「品のない男だったわねえ」
ネイサンが無感情にそう言い、彼女がうんうんと大きく頷く。
「ねえ、まさかあの男に世話になるつもりじゃないわよね。あなた巨乳好きだから心配」
「巨乳が好きなのは否定しねえけど、あれに紹介してもらうほど落ちぶれてねーよ」
「……彼女のことは、ポーズじゃないわよね?」
「違う」
ガブリエラは、本気で自分のことが好きだ。何よりもそれは認めているライアンは、即否定した。
「そう、良かった。それで、彼女とはどうなの。ちょっとは進展したの」
「お前、ちょっと飲み過ぎじゃない?」
「お生憎様、一滴も飲んでないわ。興味津々なだけよ」
胸を張って言う彼女に、余計質が悪い、という言葉を、ライアンはシャンパンを口に運ぶことで打ち消した。
「そうよねえ、気になるわよね。だって、見てる方がまどろっこしいもの」
「そう! そうなんですよ! 彼女の方はあんなにはっきりライアンが好きでしょう? 以前から彼女に対しては好い印象を持ってたんですけど、あのドッキリというか、カメラの前で堂々と彼女が告白した時! あの時からすっかりファンになっちゃって、私、応援しているんです!」
「うんうん、わかるわ。真っ向勝負な女って、女にとっても好ましいわよね」
「それなんです! 友達になりたい!」
酒を飲み続けることでやんわりと対応を拒否するライアンに見切りをつけたのか、彼女はネイサンと盛り上がり始めた。
「それなのにライアンったら、このつれない態度でしょう。いえ、彼もアンジェラに対して特別な感情を持ってるのは間違いないと思うんです。だって、どこから見ても今までの女に対する態度と違うもの。私も含めて」
「あら、そうなの?」
「そうですよ! 今までの女に対してっていったら、ほんっとそのまま俺様王子様って感じでエスコートとムードづくりが完璧すぎて胡散臭いっていうか」
「おい聞き捨てならねえぞ。なんだ胡散臭いって」
ライアンが苦情を言ったが、彼女は無視した。
「まあつまりは妙に完璧すぎるもんですから不安になるのもあるし、このままいい思い出で終わらせたほうがいいかもってなっちゃうんですよ」
「ああ〜、なるほどねえ。人間どこかでボロが出るのは確実だし、そのギャップが大きすぎたときを考えるとね〜、怖くなっちゃうのはあるわよね〜」
「それ! それなんです! だって本当にテレビのゴールデンライアンと、全く何も変わらないんですよ!? 怖すぎないですか!? 頭と尻の軽い女なら素直に素敵〜ってなるかもしれないですけど、普通ここまで完璧だとなんか騙されてるんじゃないかってなりますよ!」
内容自体は褒めている、ようにも聞こえるが、一周回ってボロクソの評価に、ライアンは顔をしかめた。しかしそれは、今まで歴代付き合った女性たちに実際言われた内容そのものでもある。もちろん、自分から言うようなことはしないが。
「私は最初のデートでリタイアしたけど、しばらく付き合った女性と喋ったことあるんですよね。そしたら聞いてくださいよ、1年! 1年も全くボロ出さなかったらしいんですよ! 怖すぎません!?」
「まあ」
ネイサンが、頬に手を当てて、小さく首を振った。
「怖いですよね! 実は裏で殺し屋とかどっかの国のスパイとかしてて、自分やヒーロー業はカモフラージュのための表の顔なんじゃないかって真剣に悩んだって言ってましたもん」
「おい」
いよいよ聞き捨てならないと、ライアンはシャンパンのグラスを口から離した。
「そんなこと思われてたのかよ、っていうかお前! なんで俺の元カノとそんな話してるわけ!? こっちのほうが怖いわ!」
「だってあんた、そもそもの人付き合いが才能重視で、それが女の好みにも盛り込まれてるでしょ。だからモデルだの女優だの女社長だの、有能バリキャリ系とばっかり付き合うじゃない。横の繋がり出来やすいわよ。むしろ仕事相手があんたの元カノってわかると「あら〜、あなたも彼と付き合ったことあるの〜? 私も私も〜」みたいなノリで仲良くなるぐらいの勢いよ」
「うっ」
「しかもなまじキレイにスッキリ別れてて、ビジネス相手としてちゃんと交流も保ってるでしょ。そりゃ朗らかに話もするわよ。名前をつけて保存したのち共有フォルダに移動よ」
恐ろしい比喩表現を用いる彼女に対し、ネイサンがうんうんと頷いているのが更に恐ろしい。ライアンは、顔をひきつらせた。
「それでね、今までの女にはこういう感じなのに、ガブ……アンジェラには、全然違うじゃないですか」
苦虫を噛み潰したような顔をしているライアンを放って、彼女はネイサンに向き直った。
「うちで服買うときも、彼女にバカって何度も言ったり、首根っこ掴んで引っ張るとか、もう信じられない振舞いだったもの。でも本人たちは両方とも楽しそうで」
「そうそう、わかるわ。凄く楽しそうなのよね。カップルっていうよりは、まだ恋愛とかよくわかってないまま好きな相手といるのが楽しい中学生……いえ小学生みたいな感じだけど」
「あっ、それ! それです! すごく的確!」
ネイサンの表現に、彼女は何度も大きく頷いた。
「でしょう? この間なんかねえ、聞いてよ。ふたりで仲良く出かけたっていうからアラどこに行ってきたのってあのコに聞いたら、おもちゃ屋だっていうのよ」
「おもちゃ屋?」
ネイサンが話すそのエピソードに、彼女は完璧なアイメイクの目を丸くした。
「なんでもあのコがモノポリーを知らなかったからって、買いに行ったんですって。おかげでしばらくヒーローみんなの間で大モノポリーブームが到来してて──まあそれはいいけど。他にも色々黒ひげが飛び出すおもちゃやら、ミニカーやら買ってもらったって大喜びしてたの。実際トレーニングルームの廊下で、ふたりでおもちゃのバイク走らせて大はしゃぎしてたわ」
「モノポリー……黒ひげ? ミニカー……?」
「今度は恐竜博覧会に行く予定なんですって。ティラノサウルスと首長竜どっちが強いかで小一時間議論して、結局決着がつかなかったって言ってたわ」
「恐竜」
だんだん真顔になっていった彼女は、そのまま、ライアンを振り返った。ライアンが、なんとなく目を逸らす。
「ええ……信じられない。高級ホテルのスイートのベッドにバラの花散らすようなことする男が、彼女にはモノポリー、ミニカー、恐竜博覧会? どういうことなの」
「おいなんで知ってんだよ!?」
「信じられない」
本当に己の過去の所業が共有フォルダに入れられているらしいことに衝撃を受けつつライアンが半ば叫ぶが、彼女は真顔で再度「信じられない」と首を振っただけだった。
「まあ、ふたりともすごく楽しそうだったから何も言わなかったんだけど、このぶんだと付き合うのに何年かかるのかしらっていう感じではあるわね」
「ええ……小学生じゃないんだから」
「うるせえよ、ほっとけよもう」
母親や姉に小言を言われる子供のような心地になってきたライアンは、心底面倒くさそうに言った。
「そりゃあ、彼女が楽しいならそれはいいんだけど。でも、少しは彼女の恋心も大事にしてあげなさいよ。うちの店に来た時、あなたにワンピースを選んでもらって、彼女とっても嬉しそうだったわ。ミニカーを走らせる時は、ああいう顔はしないんじゃない?」
彼女の指摘に、ライアンは反論しなかった。
そして、ガブリエラのことを思い出す。モノポリーに熱中している時、真剣にミニカーを並べている時、恐竜の話をした時。いつも彼女は楽しそうで、きらきらと目を輝かせていた。
しかし服を買いに出かけたあの時、ライアンの選んだワンピースを着て、初めてスカートを履いたのだと照れくさそうにはにかむ顔や、慣れないピンヒールで歩けず、ライアンの腕を借りてぎこちなく歩き、赤い顔で嬉しそうに笑う顔は、──そういえば、あれっきり見たことがない。
「ちょっとは女の子扱いしてあげるのよ、いいわね」
「はい、はい、はい」
なんであいつのことになると、周りの女たちは皆母親か姉のようになるのだろうか、と、ライアンはややうんざりしながら、ぞんざいな返事をした。
「……あ、そうだ。ちょっとふたりとも写真撮らせて」
「写真? なんで?」
カメラ機能の付いた端末を取り出したライアンに、ネイサンが首を傾げる。彼女もまた、きょとんとした顔をしていた。
「いや、あいつに今日の話するだろ」
「……うン?」
「あいつ、姐さんがドレスアップしてたとか言ったら絶対見たがるだろ。しかもお前もいたっつったら、「私も行きたかった!」ってキャンキャンうるさい。賭けてもいい」
「だから、彼女に見せるために写真を撮っておこうって?」
「そうだけど。何?」
なんでもない様子のライアンに、ドレスアップしたふたりは、生暖かい目をした。
「あの、こういう感じなんです?」
「まあ最近はこんな感じね。自覚あるんだかないんだかよくわかんないんだけど」
顔を寄せ合ってひそひそやる彼女たちに、ライアンは片眉を上げた。
「なあ、写真」
「あらごめんなさい。どうぞどうぞ、いくらでも撮ってちょうだい」
「彼女によろしくね」
「ん? おう」
そうして、妙に優しげな態度の彼女たちに、ライアンは何度かシャッターを切る。さすがのものでモデル立ちにやたら貫禄があるふたりの写真が、ライアンの端末に収められた。
20:20
Buy a some flowers.
パーティーも終わりに近づき、ちらほらと退席する者たちが出始める頃。
ホールにいると誰かしらに声をかけられるライアンは、一息つくために、いったん会場を出た。昼間はテーブルを出してこちらも会場になる、バルコニーというにはかなり広い場所に出て、すっかり夜の風にあたる。
(……小腹空いてきたな)
パーティーで料理をそれなりに摘んだが、あくまで摘んだ程度だ。ライアンの食事量からすると、全く足りない。しかしこの時間にひとりで店に入るのも面倒だし、朝のように出来合いのものを買って食べるほど、逼迫して空腹なわけでもない。
時間はある。というより、今日のスケジュールはこのパーティーで終わりだ。後は帰って寝るだけ。
(いつも、どうしてたっけか)
今回シュテルンビルトに来てからというもの、インパクトの大きいことばかり起こったせいか、それ以前の記憶がぼんやりしているような気がする、と思いながら、ライアンは過去の自分の行動を辿った。
(誰か声かけるか、引っ掛けるか、……そんなことしてたっけか。うーん)
グレードの高いパーティーは、ライアンが好きな、才能豊かな人材が集まる。
男でも女でも、ビジネスパートナーとして相応しいと思えば平等に声をかけるのは今でも同じだが、その中で異性として魅力を感じる女性には、積極的にアプローチをしていた。今すぐ連れ立つこともあれば、後日デートの約束を取り付けることもあった。
ライアンは、ふと、ちらりとパーティー会場に視線を向けた。
きらびやかなドレスを纏った女性たちの中には、ライアンに目線を向ける者も多くいる。あからさまに秋波を送ってきているようなタイプも。
以前であれば、言い方は悪いが物色しに戻っていただろう。しかし今は、全くそんな気になれなかった。ただ小腹がすいた感覚が居心地が悪く、そしてそれをひとりで満たすということがしっくり来ない。
ついでに言えば、そもそも今から帰るためにタクシーを呼んだりすること自体が、なんだか面倒くさかった。そういう気分のまま、ライアンはだらだらと手すりにもたれかかる。
最近は、パーティーといえばR&Aとしてふたりで出席するのがほとんどで、彼女と来て彼女と帰るのが普通だった。
帰りには一緒に夕飯を食べに行ったりして、時間の使い方に困ることなど全く無い。むしろ、パーティーが終わったら彼女とどこに行こうかと、次の予定を目まぐるしく考えている。
「んー……あー……。あー」
眉間に寄った皺を解しながら、ライアンは数分うだうだとした。時間は、20:30になろうとしている。順調ならば、ガブリエラはもう撮影を終えてアスクレピオスに戻っているか、早ければもうバイクに乗って家路についているだろう。
ライアンは、おもむろに通信端末を取り出す。そして通話アプリを立ち上げたり、落としたりを何度か繰り返していると、強い風が一瞬吹いた。
「……あー、俺らしくもねえ」
冷たい夜風に頬をぴしゃんと打たれたライアンは、さっと通話アプリを立ち上げて、コールボタンを押した。
《──はいライアン! どうしましたか!》
2コールもしないうちに、高い声が端末から響いた。
顔が見えなくても、まるで主人を見つけた犬のような様子がよく分かる弾んだ声色に、ライアンの口の端にもつい笑みが浮かぶ。
「お前、仕事終わった? もう家?」
《仕事は終わりました、今から帰るところです》
「そうか」
そう言って、ライアンは、ふと空を見上げた。星の少ない都会の夜空に、ひときわ強く光る一番星が目についた。
「じゃあ、迎えに来いよ」
何言ってんだろう俺、と、ライアンは口に出してから思った。俺様キャラで売ってはいるが、こうして傲慢に顎で人を使うことなど、実は今までしたことがない。もしやったとしても、仕事として充分なチップを渡すだろう。ガールフレンドや恋人相手なら、むしろこちらが迎えに行く方だ。
実際、ガブリエラも「えっ」と声を上げている。
まあ普通なんだコイツってなるわなあ、それが普通だよなあ、と思いつつ、ライアンは続けた。
「無理ならいいけど」
《いいえ、問題ありません! 今すぐ向かいます! はい!》
命令を与えられた犬そのものの様子でテンションが高まった様子の彼女に、ライアンは、わかっていたというような、呆れたような、──ほっとしたようにも見える、曖昧な笑みを浮かべた。
──彼女は、いつもこうだ。
いつでもライアンがいちばんで、至上で、ライアンあっての全てで自分なのだと、本気で、力いっぱい主張する。実際、こうして突然都合を無視して命令されても、諾々と、むしろ嬉しそうに従ってしまう。
手の届かない星を切なげに見るように、世界で最上の存在であるかのように自分を見上げる灰色の目。きらきらしたものを、眩しげに見る潤んだ目。蒸気した白い肌。どんなに意地悪く冷たくされても、あなたは優しい男だと断言し、きっとこの後優しくしてもらえるのだと信じ切っている、愚かなほどに従順な眼差しを思い出すと、なんだか頭がくらくらした。
「あ、ヘルメット借りてきて」
《はい、ヘルメット! スローンズにあります、取ってきます!》
「はしゃぎすぎてコケんなよ」
《む、コケません! コケませんとも! 待っていてください!》
「おー。ホテルの前がロータリーだから、そこまでバイク入れて大丈夫」
そのあと少し場所の指示をして、ライアンは通信を切った。
そして、これからのことを考える。ガブリエラがいれば、どこに行っても満足な食事が出来る。あの店にしようか、それともこの間行ったところにしようか。
そんなことを次々に思い浮かべていると、先程までの、時間を持て余した空虚な怠さや面倒臭さは、もうすっかりどこかに行ってしまっていた。
バルコニーから会場に戻り、すれ違う人々の中に知人がいれば軽く挨拶をしながら、絨毯が敷かれた、ゴージャスな階段を降りていく。
「ええっ、キャンセル!? そんなあ」
「そう言われましても……」
一般の宿泊客も行き交うロビーに出たその時、カウンターで、そんな声が聞こえた。
ふと見ると、受付カウンターに、ホテルマンと話している、フラワーショップと書かれた作業着姿の女性が見えた。
周りの人々も数名振り返るような音量、そして心底困り果てた様子のその声に、ライアンは自然に足を向ける。
「ん〜、なに? なんか揉め事?」
「えっ? ──うっきゃあ! ゴ、ゴゴゴゴ」
「そ、ゴールデンライアンだぜー。ヒーローの助けが必要?」
飛び上がって驚いた女性は、まだ少女とさえ言えるような年齢だった。高校生ぐらいだろうか。この年齢なら、きっとアルバイトだろう。
真っ赤になって目を見開いている少女にライアンは両手を上げて、「まあ落ち着けよ」とやんわり言った。そのコミカルな仕草と表情に少女が少し笑い、困ったような顔をしていたホテルマンもまた笑みを浮かべる。
「で、どした? 花届けに来たんじゃねーの?」
彼女が両手に抱えている可愛らしい2つのブーケを見て、ライアンは首を傾げた。
「あ、はい。お花のご注文があって届けに来たんですけど、キャンセルって……」
「行き違ってしまったようなんです。注文したご本人様は、もういらっしゃらなくて」
ホテルマンが、丁寧な口調で補足する。
「うう、こうなっちゃうと私の買い取りになるんですよ〜!」
「え、そうなの? そういうモンなの、花屋って」
「違いますよう! もうとんだブラックですよ、このバイト! サービス残業多いし! 今回のだって、お客さんはちゃんとキャンセルの連絡入れてくれてるんですけど、お店が私にそれを言わなかったみたいで……そうすれば私の買い取りになって、一応儲けになるから……」
「それはひでえな」
「ひどいんですよ!」
若干涙目で地団駄を踏む少女に、ライアンは同情した。
「辞めちまえ辞めちまえ、そんなバイト」
「うう、そうします。もっといいとこがあればいいんだけど」
「そんなとこと比べたら、大抵のとこがいいとこだろ」
「そ、それもそうね。……よし! 今回を最後にもう辞めるわ!」
「おう、よく言った」
ライアンがにやりと笑うと、少女もまた、大きく笑った。
「あの、すみませんでした、大きな声出して。持って帰りますね。ありがとうございました」
「いえいえ。……いいところが見つかるといいですね」
礼儀正しく頭を下げる少女に、ホテルマンもまた優しげに返す。
笑顔で頭を下げあっている少女とホテルマンから、ちらちらと様子をうかがっていた人々の視線が離れていく。騒ぎの顛末を、彼らも気にしていたのだろう。
「……なあ、その花だけど」
「はい?」
少女が抱えたブーケは、ふたつ。どちらも同じ花の組み合わせで金色のリボンが結ばれているが、包み紙のセロファンが、ピンクとブルーの色違いになっていた。
「俺が買い取ってもいいか?」
「え!?」
「だめ?」
「い、いえいえいえ! 大変助かります!」
「じゃあ交渉成立」
そう言って、ライアンは彼女が両腕で抱えていたブーケを、片手でまとめて受け取った。そんなに大きくない小振りのブーケなので、ライアンなら片手で持つのは簡単だった。
「はい、代金。それと、片っぽは、はい」
「わ、わ、わ」
片手に紙幣を、片手にピンクのセロファンのブーケを持たされた少女は、わたわたとした。
「え!? なんで!? あ、代金! お釣り……」
「やるよ。退職祝い」
「えー!? い、頂けません!」
ライアンが少女に渡したのは、最高額紙幣である。店員である少女の買取価格からすると、倍近くの値段だった。
「受け取っとけって。こういう時に遠慮するとケチがつくぞ」
「……うう、ありがとうございます! ありがたく頂きます!」
「おう。なァに、この俺様が花持たせてやったんだ。すーぐ運が転がってくるって」
「た、確かに! か、帰りに宝くじ買って帰ろうかな……」
途端に現金なことを言う少女にライアンは笑い、ホテルマンもくすくす笑っている。
「あの、ゴールデンライアンは、その花、どうするんですか?」
「……さーて、どうしようかね」
好奇心できらきらしている少女の目から顔をそらし、肩をすくめて、ライアンはブーケを持ち直した。クリアブルーのセロファンと金のリボン、見慣れたカラーリングのブーケからは、瑞々しい香り。
「もしかして、ホワイトアンジェラに? それともモリィちゃんにあげるんですか?」
「……イグアナの食べるもんなんか、よく知ってんね」
前者の質問はスルーして、ライアンは目を伏せた。
「うち、お兄ちゃんが飼ってるんです。私も買い取りのお花はイグアナ行きで──、あ! うちのお兄ちゃん、あなたの大ファンなんです! 図々しいんですけど、サイン貰ってもいいですか!?」
「おう、構わねえよ。ブーケにもしてやろうか?」
「わー、噂の神対応ー! ほんとに運が向いてきそう!」
先程まで疲れたようにしょぼくれていたのが嘘のようにはしゃぐ少女が差し出した手帳に、ライアンは彼女の兄宛のサインを、ブーケのセロファンには、彼女宛にメッセージを書いてやった。“良い仕事が得られますように”と書かれたブーケを、「お守りにします!」と彼女は大事そうに抱えた。
最後にホテルマンに頼んで写真まで撮り、何度も頭を下げる彼女と別れて、ライアンはブーケを持って外に出た。
20:45
Join Gabriela, again.
ロータリーに出ると、ウォン!! と、獣の吠え声にも似た音。
聞き覚えのあるその音を辿って歩いていくと、そこには予想通り、先ほどの音を響かせたのだろうバイクと、それに跨るガブリエラがいた。そして想定外なことに、その彼女の横に、先ほど会場で会ったピンストライプのスーツのあの男が立っている。
しかも男はやや腰を折り、ハンドルを握った彼女の手に自分の手を触れさせているようだった。次の瞬間、ガブリエラが勢い良くその手を払ったのも見えたが。
「あっ!」
ライアンが心なしか大股で近寄ると、ガブリエラがすぐに声を上げた。昼間と同じくやはりいち早くライアンの姿に気づく彼女に、つい笑みが浮かぶ。
「おー、お迎えゴクローさん」
「お安いご用です、ライアン!」
フォン! と軽い音を立てて、ガブリエラはまるで飼い主を見つけた犬のように、車体を滑らせて彼の横につけた。
「で、あっちは? 知り合い?」
「全く知らない方です。なぜか声をかけられました。あと手を触られました」
「ふーん?」
ライアンは片眉を上げ、男をちらりと見る。男がたじろいだ。
「痴漢だろうかと警戒していたところです!」
「……まあ、多分ナンパじゃねえの? きわどいところだけど」
あいかわらずばっさりと言うガブリエラに、ライアンは少し笑いながら言う。そして、彼女にちらりと目を向けた。
さきほど彼女の手に触れていたときも、男の視線が彼女の顔やバイクではなく、尻に向いていることはわかっていた。
枝のように細いガブリエラだが、食生活が充分なものになってきた今、乗馬とバイクで実は培われていたのか、尻と太股には発達した筋肉が目立つ。少年のように小振りだが、きゅっと上に跳ねるような完璧な曲線は、“お尻マイスター”を自負するネイサンも褒めるほど見事なものだ。
今のようにぴったりとしたレザーのライダースーツ姿であると余計にそれが際立ち、しかもバイクのシートに跨って突き出された形の良い尻は、男が良からぬことを想像するに充分なものがあった。顔もよくわからないこの薄暗いところでナンパしたところをみると、おおかたこの尻に惹き寄せられてきたのだろう、とライアンは正しく予想した。
「……巨乳じゃなくてもいいのか。節操のねえ野郎だな」
ごくごく低い声の呟きは暗闇に溶けて消え、誰の耳にも届かなかった。
「まあいいや。俺のメット持ってきた?」
「もちろんです!」
ガブリエラはさっとシートを降りて収納を開け、ライアン用のヘルメットを取り出して渡してきた。ライアンはそれを受け取り、留め具を外して小脇に持つ。
「ゴ、ゴールデンライアン……」
「よう。さっきはどうも」
ライアンが金の目を細めると、あれほど図々しい態度だった男が少し後ろに下がる。そんなふたりを見て、ガブリエラが首を傾げた。
「ライアンのお知り合いですか?」
「いや? さっきパーティで初対面」
そう言って、ライアンはポケットから名刺の束を取り出すと、その中から1枚抜き取る。そして男につかつかと近寄っていった。
ふたりの身長はそれほど変わりないが、身体の厚みはライアンのほうが断然あるので、全体的にひとまわりは大きく見えた。
「で、多分もう会わない」
「な……」
取り出した名刺が、先程パーティー会場でライアンに渡した自分の名刺であることに気付いた男は、眉を寄せた。
「……◯◯スタジオのオッサン、ブチギレてんぞ。知ってる? あんたが遊んだあのアイドル、実はオッサンの姪っ子」
「え」
囁かれたそのセリフに、男の顔色がざっと青ざめる。
「あのオッサン敵に回して、この業界でやってけるかねえ? ま、頑張れよ。新進気鋭の青年実業家サマなら、なんとでもなるだろ?」
女遊びはほどほどにな、と言って、ライアンは彼の名刺を彼の胸ポケットに差し込む。飾られた花の影になり、書いてある彼の名前は見えなくなった。
「お待たせー。んじゃ行くかァ。とりあえず大通り出て」
「了解です!」
ガブリエラが、喜色の篭った声を上げる。自分の腰に密着した、小振りだがとても形の良い尻を見ながら、ライアンは彼女の細い腰に手を回す。先ほど男の手を鋭く払い除けていた彼女は、「もっとしっかりつかまってください」と言って、ライアンの腕を引いた。
見事な運転技術で、バイクが滑らかに走り出す。後ろでは蒼白になった男が佇んでいるのだろうが、ライアンはちらりとも振り返らなかった。
どうせそう近くないうち、自分の近辺では顔を見なくなるだろう。そう思ったことも、直に忘れた。
「お前、夕飯食った?」
「カリーナのクッキーを食べました。あとマドレーヌをひとつ」
「そんなもん夕飯に入らねーだろ」
「ライアンは、パーティーでなにか食べましたか?」
「摘まむ程度にな」
「……何か食べますか?」
「おー、それで呼んだんだよ」
長めの信号待ちの時間、ヘルメット越しに篭った声で交わす会話。声が聞えるように、こつこつとヘルメットがぶつかるほど顔を近づけ、ぎゅっと腰に手を回しているが、ガブリエラは平然としていた。あれほどスキンシップ慣れしていなくても、不思議とタンデムの時は気にならなくなるらしい。
「飯食いに行こうぜ。夜食」
「はい、喜んで! 私も少しカロリーが足りなかったところです!」
同じような腹具合だったらしいことに、ライアンは、メットの下で密かに笑った。
「昼ほどがっつり食べたいって感じじゃねえんだけど」
「ではダイナーにしましょうか」
「ダイナー! いいね、そういや戻ってきてからいっかいも行ってねえし」
「決まりです!」
ガブリエラがそう言うと同時に、信号が青になった。
ガブリエラがおすすめだと言って連れてきたのは、シュテルンビルトの象徴の一つ、と言っても過言ではない、プレハブ式レストラン。いかにも古き好きシュテルンビルトを再現したような外観の、いかにも個人経営のダイナーだった。
「しかし、ガイドブックには載っていないのです。店主が嫌がって」
「へー、穴場だな」
「直通エレベーターですぐですので、今もちょくちょく来ます」
「あ、ホントだ」
どうやらこの店は、ゴールドステージのふたりのマンションの真下辺りに位置するようだ。自分も使うことが多い直通エレベーターを見て、ライアンはなるほどと頷いた。
ドアを開けて店に入ると、いかにもオールド・シュテルンビルトといった感じの内装に出迎えられる。“To Go”と書かれたテイクアウトコーナーに、ベーカリーアイテムの入ったショーケース。その中には、ボリュームのあるカントリーケーキが並んでいる。奥に続くのは、ダイナー特有のカウンター席。奥の方には、チープでありつつ年代ものの、コイン式の大きなジュークボックスがいい雰囲気を出していた。
席はそこまで混んでおらず、ちらほらと空席が見られた。本当に穴場だな、とライアンは少しわくわくした気持ちで、適当なボックス席に座る。テーブルにはケチャップやソルト&ペッパーなどの調味料と紙ナプキン、カラフルなメニューと、いかにもな定番アイテムが置いてあった。
「何にする?」
「私はどれも食べたことがあるので、ライアンの食べたいものでいいですよ」
──そういえば、こいつの行きつけって初めて来るな。
と、ライアンは気付いた。
いつもはどちらかが雑誌や人伝に聞いた店、すなわち両名とも知らない店を開拓しに行くばかりで、おすすめとか、行きつけとか、そういう店に行ったことがない。
そもそもライアンはシュテルンビルトの人間ではないので行きつけも何もないが、ガブリエラはもう数年もこの街に住んでいるのだから、行きつけの店のひとつやふたつあるだろう。
そしてこの店がそのひとつなのだと思うと、ライアンはなんだか急にこの店に興味が湧いてきた。
「……そう? オススメある?」
ライアンが聞けば、ガブリエラは嬉しそうな顔で、自らのイチオシメニューを教えてくれた。すらすらと出てくる料理名に、ここが本当に彼女の行きつけであることがわかる。
たくさん並ぶメニューと、それを楽しそうに説明する彼女を眺めながら、ライアンは注文を決めた。
「ハイ、注文は?」
注文を取りに来たのは、腰回りがライアンの倍くらいありそうな体型にフリルのエプロンをした、中年の女性だった。いかにも無愛想な様子で、口元がブーメランのように曲がっている。
「こんばんは、マダム。チキンポットパイとパストラミビーフ入りのチーズバーガー、あとチキンオーバーライスをください」
「ハンバーガーはポテト増量で。あと最後にアイスクリーム」
「あっ、私も! コーラフロートで!」
ふたりの注文を手早く書きつけた女性は、特に返事もせず、さっさとカウンターに引っ込んでいった。ズシンズシンという重い足取りが、プレハブの薄い床によく響いてくるのが面白くてライアンが少し笑うと、ガブリエラも子供のような笑みを浮かべていた。
「迫力のあるオバちゃんだな」
「良い方なのですよ」
それからガブリエラは、この店についての思い出を語ってくれた。
二部リーグ時代、いやヒーローになる前からの行きつけだというこの店に、ガブリエラは随分世話になっているようだった。
数年かかってメニューを制覇した時に店主が撮ってくれたという、カウンターの上のメニュー表横に貼られた写真には、恐ろしいことに今よりもひと回り細いガブリエラと、先ほどの巨大なマダムが並んだ姿が写っていた。ガブリエラは笑顔だが、女性は相変わらずむっつりと不機嫌そうな顔をしている──が、手はふたりともピースサインを決めているのがおかしい。
すぐに運ばれてきた食事を相変わらずシェアして食べながら、ガブリエラが楽しそうに話すのを、ライアンはゆったりと聞いた。この店で起きた、昔のこと。そして、今日起きた色々なこと。
「それでですね、ドミニオンズの皆さんに頂いたマドレーヌが、クイズの優勝賞品のケーキと同じお店のものだったのです! 偶然にも!」
「へー? 流行ってんのかなあの店」
ライアンが相槌を打つと、ガブリエラは、ぱぁっと輝くような笑みを浮かべた。やけに満足気なその表情に、ライアンが片眉を上げる。
「え、なに? そんな美味かったのかよ」
「ふつうに美味しかったです! 言いたかっただけです!」
「何だそれ」
ひたすらにこにこしているガブリエラに、ライアンは「わけわかんねえ奴だなあ」と苦笑した。
ガブリエラが話すのは、特別面白いというわけでもない、ただの世間話だ。
ただ本人がとても楽しそうで、いかにも素敵なことが起きたのだと言わんばかりの様子なので、聞くのは全く苦ではない。
ついでに言えば、話題自体が特筆すべきものでなくても彼女独特の妙な言い回しがつい面白くて笑ってしまうことがあるし、丁寧に話すので全く早口ではない──むしろ早口が出来ない鈴の鳴るような声は、聞いていて心地よい。
口汚いスラングばかり発達した場所で生まれ育ち、それでいて母や神父から汚い言葉を使うなと躾けられて育ったガブリエラは、必然的に無口な子供だったらしい。
そして二部リーグ時代は不健康な体調により全体的にぼうっとしていたため今まであまり話さなかったそうだが、こうして健康になってからというもの、結構なお喋りである。これは彼女自身も初めて知ったことらしく、ライアンが「お前、よく喋るなあ」と言ったら、「私はお喋りだったのですね!」と驚いていた。
元々人が好きで寂しがりな彼女は、人とお喋りするのも大好きであったようだ。そして、自分が喋るだけでなく、人が喋るのを聞くのもとても好きだ。ライアンといる時は、主にライアンが自ら聞き役に徹する部分があるため、ずっとこうしてぺらぺら話している。
「ライアンは、パーティーはどうでしたか?」
「うーん、特に面白い話はねえなあ。姐さんに会って、ちょっと話しして」
「ネイサン! スーツでしたか、ドレス!?」
「スーツとピンヒール」
「素敵です! 写真は撮っていませんか!?」
「あるある」
ライアンは端末を取り出し、撮った写真を見せた。目をきらきらさせてその写真を見るガブリエラに、やはり写真を撮ってきて正解だった、とライアンは満足する。お前の端末にも送ってやると告げれば、「ありがとうございます!」と諸手を挙げて大喜びされた。
そして、マヌカンの彼女に会った話から、もうすっかり寒くなりつつあることについて話が移っていく。
「冬物ですか。最近気温が下がってきましたが、今日などはぐっと寒いですね」
「おー、バイクだと結構冷えるわ。コート着るほどじゃねえけど」
冬物のジャケットの襟を弄びながら、ライアンは窓の外をなんとなく見た。人工の明かりがまばゆい街を行き交う人々は、皆それなりに厚手の上着を羽織っている。秋が、もうほとんど終わろうとしている景色。
「寒いですか? 大丈夫ですか?」
「風邪引くほどじゃねえから大丈夫」
「そうですか。気をつけてください、風邪は私の能力では治せませんので」
「……お前こそ、そのライダースーツ薄くない?」
ライアンは、ガブリエラの細い身体の線がくっきり出たライダースーツを見て言った。
「これですか? いいえ、確かに薄いですが隙間風も入ってこないですし、アンダーウェアに保温効果があるので温かいですよ! プロのライダーも使っているものだと、スローンズの皆様に教えていただいたのです。とても機能的」
「ふーん?」
どうでもよさそうな相槌を打ちながらも、ライアンは、もっと頑丈そうで、あまり体の線が出ないライダースーツがないか今度調べてみよう、と思った。
それから、冬物の洋服のことや風邪の予防法など、とりとめのないことを話した。ガブリエラの風邪の予防法は、毎日ちゃんとバスタブに湯を張って、しっかり体を温めることであるらしい。
「元々お風呂は好きですが、バスタブでお湯に浸かることが、こんなに素敵なものだとは知りませんでした。とても体調がいいですし、寝る時に気持ちのよい眠気が来て、起きるときもすっきり起きられます」
「そんなに効果ある? うーん、バスタブねー。最近浸かってねえな」
「ぜひ浸かるといいですよ、今日でも!」
「じゃあ久々にそうするかな」
そんな雑談を交わしながら、短い時間が不思議にゆったりと過ぎていった。