#080
★わんわんキューピッドのご機嫌伺い散歩★
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 まずしいマッチ売りの少女は、すこしでも自分をあたためようと、マッチに火をつけました。

 すると、マッチの炎のむこうに、あたたかいストーブやたくさんのごちそう、きらきらとしたクリスマスツリーなどの、うつくしいまぼろしがあらわれました。
 しかし、炎がきえると、まぼろしもきえてしまいました。
 空をみあげると、星がすっと流れていきました。少女は、祖母からならったことを思い出しました。ひとが死ぬときは、流れ星がおちて神様のところへ行くということ。
 だれかが死のうとしているのだと、少女はぼんやり思いました。
 もういちどマッチをこすると、こんどはその祖母が、炎のなかからあらわれました。たったひとり、少女を愛してくれた、大好きだった祖母。
 少女は祖母といっしょにいたくて、もっているマッチをすべて燃やしました──



「──よくあさ、しょうじょはマッチのもえかすをかかえ、しあわせそうにほほえみながら……」

 その時診察室から呼ぶ声がして、ガブリエラはたどたどしく読んでいた絵本を閉じ、椅子から立ち上がる。
 そして待合室の本棚に、子どもたちが読んで端が丸くなった絵本を、そっともとに戻した。



 アスクレピオス総合病院。
 ヒーロー事業部専用の特別診察エリアにて、ガブリエラは、主治医でもあるケルビムの女性リーダー、シスリー女史と向き合って座っていた。
「……ヒーロー試験のメンタルチェックや色々なインタビューで、あなたはヒーローであろうとする理由について、“やりたいから”と答え、──そして、なぜ人を助けるのかという問いについては、“人を助けると、悪い人が少なくなるから”と一貫して答えていますね」
「はい」
 シスリー医師の穏やかな声に、ガブリエラはこくりと頷く。

 ガブリエラが考えるヒーローのありかたの基本は、“悪者をやっつけて、困っている人を助ける”こと。

 彼女は悪を悪だと自信を持って断じられるほどの頭の良さも持ち合わせていないと自覚した上で、NEXT能力的にも、自分には前者を実行することは難しいと判断した。
 だが、彼女はヒーローになることを諦めなかった。その理由は、彼女が考えるヒーローの基本のうち、“困った人を助ける”ということはできる、むしろ向いた能力である、ということ。そしてそれを重点的に行えば、巡り巡ってそもそも悪事を行う人間が少なくなり、欠けている前者の要素も補うことができる、という理屈を見出したからである。

 怪我をしていなければ、ちゃんと歩くことができる。働くこともできる。
 病気にもなりにくくなる。
 満腹であれば、食べ物を盗む必要はなくなる。
 全員がもれなく美味しいものを食べられれば、気持ちもきっと優しくなる。
 どんな人も幸せなら、“事情があって罪を犯す”ということは起こらない。

 ──満たされていれば、人は優しくあれる。
 ──皆が幸せなら、諍いは起こらない。
 ──罪を憎んで人を憎まず。ならば、罪をおかす原因を排除すればいい。

 彼女が見出した結論は、小さな子供が考えるような、拙いものだった。
 それは確かに真理ではあるが、理想論、意地悪く言えば綺麗事といえるものである。だが彼女にそう反論する者は、ごく少ない。なぜなら彼女はその身をもって、その理想を実際に体現しているからだ。

 絶望で生き埋めになった暗闇の中、彼女は正真正銘身を削って92人の乗客を救い、起こり得た罪を完全に排除した。

 ヒーロー事業部に属し、ホワイトアンジェラというヒーロー、ガブリエラ・ホワイトという女性の主治医になるにあたって、シスリー女史は彼女に関するあらゆる資料に目を通した。
 生い立ち、経歴、今までの活動にも興味深い所は多々あるが、彼女のあり方を象徴し、集約したとも言えるものが、彼女がシュテルンビルト、ひいては世界中から注目されるようになったきっかけの事件でもある、メトロ事故のことだった。

 このメトロ事故で彼女が乗客たちを万全な状態に保っていなかったら、密室での極限状態によるパニックで乗客同士でのトラブルが発生し、場合によっては想像もしたくない惨状になっていたことは、心理学者でもあるシスリー女史から見ても、じゅうぶんに考えられる事だ。そうならなかったのは、奇跡と言ってもまったく過言ではない。
 この奇跡は、偶然ではない。はっきりと彼女が起こしたものだ。彼女ひとりが犠牲を請け負ったおかげで、少ない食べ物を奪い合う者も出ず、お互いが尊重しあい、いざ助かるという時になっても、皆が協力して彼女を真っ先にレスキューに差し出そうとした。

 その功績によって、彼女は聖女に祭り上げられた。
 綺麗事を口にするだけでは、聖人とはみなされない。みずからの身を炎に焚べ、奇跡を起こして初めて、人々はそれを聖なるもの、あるいは価値あるものと認めるようになる。
 そして彼女はこの現代において、見事それを成し遂げた。お伽話のような理想論を現実にし、奇跡を起こしてみせたのだ。

 彼女が最初に怪我を治して回り、皆が健康体になったことで、ひとまず人と人との諍いを避けることが出来た。その時重症を負っていた脚を治してもらった男性は、怪我の原因の一端を作ってしまったために泣いて謝る女性を快く許し、気遣いの言葉をかけた、とある。
 しかも先日彼らから、結婚を前提にして付き合うことになったというファンレターが届いたことを、シスリー女史はガブリエラから聞いた。
 彼らだけでなく、事故後、乗客たちの多くがお互いに連絡先を交換し、まるで同志のように交流を続けているという。
 事故後、手記やブログ、様々な手段で彼らはあの事故を語った。そして、そのすべてはホワイトアンジェラを讃えるものだ。彼らは一様に、彼女に助けられたこと、そのあり方に心を動かされ、これから先の人生もこの気持ちを忘れずに行動していきたい、という言葉で手記を締めくくっている。

 それは、奇跡を起こした聖人と、その奇跡を目の当たりにして感銘を受けた者が聖典や福音書を書き記すのと全く同じあり方だ。
 しかし、彼女の主治医であるシスリー医師は、彼女をお伽話めいた聖人だとは思わない。

「“人を助けると、悪いことをする人が少なくなる”。今でもそう思っていますか?」
「はい」
「……では、人を助け続けていれば、いつかは地上から罪がなくなると思いますか?」
「あはは」
 ガブリエラは、笑った。ばかばかしいカートゥン・コメディでも見たかのような笑い方だった。取るに足らない、そういう様子の。

「まさか。そこまでおバカちゃんではありません」

 彼女は、吸い込まれそうな、灰色の目をしている。
「あなたのお母様が熱心に信仰していらっしゃる◯◯教では、そのような教えがありますが……、あなたはそれを信じていない?」
「信じていないわけではないですが、……うーん。無理だと思います」
「それはなぜ?」
「なぜ? なぜなら……、実際にそうだからです」
 ガブリエラは、当たり前だというふうに言った。
「確かに、愛は惜しみなく全てに与えよと、そう習いました。“Thou shalt love thy neighbour”、隣人を愛せよ──」
 たどたどしい言葉遣いが幼気な印象を与える彼女は、聖句を唱える時だけ、妙に流暢な口ぶりを見せる。どれだけ暗唱させられたのだろう。

「しかし、頭がおかしい人もいます」

 あっけらかんと言うガブリエラの言葉には、ずっしりした説得力があった。
 それは彼女が世界的にも最低の治安状態の場所で生まれ、荒くれ者ばかりの中で育ち、精神を患っているという母親に従いながら暮らしてきたという背景。また、シュテルンビルトでヒーローになりたいという、まさに天の星を掴もうとするような無謀な挑戦を、何千マイルもの徒歩の旅を成し得て叶えた経験から来るもの。

「そういう人は、いくら幸せでも、人を殺します」

 いわゆる狂人、サイコパス。
 心理学を収めたシスリー医師も、そういった人間の例はいくつも知っている。彼らは彼ら独自の、自分自身で作り上げた世界観とルールにのっとって生きている。違う星への入り口のような、ブルー・ホールに似た吸い込まれそうな目を持つ彼ら。
 まるで同じ星に生まれた人間とは思えない、そういう感想でもって、宇宙人やエイリアンと比喩されることもある人々。場合によっては、違う世界を見せてくれる先駆者となる場合もある。斬新なセンスの芸術家などにもいるタイプだ。
 しかし、彼らのありかたがこの地球上のどの社会にもそぐわず、周囲を脅かす場合。彼らは理解不能な異常者、犯罪者と診断され、治療や排除をすべき、あるいは罰を受けるべき存在とされる。

「あっ。もしかしたら、脳に能力を使えば、頭のおかしい人もまともになる?」
「……どうでしょう。可能性はありますが、実行するのはやめておいてください。どういう状態が“まとも”といえるのかというのは、はっきりしていないことですからね」
「むぅ、そうなのですか。シスリー先生がおっしゃるならそうなのですね。あとで訴えられても困りますからね」
 やはり彼女の発する言葉は、どこまでも現実的だ。
「では、次の質問です。あなたにとって、正義とは?」
「ええ? むずかしいのでわかりません」
 ガブリエラは、きっぱりと言った。

「正義とか悪とかは、とてもむずかしいことです。とても、とてもです」
「そうですか?」
「そうですとも! 人間は、色々な人がいます。誰にでも平等に優しい、すばらしい人。お腹をすかせた赤ちゃんのために、ミルクを盗む人。孤児にはパンを与えても、自分の子供には水も与えない人。お金持ちで、家族もいて幸せであるのに、知らない人のお墓を掘り返して、死体を犯す人。人それぞれです」
「……そうですね」
 おそらく彼女の故郷の言い回しもあるのだろう独特な比喩は、乱雑な直訳ならではの空々しさと薄ら寒さ、そして荒削りな重みがある。

「色々な人がいるのです。“人それぞれ”が多すぎます。私のようなおバカちゃんの頭で考えても、わかりません」
 シスリー医師は肯定も否定もせず、ただ頷いて先を促した。
「そういうむずかしいことは、専門の方に任せるのがいちばんいいのです。色々な“人それぞれ”が正義なのか悪なのかは、裁判をして、裁判官さんが決めることです。頭が良くて、りっぱな学校を出た人がすること」
 ガブリエラは、にこにこしている。
「ですので、サポート特化ヒーローという役目を頂いたことが、私はとても嬉しいです」
「なぜ?」
「なぜならサポート特化ヒーローは、“困っている人を助ける”ということの専門家だからです」
 ガブリエラは、胸を張った。
「私は他のことはわかりませんが、このことだけは割とできます。病気は難しいところがありますが、どんな怪我でも治せます。死んでさえいなければ」

 生き延びさせることができる。
 確かに、彼女はそのことについてはプロフェッショナルであり、エキスパートで、誰よりも優れた能力を持っていることは、誰もが認めるところだった。

「その人が正義か悪かはわかりませんが、まず生きていなければ、その後何も出来なくなってしまうと思うのです」
「確かに、死んだ人は裁判に出られませんね」
「そう、そういうことです!」
 シスリー医師の補足に、ガブリエラは大きく頷いた。
「ですので、私はこれからも、困っている人を助けます。正義や悪が分からない分、悪者をやっつけられない分、むずかしいことがわからない分、たくさん、たくさんです」
 ガブリエラは、にっこりと笑う。与えられた命令をこなすのだと意気揚々としている犬のように。

 シスリー医師が彼女を聖人と思わないのは、こういうところだ。
 人間として当たり前の感情である、例えば欲や嫌悪、嫉妬。更には精神異常のサイコパス。あらゆる醜悪さをガブリエラは否定せず、肯定もせず、ただ起こっている現実としてそのまま認識する。
 個人的に嫌だな、好ましいな、という感情は表すが、しかしそれだけだ。裁判官のように、それは正義だ悪だ、どうすべきだと言うことはない。

 彼女は理想論を語っているのではなく、単に自分の実体験から学習した事実を述べているにすぎない。それは綺麗事どころか非常に現実的で、ふわふわしたところなどひとつもない。
 悪者をやっつけられないのなら、その分、困っている人をよりたくさん助けることで、それを成す。何が正義で何が悪なのか、その判断に自信がなく、難しい話や思想のことはわからない。ならば、頭が良くて信用できると思った者に託せばいい。そのかわり、自分の持てる能力をフルに使って、たくさん仕事をしようとする。
 そのやりかたはひたすら単純で、行動的で、現実的。ある種合理的でもある。
 そしてだからこそ、そんな彼女がたどり着いたのがあの子供の願い事のような理屈だったということに、シスリー医師を含め、人々は世界に救いや希望を感じるのだ。輝ける星に手を延ばすように。

 だが、彼女もまた、ブルー・ホールのような目を持っている。
 違う星、新しい世界への入り口のような、吸い込まれそうな目。

 ガブリエラ・ホワイト。
 彼女は非常に、──いや。異常なまでに健全な精神性の持ち主だ。

 彼女は世界的にも最低の治安状態の場所で生まれ、荒くれ者ばかりの中で育ち、精神を患っているという母親に従いながら暮らしてきた。言葉が拙く知能はさほど高い方ではないが、ローティーンの年齢で何千マイルもの荒野をひとりで旅し、様々な経験も積んできている。

 だがそのくせ彼女には、歪んだところがひとつもない。
 都会育ちの大人よりも遥かに世界の醜悪を実体験として知っているであろうに、彼女はあくまで健全なままだ。更には子供の願い事にも等しい理想論を掲げ、しかもそれを実行してしまう。
 普通なら必ず歪むだろうところが、彼女は一切歪んでいない。病んでおかしくない状態でも、平気で立って歩き続ける姿は、強靭だ。そして、その強靭さははっきりと異常である。──まるで、同じ星に生まれた人間とは思えないほどに。

 だが彼女の存在は、誰にとっても利になるものだ。
 サイコパス、狂人、病は、本人や周りに支障があるからこそ、治療すべき、修正すべき、罰するべきと断じられる。だが彼女のように誰にとっても利点にしかならない異常は、単なる個性だ。しかも、他にない、愛すべき、尊ぶべき個性。
 人を食べ地を荒らす猛獣は邪悪として討伐するが、不明に湧き続ける泉は聖なるものだと歓迎する。地球に友好的なエイリアンと、そうでないエイリアン。異常かどうかではなく、利になるかどうかで正義と悪が決まっていく。それがこの星の社会というものだ。

(“彼”とは対極──、……いえ、もしかしたら)

 シスリー医師が思い浮かべたのは、彼女の患者ではない。
 しかし心理学に造詣の深いNEXT医師として、警察や各方面から要請を受け、さんざん解析を行ったNEXT犯罪者。──ルナティック。

 シュテルンビルトには、死刑制度が存在しない。だが、人を死に追い遣った罪状を持つ犯罪者は存在する。そんな者たちを、彼は不気味な装束を纏って月夜に現れ、青い炎で焼き殺していく。そのことによって、自らもまた殺人の大罪を背負うことになるというのにもかかわらず。
 彼の発する、比喩表現の多い難解かつ詩的でもある言い回しは、最初こそ思想犯ならではの自己陶酔的な発言だと思われていたが、シスリー医師はそうではないと分析している。あれは、己の正体を悟らせないためのカモフラージュだ。筆跡を隠すために新聞の切り抜き文字を使って犯行声明文を作るのと同じこと。
 しかも、安易にボイスチェンジャーを使って話すのではなく、言葉遣いそのものを変えることを選んだ彼は、非常に聡明だ。ボイスチェンジャーでは機械での解析がしやすく、選んだ単語やイントネーションが大きな手がかりとなる。しかし彼は声を変えず、しかし徹底して文語的な表現を使った言い回しで話すことを選んだ。

 このことからシスリー医師は、彼を非常に高い知能指数を持ち、極めて冷静で感情的になりにくく、また犯罪行為とそれに対する社会的措置について非常に詳しい知識を持つ人物。だがその本質には深い怒りがあり、それが全ての行動原理になっている、とプロファイリングしている。
 また彼は殺人犯罪者を執拗に狙うと同時に、ヒーローという存在にも深い執着を持っている。特にワイルドタイガーとの接触が多いが、記録によると、彼はワイルドタイガーに対し、ヒーローとしてのあり方についての説教や批判のような発言もしている。
 そして、タナトス、死神といった、おそらくは正体を煙に巻くための詩的な表現の間に挟まり、密かに、しかし強い語勢でもって頻発する、“正義”、“悪”という言葉。
 殺人犯を殺してまわるという行為から、彼をダークヒーロー、あるいは真に必要なヒーローだと囃し立てる世論も、無視できないほどには存在する。

 真に必要なヒーロー。
 奇しくも、ホワイトアンジェラと同じ評価だ。

 彼自身がヒーローとして活動しているつもりなのかそうでないのかは、シスリー医師にもわからない。もしかしたら、彼にもわからないのかもしれない。
 彼は自らをルナティック、月の使者と名乗る。
 Lunatic、──精神異常、気狂い、という暗喩もある言葉だ。姿を変えずに輝き続ける他の星と違い、太陽の光や地球の影によって満ちたり欠けたり、あるいは消えたりと形を変える月は、その光を浴びると気が狂うとさえ信じられてきた歴史もある。

 だがシスリー医師は、彼をサイコパスだとは思っていない。

 なぜなら気狂いとは、元々は正常な人間である、ということでもある。そもそも正常でなければ、狂うということはない。青い炎の向こうの彼の目は、どこに繋がっているかわからないブルー・ホールの穴のようではない。あれは、怒りに狂った人の目だ。
 人は月に振り回されて気を狂わせ、罪を犯す。では、その“月に狂った正常者”を名乗ってヒーローのような行為を続ける彼は何者なのか。

 悪者をやっつけて、困っている人を助けるのがヒーローだというなら。

 彼は悪を断罪し続けること、つまり“悪者をやっつける”ことを選び、彼女は“困っている人を助ける”ということを選んだのではないか、とシスリー医師は分析する。

 彼は怒り狂い、彼女は怒りを覚えなかった。
 精神異常の元正常者である彼と、異常なほど健全な精神性を持ちあわせる彼女。
 彼は正義に固執し、彼女は正義がわからないと言う。
 既に起こった罪を、自分もまた同じ罪を背負ってまで断罪する彼。
 起こりうる罪を、その前に、己の犠牲によって肩代わりする彼女。

 地球や太陽の光や影で満ち欠けする、不安定な月の名を名乗るルナティック。
 遠い空に、絶対的に輝ける星のように扱われるホワイトアンジェラ。

 月と星。死神と天使。
 彼らは対極にあるようでいて、──そして、同類のようなものでもある。
 だがホワイトアンジェラは人々に受け入れられ、ルナティックは犯罪者と呼ばれる。異常者の境界線の真実が、多くの大衆にとって有益か有害かによって決まるために。

「──はい。では、今回のメンタルチェックも問題ありません」

 そして医師は彼女に、我々に害なし、──異常なし、の診断を下した。



 その後、フィジカル的な健康診断もオールブルーであることを確認した後、シスリー医師はガブリエラに言った。

「そう、それと、以前申告のあった症状──、というよりも、現象についてですが。検証が難しいこともあり、決定的な答えを得ることは出来ませんでした」
「そうですか……」
 いつもどおりはっきりとわかりやすく伝えてくれる主治医に、ガブリエラは頷く。
「ただ、あなたの仰りたいことは理解できます。また提出された資料を見る限り、あくまで主観的なものにはなってしまいますが、その傾向はあると私も感じました」
「やはり、そうですか?」
「ええ。しかし、個性の範疇と見ることもできる、とも思っています」
 どこか硬い表情のガブリエラに、主治医は柔らかく笑いかけた。

「差別などを受け、能力がなくなればと苦悩する方もいらっしゃる反面、能力がなくなったらと、減退を心配するNEXT能力者も多くいらっしゃいます」

 成長しきってからはまれな現象ではあるが、NEXT能力は、発現や強化、減少や完全な減退も起こりうる。
「NEXT能力が本人の心理的なものと密接に関係している、ということは確かです。もっと現実的に言えば、脳の働き。それは、あなたも実感があるでしょう」
「はい」
「ドクター・マイヤーズの指導で、フィジカル的な予防策は出来得る限りのことをしている以上、あとは、気を強く持つことです。“病は気から”は本当のことだと、私が保証します。特にNEXT能力においては」
 NEXT科の権威とも言える彼女から力強くそう言われ、ガブリエラは彼女にしては珍しく弱々しい、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「……その人の能力について軽々しく言ってはいけないかもしれませんが、少なくとも、あなたの言う現象は悪いことではないと思います。それではいけませんか?」
「はい、……いいえ。わかります。悪いことではない、そうなのです」
 ガブリエラは、少し俯いた。そんな彼女に、シスリー医師は柔らかく目を細める。
 シスリー・ドナルドソンは、病そのものを研究すると同時に、患者がその病とどうやって付き合っていくべきかを重点的に模索していくスタイルの医師である。そしてそういう考え方でもって、彼女はガブリエラを「非常に健康、健全である」と診断した。
 彼女は、誰よりも有益で、誰からも求められている存在。だからこそ──

「あなたに起こっているその現象は、おかしなことではありませんよ」

 そう断じる。この現象は、ガブリエラがこの星の社会でやっていくにあたって、ごくまっとうで、必然と言ってもいいものであると。この星は、常に周囲に順応して変化し、進化する。うまくいくようにできているのだから。
「……そう、でしょうか」
 ガブリエラは、うつむいた。
 今まで彼女は、自分が異常である、つまり他と違うという自覚がなかった。しかし今、彼女はそれを自覚しつつある。──恋をしたことによって。

 彼女が悩んでいるこの現象こそが、彼女がマゾヒスティックな快感を求めるようになった原因であり、またライアン・ゴールドスミスという男性を愛し、特定のパターンに当てはまる人物に好意を持ちやすい理由である。

 彼女がライアンに抱く愛情が異常なものなのかどうかは、シスリー医師にもまだよくわからない。彼女の愛は幼児の初恋のように開け広げで、単純かつ純粋であり、同時に母のようにひどく深いようにも見え、交尾の最中に雄を食い殺すのではないかという得体の知れなさもある。
 彼女との対話と分析、心身ともの健康の維持。それを仕事としているシスリー医師は、そんな彼女の愛が受け入れられなかった時、彼女自身や周りがどうなってしまうのか、少しだけ心配している。

 少しだけしか心配していないのは、相手があのライアン・ゴールドスミスだからだ。
 彼は神話でよくある、人ならざるものから向けられた重い愛に短慮な対応をして身を滅ぼす系統の王子ではない。賢く立ち回り、相手をいい気分にさせた上で上手く愛を受け止め、ちゃっかり国に利をもたらす功績も上げ、誰にとってもWIN-WINのハッピーエンドをもたらすタイプ。
 実際、彼は彼女を非常に上手くあしらい、飼い慣らし、とても良い子で待たせることに成功している。
 だが、彼女がこうして悩みを持ちはじめていること、そしてこの現象に、彼は気付いているのだろうか。

「アンジェラ。いえ、ガブリエラ。悩みがあるならお聞きしますよ」

 それが自分の専門であると、シスリー医師は言外に言った。
 社会適合ができる異常は、異常ではない。エイリアンであっても、この星でじゅうぶんにやっていける。それを患者に理解させ、付き合い方を提案し、安心して社会に溶け込ませるのが精神科の医者の仕事だ。
 彼女の場合は、「その現象があっても、ちゃんと彼に愛してもらえる」と安心させること。
 何しろ、彼が彼女を愛しさえすれば、問題はすべて解決するのだ。彼女が怪訝に思っている現象は単なる利点にしかならなくなるし、マゾヒストな女性はいくらでもいる。付き合い方によっては、愛情表現のいいスパイスにもなるだろう。

 そのため、とっととうまくいってほしいと思う反面で、人ならざるものを持つ彼女がこうして普通に恋に悩むことに、少々不謹慎ながら、シスリー医師は興味深いものを感じてもいる。
 そもそもシスリー医師は、精神科や心理学に深く興味を持ち、その果てに、新人類とも呼ばれるNEXTを研究するNEXT医学の医師になったような女性である。彼女は基本的に、この星で異常者と呼ばれる者たちへ、深い興味をもっている人間なのだ。
 生態ピラミッドの最底辺で酸素を生み出す植物も、子孫を残すために蜜を作り、虫を誘って利害を一致させようとする。鳥は翼の美しさを競い、ダンスを踊って求愛する。そのさまは、人間の恋愛と全く同じものだ。
 全く違う生き物であっても、根本の所は我々と同じなのだと感じたときの微笑ましい気持ちで、シスリー医師は彼女に向かい合った。

「……今まで」
 ガブリエラはまた少し俯き、口を開く。
「私は、困っている人を、助けてきました。それだけでいいと思っていました。怪我を治して、人が助けられれば、それでいいと。それが私のやりたいことで、……私がやりたくてやっている、やりがいのある役目なのだと」
「……今は、そうではない?」
 シスリー医師が尋ねると、ガブリエラは、困ったように笑った。泣きそうにも見える顔だった。
「いいえ、今も変わりません。私は怪我を治せるヒーロー、ホワイトアンジェラです。やりたくてやっていること。……しかし」
 懺悔室で罪を告白するかのような声で、彼女は言う。
「何も持っていないときは、何も惜しくはありませんでした。欲しいとも、思いませんでした。しかし、……しかし、だめですね。いちど得ると、すばらしいものを知ると、失いたくないと、そればかりになって」
「普通のことですよ」
「そうでしょうか」
「そうですとも」
 それは人も動物も植物も、皆同じことだとシスリー医師は頷く。──少なくとも、この星では。

「私はその、……少々、おバカちゃんなので」
「キュートな個性ですね」
「ありがとうございます。……しかしそのぶん、その人がどういう人かわかります。こちらにどういう気持ちを持っているのか、ということも。ぼんやりとですが」
 自他共に認める、ガブリエラの特技。だからこそ、彼女はこの現象について違和感を覚え、なにかあるのではないかと、現実的に主治医に相談したのだ。
「しかし、やはりぼんやりなのです。ぼんやりでは足りないのです。何があっても信じる、というのには足りない。それは、我儘でしょうか」
「どうでしょう。私もはっきり言ってくれるタイプのほうが好きですが」
「そうですよね」
「そうですとも」
 少しおどけた様子で言った主治医に、ガブリエラも微笑み返す。

「私は今、とても幸せです。とても、……とてもです。とても。……そして、わかっているのです。その幸せは、すべて、この能力あってのものということ」

 ガブリエラは、薄い手のひらを握ったり、開いたりした。まるで、何を掴んでいいか悩んでいるような、中途半端な握り具合で。
「幸せすぎて、……私は、恐ろしいのです。この能力がなくなった時、私はすべてをなくしてしまうのではないかと。今の幸せが、消えてしまうのではないかと」

 この幸せは、マッチの炎の中のまぼろしなのではないだろうか。

「確かに、能力がなくなると、ヒーローとして活動できなくなるとは思いますが……」
「いいえ。そういうことは、その、残念ですが、いいのです。怪我を治す能力がなくなっても、その、力は足りなくなると思いますが、別の形で、困っている人を助けることは出来ます。住むところがなくなるとか、お金がなくなるとかも、まあどうにかなります。馬小屋でも、暮らそうと思えば暮らせます。……そうではない。そうではないのです。それより、もっと……」
 ガブリエラが独り言のように言うのを、心理学と精神医学の権威であり、カウンセラーの経験も充分な女医は、根気強く聞いた。

「わたしは、……なくしたくない」

 細い指が、ぎゅっと何かを握り込む。これだけはと、縋るように。
「なくなる、と決めつけるのは良くないのでは?」
 穏やかなその声に、ガブリエラは顔を上げた。途方に暮れたような、子供のような顔をしている、とシスリー医師は感じた。

「あなたは聖書に詳しくていらっしゃいますが、絵本や、物語は?」
「いいえ、あまり」
 突然問われ、ガブリエラはきょとんとした顔で、ふるふると首を振った。
「先ほどは、マッチ売りの少女というお話を読みました」
「悲しいお話ですね」
「はい、とても悲しいお話でした。しかし、少女は幸せだったと思います」
「そうですか?」
「魔法のマッチで、幸せなまぼろしを見たまま死ねたのは、幸せなことです」
 ぼんやりした様子で、ガブリエラはそう言った。それこそ、マッチの炎の中の幸せな幻影を見るような目で。

「そうかもしれませんね。……他のお話を読んだことは?」
「うーん。読み書きの練習で読んではいますが、あまり」
「そうですか。悲しいお話も、楽しいお話もたくさんありますが、どれも共通していることがあります」
「共通していること?」
「ええ」
 子供のようなその表情に、主治医はにこりと笑いかける。

「魔法が解けても、真実の愛だけは手元に残る、というところです」

 ガブリエラは、あいかわらずきょとんとした顔をしている。
「マッチ売りの少女のように、実際は命を落としたり、他から見ると不幸せかもしれませんが。しかし少女は愛する祖母の思い出があったからこそ、幸せな幻を見ることができました。もしそうでなければ、ただ凍えて死んでいただけかもしれません」
「……そうですね。そう……」
「それは、真実の愛、といえるのではないでしょうか。何があっても最後まで残るもの」
「なにがあっても」
 噛みしめるように、意味を探すように、ガブリエラは何度か口の中でその言葉を繰り返した。

「あなたは失いたくないと言いましたね」
「はい」
「あなたはそれらを愛していますか?」
「はい」
「それは魔法が解けてすべてを失っても残るものだと、信じられませんか?」

 そう言われ、ガブリエラは、下唇を噛み締める。

「……信じたいと、おもいます」

 悩ましい顔をしたガブリエラは、目を伏せて呟いた。
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BY 餡子郎
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