして最終的にちゃっかり全員の名刺をもらったアンジェラは、手を振りながら会議室を出る。



「おまたせ、天使ちゃん。いいコにしてた?」
「とってもいいコでしたよ」
「本当に天使です、天使」

 ヒールを鳴らして応接室に入ってきたネイサンに返事をしたのはアンジェラではなく、ネイサンの秘書たちだった。そして、彼ら数人の顔色が総じて良く、明らかに肌艶が良くなっていることから、ネイサンはアンジェラが彼らに何をしたかを悟る。
「あらまあ、また能力使って懐柔したわね?」
「お近づきの印ですよ」
 豪華な応接室のソファにちょこんと座り、秘書たちにちやほやと構われているアンジェラは、にっこりして言った。
「ネイサンもいかがですか?」
「嬉しいけど、アタシは先週してもらったでしょ。そうそう美しさも衰えないわよ」
 つんと顎を反らしてネイサンが断ると、アンジェラは一瞬口をぽかんと開け、やがて小さく笑った。
「……ふふ」
「何笑ってるの」
「いいえ。ネイサンはいつも女神様ですね」
「それはどうも?」
 何やら嬉しそうなアンジェラに首を傾げつつ、ネイサンは彼女の隣に優雅に腰掛けた。

「お疲れ様です。会議はいかがでしたか?」
「滞りなく。あなたがおじいちゃんたちの肩たたきしてくれたおかげで、みんなリラックスしてたし、気前も良くなってたわ。ありがとうね」
「よくわかりませんが、お役に立てたのなら良かったです!」
「帰り際はあんたの話ばっかりだったわから、あとで連絡が来るかもよ。……で」
 ネイサンは腰を捻り、彼女に向き直った。

「何か悩み事かしら? よかったら聞くわよ?」
「……女神様は、なんでもお見通しですね?」
「いっつもブンブン振られてる尻尾が、時々シュンとした感じになってるからね」
「私、尻尾は生えていません」
「見えるのよ、アタシにはね。他にも見えてる人はいると思うけど」
 首をかしげるアンジェラにネイサンははっきりと言い、秘書たちを下がらせ、彼女の頭からホワイトアンジェラのメットを取った。赤い髪が溢れる。

「それで? 何に悩んでるわけ」
「悩み、……悩み、といいますか」
 ガブリエラは、どこか遠くを見るように目線を上げた。
「悩んでいる、というのとは違うと思うのですが……」
「じゃあ不安なのね」
「……ネ、ネイサンはすごい。心が読めるのですか」
「ワンコがわかりやすいだけよ」
「そ、そうでしょうか」
 心底びっくりした、という様子のガブリエラに、ネイサンはゆったりと言った。少し間があって、ガブリエラは灰色の目をうろうろと彷徨わせてから、やがて口を開く。

「……私は今、とても幸せです」
「良かったじゃない」
「はい。……今まで私は自分を不幸だと思ったことはありませんが、さほど幸せというわけではなかったのかもしれない、と最近思うようになりました」
「まあ、あなた苦労してるもんね」
「ううん……? 確かに大変なことではありましたが、苦労、というほどのことは体験していないと思います。いつもいつも、誰かが、……出会う方が皆、とても優しく、親切にしてくださったので」
 何かを思い出すように、ガブリエラは空を見つめる。

「──私は、その人がどういう人か、最初にだいたいわかります」

 いい人、普通の人、おかしな人。
 優しい人、頑固な人、信念に溢れた人、迷いを抱いた人、哀しみに苛まれた人、幸福な人、疲れた人。そして悪意のある人、親切心で持って接してきている人──そんなことがわかるのだ、と。
 ガブリエラが“におい”と呼ぶ独特な感覚により判別されるそれがかなりの精度を誇るものだということは、彼女と親しいものなら誰もが知っていることである。

「皆、私に親切でした。世の中にはとても悪い人がたくさんいるはずなのに、私はいつも親切にされています。それは、とても、とても幸運なことです」
「そうね」
 静かに相槌を打って、ネイサンは、ガブリエラの拙い言葉をゆったりと聞いた。
「なぜ、皆は──」
 ガブリエラはそれだけ言って、俯き、黙ってしまった。長く伸びた赤毛が垂れ下がる頭を、ネイサンはゆったりと撫でる。
「幸せなのが、不安?」
「……はい」
「大丈夫よ、大丈夫」
 ごくごく穏やかにそう言って、ネイサンは、赤毛の頭を胸に抱き寄せた。女性の柔らかさはそこにないが、暖かで広い胸、ふんわり漂う上品な香水のにおいに、ガブリエラはとてもほっとする。心臓の音が心地よい。

「その幸せは本物よ。いつか魔法みたいに消えちゃったりしないから、安心しなさい。少なくとも、アタシはあんたがずっと好きよ」
「……ネイサンは」
 高い声は、少し震えている。
「ネイサンは、いつも私の欲しいものをくださいます。……本当に、女神様のように」
「そりゃ良かったわ」
「大好きです、ネイサン」
「うふふ、ありがとう」
 白い額に、ネイサンはむちゅっとキスを贈った。ガブリエラが微笑む。

「……そうですね。悩んでいても仕方がないこと」
「そうそう、その意気よ。なるようにしかならないんだから」
「はい」
「幸せを噛み締めなさい。せっかく幸せなのに、どうこうなるかもって不安になるなんて、もったいないわよ」
「そう、……そうですね。ネイサンの言うとおりです」
 ネイサンの胸に頭を預けながら、ガブリエラは、数回小さく頷いた。
「そうそう。だいたいあんたそんなに賢くないんだから、そんな漠然としたことで悩んだってムダよ。具体的に何がどうしたって問題が起こった時に真正面から立ち向かって、しかもそれでなんとかしちゃうのがあんたでしょ」
「お、おお。まさにそのとおりです。目から皮が剥がれました」
「目からウロコね」
 ガブリエラのグロテスクな言い間違いを訂正したネイサンは、心底納得した、と言わんばかりの彼女の赤毛を、ぽんぽんと叩いた。

「あっそうですネイサン、聞いてください。何やら私は、恋愛成就のマスコットになっているらしいのです」
「ああ、それ。あんたキューピッドの天使だったかしらね」
「そんなものになった覚えがまったくないのですが。そもそも私自身が、まだ恋愛成就していないのに!」
 解せぬ、といわんばかりに、ガブリエラは言い募った。効果音をつけるなら、ぷんすか、とでもいう様子だ。
「まあまあ。アタシもそれは知ってるけど、どっちかっていうと、片思い中のコが勇気を出すためのお守り、って感じが大きいみたいよ? あんたみたいに、はっきり愛の告白が出来ますように、っていう」
「む……」
 それなら、と言いかけるも、しかしやはり何やら納得行かない様子で、ガブリエラはしかめっ面になり、頬を膨らませた。

「……私がふられたら、どうするのですか」
「こらっ」
「わひゅっ」

 ぼそりと呟いたガブリエラの頬を、チョコレート色の指がぎゅっとつまんだ。膨らんだ頬から空気が抜け、ガブリエラが妙な声を漏らす。
「そういうネガティブなことは口にしないの! 私がフラれるわけ無いわ、ぐらいの気持ちで挑むのが鉄則よ!」
「し、しかし」
「……まあ、わかるわ。待たされすぎて不安になっちゃったのよね」
「う……」
 またずばりと言い当てられて、ガブリエラは、情けない顔になった。

「大丈夫よ、大丈夫。確かにアタシも待たされ過ぎだと思うけど、王子様はあんたのことをちゃんと好きよ」
「本当ですか。そうでしょうか。……本当に」
「本当よ。アタシが保証してあげる」
 はっきりと言われ、ガブリエラは、泣きそうな顔をした。

「……女神様にそう言われては、信じるしかありませんね」
「そうよ、信じなさい。いいじゃない、待ったら待っただけ、後でたくさんご褒美がもらえるんだと思えば」
「ごほうび……」
「そうそう。ちゃ〜んといいコで待ってたワンちゃんは、たくさん褒めてもらうべきだわ。甘ッアマに優しくしてもらって、めいっぱい愛してもらうの。待ったら待っただけ、あんたはその権利が貰えるのよ」
 頭を撫でられながら言われ、ガブリエラは、目元を少し赤くした。
「……そう、そうですね。WAIT、私は“待て”ができる女です」
「いい女よ、ガブリエラ。その調子」
「う〜」
 ガブリエラはネイサンに抱きつき、その胸に顔を押し付けて、ひとつ唸る。そしてやがて、ぱっと顔を上げた。その表情は、笑顔。

「女神様のおかげで元気が出ました!」
「それはよかった。さて、ちょっと早いけど、アタシももうお仕事切り上げちゃうから、早めのディナーはどお? あんたのおかげで会議がうまくいったし、秘書たちに良くしてもらったから、奢るわよ」
「本当ですか! それでは前に仰っていた、魚が泳いでいるお店に行きたいです!」
「ああ、あそこね。車がいるわねえ、あんた運転してね」
「ネイサンの車をですか! いいのですか! 喜んで!」

 完全にはしゃいだ様子のガブリエラを伴い、ネイサンは車のキーを鳴らし、モデル歩きで会社を出ていった。



「そうねえ。ちょっとアドバイスをするとしたら、……ちょっとボディタッチをしてみる、とかは?」
「ボディタッチ?」
 水槽になった壁の中で魚が泳ぐ高級レストランで料理に舌鼓を打ちながら、ガブリエラは、ネイサンの話を真剣に聞いた。
「そうよん。っていうかあんた、王子様に対してスキスキ愛してるって言葉は積極的だけど、触りに行ったりってないじゃない?」
「う……」
 さすがよく見ている、と、ガブリエラは唸った。
 ネイサンの言う通り、ガブリエラは何かの折にライアンに好きです愛していますと言うが、例えば手を繋ぎに行ったり、腕を組んでみたりと自分から行ったことはない。
 それどころか肩に触れるのも躊躇うほどで、しばしばライアンから頭を撫でてくれる時と、バイクにタンデムする時だけが、ふたりの間での唯一のスキンシップなのである。
 ガブリエラがそう説明すると、ネイサンは、呆れたような顔をした。

「ワイルドで大胆なくせに、変なトコ処女臭いわよねあんた」
「……なぜなら」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
「まあいいけど。……あのね、女は言葉ではっきり言われるのにキュンとくるとこあるけど、大抵の男は言葉より、スキンシップに弱いものなの。肩に触れられるとか、腕をつんつんされるだけでも違うわよ。途端に意識し始めるから」
「そ、そういうものですか」
「そういうものよ」
 はっきりと、ネイサンは言った。

「触られると、男と女だってことを意識するでしょ。あんたたち最近すっごく仲良しではあるけど、性別もクソもなくはしゃいだ子供みたいに遊んでるでしょ。このままだとホントに友達っていうか、飼ってる犬止まりになっちゃうわよ」
「うう」
 多少は自覚があるのか、ガブリエラは、苦々しい顔で唸った。
「何も押し倒せって言ってんじゃないんだから──」
「押し倒したくなるときはあります。我慢しますが。最近我慢できなくなりそうでこわい」
「……アラそう。大丈夫、ごくごく健全な気持ちよ。アタシもよくなる」
「本当ですか」
「本当、本当」
 真剣な顔のガブリエラに、ネイサンは軽く言った。

「だからその気持ちをちょこっと開放して、手を繋いでみるとかしてみたら? 何か変わるかもよ」

 そう言って、ネイサンは上品に魚のソテーを口に入れる。
 ガブリエラは「むむむ」と唸り、ソムリエが選んでくれた白ワインで口を湿らせた。






「何だガブリエラ、辛気臭い顔をしおって! いつもの馬鹿面はどうした、気分が落ち込むなら明るい曲を歌え! ほら!」
「兄さん、課題曲の練習をしてくれ」

 ジャーン、とピアノを鳴らした、黒縁メガネに総白髪の壮年の男性は作曲家のロイ・キューブリック。彼より若く、半目でツッコミを入れた黒髪でヒゲの男性は、その弟で作詞家のアーロン・キューブリックである。
 主に舞台、映画などの音楽を手がけるこの兄弟は、一時期あまりパッとしない時期もあったものの、現在は更に新しい気風をも取り入れ再び精力的に活動しており、現在なかなか人気のアーティストだ。
 そしてこのキューブリック兄弟が、ホワイトアンジェラ、もといガブリエラの音楽のレッスンの講師なのである。ネイサンとのディナーが終わってから、ガブリエラは予定どおり、彼らのレッスンに顔を出した。

「む。心配しなくても、課題曲は技術も気持ちの込め方も申し分ない。今はいろいろな曲を歌って、表現の幅を広げるべきだろう」
「おいおい、僕らがやってるのは彼女を一流歌手に仕上げることじゃなくて、クリスマスのイベントで完璧に課題曲を歌えるようにすることだろう!」
「だからその課題曲は問題ないと言っている。そうだろう、ガブリエラ」
「そうですか? ロイ先生がそう仰るなら……」
「ほらな」
「なにが“ほらな”なんだよ」
 アーロンは、呆れ半分で頭を抱えた。

 半ばスランプのような状態に陥っていた彼らが再び盛り返した最初のきっかけが、バーナビーとスカイハイが歌う、『We Love SternBild』という曲を担当したことだった。
 だが作曲担当のロイは非常に気難し屋で、それで過去何度もトラブルを起こしており、バーナビーとスカイハイとも、最初なかなか和やかな関係を築くことができなかった。
 そんなロイが、いきなり台頭し爆発的に人気となったヒーロー・ホワイトアンジェラとうまくやっていけるのだろうか、と心配されていたが、それは杞憂、それ以上の結果となった。

 ホワイトアンジェラのメットは口の部分が開いたデザインなので、歌のレッスンで本来脱ぐ必要はない。しかし、アンジェラはロイから「失礼だ」と初見で指摘されると素直にメットを外し、申し訳ありませんでしたと頭を下げたばかりか、「本名はガブリエラといいます」と自分から名乗った。
 しかしそれはそれで、ヒーローなんだろう、プロ意識が足りないのではないか──と更なる難癖をつけてきたロイに、彼女は「お世話になる方に失礼な態度を取るよりはいいです」と返し、「しかし会社に怒られるかもしれないので、秘密にしておいてくださいね」とにっこりしたのだ。
 その対応にロイは目を丸くし、またトラブルかとうんざりしていたアーロンもまた、ぽかんと口を開けた。そしてそれ以降、レッスンの度にロイはアンジェラ、いやガブリエラを気に入るようになったのだ。

「申し訳ありません。ロイ先生、心配してくださって、ありがとうございます」
「ふん、心配なんぞしとらん」

 実際に接してみたロイ・キューブリックは、ただの年季が入ったツンデレであった。言葉はきついがいつもガブリエラを気遣ってくれるこの気難しい老人が、ガブリエラは結構好きだ。
 そういえば、旅をしてきた時長く滞在した村で世話になった男も似たようなタイプだった、とガブリエラは思い出す。
 いきなり転がり込んできた、汚い子供だったガブリエラをさんざん怒鳴りつけ、そして怒鳴りつけつつも食事を恵んでくれて、馬の乗り方を教えてくれた。ロイも教え方は厳しいが、荒削りなガブリエラの歌を根気よく指導してくれる、良い師だった。
 そしてその様子は、まるで孫娘がかわいいあまりに細々小言を言う祖父とか、もしくは飼い始めた子犬を叱りつつも構い倒している姿にも似ている。その様には、「兄さんがこんなに気を許すなんて」とアーロンも驚くほどだった。

「さあ、歌うぞ。明るい歌を1発歌えば、気分も晴れる。音楽は万能だ」
「……仕方がないな。最後に合わせだけしてくれよ」
「わかりました。アーロン先生、申し訳ありません」
「いいんだよ。トラブルを起こすのはいつもこっちの方なんだし」
 ぺこりと頭を下げたガブリエラに、アーロンは苦笑した。
「もう、今回もギリギリでまたアレンジを変えるとか言うし。トラブルのだいたいはいつも兄さんのせいなんだから」
「ふん。期限には間に合わせているんだから問題ないだろう、俺はプロだ」
「はいはい。じゃあギャビー、最後だけよろしく」
 ロイは、ひらひらと手を振った。
 曲が気に入らなくなると土壇場で直したがるというのがロイの悪癖である。突然変わる曲に歌い手は困惑し、その他、いろいろな方面に影響が出る。しばらく仕事を干されたような時期があったのも、この悪癖が大きく関わっているのだ。
 そして今回ホワイトアンジェラとの仕事でも、いちどそれが起こった。またか、とアーロンは軽く絶望したが、ガブリエラは特に文句を言わなかった。しかし、

「ロイ先生はキャリアも長い、プロ中のプロです。私の実力や、他の方々の事も考えて、最終的に完璧に仕上がるようにしてくださるはずです。私はそれを信じます」

 とあっけらかんと言い放ったのだ。
 しかもそう言った時、彼女は厭味ったらしかったり、挑戦的でさえなかった。ロイ先生ならきっと素晴らしい結果にしてくださる、と心から信じている、まるでとっておきの遊びを期待する子犬のようにきらきらした目で、彼女は先程の台詞を言ってのけた。
 今までは勝手に曲を変えてあとは放り投げる、ということをしてきたロイはぐっと詰まったが、こう言われては実力を見せる他ない。

 結局ロイは、他のスタッフに大した影響が出ず、また歌うガブリエラにも負担が少なく、それでいて明らかに前の曲よりも良いものをひねり出したのだ。
 締切に間に合い、負担もなく、それでいてより良いものが出来上がるのであればアーロンはもちろん他のスタッフも、文句はないどころか大賛成だ。ロイの悪癖の結果は初めて皆から絶賛され、アーロンはほっとする以上に、いっそ感動したほどだった。

 そんなエピソードもあり、こうしてアーロンもまた、気難しいはずの兄が心を許したガブリエラになんだかんだと好印象を抱いている。ロイがまた我儘を言い出しても、「兄さんがプロにあるまじき仕事をしてるって彼女に言ってやる」と言えば、ぎくりとしたように仕事をする、という感謝も込みで。
 そういうわけでアーロンは、親愛をこめて彼女をギャビーと呼ぶようになっていた。自分が彼女を愛称で呼ぶと、兄が少しムッとした顔になるのが面白いというのもあるし、単に姪っ子なんかがいればこんな感じだったかな、と思う部分もある。

「じゃ、ちょっと今日は乾燥してるから、温かい飲み物を持ってくるよ」
「おお、そうしてくれ。歌い手の喉に何かあったら大変だ」
「ありがとうございます、アーロン先生」

 アーロンがレッスンルームを出ていくと、やがて、彼らの代表作であるミュージカルの明るいテーマ曲の前奏が流れてきた。
★わんわんキューピッドのご機嫌伺い散歩★
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キューブリック兄弟は『TIGER & BUNNY THE COMIC』の第3巻#16に出てくるキャラクターです。原作以外の、前のキャリアなどについてはシャーマン兄弟をモデルにしました。
シャーマン兄弟(兄ロバート・シャーマン/弟リチャード・シャーマン)は、メリー・ポピンズやジャングルブック、チキ・チキ・バン・バン、おしゃれキャットやシンデレラなど、初期ディズニー映画の音楽を手掛けた兄弟音楽家です。各国ディズニーリゾートの音楽も提供してるので、作中のヒーローランドの音楽の仕事もしてもらいました(*´ω`*)
BY 餡子郎
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