ピピピピ、と、小鳥の声のような小さな電子音で、ライアンは目を覚ました。
枕元に置いた端末を片手で鷲掴みにして、顔の前まで持ってくる。欠伸を噛み殺しながらデジタル表示の時間を確認して、のっそりと身を起こした。
基本的には目覚ましなど使わず好きな時間に自然に起きるのだが、今は“ヒーロー事業部アドバイザー”という役職もある雇われの身で、スケジュールも詰まっている。しかしきちんとキープした睡眠時間のおかげで目覚めは悪く無く、すっきりとしていた。
ふわぁ、と、それこそ大型の獣のような大きな欠伸と伸びをしながらベッドを出る。上半身は何も着ず、肌触りの良いラフなボトムだけ履いたスタイルのライアンは、寝癖のついた金髪を掻き上げながら、裸足でのしのしと洗面所に行った。スリッパもどこかにあるはずなのだが、数日前から見ていない。
洗面台の大きな鏡に映った顔は少し浮腫んでおり、金色の髭がうっすらと生えている。何より寝癖が笑えるほどひどい。量が多くて癖がつきやすい髪は、どうしても寝起きに爆発するのだ。毎朝のことではあるが、ライアン・ゴールドスミスが1日のうち唯一、若干イケていない貴重な時間だった。
すぐに冷水で洗顔し、マッサージをしながら浮腫を取り、髭を剃る。水で濡れた手櫛で寝癖を押さえ、顔を拭いたタオルをそのまま首にかける。体を解すために軽くストレッチをして、洗面所を離れた。
冷蔵庫を開けると、卵がひとつと、ミネラルウォーターのボトル。水をボトル半分ぐらい飲んでから、コップに卵を割り入れる。卵は完全総合栄養食だ。生卵に抵抗がなければ、こうして調理を省くことも出来る。時間がないときや、食べるのが面倒な時はカロリーバーなどではなく、卵を食べるようにしている。
いつもはそのまま飲み込むのだが、今日は冷蔵庫の奥から、小さな黒いソースボトルを取り出した。イワンから先日教えてもらって買った、なんと生卵用の“ショウユ”である。なんでも彼は、炊いた米に生卵をかけ、ショウユを混ぜて食べる“
タマゴカケゴハン(TKG)”なるオリエンタルのソウルフードにはまっているらしい。
そして自分もよく生卵を食べるという話をしたら、この生卵専用のショウユを教えてくれたのだ。
「えっ、なんだこれ。うまっ!」
ショウユを垂らした生卵の美味しさに、つい声が出た。ほんの少しこのソースを垂らしただけなのに、劇的に美味い。これは良い物を教えて貰った、と満足するも、間の悪いことに、卵はひとつしかなかった。
仕方なく卵の殻を生ごみ用のダストボックスに入れ、コップを水で簡単にすすいで、備え付けの食洗機に突っ込む。
次に野菜室を開け、鮮やかな青い葉の野菜を出して何枚かちぎり、濃い色の小さい人参、既にばらしてあるスイートコーンを少量調理台の上に置いて、ライアンはキッチンを離れた。
「Good morning、モリィ」
いちばん小さい部屋の半分を占めて設置された、巨大なケージ。その中にいるグリーンイグアナの緑の肌を撫で、挨拶をする。こうして触れてもその身体は微動だにしないが、爬虫類独特の瞳孔をした目が、ちらりとこちらを見た。彼女は今日もクールだ。態度も、体温も。
ケージを開けたライアンは、ゆったりした厚手のパーカーを素肌に羽織り、フードをかぶって、前面のファスナーを胸の途中まで引き上げる。鑑賞に耐え得るどころか金を取れるレベルの身体をしている自覚はあるが、だからこそ安売りして見せびらかすことはしない。
通信端末と数枚の紙幣だけをポケットに入れたライアンは、ケージからモリィを丁寧に抱き上げる。尻尾の先までだいたい180センチあるモリィだが、体重は5キロ程度。
モリィはいつもどおりライアンの肩に前足をかけ、尻尾を巻きつけてくる。ライアンは慣れた手つきで、彼女にストレスをかけないように作られた専用のリードを緑の体に装着した。モリィはとても淑やかな淑女だが、もしもの時を考えてのことだ。金色の小さなプレートには、ちゃんと連絡先が刻まれている。
最後に、愛用のカメラのストラップを腕に引っ掛ける。いつものサングラスをかけ、サンダルを履いて、ライアンは部屋を出た。
07:15
Take Molly out for a walk.
「うお、結構寒いな」
朝方とはいえ、薄着だと肌寒い気温。温かい環境を好むグリーンイグアナの体調を考えて、今日の散歩は早めに切り上げよう、と決める。
朝の散歩は、ライアンの日課だ。とはいえ毎日きっちり行っているというわけでもなく、雨風が強い時は行かないし、日差しが強すぎる時も同様だ。モリィがいる時はこうして抱きかかえて歩き、いない時はひとり。イヤホンで音楽を聞きながら歩くときもある。緩く、適当に、気が向いたら、こうして近所を散策するのだ。
ライアンは今まで色々な朝の街を散歩してきたが、シュテルンビルトの朝は人通りが少ない。駅や電車、高速道路や通学路などが人で溢れているこの時間、他の場所はこうして閑散としているというわけだ。顔が売れている自分がのんびり歩くには、うってつけの時間帯でもある。
海の見える、景観の良さが売りの立地。マンションの敷地のひとつである、公園の遊歩道をゆったり歩く。途中でぶちの野良猫とすれ違ったので、写真を撮ろうとしたら逃げられた。
──あいつがいれば、腹見せた写真も撮れるんだけどな。と、反射的に思う。彼女は能力の影響で動物に警戒されにくく、むしろ動物から彼女に寄ってくるところがある。
とはいえ、本人は動物を可愛いと思うと同時にしっかり食料目線でも見る感覚の持ち主なので、おとぎ話のワンシーンのように小鳥を指に止まらせながら「かわいい鳥ですね。おいしいでしょうか」などと言っていたが。
その時のことを思い出して少し笑いながら、敷地をぐるりと回る。すると、赤と白のストライプの幌を張り、折りたたみのテーブルの上にパックに詰めた各種惣菜やバゲットサンドなどを売っている、ロゴ入りのワゴン車が見えた。清潔感のあるエプロンを掛けた恰幅の良い男性が、商品を運んできたのだろう平べったいプラスチックのコンテナを重ね、ワゴン車の中に積もうとしている。
「おはよう」
「グッモーニン、ヒーロー!」
笑顔とともにユーモアのある挨拶が返ってきたので、ライアンは笑った。彼は、ここいらの高級住宅街御用達のデリカテッセンからの出張だ。単身ビジネスマン入居が多いがゆえ自炊率も低めのこの高級マンションと契約し、朝食を売りに来ている。
早朝ジョギング帰りに朝食を買って部屋に戻る者、片手で食べられるサンドを買って出勤途中に食べる忙しない者、昼の弁当代わりに買っていく者と様々だが、ライアンも割と頻繁に利用しているので、この男性とは顔見知りだ。
「モリィちゃんもおはよう。今日も素敵な緑だ」
男性が軽口を叩くと、モリィが目を細めた。まるで何もかもわかっているようなその反応に、ライアンもつい笑う。
「そうだろ。今年のミス・ワールド・グリーンも頂きだぜ」
ライアンが適当なことを言うと、男性が「そりゃすごい」と笑った。
パパラッチをおちょくり倒したあの時から、モリィも有名になった。ゴールデンライアンのペットのイグアナの名前はモリィ、としっかり皆に認識されたおかげで、ファンからのプレゼントも、モリィ関連や、モリィ宛のものが多くなっている。
「今日のメインは何?」
「今日はヘルシーめに、バゲットサンドはツナマヨとコーン、こっちはクリームチーズとアボカドのベーグルサンド! サンドイッチはいつものBLTと、たまごサンド」
「いっこずつ」
「ブロッコリーたっぷりの野菜スープもあるよ。デザートが欲しいなら、自家製のりんごヨーグルト。はちみつ入り」
「いいね」
ヨーグルトは、ライアンの好物のひとつだ。ショウユ入りの生卵のせいで増した食欲に任せ、ライアンはボリューム満点の量を迷いなく注文した。
慣れた様子で、注文通りの商品を鮮やかな手さばきで袋に詰めた男性に、ポケットから取り出した紙幣を手渡す。チップ代わりに釣り銭不要を告げると、髭を生やした顔でにっこりと笑顔を向けられた。
「まいどあり! じゃあオマケだ!」
男性はそう言うと、ワゴンに積んだサーバーからコーヒーを淹れ、液漏れ防止のふたをして渡してくれた。淹れたてのコーヒーの、いい香りがする。
「どうも」
コーヒーを飲みながら、ライアンはゆったりと部屋に戻っていった。
07:45
Breakfast & get ready to go out.
買ってきた朝食とモリィをリビングのソファに下ろしたライアンは、キッチンの調理台に放置していた野菜を手に取った。冷蔵庫で冷えていたそれがいい感じに常温になっているのを確認し、ペティナイフで適当に切り分ける。そして、専用のプレートに盛り付けた。
「朝食だぜ、モリィ」
グリーン、オレンジ、黄色。鮮やかな色の野菜が盛られたプレートに、モリィはすぐに口をつけた。
グリーンイグアナは幼体からずっと草食で、野菜や果物、花などを食べる。多くの爬虫類と同様に色を判別できる生態を持っているのだが、特に色鮮やかな餌をおおいに好む、という特徴がある。イグアナ用のペットフードも、色とりどりの派手な粒状のものばかりだ。見た目はまるで、小さな女の子がよく持っているおもちゃのビーズ。
食べるものの見た目の良さも気にする同居美女の欲するように、ライアンは毎日こうして色鮮やかな野菜のプレートを用意している。時々、栄養を考えてカルシウムやビタミンの顆粒をトッピングすることも忘れない。モリィは大人になりきっているが、概ね食欲旺盛な元気な個体で、今日もライアンが用意した朝食を夢中で食べていた。
モリィの隣で自分も朝食を食べながら、テレビをつける。ニュース番組を流し聞きしながら、ネットで株価をチェック。緊急のメールなどがないことを確認して、最後に天気。先ほど散歩で感じた寒さのとおり、今日から冷え込みが始まるらしい。
ボリュームたっぷりの朝食をぺろりと食べ終えて、包み紙などを適当に丸めてゴミ箱へ。モリィも食べ終わっていて、心なしか満足そうな様子で目を細めている。緑の肌を撫でて、空になったプレートを下げ、キッチンで洗い流し、また食洗機へ。
歯を磨きながら端末を立ち上げ、システムが今日のスケジュールを読み上げるのを聞く。
今までは、普通に画面の文字を追ってスケジュール確認をしていた。しかし文字を読むのが不得手なガブリエラが録音機能や読み上げ機能を活用しているのを見て試しに真似てみたところ、これがなかなか具合が良い。
読み上げ機能を使えばこうして同時にふたつ以上のことができるし、元々ライアン自身、文字を読むより、音で聞くほうが頭に入るほうだ。
スケジュールの確認終了と同時に口の中をゆすぎ、ウォークインクローゼットへ向かう。ふたつのブロックに別れたハンガーのうち、ひとつは個人スポンサー契約をしているブランドの服。もうひとつは、その他のメーカーのもの。
契約ブランドは元々お気に入りのところなのでどちらもライアンの趣味の私服だが、前者は半ば制服でもある。今日はクイズ番組の収録があるのでブランド感の強いものがいいだろうと、四角形を組み合わせたブランドロゴがそのままバックルになったベルトを、ケースから引きぬく。更にこのブランド独特のネックデザインのトップス、タイトなラインのボトムを選び出し、身に付ける。
どちらも、色は黒がメイン。更に今日は寒くなるというのも考慮して、ジャケットと、薄手の細いマフラー。最後に、ヘアワックスのケースを開けて髪をセット。いつものオニキスと金のピアス、ブレスレットや時計、サングラスなどのアクセサリーを装着。最後に靴下を履き、愛用のコロンを首元にワンプッシュ。
「──Perfect!!」
大きめの姿見に映った自分の姿に、ぱちんと指を鳴らす。このままピンナップ写真を撮られても、何の遜色もない完璧なスタイルだ。いつもどおり最高にイケている自分の姿に満足したライアンは、そのままターンしてウォークインクローゼットを出た。
尻のポケットに通信端末、ジャケットの内ポケットにはクレジットカード、少々の現金、名刺入れ、サインペン。外ポケットに、服と同ブランドのハンカチ。部屋の中を歩き回りながら必要な物を拾い上げ、身に着けていく。
最後にモリィを抱き上げて大きなケージに戻し、イグアナに必要な紫外線を多めに照射し温度を保つ、爬虫類専用のライトを点けた。
「じゃあな、ミス・グリーン」
リップ音をたてて投げキッスをするが、モリィはそれを完全に無視し、気持ち良さそうに紫外線浴をしているだけだった。相変わらずクールな彼女に肩をすくめ、ライアンはぴかぴかに磨かれた靴を履いて部屋を出た。
08:30
Go to the office & Experiment.
有事の際はすぐ駆け付けられるようにという終業規約により、アスクレピオスのオフィスは割と近所だが、歩いて行くのはさすがにのんびりが過ぎる距離だ。
自分の車を出してもいいのだが、いかんせんライアンの車は大仰である。かといって、混みあう公共機関を顔出しヒーローが毎朝利用するのも、トラブルの予感しかしない。そのため会社経由で話を通し、毎朝決まった運転手を指名して配車サービスを頼んでいる。
それにこのスタイルなら、車の中で簡単な朝食を食べたり、スケジュールや書類をチェックしたりすることも出来る。毎朝顔を合わせるため、顔見知り以上という感じの運転手は最近気を利かせてくれるようになっていて、手持ち無沙汰なライアンに朝刊を借してくれた。ありがたく、着くまで目を通して時間を潰す。
概ね新聞を読み終わる頃には、アスクレピオスに到着。同じく出社してきている社員たちに愛想よく挨拶をしながら、受付へ。
受付嬢たちはライアンを見るなり「おはようございます、ゴールデンライアン」と愛想よく挨拶をしてくれるが、形式上顔パスというわけにはいかず、生体認証をして社内パスを発行してもらい、ネックピースタイプのそれを首にかける。
「おはよう。アンジェラは?」
「もう出社していらっしゃいます。30分ほど前にアークの皆様と合流して社員食堂へ」
「そう」
じゃあそろそろ健康診断か、と当たりをつけつつ、ライアンは研究棟へ向かった。
「おっはよー」
「おはようございます、ゴールデンライアン」
「最終チェックしますので、その間にアンダースーツに着替えて。マイヤーズ主任に検診受けてください」
「りょーかい」
今日行うのは、アポロンメディアからライアン個人に所有権が移り、本格的にアスクレピオスに移動してきたゴールデンライアンのスーツのためのデータ確認である。
これから先、アスクレピオスのスタッフが新しくスーツを管理し整備することから、いっそアスクレピオス独自のバイタルチェックシステムや能力に関する機能なども盛り込もうと、改めて本人のデータを取ることになったのだ。
そのため、ここにいる白衣のスタッフたちは、ライアンのデータを取るための医療チーム・ケルビムと、ヒーロースーツを担当するチーム・パワーズのメンバーである。
ライアンは動き回る白衣の群れを抜け、言われたとおり簡素なロッカールームに入り、あれほど気を使って整えた身なりを解き、下着まで全て脱ぐ。
こうしてすぐに着替えなければならないのをわかっていながらちゃんとキメてきたのは、ひとえに彼のプロ意識にほかならない。自分はいついかなるときもイケてるヒーロー・ゴールデンライアンでなければならないと思っているし、そんな自分がいちばん好きだからだ。
用意されていたビニールパックを破いて、中に入っていたラバーのような質感の黒い塊を取り出した。ヒーロースーツを装着するとき下に身に着ける、アンダースーツである。
超伸縮性のある特殊素材でできたそれに、厚みのある身体を押し込む。色々な微調整をしてから腰のところについているボタンを押すと、肌とスーツの間の空気が抜け、ぴったりと肌に貼り付いた。おかげで、見事な筋肉の隆起がくっきりと浮かび上がる。
着ていた服をロッカー内のハンガーにかけ、また別の部屋へ。
磨りガラスのついたパーテーションの向こうには、眼鏡を掛けた中年の医師が待っていた。
「やあ、おはようヒーロー」
「おはよう、ドクター」
人の良さそうな笑顔でライアンを出迎えたのは、ケルビムのダブル・リーダーのうちのひとりにして、ライアンの主治医、ルーカス・マイヤーズ医師である。
彼もまたシスリー医師と同じくNEXT医学の権威と言われているが、その本領は、脳科学者としての能力の高さによるものだ。
脳科学とは、生物の脳と、それが生み出す機能について研究する学問分野である。視覚や聴覚認知などの感覚入力の処理、記憶、学習、予測、思考、言語、問題解決など高次認知機能、情動などを科学的に分析する。
つまり、脳の働きをあくまで物質としてとらえて研究する分野といえる。例えば感情の動きを脳波や電気信号としてパターン化したり、精神病を脳内の特定のタンパク質の変質としてとらえることで投薬治療を可能にするなど。
NEXT能力は脳ととても密接な関わりのあるものなので、NEXT医学の医師はまず脳の専門家でなくてはならない、というのは常識だ。
そして彼は脳科学の中でも特に神経科学、更に分類すればシステム神経科学を専攻している。大雑把に言うと、脳の働きを神経によるコンピューターのようなシステムとして研究し解明していく分野である。
実際、彼はいくつかの精神病や認知症を投薬や手術で改善させる方法を明らかにしており、それは世界的に見ても素晴らしい発見だった。
ルーカス医師の実力は確かで、彼が主治医になり、専門家目線で自分を色々と調べてもらった結果、ライアンも初めて知ったことがたくさんあった。
才能と有能を何より重視するライアンは、彼にかなり重い一目を置いている。できれば、ぜひ将来もこのまま主治医でいて欲しいと思っているくらいだ。
患者ひとりひとりとの対話と、それによる心理学的分析、臨床に重きを置く、あくまで“医師”の側面が大きいシスリー・ドナルドソン。逆に生体物質としての脳、現象としてのNEXT能力に科学的に向かい合う、“研究者”の様相が色濃いルーカス・マイヤーズ。
この双璧が同位のトップとなり、異なる視点をすり合わせ、また他の分野の医師の意見も取り入れながら世界最高峰と言って過言ではない研究を可能にするチームが、このケルビムなのである。
「アンジェラは会議かあ。僕もそっちが良かったなあ」
「おい」
「チームが違うと、こんなに会う機会が少ないとは……」
はあああ、と、ルーカス医師は特大のため息をついた。ダブルリーダーを採用しているケルビムだが、ヒーロー活動中のホワイトアンジェラのモニターや患者の診断を主に行うチームはシスリー医師が主に監督し、アスクレピオスに篭ってヒーローふたりのデータ解析や能力の研究などを行うリーダーはルーカス医師、というような役割分担がぼんやりとある。
そしてそれぞれのリーダーが主治医であるために、必然的にガブリエラはルーカス医師に会う機会が少ないし、ライアンはシスリー医師に会う機会が少ない。
「たまにはこっちに顔出すように、ゴールデンライアンからも言ってよ。取りたいデータもあるし。美味しいお菓子も用意しておくから」
「あんた、本当にあいつのファンだな」
ライアンは、呆れたように言った。
「そりゃあもう。いやはや、こうしてケルビムのメンバーになれるとは、本当に光栄だよ」
「チーフ、前からめちゃくちゃアンジェラファンですもんね」
比較的若いケルビムのスタッフが、茶化すように言った。
彼、ルーカス・マイヤーズ医師が筋金入りのアンジェラファンであることは、ヒーロー事業部の人間でなくても、アスクレピオスの職員皆が知っていることだった。
差別問題なども絡み、あらゆる分野の知識が必要となる為に専門家自体少ないNEXT科を目指すだけあって、彼はNEXT能力者に対し強い興味を示す。ライアンに対しても、その能力について非常に興味を示し、熱心に研究している。
しかし、救急医療スタッフとしてシフトが入っていたときに二部リーグ時代のホワイトアンジェラに出会った彼は、それ以来、彼女を天使だ聖女だと崇め、熱烈なファンになっているのだ。
「このチームに、アンジェラのファンじゃない奴がいるなら即刻言い給え。クビだ」
ルーカス医師は、にやりと笑って言った。
「おお怖。安心してください、みんな筋金入りの信奉者ですよ」
「それなら結構。──ホワイトアンジェラほど、ヒーローらしいヒーローはいないからね。いや、ヒーローというよりは、聖人……天使……」
「……なあ。そろそろ仕事してくんねえかな」
「おっとすまない、ついね」
陶酔するような様子で呟いていた彼は、コホンと咳払いをし、座っていた椅子をくるりと回した。彼のネクタイの結び目付近で、星のついた小さな十字架がきらりとする。
「まずは問診、といっても今更だけども」
ルーカス医師は、茶目っ気を含ませた態度で肩をすくめた。ビタミン剤から風邪薬に痛み止めまで、必要な処方箋はすべてアスクレピオスが対応するし、週にいちどは健康診断、月にいちどは尿や血液まで採取して徹底したチェックを行っている。
「昨夜、アルコールは?」
「飲んでない」
「僕達以外から薬を貰って飲んだりもしてないね?」
「ノー」
「食生活で変わったことは? プロテインやサプリをがぶ飲みしたとか」
「アンジェラじゃあるまいし」
「何よりだよ。じゃあ前回の問診から、性交渉は?」
「してない」
「イケメンの持ち腐れだなあ」
「余計な世話だ」
問診で余計な、しかも割と失礼なことを平気で付け加えるあたり、彼が医者というより研究者であることがよく分かる。自分が妙に一癖ある変人と縁ができやすいことを実感しながら、ライアンは下顎を突き出してブーイングをした。
「お気の毒だけど、もしする時はスキンね」
「わかってる」
「相手がアンジェラの場合はどうなるんだろうなあ。彼女なら、病気の心配はないのは太鼓判だし」
研究者独特の無神経さを存分に発揮しながら、ルーカス医師は問診票を打ち込んだ。
ここ数十年で、避妊の方法は女性が避妊薬を服用するやり方が一般的になった。
しかし、男性器にかぶせるスキンタイプの避妊具も、未だに現役ではある。避妊だけなら薬でもいいが、病気の予防となると、やはりスキンを被せる方法が何よりも確実であるからだ。
そしてだからこそ、夫婦間や親密な恋人同士で避妊具を用いることは基本的にないし、使ってくれというのは貴方を信用していないことと同義、という風潮もある。
それを踏まえて、所属企業にもよるが、ヒーローとして活動する就業規約の一部、健康維持の一環として、男女とも正式なパートナーでない相手との性的接触の際は必ずスキンタイプの避妊具を着用すること、という項目があることが多い。
アスクレピオスもそうだが、ライアンが今まで所属した企業も、ほとんどこの義務が課せられていた。──健康維持の一環としての病気の忌避、そしてスキャンダル防止として。
またこの規定は、ヒーローたちの晩婚化を招く要因でもあった。何しろ一般的に避妊具を使うというのは、相手の病気を疑っている、ともとれる。
事情はわかっていても気持ちが納得できず、一般人の恋人と破局してしまうヒーローというのは、“あるある”なのだ。かくいうライアンも、これが原因でガールフレンドに振られたことが何度かある。
そして理解を得られて事に及べたとしても、薄い膜を隔てての行為はお互いにいまいち気分が乗らず、結局別れの原因になった。
そのため、この避妊具の着用義務というのは、ライアンにとって、ヒーローをやっていくにあたっての最大かつほとんど唯一の不満でもあった。必要だということもわかっているのだが。
「じゃあそっちのスキャナー入って。終わったら実験室ね」
「はいはい。じゃあ頼んまーす」
非常に軽い調子で、ライアンはひらひらと手を振って、寝転がるタイプの全身スキャナーに腰掛けた。
スキャナーでオール・ブルー、全て異常なしの結果が出たライアンは、立ち上がり、そのまままた違う部屋に向かった。
身近なところでは飛行機、またはSF映画に出てくる宇宙船内のドアを彷彿とさせる分厚いドアを何枚か潜って辿り着いたのは、白い無機質な空間。ただひとつだけ、デジタル表示の簡素なパネルが壁についている。
《──ゴールデンライアン。用意はいいですか》
「いつでも」
《了解。合図の音がしたらお願いします》
ライアンはその場にしゃがみ込み、片膝と、そして両手の手のひらを床につけた。目前のデジタル表示の端には、“Estimate:2.000G”と表示されていた。金の目が、青白く光る。
──ポォン。
「まずは、──どんっ、と」
そんな呟きとともに、能力が発動する。パネルに数字が現れ、“2.000G”の表示ぴったりに落ち着く。2.000G、すなわち通常の倍の重力を、ライアンが完璧に調整して発動させたということだ。
数秒それをキープすると端の表示が切り替わり、今度は“Estimate:1.020G”となる。体が重い、と人がはっきり感じる程度。微妙なその数値も、ライアンは完璧に発動させた。
その後、犯人を地面に這いつくばらせつつ内蔵や骨に負担をかけにくい4倍から6倍、建造物に確実に影響を及ぼす10倍から50倍。指示通りの重力を、ライアンは次々に、正確無比に発動させていく。
「ふー……」
高い集中力で強張った背筋を伸ばし、深く息を吐く。ぽた、と、額から汗が滴った。
見た目はただしゃがみこんでじっとしているだけだが、NEXT能力の発動は、確かにエネルギーを使う。ガブリエラのようにダイレクトにカロリーを消費する能力は稀だが、強大な能力ほど消費が多い、というのが最近の研究結果だ。
よって、強力な能力を持つ上に頻繁にそれを行使するヒーローは見た目以上に健啖家な場合が多いが、ライアンは特にその傾向が顕著である。
《完璧です、ゴールデンライアン》
「トーゼン」
スピーカーから聞こえる称賛の声に、ライアンは不敵な笑みを浮かべてみせる。
重力操作は、非常に危険な、具体的に言えば殺傷能力の高い能力のひとつだ。能力を完全に制御できている彼だからこそ、パレードでサービス代わりにシャボン玉が破裂する程度の重力を広げることも可能だが、全力でやれば、巨大な鉄骨を地中深くまで沈めることも出来る能力。人間などひとたまりもなく、あっという間にトマトのように潰れてまっ平らになってしまう。
そんな能力を持つライアンがヒーローになるために最も必要だったものは、正確無比な能力制御と、それを信用、信頼してもらうためのキャラクター性をアピールする営業能力、またコミュニケーション能力。
ライアンはそれらを天性の才能として持って生まれてはいたが、努力でそれを伸ばすことも怠らなかった結果、こうして見事ヒーローになった。そして今でも、こうして油断せず自分の武器を手入れしている。
つまりこの部屋は、アスクレピオスが航空宇宙研究所・オピュクスから技術を流用し用意した、ライアンの起こす巨大な重力にも耐えうる、特別設備なのだった。
この設備のおかげで、ライアンは以前より緻密な能力コントロールが行えるようになっている。いくらライアンが稼いでいるとはいえ、こんな設備を個人で用意することは出来ない。今までは、人体の密度に近づけたサンドバッグやウォーターバッグ、鉄骨やプレハブなどを用意しての練習が主だった。
しかも、人に迷惑をかけずにそれをするにも場所の用意が必要で、潰れてもいい廃屋や地質に影響があっても咎められない土地などを探して借りるのは、手間も金もかかって大変だった。
だがそれも、ライアンがゴールデンライアンというヒーローとして活動していくにあたって、必要な時間と経費、そして努力なのだと、誰よりライアン自身が考えている。
《では最後、徐々に強めて。フルパワーを計ります》
「え、マジで?」
ライアンは、目を丸くした。
なぜなら、彼は自分の能力の限界を知らない。普通に地上で能力を発動させたことは何度もあるが、常に人を、建物を壊さないよう、慎重に気を使った上でだ。むしろ、何も壊さない程度を見極めることばかりしてきた。
だから全力で形振り構わず能力を使ったことなどないし、その必要に駆られたこともない。
《限界を知るのは大事なことです》
「……ま、確かに」
最近、自分の限界を把握していなかったおかげで苦い経験をしたライアンは、神妙に頷いた。ボトル4本いけるからといって、5本でも酔わないとは限らない。
それに、ライアン自身、純粋に興味があった。
自分の能力の限界は、一体どれほどなのだろうかと。
「んじゃ、いくぜ」
どうぞ、とスタッフの声。
ライアンは一度深呼吸をし、能力を再度発動させた。いつになく、その目が青白い光を強く放つ。
──50倍、60倍、70倍……100倍、200倍……
ライアンの目の前の空間には、既にどんな生き物も生きていられない重力場が展開されている。薄っすらと青白く視認できる円状の空間に少しでも足を踏み入れたら、そのつま先は一瞬で地面と一体化してしまうだろう。
通常の重力のままの空間との落差が激しすぎる影響だろうか、ライアンは、自分の体が少し浮いたような気がした。実際、顔の前にひと房垂れた前髪が、ふわふわと浮いている。
──300倍、450倍、……500倍、600倍……
《……ゴールデンライアン! ゴールデンライアン、中止してください!》
「お?」
スタッフの引きつった声に、集中力を高めていたライアンは、ふっと能力発動を中断させた。途端、床についていた膝に自分の体重を感じる。前髪が、ふわりと鼻筋に落ちてきた。
《こ、これ以上は設備が保ちません》
「あらら」
《実際に、いまので幾つか故障箇所が見られます。続行は危険と判断しました》
硬い声。目の前のデジタルパネルにはいつの間にかひびが入っていて、最後に表示された数字はもうわからなくなっていた。
重力耐久設備を出て、汗を拭き、デオドラントシートでざっと体を拭いたら、元の服に着替える。アンダースーツは特別クリーニングケースに入れ、密閉してボックスへ。
身だしなみをチェックし、ジャケットの衿を整える。ふ、と小さく息をついてドアの前に立ち、2秒ほど間を置いてから、ノブを回して扉を開ける。
そして、ドアを開けて戻ってきたライアンに向かってきたのは、予想通りのものだった。
つまりは、動揺、驚き、感嘆。──更には、畏怖。じわりと滲む恐怖の色。
そんな顔色の面々を見て、ライアンは一瞬だけ目を細め、にっと笑顔を浮かべた。それはまるで、なにか面白いものを見つけて興奮した少年のような笑みだった。
「──っは! マジで設備壊れたのかよ、凄くねえ!?」
明るく軽やかなその声に、殆どの人間が、はっとしたような顔をした。
「なあ、最後の数字見れなかったんだけど。どんだけいってた?」
「え、ええと……612倍、ですね」
「ワーオ」
慌てて記録を確認する研究員に、ライアンは自分の顎に手を当てて、何度か頷いた。
「やばいな」
「……やばいですね」
真剣なようで、その分コミカルにも見えるライアンの様子に、研究員が笑みを浮かべた。それにつられて、他の者たちからも、ふわふわと笑いが漏れ始める。
「俺マジやばい。ティラノサウルスぐらいなら勝てる気がする」
「あはは。いやいや、この数字なら充分勝算はありますよ」
「だよなー!?」
パン、と手を叩いて指をさすと、確かに、飛行機とか落とせるんじゃないのか、などと、まるでお気に入りのアニメのロボットの強さを語るような、無邪気な声が聞こえ始める。
「──素晴らしいっ!!」
そんな時、バン、と勢い良くドアを開けて出てきたのは、ルーカス医師である。
その表情は満面の笑みで、目は興奮しきった少年のようにキラキラと輝いている。
「いやあ、素晴らしいよゴールデンライアン! ティラノサウルスどころか、宇宙怪獣が来ても君がいれば安心だな!」
わっはっはっはっ、と大きく笑うルーカス医師に、ライアンは一瞬目を丸くした後、こちらも悪ガキのように笑ってみせた。
「おうよ、任せとけ」
「頼もしいなあ! いやあ、こんなスーパーヒーローがうちのヒーローだなんて、嬉しいなあ! 誇らしいったらないよ。僕も頑張って研究しなければ!」
まずは新しい設備の立て直しだな! と意気揚々としている彼の後ろ姿を、ライアンは目を細めて見る。
(ドクターは相変わらずだけど、……まあ、ビビるのがフツーのとこだよなあ)
こういう変人は、変人だが、変人であるだけに、いわゆる普通の反応をしない。自分が変人なので、別の変人をむしろ受け入れるところがある。
世間的に、NEXTだというだけで化け物扱いされることは珍しくない。ヒーローになれるほどの強大な力の持ち主であれば、なおさらだ。
しかし、差別問題云々を抜きにして単純に、そして客観的に考えて。いくら訓練されているとしても、ひと噛みで人を殺せる巨大な獅子が目の前にやってくれば、腰を抜かして恐慌状態になるのは普通の反応だ、とライアンは考えている。
先程のスタッフたちの反応が普通で、ルーカス医師の方がおかしいのだ。
だがライアンは、それをどちらも受け入れている。
“普通”の人々に、自分は安全だ、友好的な存在なのだとアピールするにはどのようにすればいいのかということ、そしてルーカス医師のような“変人”と上手く付き合って助けて貰うやり方も、ライアンはちゃんと心得ている。でなければ今、ライアンはヒーローとしてここにはいない。
自分はちゃんと檻に入っているのだというアピールは、ただ皆と仲良くして、人気者として楽しくやるための歩み寄りであって、屈服でもなければ、プライドのない行為でもない。
だから、皆に受け入れてもらうために、妙な演技をしたりもしない。自由でいて仕事のデキる、カメラの前では俺様だけど、本質はヒーローらしいいいやつなんだぜ、というキャラクター。そんな飾らない本質をそのまま世間に受け入れさせるため、要するにこれからも自分が気を張らずに仕事をしていける営業努力の一環として、ライアンは人々と上手く付き合っていく工夫を欠かさない。
そして変人たちが自分を持ち上げるからといって、妙な選民思想に染まったり、卑屈な孤独感に酔ったりする愚行も犯さない。
自分に惨めなところなどひとつもないし、悲劇のヒーロー気分に浸るような青臭い思春期はとっくに卒業した。いくら才能があっても、努力を怠ればあっという間に転落するという現実の厳しさも理解している。
「安心しろよ。宇宙怪獣でも隕石でも、俺がなんとかしてやるからさ」
「頼もしいですね、ヒーロー!」
「任せとけって」
もう、ライアンに恐怖の滲んだ目を向ける者はいない。ちょっとどきどきしてはいるだろうが、それはすぐに自分の魅力によるものに変わるだろうという自信と確信が、ライアンにはあった。
──俺は、愛されるべき人間だ。
生まれ持っての人気者。自分はヒーローになるべくして生まれた男なのだとライアンは感じているし、信じている。
愛に飢えているというのとは、少し違う。ライアンは生まれてきてから両親に、家族に、友人に、恋人にペット、そしてファン、あらゆる人々に目一杯愛されてきた自覚がある。そして、彼はそれが大好きだった。尊いものだと感じてきた。愛されてきたからこそ、彼は常に多くの愛を得たいと考えている。
人は皆それぞれ愛されていてしかるべきであり、そして自分は特にそうあるべき存在なのだと。
ヒーローでありたい。
しかも特別格好いい、ナンバーワンのオンリーワン。キラキラ輝くスーパーヒーローが、ライアンの目指すものだ。
常に安泰で、余裕綽々、余計な力が入っていないスタイルが成せる、あらゆる意味でリッチな、人気者の俺様キャラ。それが自分の自然体だ。愛すべき、愛されるべき正しい姿だと、ライアンは確信している。
その完璧なスタイルを維持する為には少しでも怖がられるべきではないし、そして怖がられるのを恐れるべきではないこと、そして安易に怒ったり傷ついたりする必要もないのだということ。そして冷静さと努力することを忘れてはならないということを、プロの人気者、つまりヒーローであるライアンはよく理解していた。
「しっかし、故障したんじゃなあ。訓練はしばらくお預け?」
「そうですね。しばらくは、前みたいにサンドバッグとかで辛抱してください。あとは、重力場変形の練習とか。設備の用意は申請しときますんで」
「はいよー。ちょうどアポロンメディアからスーツ完全に引き取ってきたし、ヒーロースーツでも試してえな」
「あー、確かにそのデータは欲しいですね。スーツの制御の有る無しでどれだけか……」
「というか、フルパワーの数値でスーツの強度も見直さなきゃだろ」
「そうだなあ」
「重力場の変形実験するなら、新しくチーム組んだほうがいいか?」
それぞれ考え込み、プロの顔になった面々を、ライアンは密かに見渡す。脚の間に尻尾を挟んで震えている者がもういないことを確認したライアンは、高級なジャケットの襟を正した。
「ま、とにかく。次のはもっと頑丈なやつで頼むぜ」
「了解だ! 楽しみにしていてくれ! あっ、アンジェラへの伝言を忘れずに!」
「はいはい」
テンションの高いルーカス医師にひらひらと手を振って、ライアンは研究棟を出る。
「612倍、ねえ」
誰も居ない廊下で、ライアンは、手のひらを開いたり閉じたりした。
60キロの人間なら、約37トンの負荷。ここまでの力を出したことはあまりなく、メトロ事故のときに出した力が今のところ最大だ。あの時沈めた鉄骨は、もう永遠に抜かれることはないだろうと言われ、少しだけ頭を出した端のところを、もういっそ新しい名所にしようかなどという都市計画が出ているらしい。
「うーん」
自分の能力の限界は、一体どれほどなのか。実際限界に達しなくても、それに近いところを経験できれば、と思っていた。
「全然なんですけどー……」
612倍以上の、巨大な鉄骨を地中深くまで沈めた力。あの時の力とて、調整いらずで発揮したとはいえ、別に全力というわけではなかった。こんなことを言えば、せっかく打ち消した彼らの恐怖がぶり返しそうなので、言わないが。
「……朝飯、がっつり食ってきてよかった」
能力を使うと、腹が減る。
それに腹が減っていると気分も滅入るし、ろくな考えが浮かばないものだ。
ライアンはスーパーヒーローでありたいが、少年漫画の主人公のように最強になりたいというわけではないし、目一杯力を奮って暴れまわりたいわけではない。
それに悪人とて人間なのだから、トン単位の重さで潰れない奴もそうそういないだろう。宇宙怪獣や隕石がもし本当に来たら、その時はその時で考えればいい。
先程の朝食が既に消化されつつある腹具合を感じながら、ライアンは白い廊下を歩いていった。