「よっし、終わり」
全ての案件を片付け終わったライアンは大きく伸びをして、椅子から立ち上がった。
1時間程度とはいえ少し凝り固まった体を解すため、肩周りのストレッチなどしながら、部屋の中をぐるりと歩く。
「……なんかまた増えてんな」
そう言ってライアンが摘み上げたのは、隣にあるガブリエラのデスクに置いてあったミニカーである。
彼女の机には、色々なものが置いてある。
例えばいまライアンが摘み上げたミニカーは、この間ライアンが買ってやったもののメーカーのシリーズだ。
パパラッチをおちょくった出来事の後、子供時代に誰もが遊ぶようなおもちゃやゲームを彼女が何も知らなかったのがわかり、おもちゃ屋に連れて行った。
その時に彼女のバイクや、かつて故郷で乗っていた車に似ているというものを買ってやったらいたく感動されたのだが、それから細々と集め始めているようだ。
膨大な数のシリーズのそれらのうち、ガブリエラが買い求めるミニカーの車種には、統一性がない。真っ赤なスポーツカーから、いかにも業務用のバンまで。
どういう基準で買っているのかと聞いたら、「これはアニエスさんたちの中継車。これはタイガーの愛車と同じもので、こちらはネイサンの。こちらは……」と、友人知人の愛車と同じものを買っているのがわかった。
もちろんライアンの愛車もあるが、オリジナルカラーのそれが、ミニカーで一般販売されているわけがない。しかし、妥協してとりあえず白いものを買った彼女がしょんぼりしていたら、イワンがライアンの愛車のカラーに塗り替えてくれた。
「フィギュアやプラモデルをリペイントすることもあるので」と彼が言って塗装を施したそれは、ライアンの愛車の完璧なミニチュアだった。ガブリエラは飛び上がらんばかりに大喜びし、お礼に、彼が集めているジャパンのスモウ・レスラーのグッズが当たるキャンペーン応募に協力した。
なんでも、チャンコという料理のレトルトパック応募券がそれなりの数必要なキャンペーンなのだが、ひと袋のボリュームが凄いので、なかなか枚数が集まらなかったらしい。言わずもがな、ガブリエラの食事量によってあっという間に応募券が集まり、結果win-winの結果に納まっていた。
他にも、いちばん目につくところには、ヒーローランドで買った、旧スーツと新スーツのゴールデンライアンの、大きめのフィギュア。その周りに、ファイヤーエンブレムを主とした、他のヒーローたちのミニフィギュア。ブルーローズとドラゴンキッドのフィギュアの側には、動植物園で彼女たちとお揃いで買ったという、パンダのぬいぐるみマスコットが置いてある。
ドミニオンズで発売された香水のミニボトルを、フィギュアたちが器用に抱えている。書類入れに入っているのは書類ではなく、読み書きを勉強するための絵本が数冊。
ペン立てとして置かれたアスクレピオスのノベルティマグカップには、文字を書く気の感じられない、大きな人形や飾り付きのペンが何本も突き立てられている。
椅子にはデフォルメされた黒い馬のぬいぐるみと、ヒーローランドで販売している、ライオンと犬にデフォルメされたR&Aのふわふわしたぬいぐるみが鎮座していた。
ちなみに引き出しには、おやつというには多すぎるお菓子が山のように入っている。
まるで子供部屋のようなそのデスクには、仕事をする気がまるでない。──というよりも、実際していない。
なぜならガブリエラはその経歴故に、まともな仕事がほとんどできないからだ。前の会社でも、オフィス仕事は子供でもできるようなものしかしていなかった、という。
よってこのデスクも仕事には殆ど使われておらず、そもそも彼女がここに座ること自体が稀である。だからこそ、デスクがこの有様なのだ。
だがそれらは全てとてもきれいに、几帳面に並べられていた。大事にしているというのがとてもよくわかる様子。ミニカー類も、ヒーローランドで買った可愛い柄のマスキングテープをデスクの端に貼って駐車場が作られ、きっちりとバック駐車で並べられていた。
このデスクのおもちゃもそうだが、彼女には、ものをきれいに並べて整頓する癖があるようだった。コレクションであるというピアスも整然とケースに並べてあったし、ラグエルの尻尾や蹄鉄も、かなりきちんと保存されていた。
そもそも彼女はぶっ飛んでワイルドなくせに、こういう細かいところは几帳面だ。いちいちメモを取るし、掃除もこまめにするし、潔癖症ではないが明らかにきれい好きである。
実際自宅はきれいに片付いていて、スリッパもきちんと揃っていた。汗をかくとちゃんとデオドラントシートでこまめに拭いたり、買ってやった服の裾をちまちま直したりする姿もよく見られる。
二部リーグ時代、今よりもっとがりがりに痩せ細って安っぽい服を着ていても汚らしい感じに見えなかったのは、彼女がいつも基本的に身奇麗で、清潔さを保っていたからだろう。
作業を終えて雑然としている自分のデスクを横目で見ながら、ライアンは摘み上げたミニカーを、マスキングテープで作られた駐車場にそっと戻した。
「ただいま戻りました!」
「おー、お疲れー」
ちょうど意気揚々と戻ってきたガブリエラを、ライアンはゆるい声で出迎えた。
「斎藤さん、いた?」
「お会いしてきました! 面白い方ですね」
ガブリエラは、にっこり笑って頷いた。
ゴールデンライアンのヒーロースーツの製作者である斎藤が今日アスクレピオスに来るのは、確実な予定ではなかった。情報交換や法的手続きは書面でしっかり終わっているので、気が向いたら行く、程度の返事。それが今朝「行く」とアポイントメントが取られたので、差し入れの菓子を彼のぶんも用意しておいたのは正解だった。
そしてあの変人集団の主任であるランドンは、同じ大学出身の同期であるらしい。ライアンよりも更に頭半分以上は背の高いランドン主任と、子供のような身長の斎藤は、同じ天才同士でもひどい凸凹コンビだ。しかし今でも交流があるらしく、ヒーロースーツの受け渡しがスムーズに行えたのも、ふたりが知り合いだったせいもある。
そこまで話すと、ガブリエラがライアンのデスクに近寄っていった。そして、雑然としたデスクを片付け始める。
オフィス仕事ができないかわりに、こういう雑用を、彼女は率先してやる。基本的にペーパーレスな職場では、メモですら電子媒体だ。よって昔ながらの、書付を捨てたの捨てていないのというミスの起こりようがないこともあり、ライアンは彼女の好きにさせている。実際、仕事だけして放り出しておけば彼女が勝手にきれいにしておいてくれるので、助かってもいる。
彼女の作業風景は、独特だ。
ひとつのことが終わったらそれをちゃんと片付け、出したものは元のところに仕舞ってから、次に移る。色々なことを一気に片付ける、というようなことをしない。頭が悪いのでひとつずつやらないとミスをするのです、とは彼女自身の言だが、おかげで仕事はとても遅い。爆速のエンジェルライディングは、他のところでは一切発揮されないようだ。
それは、仕事のスピードはとても早いが、後片付けは大雑把で全体的にややがさつなライアンとは、真逆のあり方だった。
しかしライアンは彼女の、ちまちました作業風景が嫌いではない。彼女がゆっくり、ひとつずつ、若干不器用な仕草で自分の身なりを整えたり、身の回りを整理整頓したりするその様は、毛づくろいをする犬のようだ。
細い指が小さいものを慎重に、きれいに並べていく様は、不思議とずっと眺めていられるような気がする。
今も、ガブリエラはまず紙くずや不要になった付箋をひとつずつ確認しながらゴミ箱に捨て、転がっていたペンをトレイに置き、出しっぱなしのキーボードを仕舞った。
更にOA用のウェットティッシュを取り出し、デスクの隅から隅まで拭いて、ほこりを取る。汚れたウェットティッシュを捨てたら、最後に、ペンの入ったトレイを、デスクと平行になるように調整。
「パワーズ自体は、変わったとこ無かったか?」
相変わらずちまちまとした彼女の動きをゆったり眺めたライアンは、ちゃんとその一連の作業が終わったのを見計らってから、再度話しかけた。そうしないと手元が狂うからだ。ひっくり返したものをちまちま拾う様もそれはそれで面白いとは思うのだが、時間がかかるので、週に1回くらいにとどめている。
ちゃんと作業が終わってから話しかけられたガブリエラは、ペンのトレイをひっくり返したりすることなく、ライアンに顔を向けた。
「パワーズはいつも変わっています」
「まあそうだけどな」
そこから始まって、ライアンは、ガブリエラが見てきた皆の様子を、事細かに聞いた。
オフィスでまともな仕事ができない彼女であるが、ここでそれを咎められることはない。それは彼女がこのヒーロー事業部で、アスクレピオスという会社でヒーローという役職であると同時に、特別な立場を確立させているせいだ。
例えるならば、会社で飼われている犬。マスコット。直接業務の役に立つわけではないが、モチベーションの底上げにはおおいに関わる存在。オフィスにおけるホワイトアンジェラは、今やそういう認識の存在になっている。
そしてそれは間違いなく彼女自身が上手くやった功績であり、だからこそ、彼女はここで受け入れられて、更に言えば愛されているのだ。
そしてライアンもまた、彼女の立場や人気をうまく利用していた。
ガブリエラにヒーロー事業部じゅうをうろつかせ、彼女から皆の様子を聞くことで、彼もまた、全ての状態を把握することができるのだ。ガブリエラだからこそ、報告内容は本当に見たまま聞いたままで、余計な主観が混ざっていない情報を得ることが出来る。
だからライアンは、今までやってきたよりもよりこまめに差し入れを買い求め、ガブリエラに配らせるようにしている。差し入れを配るという名目があれば彼女も皆を訪ねやすくなるし、交流も深まるからだ。
彼らとしても、いかにもご機嫌伺いのライアンが訪れるより、ガブリエラが訪れてくるほうが断然癒されるだろう。──物理的にも。
それに、原始的なやり方だが、美味しいものが人の口を緩める効果はなかなか侮れない。差し入れを持って行った時にガブリエラが持ち帰ってくる情報と、そうでない時の情報は、内容の深さにかなりの差がある。
さらに、彼女から得た情報で皆の好みの品を見繕い、ライアンからだと言わせれば、自分の印象も良くなる。普段から直接コミュニケーションをとっていなくても、いざというときに前置きいらずで、好印象を踏まえた上で接して貰えるようになるのだ。
このように、ひとつぶで何度もおいしい、うまいやり方だとライアンは満足していた。
「そして、オリガさんは今日も美しかったです」
うっとりと言うガブリエラに、ライアンは呆れた顔をする。オリガというのはドミニオンズの主任で、先ほどのデザイナーが「怖い」と言ったとおり、魔女の総括とか、アスクレピオスの女王様とか、メドゥーサとか呼ばれている、女傑の中の女傑である。
そしてガブリエラは、その女傑に、これ以上なく懐いているのだ。その心酔っぷりと言えば、ネイサンやアニエスに対する心酔ぶりと並ぶのではないか、というぐらいのものである。
「お前、ほんとにあのヒト好きだな。っていうか……」
ライアンは、いったん言葉を切った。
「……前から思ってたけど」
「はい?」
「お前、気が強いっつーか……女王様系の女、好きだよな」
性格がきつくて強気で、それでいて面倒見が良く包容力のあるタイプ。二部リーグ時代に非常に世話になったシンディに始まり、ネイサンやアニエスは完全にそのタイプ。カリーナやパオリンも、その片鱗はある。そして彼女が今うっとりと語るドミニオンズの主任も、まさにそれだった。
ライアンにそう指摘されたガブリエラは、何かを思案するような顔をする。そして、やがて何かに納得したように、こくりと頷いた。
「おお、そうですね。女王様系。最高ですね」
「タイプってこと? 何? Mだから?」
「そうかもしれません」
「あっさり認めてんじゃねえよ」
「はう」
ガブリエラの額に、ライアンはぺちんと軽くデコピンをかました。ガブリエラは額を擦りつつ、目を細めて笑みを浮かべる。その表情は、まさしくMだ。その顔を見て、ライアンは今度はその薄い頬を掴んでやりたいと思ったが、そう思った事自体をそっと流した。
「言われてみればそうです。うーん、セクシー系だとなお好きですね。特に胸……胸が。大きい胸は素敵なもの」
「……おい」
とろんと蕩けた目をして言うガブリエラに、ライアンは不安になってきた。
「お前、……お前こそ、女もイケるクチじゃねえだろうな」
先日パパラッチを盛大に釣った時、ホワイトアンジェラは男性ではないかと推測する一派のおかげで、ライアンにゲイ・バイセクシャル疑惑がかけられた。
しかしライアンは、実は前から思っていたのだ。「こいつ、実は女のほうが好きなんじゃなかろうか」と。
ガブリエラは、ライアンが好きだ。
それは恋愛対象としてべた惚れという意味でもあり、ヒーロー・ゴールデンライアンのファンという意味でもあり、とにかく存在そのものに心底から惚れ込んでいる。
だがそれはそれとして、彼女にも好みというものが存在するらしい。
そしてそれはどうも、男性よりも女性に働くようなのだ。男性にはむしろ淡白な反応で、世間でイケメンと呼ばれる有名人などを各タイプ揃えて見せても「こういう方がかっこいいのですか?」とか「ライアンのほうが素敵です」のひとことで終わりである。
だがライアンが観察する限り、メリハリのあるスタイルで、特にバストが大きいセクシー系、さらに先述のような女王様タイプで、更にキラキラとした派手めの女性には、割と軽率にきゃあきゃあとはしゃぎ、頬を染めて魅入っている。
「真面目に答えろ、真面目に」
「別に不真面目ではありませんが。……うーん、女性が恋愛対象かどうかですか。考えたことがありませんでした。今まで、恋愛として人を好きになったことがありませんでしたし……」
「え、そうなの?」
「はい。ライアンが初めてです」
こくりと頷き、ガブリエラは初恋宣言をした。ライアンは、なんとなく目を泳がせる。
「恋愛対象ですか。実際、私はライアンが好きですし……ライアンは男性ですし」
「……おう」
真面目な顔になり、ガブリエラはライアンをまじまじと見た。彼女の灰色の目は、ライアンが最初苦手意識のようなものを感じたほどに、じっと見られると妙な迫力がある。もう苦手とは思っていないものの、やはりつい顎を仰け反らせてしまいつつ、ライアンは彼女の言葉を待った。
「しかし、ライアンが女性でも好きだと思いますし、他の男性を好きになるのは想像がつかないです。ですので、男性とか女性とかではなく、ライアンが好きです」
けろりと言ったガブリエラに、ライアンは、口を開けたまま絶句した。
「うー、皆さんに能力を使ったので、おなかがすきました。お昼ごはんを食べに行きましょう、ライアン」
「……ああ、おう……」
地団駄を踏み始めたガブリエラに、ライアンは立ち上がった。──なんだか、足元がふわふわする気がしながら。
「あ、思い当たることが少しあります」
「あん?」
ガブリエラが言ったのは、生まれ故郷の治安の悪さ、またヒッチハイクの旅による、初対面の異性に対する警戒心の高さのことだった。
なるほど、とライアンは納得すると同時に、それはそのままでいい、とアドバイスする。彼女の故郷ほどではないにしろ、シュテルンビルトも治安がいいとはいえない街だ。
「はい、そうします」
ガブリエラは、素直に頷いた。
結局、彼女が女性たちに向けるものが、恋愛感情や性愛が芽生えるようなベクトルでの好意なのかは不明である。
しかし今の発言からしても性別に関してボーダーレスな考え方のようなので、恋愛対象としてどうこうというよりは、単に人間としての好み、といったほうがいいのかもしれない。
だからこそ、完璧に近い男性の肉体美を持ちつつ誰よりも女性らしい内面、そして女王様然としていると同時に母性に溢れたネイサンのことを、もはや女神のように思っているのだろう、とライアンは分析する。
「あっ、そういえばライアンも胸が大きいですね。とっても素敵」
「……こ、れ、は! 筋肉!」
「存じておりますとも。素敵な体つきです」
眉を顰め、自らの厚い胸をばしんと叩いたライアンに、ガブリエラは、まだ少し蕩けたような目のまま、にっこりとした。
「ライアンがいちばん好きですよ」
「……あっそう」
悪い気はしない。しかしなんだか疲れたライアンは、ハンガーにかけていた上着を取って、羽織りながら部屋を出た。ガブリエラは、小走りにその後ろをついていく。
「今日のお店、楽しみです。ピザ、大きいピザ! チーズ!」
「プロシュットがごってり乗ったやつがいいな。ホームページで見た」
「プロシュットとは何ですか?」
「美味いハム」
「おいしいハム! 最高です!」
今から散歩に連れて行ってもらえる犬よろしくぴょんぴょん跳ねるガブリエラと一緒に、ライアンは会社を出た。
13:00
Lunch with Gabriela.(Italian Bar)
「んんん、こっちのソースうっめぇ〜。ここ、当たりだな」
「当たりですね!」
頬張ったピザを飲み込んでから、ホワイトアンジェラのメットをかぶったガブリエラは、大きく頷いた。
店の名物だという、生ハムをたっぷり乗せたピザ。スタンダードなマルゲリータはモッツァレラチーズが惜しみなく乗っていて、分厚いピカタはレモンを多めにかけると最高だった。パスタも数種頼んでいるが、どれも外れがない。
「でもメニューが多くて今日だけじゃ制覇ムリだな。今度は酒メインで夜に来ようぜ」
「とても賛成です!」
「あ、写真撮るぞ」
そう言って、ライアンは愛用のカメラを取り出し、料理を頬張る彼女を何枚か写真に収めた。
先日のパパラッチ釣り事件をきっかけにオファーが来て、R&Aは、ネットでグルメ情報コーナーを持つことになった。
ふたりが行った店のうち、おすすめの店を写真付きで紹介するというコーナー。ライアンがカメラマンも兼任してはいるが、実質いつもどおり食事に行っているだけで、仕事という感覚はあまりない。だが確かに半分は仕事なので、記事にした店での代金の半分は経費で落ちるようになったし、仕事半分だからという建前で、ゆったりランチが楽しめるようになった。
個人スポンサーと契約し私服をそのブランドで固めるなど、趣味と実益を兼ねる有意義を普段から歓迎するライアンである。ガブリエラも「一殺二鳥というやつですね!」と覚えたてのことわざを得意げな顔で間違えて発し、こうして快く受けることになった。
しかし台本のない、プライベート感のあるゆるいトークとライアンの写真、また食事量の多さに比例した情報量の多さはなかなかの評判だ。宣伝はさほどしていないのだが、口コミで購読者が増え、有料配信サイトである上に不定期であるにもかかわらず、今ではかなりの人気コーナーになっているらしい。
「ライアンの写真も撮らなければ」
「カメラ貸すか?」
「大きいカメラは難しいので、電話のカメラで撮ります!」
そう言って、ガブリエラは通信端末に付いたカメラで、ライアンの写真を何枚か撮った。そのまま彼女が端末を渡してきたので見てみると、それなりに上手く撮れている。ちゃんと料理とライアンにピントを合わせているし、ライトの位置も意識されていた。
少なくとも、以前キースたちと公園に行ったときに撮らせた写真と比べると、確実にレベルアップしていた。といっても、彼女独特のどこか不思議な構図は健在である。
「おっ? 割と上手いじゃねーか」
「折紙さんやカリーナにコツを教えていただいて、練習しました。ライアンはどうやっても素敵ですが、できるだけ格好良く撮りたいですので」
「いい心がけじゃねーか」
「えへん」
「……へー、ズーム弱いけど、明るく撮れんのはいいな。軽いし小さいし……」
俺もそろそろ端末変えよっかな、と言いつつ、ライアンはガブリエラの端末で自分も何枚か写真を撮る。
その後、ヒーローたちの来店に気付いた客とあえて軽くコミュニケーションを取って騒ぎにならないようにしたりしつつ、ふたりは楽しく食事を進めていった。
「……なあ」
「はい?」
「そのメット、邪魔じゃねえ?」
ライアンが見ているのはガブリエラの顔、ではなく、頭だ。正しくは、彼女がかぶっているホワイトアンジェラのヘルメット。
「お前、最近俺と出かける時はずっとそれかぶってるだろ」
彼の言う通りだった。最近ガブリエラは、ライアンと行動する時は常にホワイトアンジェラのメットをかぶっている。口元が開いているのもあって、こうして食事をするときでさえかぶったままだ。
なぜならもうこのシュテルンビルトにおいて、R&Aは有名になりすぎた。そしてゴールデンライアンは顔出しヒーローだが、ホワイトアンジェラはそうではない。ライアンと一緒に歩いている、ひどく細身の長身で特徴的な声の女性となると、どうやっても正体を察してしまう。
そのため、ガブリエラはこうして最初からメットをかぶり、ホワイトアンジェラとして外に出るようになった。
もちろん、既に顔を見せている面々しかいないところや、単独行動の時は外している。しかし彼女は基本的にひとりでいることがあまり好きではないし、できるかぎりライアンにくっついていようとするので、結果的に彼女はほとんどの時間、このメットをかぶって過ごしているのだった。
「大丈夫ですよ! パワーズの方々が、とても軽く、蒸れないように作ってくださいました。本当に蒸れないですし、かぶっているのを忘れるほど軽いのです。あと私は強い日差しが得意ではないので、サングラスがわりになってむしろ助かります」
「あー、色素薄いとそうだよな。俺も……って、そういう機能的なところもだけどよ。メンタル的な話だよ」
ライアンは、切り分けたマルゲリータを頬張ってから言った。
「メンタル?」
「仕事とプライベートが分けられなくなるだろ、そういうやり方だと」
「はあ」
ガブリエラは少し首を傾げ、残り少なくなった皿の上のパスタをフォークでかき集める。
「確かに、そうですが。しかしライアンもそうでしょう?」
「俺はいいんだよ、好きで顔出ししてんだから」
ヒーローという、単なる芸能人よりも特殊な準公人の立場。
それを素顔のまま行うということはつまり、街を歩けばゴールデンライアンだとすぐに気付かれ、一挙一動に目を向けられ、声をかけられ、サインを求められるということだ。しかしライアンは、そのことを誇らしく思いこそすれ、煩わしく思ったことはない。
これは誰もに、具体的にはミュージシャンや俳優の知人友人、また同じ顔出しヒーローであるバーナビーにさえ驚かれることでもあった。誰もが、ふと自分のプライベートのなさに疲れやストレスを感じるというが、ライアンはそれを感じたことが全く無い。
むしろ、普段も顔を売らずにいるのはもったいないと、個人でアパレルブランドとスポンサー契約を結び、街歩きの時でさえ広告塔の仕事をこなしているほどだ。
プライベートの時間まで切り売りをして辛くはないのか、とよく聞かれるが、ライアンとしては、むしろプライベートと仕事を分けるほうが窮屈で面倒だった。ライアンは常にライアンであり、キャラを作ることもなく、自然体であるからだ。
トイレや風呂の時間まで公開してるわけじゃねえし、とけろりとライアンは言うのだが、いまだかつて同意を得られたことはない。
しかしライアンはこの仕事が好きで、天職だと思っている。
有名になることはいいことで、パパラッチに追いかけられるのも別にストレスにはならない。言いたくないことがあれば楽しくおちょくったり、ユーモアで煙に巻いてしまえばいいし、そのほうが大衆の受けもいいことは既に証明されている。
街なかで声をかけられた時も、プライベートだからと振り払ったり、他人のふりをしたことはいちどもない。その結果、今では“ゴールデンライアンはファンに優しい”とか、“神対応ヒーロー”とか、“ファンサービスの最高峰”とまで評価されている。
ライアンはそれを誇らしく思っているのだが、同時に、同業者からの評価は総じて「よくやるよ」であるし、それこそプライベートで付き合うことになる人間──すなわち恋人となった者からは、「信じられない」とよく言われるのも事実である。
映像の中のライアンと、実際に接するライアンに、違うところはひとつもない。
ファンや大衆にとってそれはとてもいいことなのだが、恋人ともなると違うようだ。自分は何ひとつ特別ではないと言われているような気がする、とは、ライアンがかつての恋人たちに実際に言われたことであり、当時の別れの理由でもあった。
「ほら、タイガーのおっさんとかさ。あのヒト好きで顔出ししたわけじゃねーから、すげーうんざりした感じだろ。ま、おっさんはプライベートどうこうってより、ヒーローは正体不明なのがいいとかいうロマンが壊されたってので不満がってるっぽいけど」
「ああ、そうですね。本名もばれていますし」
「だから、お前はどうなのって話だよ。ガブリエラじゃなくて、アンジェラでずっと過ごすってのはさ」
「そうですね。確かに少し面倒です」
「……面倒?」
思っていたのと違うコメントが返ってきたので、ライアンはぽかんとした。
「はい」
「えーっと、声かけられるのとか、サイン求められたりするのがってこと?」
「いえ? それはむしろ嬉しいです」
ガブリエラは、残っていたパスタをすべて食べてしまってから、言った。
「ガブリエラも、アンジェラも、どちらも私ですので」
けろりと言った彼女に、ライアンは目を見開いた。
「むしろ私も顔出ししたいです。ガブリエラとアンジェラを分けなくてもいいなら、とても楽です。顔を隠すのは面倒」
「……そう?」
「はい」
「……顔出しすると、いよいよなくなるぞ? プライベート」
「はあ。しかし、トイレやお風呂の時間まで見られるわけではないのなら、別に」
その言葉──さんざん自分の口から発してきた言葉が彼女の口から出たのを聞いて、ライアンは一瞬目を見開き、そして噴き出した。ガブリエラが、首を傾げる。
「なぜ笑いますか?」
「いや、いや。……あー、まあそうだよな。どうしてもひとりになりたきゃ、鍵かけて自分ちに篭ってりゃあ、さすがにカメラも何もねえしなあ」
「……そうですね?」
やはり笑いながら言うライアンに、ガブリエラは反対側に首を傾げる。先ほどから、何を当たり前のことを言っているのだろう、というような様子で。
「そうだな。お前はいつでもお前だよな」
だからこそ、素顔でもすぐ正体がバレそうだから、となるのだ。それほど彼女は個性的で、そしてどんな時も変わらないということは、いま誰より彼女と共にいるライアンこそよく知っている。
「そうですよ。私はそんなに器用なことはできないのです」
その点、折紙さんやカリーナのことは尊敬します、とガブリエラはしみじみと言った。両名とも、テンションの高いイロモノキャラ、女王様キャラと、メディア用のスタイルを作って演じているタイプである。
もちろん、それはそれでひとつのあり方だとライアンも思っているし、尊敬もしている。自分には出来ないことだ、ということも含めて。
「確かになー。あれはあれでプロって感じだよな」
「そう思います。……実は、ケルビムの皆さんにも何度か心配されました。ずっとアンジェラでいて疲れないか、と。しかしシスリー先生のカウンセリングでも問題はないと言われましたし、エンジェルウォッチのストレス値が平均より低いので、安心していただけたようです」
「あー、そう……」
一流の医者の診断でも数値的にも全くストレスを感じていないことが証明されていると聞いて、ライアンは呆れ半分の笑みを浮かべた。
「はい。それに、ライアンも、いつもライアンですね。私はそれがとても好きです。……今思えば、それがあなたを好きになったきっかけかもしれません」
ガブリエラは、とうとう、最後のピザを食べきった。
「……どういうことだ?」
「初めて会った時──あの公園で。サインをしていただいた時です」
「ああ」
ガブリエラ、と名乗った彼女が、アンジェラだと知らなかったあの時のことだ。寝室に飾っている例の写真を思い浮かべながら、ライアンは相槌を打った。
「メトロから救出していただいた時のこと、ぼんやりとですが覚えています。あなたはとてもきらきらしていて、私はあなたを天使かと思いました」
「……実際、“天使かと思った”って言ってたぞ」
「えっ、本当ですか?」
「おう」
穏やかに頷きつつも、ライアンは、あの時のことを思い出していた。
信じられない程軽い、毛布にくるまれた塊。筋肉も脂肪もなく、肌が直接骨に張り付いているかのような、死体、しかもミイラではないのかというほどの様相。──正真正銘、死にかけていた彼女。
当時はただ驚いてその様を見、仕事として迅速にレスキューに彼女を運んだ。しかし今ライアンは、目の前の彼女がまたあんなことになったらと思うと、心の底からぞっとする。そしてその気持ちから意図的に目を逸らし、今している会話に意識を戻した。
「天使ね。ま、羽根ついてるしな」
「それもありますが、そうではありません。きらきらしていたのです」
「ヒーロースーツが?」
「それもです。それもですが──あなた自身が。とてもきらきらしているのです」
うまく説明できませんが、と、彼女は少し悔しそうに言った。
「とても印象的でした。ゴールデンライアンが助けてくれた、と後で聞いて、私は病室であなたの映像をたくさん見ました。あのきらきらした人は、どんな人なのだろうと」
ちなみに、ライアンが最初にシュテルンビルトにやってきて、バーナビーとコンビを組んで活動した数カ月の間、彼女はゴールデンライアンのことをあまり知らなかった。
その頃はガブリエラも環境の変化が激しく、初代のバイクが壊れたりと大変な時期で、ゴールデンライアンのことを詳しく知る機会がなかったからだそうだ。
元々彼女は男性ヒーローにあまり興味がなかった上、当時もっとも好きなヒーローであったファイヤーエンブレムが昏睡状態になったことで、その情報ばかり追いかけていたせいもある、という。
「とてももったいないことをしたと思います」
ガブリエラは、本当に残念そうに言った。
「しかし入院中は暇で、時間がたくさんありました。その間、ほとんどあなたの映像を見ていた気がします。映像のあなたはすべてとてもきらきらしていて、とても素敵でした」
「……ふーん?」
「それまで私にとって、ファイヤーエンブレムが最も好きなヒーローでしたが」
彼女もとてもきらきらしています、と、ガブリエラは言った。
「あの日、あなたに会って、完全にそれが変わってしまいました。あなたは素顔のままでも、映像の中とまったく同じようにきらきらしていました」
「きらきら……ねえ。まあ、わかんねーでもないけど。オーラってやつ?」
いつもの調子でライアンは言ったが、どこか調子っ外れな様子になったことに、自分で少し驚いた。──褒め言葉や好意に照れるなど、今までないというのに。
「私は、その人がどういう人か、“におい”でだいたいわかります」
その精度の高さはライアンも認める、彼女の特技。
「人間は、ヒーローや俳優などでなくても、皆、相手によっていくらかは態度を変えます。しかし、あなたはいつも変わりません。何も隠していなくて、ですのできらきらして眩しくて、どこを見たらいいのかわからなくなる。目移りしてしまって、しかもどこを見ても素敵で、とてもいいにおいがしてうっとりして、……そして、そのうちにすっかり好きになりました。つまり、恋をしたのです」
「恋」
「恋です。ネイサンによると」
カブリエラは、真剣な様子で頷いた。その声と表情を見て、ライアンは胸の中にぽっと灯るような熱を感じながら、その熱が消えないようにするかのごとく、そっと頷いた。
「変わらない……ねえ。まあ、よく言われるけど。テレビとおんなじだー、っての」
「そうでしょう。素敵なことです」
「……そう? 嫌じゃない?」
「なにがですか?」
心底不思議そうな様子で首を傾げる彼女に、ライアンは、どことなくぼんやりしたような様子で言った。
「……俺は、お前を特別扱いしねえだろ。こうして側にいても」
ライアンの長所は、誰にでも平等に接することだ。どんな大物にでも、道端で出会った子供にでも、変わらずタメ口で話しかける。
しかしその長所、すなわちカメラの前と全く変わらない態度で最も親しい存在であるはずの恋人に接したことで、ライアンはフラれた。白状すると、いちどや2度の話でもない。
「はあ」
ガブリエラは、ぴんとこない様子だった。
「それは、悪いことですか? ライアンは誰にでも親切で、優しいです。私にも親切で優しいです。それはとても嬉しいことです。むしろ、私にだけ少し意地悪だった時のほうが悲しかったです」
「ぐっ」
ライアンは、気まずそうに目を泳がせた。
「……悪かったよ」
「いいえ、もう気にしていません。それに、今は怒られるのも嫌いではないです。怒ったり、苛々しているあなたも素敵ですし、ふふ」
「このドM……」
「えへ」
引いたような様子でライアンは低い声を出したが、彼女は自身の言葉に違わず、へらり、とだらしない笑みを浮かべた。
「ええと、それで、何がいけませんか? 皆に平等で、しかも優しいのは、いいことなのではないのですか?」
「んー……」
そういうことじゃなくて、いやそういうことなんだろうか、と、ライアンとしては珍しく言葉が見つからず天を仰ぐと、ガブリエラは続けた。
「私はいいことだと思います。それは、ライアンにしかできないことですので」
その言葉に、ライアンは、再度ガブリエラを見た。
「誰にでも親切で優しいのは、誰にでもできることではありません。特別なことです。そして、カメラの前で格好良くて、カメラがなくても格好良いのも、すごいことです。ですのでライアンはとてもすごい。とても素敵なことです」
とてもですよ、と続けるガブリエラは、どこまでも真剣な様子だった。
「……まあ、俺がナンバーワンでオンリーワンなのは確かだけどよ」
「そうですとも。そして、そんなライアンと食事ができます。しかもパスタを半分こしていただけます。とても特別! スーパーでスペシャル! 私はとても嬉しいです! ライアンと一緒にヒーローが出来て食事も一緒にしていただけるなど、世界でひとつだけの幸運です。毎日ハッピー。ホルモンどばどば」
「どばどば言うな」
「脳汁ぶしゃー?」
「どこで覚えた」
折紙か、とライアンが半目になる。
「ライアンがいつもライアンであることが、私はとても好きです」
ガブリエラは、まっすぐにライアンを見た。
「ですので、今はそれでいいです」
「今は?」
「私も、……特別に、なりたいです。いつかは」
ガブリエラは、目を細めて微笑んだ。あの夜、あなたを愛していると言った時と同じ顔。
「私の気持ちは変わりません。あなたの輝きが変わらないように」
「変わらない?」
「変わりませんとも。そう、──方角を示す星のように」
ガブリエラのその声こそ、揺るぎなかった。その絶対的な真っ直ぐさに、ライアンはつい息を飲む。
シュテルンビルト。この街に来た時、ガブリエラはあの星を頼って旅をした。数えきれないほどの満天の星空の中、最も強く輝く星。友を失い、誰も居ない荒野でただひとつ、常に自分を導いてくれた輝き。
ライアンを見る度にあの星を思い出すのだと、ガブリエラは真剣な様子で言った。
その、まっすぐに見上げてくる、灰色の目。拾い上げて欲しいと希うようなその輝きこそ星のようで、ライアンはつい手を伸ばしそうになる。天にいるのはどちらの方か。重力の方向、引力。天地がわからなくなりそうなほど、頭がくらくらする気がした。
「……ふーん? お前にしちゃあ、上等なリリックじゃねえの」
「えっ、そうですか!? ロマンティックでしたか!? ぐっときましたか?」
「あー、うん、……割と?」
「褒められました! 今日はいい日ですね!」
やったー、と単純に喜ぶ彼女に、ライアンは、複雑な思いで微妙に目を逸らす。
酒を飲んだわけでもないのに、なんだか耳の裏あたりが熱いような気がする。それを誤魔化すように、ライアンは黙って自分の頭を掻いた。