「お前、夕飯食った?」
「カリーナのクッキーを食べました。あとマドレーヌをひとつ」
「そんなもん夕飯に入らねーだろ」
「ライアンは、パーティーでなにか食べましたか?」
「摘まむ程度にな」
「……何か食べますか?」
「おー、それで呼んだんだよ」
長めの信号待ちの時間、ヘルメット越しに篭った声で交わされたその言葉に、ガブリエラは笑みを浮かべた。フルフェイスのヘルメットのせいで、それを見る者は誰もいなかったが。
「飯食いに行こうぜ。夜食」
「はい、喜んで! 私も少しカロリーが足りなかったところです!」
面倒、とぐずった気持ちは吹っ飛び、いまガブリエラが思い浮かべるのは、夜もやっている軽食の店のラインナップだ。
「昼ほどがっつり食べたいって感じじゃねえんだけど」
「ではダイナーにしましょうか」
「ダイナー! いいね、そういや戻ってきてからいっかいも行ってねえし」
「決まりです!」
ガブリエラがそう言うと同時に、信号が青になった。
ダイナーは、シュテルンビルト特有のプレハブ式レストランのことだ。
その特徴は、幅広くリーズナブルなメニュー、特徴的な外観、気安い雰囲気、店内にカウンターがあること、深夜営業であること。
起源は、開拓時代に登場したワゴンでの移動式軽食屋。それが発展し、時代に添って、馬で引くもの、車で引くものなどが登場。あのマダム・ハングリーも、ダイナーでの炊き出し活動を主としていた。
そして近代に移ったのち、法律的な制約もあって移動式のダイナーはなくなった。しかしワゴンは今のプレハブに変化し、独特の内装のデザインだけが受け継がれて、チェーン店から個人経営のものまで様々なダイナーが今も多々経営されている。
ガブリエラが向かったのは、ブロンズステージのダイナーだった。駐車場にバイクを停め、きちんとロックとカバーを掛ける。
「お、レトロめなとこだな」
外観を見て、ライアンが言った。
ダイナーはシュテルンビルトを象徴する文化的な存在でもあるが、眠らない街の人々に手早く夜食を提供する、なくてはならない現役の施設でもある。よって、ビジネス街などに多い、近代的でとにかく回転が早い機能的なチェーン店のダイナーと、観光客の目も意識した、昔ながらのレトロな内装に気を使ったタイプの、個人経営のダイナーがあるのだ。
今回やってきたところは、いかにも古き好きシュテルンビルトを再現したような外観の、いかにも個人経営のダイナーだった。しかし店主が紹介を嫌がるせいでガイドブックに乗っていないため、穴場のダイナーである。
「何にする?」
「私はどれも食べたことがあるので、ライアンの食べたいものでいいですよ」
「そう? オススメある?」
「私はチキンポットパイが好きです。人気なのはハンバーガーか、チキンオーバーライス。しかし全て美味しいことは保証します。追加料金でポテトが増量」
「んー」
メニューを見るライアンを、ガブリエラはにこにこと眺めた。その表情はとても幸せそうで、いくら眺めていても飽きない、とありありと書いてある。
「ハイ、注文は?」
注文を取りに来たのは、腰回りがライアンの倍くらいありそうな体型にフリルのエプロンをした、中年の女性だった。いかにも無愛想な様子で、口元がブーメランのように曲がっている。
「こんばんは、マダム。チキンポットパイとパストラミビーフ入りのチーズバーガー、あとチキンオーバーライスをください」
「ハンバーガーはポテト増量で。あと最後にアイスクリーム」
「あっ、私も! コーラフロートで!」
ふたりの注文を手早く書きつけた女性は、特に返事もせず、さっさとカウンターに引っ込んでいった。ズシンズシンという重い足取りがプレハブの薄い床によく響いてくるのが面白くてライアンが少し笑うと、ガブリエラも子供のような笑みを浮かべていた。
「迫力のあるオバちゃんだな」
「良い方なのですよ」
メニューを制覇したせいで顔を覚えられているのだ、と、ガブリエラは笑った。確かに、ダイナー特有の膨大なメニューを制覇する者はなかなかいまい。
「二部リーグ時代はお金がなかったので、いちばん安いポテトフライばかり食べていました。しかしおまけでサラダをつけてくださったり、カロリー不足でへろへろになっていると、何も言わずにポテトを増量してくださったり。あとヒーロー免許の試験に合格した時にシンディとお祝いした時や、入院していてしばらく来なかった時は、ケーキをサービスしてくださいました」
「へえ」
「全く何もおっしゃらないのですが」
とても良くしていただいているのです、と、ガブリエラは微笑んだ。
「月にいちどか2度くらい普通のメニューを頼んで、何年かで半分くらいメニューを制覇したのです。そして一部リーグに上がって最初に入ったお金で、残りのメニューを全て頼みました。そうしたら、あれ」
ガブリエラが指差した先は、カウンターの上のメニュー表だった。しかしよく見ると、いちばん端の所に、なにか貼り付けてあるのが見える。スナップ写真だ。ガブリエラと、先ほどの女性が並んでいる写真。ガブリエラは笑顔だが、女性は相変わらずむっつりと不機嫌そうな顔をしている──が、手はふたりともピースサインを決めているのがおかしい。
「なんだあれ」
思わずライアンが笑うと、ガブリエラはにっこりした。
「メニューを制覇したら、マスターが撮って下さいました。マスターはマダムの旦那さん」
「夫婦でやってんの?」
「はい。マスターも良い方です。娘さんもいらっしゃいます」
すぐに運ばれてきた食事を相変わらずシェアして食べながら、ガブリエラが楽しそうに話すのを、ライアンはゆったりと聞いた。
「それでですね、ドミニオンズの皆さんに頂いたマドレーヌが、クイズの優勝賞品のケーキと同じお店のものだったのです! 偶然にも!」
「へー? 流行ってんのかなあの店」
ライアンが相槌を打つと、ガブリエラは、ぱぁっと輝くような笑みを浮かべた。やけに満足気なその表情に、ライアンが片眉を上げる。
「え、なに? そんな美味かったのかよ」
「ふつうに美味しかったです! 言いたかっただけです!」
「何だそれ」
ひたすらにこにこしているガブリエラに、ライアンは「わけわかんねえ奴だなあ」と苦笑した。
それからガブリエラは、色々なことを話した。このダイナーに関わるガブリエラの二部リーグ時代からの話、カリーナのクッキーの話。宣材写真でカメラマンに与えられた注文を、いかにして乗り切ったのかという話。
「リリアーナ? ああ、代表の娘ちゃんか。俺会ったことねえけど」
「そうでしたか? 彼女はとてもお姫様に詳しくて、色々と教えて下さいます」
「へー」
「ちゃんとノートもとっていますよ」
「は? ノート?」
ガブリエラは、真面目な顔で、ライアンに仕事用のタブレット端末を見せた。会議の記録と並んで、“お姫様講義”というタイトルのファイルが並んでいる。開くと“姫の心得”だの“美しいお辞儀の仕方”などと本当にきちんとノートが取られていて、ライアンはぶはっと噴き出した。
「リリアーナちゃんのお姫様講義を受けておいて、本当に良かったです。今度リリアーナちゃんにお礼をしなければ」
「お前このノート、代表にも見せてやれよ」
娘を溺愛しているダニエルのことなので、こんなものを見せられれば、きっと喜ぶに違いない。ライアンがそう言うと、ガブリエラは首を傾げた。
「そうでしょうか? ではリリアーナちゃんの許可が取れたら提出します」
くっくっと笑い続けているライアンに、ガブリエラはやはり真面目に頷いた。
「ライアンは、パーティーはどうでしたか?」
「うーん、特に面白い話はねえなあ。姐さんに会って、ちょっと話しして」
「ネイサン! スーツでしたか、ドレス!?」
「スーツとピンヒール」
「素敵です! 写真は撮っていませんか!?」
「あるある」
ライアンは端末を取り出し、撮った写真を見せた。写っているのはオーダーメイドの完璧なスーツに赤いピンヒールを履いたネイサンと、露出の多すぎない上品なロングドレスを纏った女性だった。
「あっ、この方……」
ガブリエラが、目を丸くする。ロングドレスの女性は、かつてライアンがガブリエラにクローゼットいっぱい服を買った店の、あのマヌカンの女性だった。
「おう。お前によろしくって」
「お元気でしたか?」
「今度店長になるってんで、張り切ってたぞ。冬物揃ったから見に来いって」
「冬物ですか。最近気温が下がってきましたが、今日などはぐっと寒いですね」
「おー、バイクだと結構冷えるわ。コート着るほどじゃねえけど」
「寒いですか? 大丈夫ですか?」
「風邪引くほどじゃねえから大丈夫」
「そうですか。気をつけてください、風邪は私の能力では治せませんので」
「……お前こそ、そのライダースーツ薄くない?」
「これですか? いいえ、確かに薄いですが隙間風も入ってこないですし、アンダーウェアに保温効果があるので温かいですよ! プロのライダーも使っているものだと、スローンズの皆様に教えていただいたのです。とても機能的」
「ふーん?」
それから、冬物の洋服のことや風邪の予防法など、とりとめのないことを話した。そしてそんな話をしている最中に頼んでいたアイスクリームが運ばれてきたので、言っている側から体を冷やしてしまった、と揃ってのうっかりに笑いながら、短い時間が不思議にゆったりと過ぎた。
「美味かった。ほんとに穴場だな、俺も今度から来よ」
「喜んでいただけてよかったです!」
店を出て、バイクのロックを外しながら言う。ライアンはガブリエラが取り出したヘルメットを受け取り、髪を掻き上げながら被った。
「んー、いまいち合わねえなあ、このメット」
「借り物ですからね」
「もういっそ買うか」
「えっ」
外れないよう、きつめにベルトを締めながらライアンが言い、ガブリエラはきょとんとした。
「お前の後ろ乗るとき、いちいちスローンズから借りてくるのめんどくせえだろ。形も合わねえし……よし、今度買おう。お前、どっかいい店知ってる? オーダーできるか、なるべく品揃えいいとこ」
「えっ、えーと、あ、はい」
「じゃあ今度行こうぜ。何色にしよっかな」
やっぱブルーにゴールドラインか、黒のほうがいいか……と考え始めたライアンに、ぽかんとしていたガブリエラは、じわじわと登ってくる笑みに口元を歪ませた。
──ライアンは、プライベートでバイクを持ってはいない。つまり、自分の後ろに乗るためだけに、彼はメットを買おうとしている。
「おい、何笑ってんだ」
「なんでもありません。メット、買いましょう。私も新しいグローブがほしいので」
「ん、スケジュールはこっちで見とく」
「お願いします」
そう言ってバイクに跨ったガブリエラの後ろに、ライアンも乗り込む。エンジンの音を響かせて、大きなバイクは直通エレベーターに吸い込まれていった。
「ではライアン、お疲れ様でした」
「おー、おつかれー」
「メットは明日返しておきます」
「サンキュ」
ライアンのマンションの前、バイクを降りた彼から、脱いだメットを受け取る。メットのせいで崩れた髪を、ライアンはぞんざいに掻き上げた。その仕草を、ガブリエラはうっとりと見る。
「あー……これな」
「はい?」
「やる」
ライアンが差し出したのは、ずっと持っていた花束である。そんなに大きいものではなく、女性でも片手で持てる程度のものだ。
「えっ、私に?」
「お前が何も言わねーから、渡すタイミング逃したわ」
「えええ」
ずいと差し出されたそれを、ガブリエラはあわあわと受け取った。
「つーか、普通聞かねえ? それ何、って」
「そ、そうでしょうか……?」
「男が花束持ってるって、なんか思うだろ」
「ええと……は、花束を持っていらっしゃる姿がとても素敵で……あまりにも似合っていたので、その、気にしませんでした……」
「……あっそう」
脱力したような様子で、ライアンは緩い笑みを浮かべた。
「格好いいな、とは思っていました! とても!」
「わかったわかった」
「それで、その、なぜ私に」
「……いや、なんか手違いで引き取り手がなくなってて。花屋が自腹買い取りだどうしよう、ってなってたからなんとなく。……あー、その、何だ。モリィの土産にもなるし」
「ああ!」
野菜やフルーツを主食とするモリィは、花も食べる。愛する彼女へのお土産にもらってきたのだというその理由に、ガブリエラはおおいに納得した。
「なるほど、モリィはこんなに食べられませんのでですね」
「……うん、まあ、そう」
うんうんと頷いているガブリエラに対し、ライアンの歯切れはいまいち良くないのだが、ガブリエラはそれに気づかなかった。
「ではモリィのぶんを分けなければ。どれがいいですか?」
「じゃあ、これ」
ライアンはモリィが好きそうな花を1輪選び出し、花束から抜いた。
「ああ、とても綺麗。それに、良いにおいです。ありがとうございます、ライアン」
「……おう」
花束の香りを吸い込み、嬉しそうに満面の笑みを浮かべたガブリエラに、ライアンはぶっきらぼうに頷いた。
「……花は好きか?」
「はい、好きですよ。名前などはよく知らないのですが」
「ん」
「しかし、枯れてしまうのがもったいないです。入院した時もたくさんお花を頂いたので少し食べてみたのですが、あまり美味しくはなかったです」
「おい食うな食うな」
腹壊すぞ、とライアンは半笑いで突っ込みを入れた。
「はい。ペトロフさんにも驚かれました」
「ぶはっ」
ライアンが噴き出した。
「ペトロフさんの驚いた顔は、今思うととてもレアですね?」
「レア中のレアだろ。マジかすげー見てえ」
「電子レンジで温めたりしてもだめでしょうか、と聞いたら」
「聞いたの!?」
「聞きました」
やべえ、と、ライアンは笑いをこらえながら言った。
「で? なんて?」
「“電子レンジで温めてもだめです”と、たいへん丁寧なご回答を」
「ぶっは!」
できるかぎり淡々とした低い声を出し、下手なモノマネを添えてきたガブリエラに、ライアンはとうとう腹を抱えてげらげら笑った。
そうしてひとしきり笑った後、はー、とライアンは大きく息をつく。
「お前は、ホンットおもしれえなあ」
「そうですか? よくわかりませんが、ライアンに喜んでいただけて何よりです」
ガブリエラが首を傾げると、ライアンはくっくっと笑いながら、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「えへへ」
遠慮のない撫で方が、ガブリエラには嬉しい。愛されているというよりは可愛がられているという感じだが、親密な触れ方。
彼の犬になったような心地でうっとりと目を細めていると、ふと、乱れた赤毛をライアンが直した。その指先がふと甘ったるくゆっくり動いたような気がしてガブリエラは驚いたが、すぐに離れてしまった指先に、気のせいか、と一瞬跳ねた心臓を押さえた。
「……じゃあ、また明日な」
「はい! また明日!」
満面の笑みを浮かべたガブリエラは、メットを被り、バイクに跨った。
ぶんぶんと力いっぱい手を振る彼女に、ライアンも小さく手を振り返す。ガブリエラが何度か振り返り、やっと大きなバイクに跨って走っていくのを見送ったライアンは、いち輪の花を片手に、自分の部屋に入っていった。
「ふん、ふん、ふふーん」
ご機嫌な鼻歌を歌いながら、ガブリエラはバイクをガレージに入れ、自分の部屋に戻ってきた。生体認証を解除して、玄関を開ける。
《オカエリナサイマセ》
「ただいま帰りました! いぇい!」
機械音声にも、愛想の良い返事。センサーで自動的に明かりがつき、空調が動き始める僅かな機械音がした。
「おれのブーツに! キスをしな!」
などと言いつつ脱いだブーツを揃え、スリッパに履き替え、更にくるりとターンしてから、その勢いでデイパックをベッドの上に放り投げる。
「どっどーん!」
どこからどう見ても浮かれた様子のガブリエラは、花束を持って洗面所に行った。
「んんん、いいにおい」
水色のセロファンの包装を丁寧に解くと、花の香りが広がる。ガブリエラは深呼吸をして、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
入院した時に看護師の女性から習ったとおりの手順で、花の処理をする。故郷にいた時からの愛用品であり手入れを欠かしていないナイフを使って、水を張った洗面台の中で、なるべく綺麗な切り口になるように気をつけながら、斜めに茎を切った。すべて切り終わったら、花を揃え、花瓶を取りに行く。
花瓶は、ファンからのプレゼントだ。入院中に受けたインタビューで、花をたくさん貰ったが花瓶がないので困っていると答えたら、翌日から早速花瓶がいくつか贈られてきたので、とても驚いた。
ガブリエラが持っているのは、その中でも装飾のない、透明な円柱型のシンプルなものだ。他の花瓶は申し訳ないが会社の備品として寄付し、ヒーロー事業部のオフィスで使われている。
花瓶を綺麗に洗い、水を張る。そこに、なるべく貰った時のようなバランスになるように、解体した花束を少しずつ丁寧に生けた。それが終わると、少し考えてから、外したセロファンを花瓶に巻きつけて、持ち手に結んであった金色のリボンを蝶結びにする。
納得行く出来に、ガブリエラは笑みを浮かべた。せっかくバランスを整えた花が崩れないよう、そろそろと花瓶を寝室まで運ぶ。そして、ファイヤーエンブレムの目覚まし時計が置いてある、ベッドの横の小さなナイトテーブルに置いた。しかし目覚ましを止めるときに花瓶を倒してしまうかもしれないと思い、少し考えて、目覚まし時計をベッドのサイドボードに移動させる。
「素敵です!」
華やかになった寝床におおいに満足したガブリエラは、花の写真を何枚か撮ってから、軽い足取りで寝室を出た。
向かったのは、バスルーム。今朝回した洗濯機から、洗濯物を取り出して畳む。浴室に吊るしたシルクのパジャマもきちんと乾いていてたので手に取り、適当なところに引っ掛けた。
最後に、今朝ベッドから剥いだシーツと枕カバーを取り出して空になった洗濯機に、靴下を脱いで放り入れた。裸足になったガブリエラは、バスルームに入り、給湯システムパネルの、バスタブにお湯を張るためのボタンを押す。驚くべきことにこのバスタブには自動洗浄機能が付いていて、ボタンひとつでお湯が溜められるのだ。以前はバスタブ自体無いアパートに住んでいたこともあり、ガブリエラはとても驚いた。
《10分後ニ、オ湯ガタマリマス》
機械音声がそう告げるのを聞いてから、ガブリエラはバスルームから出た。
シーツと枕カバーを持って再度寝室に戻ったガブリエラは、ベッドの上に放り投げたままのデイパックを持ち上げる。まずは中に入っている着替えの服を取り出し、ハンガーにかけた。汚れていないかをチェックし、少しにおいを嗅いでみた結果、殺菌消臭のスプレーを掛けてからクローゼットのフックに吊るす。もういちど着たらクリーニングに出そう、と決めた。
次に、トレーニングの時に着た短パンやTシャツ、使ったタオル。これは洗濯、と脇に避ける。その他、財布や身の回り品のポーチなど明日も持ち歩くものはそのまま入れっぱなしにして、ナイトテーブルの横に置いた。
持ち物の整理が終わるとライダースーツを脱ぎ、目立った汚れがないことを確認して、内側に再度殺菌消臭スプレー。これもハンガーにかけて吊るす。
そして先ほど洗濯機から取ってきた新しいシーツと枕カバーを広げ、ベッドメイクをした。適当に皺を伸ばし、シーツの端をマットレスの端に折り込み、枕を袋型のカバーの中に突っ込む。最後に、退かしていた掛け布団をどさりとその上に置くと、アンダーウェア姿のガブリエラは洗濯物を持って、今度はリビングに向かう。
空調が効いて淀んだ空気が入れ替わってきたリビングで、まずは7つのピアスを丁寧に外す。コレクションのすぐ近くに置いてある消毒液のボトルとコットンを手に取り、外したピアスを丁寧に消毒する。
「今日もありがとうございました」
ひとつずつ声をかけながら、壁にかけたケースにピアスを仕舞う。そして、左手首にあるエンジェルウォッチを外して、サーバ同期兼用の充電スタンドに置いた。残2150kcal、と医者に言われた通りの数字が表示されていることに、胸を張る。ライアンとの夜食のおかげで、明日の健康診断は完璧だ。
そして、右手首にある星のついた十字架を外して、壁のフックにかける。
ゆらゆらと揺れる十字架を手に取り、祈るように数秒だけ額に当てて、ガブリエラは踵を返した。
それから明日がリサイクルごみの日であることを思い出したガブリエラは、今朝開いて干したままだったミルクのパックとともに、溜まっていたパックの束を専用の袋に入れる。明日出すのを忘れないよう玄関先に置いた。
「ミルクは、あと1本。……To do、明日、仕事帰りにミルクを買う!」
大きめの声で言うと、仕事用のタブレット端末から『To do リストニ追加シマシタ』と機械音声が鳴った。
ミネラルウォーターは定期配達を頼んでいるのだが、ミルクは足りなくなると自分で買い出しに行っている。これほど消費が多ければミルクも配達を考えるべきか、などと呟いていると、《オ湯ガタマリマシタ》という機械音声とともに、オルゴールのような可愛らしい音楽が流れてきた。ガブリエラは思考を中断して、スリッパをぺたぺた鳴らし、バスルームに戻っていく。
洗面所でガブリエラはアンダースーツと下着を脱ぎ、そのまま洗濯機に放り込む。そしてバスタオルを用意してから、下着が入っている隣の引き出しを開ける。ずらりと並んでいるのは、様々な入浴剤。ドミニオンズから販売されているものや、カリーナやネイサンと交換したもの。形状もバスボム、バスソルト、オイルやミルクなど色々ある。
「今日は……うーん……海!」
ガブリエラは海のイラストが入ったバスソルトのパッケージを手に取り、湯気が立ち込めているバスルームに入った。
まずはシャワーからお湯を出して、ざっと浴びる。髪も根本まで濡らし、軽くマッサージをしてから、ガブリエラはバスソルトのパッケージを破り、きらきらした青い結晶を湯船にざっと投入した。薄い青色が広がっていく湯船に、ガブリエラはいそいそと身を沈めた。
「ふぁあああぅ……」
心地よさのあまり、うっとりとした声が出た。バスタブに湯を張っての入浴は、高給取りになってよかった、とガブリエラが思う瞬間のひとつである。
この住まいになるまで、ガブリエラは、バスタブに湯を張って浸かるという入浴方法を経験したことがなかった。新しい部屋にはバスタブがついているがどうやって使うのか、と他のヒーローたちの前でバスタブの使い方を尋ねた時、全員が驚いた顔の後、妙に優しい顔で教えてくれた。カリーナが石鹸の店に連れて行ってくれたのも、この時である。
水が貴重品だった故郷の暮らしと比べれば、シャワーだけでも贅沢品だ。それを更に上回る、たっぷりの湯に浸かるという贅沢が、ガブリエラは大好きだった。入浴剤も色々なものがあって、お気に入りを見つけたり、毎日違うものを試すのも楽しい。
今日の入浴剤は、香りは殆どないが色がきれいで気に入っているバスソルトだ。上がった時に肌がきゅっと締まるような感じがする所もいい、とガブリエラは思っている。
「ん〜……そろそろ……」
給湯システムについているデジタル時計で、大体15分くらい湯に浸かったのを確認したガブリエラは、後ろ髪を引かれる気持ちでバスタブを出た。
心地良いからといって湯に浸かりすぎると逆上せて大変なことになるのだ、と皆から教わっている。実際にいちど本当に逆上せて危ない目にあってからというもの、とても気をつけるようにしていた。
それにネイサンによれば、この入浴方法は美容にもいいらしい。ゆっくり全身を温めてから身体や髪を洗ったりマッサージをする、という方法を教わったガブリエラは、そのとおりにすることにしている。
それに、能力の影響で代謝がとても早いガブリエラは、毎日ちゃんと入浴しないと、普通よりもあっという間に垢じみて小汚くなってしまう。子供の時にいじめられたのも、今思えば普通より汚い子供だったせいもあったかもしれない、とガブリエラはぼんやり思う。
実際シュテルンビルトに来た頃に何度かホームレスに間違われたことから、貧乏ながらも清潔を保つことには気をつけていた。
特に最近は、間違ってもライアンに臭いなどと思われたくないので、朝はシャワー、夜はこうして丁寧に風呂に入り、汗をかいたらちゃんとパウダーつきの汗拭きシートで拭うようにしている。
乙女は常日頃まめな努力を忘れてはならないのだ、というネイサンの教えを、ガブリエラは忠実に守っていた。
まずはシャンプーをきちんと手で泡立てて、美容師に教わった通りの方法で頭を洗う。次いで、コンディショナーも丁寧になじませる。しっかりとぬめりを洗い流したら、用意していたゴム入りのヘアターバンでまとめる。初めて伸ばした長い髪を持て余すガブリエラに、ロングヘア歴の長いカリーナが教えてくれたアイテムだ。水分をよく吸う素材で出来ていて、髪を乾かす時間も短縮できるという優れものである。
あとは顔にも使えるボディソープを使って、丁寧に全身を洗う。白い肌はあまり刺激に強くないらしく、柔らかいボディタオルと手で洗っている。最後にシャワーで泡を洗い流して、入浴は終了。
「……もういちど浸かりましょう。もういちどだけ」
湯気が立ち上る、美しい青色の浴槽を名残惜しそうに見たガブリエラは、いそいそと湯船に入っていく。
「ふわぁああああ」
蕩けた声を上げて、ガブリエラは再度湯船に身を沈めた。
「はふ……いいお湯でした……」
最後に歯も磨き、満足しきった表情でバスルームから出てきたガブリエラは、用意しておいたバスタオルで身体を拭いていく。頭からターバンを取って、赤毛の水気も丁寧に拭う。水が滴らないくらい水気を取ったら、顔に化粧水をたっぷりとつけた。
手に余った化粧水を首や肩、胸元にも伸ばしたあと、ガブリエラは吊るしていたシルクのパジャマを取り、素肌にそのまま身につけた。少しひんやりしていてつるつるした感触が、火照った肌にとても心地よい。
最後に湿ったバスタオルとターバンを洗濯機に入れ、ドライヤーで丁寧に髪を乾かす。長い髪は乾かすことからしてなかなか面倒だが、伸ばすと決めたからには綺麗に保とうと決めている。美容師に教えられたとおり、一定の距離を保って、低めの温度で根気よく乾かしていった。
「ふぁあ」
仕事用のタブレット端末で明日の予定を確認していたガブリエラは、大きな欠伸をした。とろとろとした眠気は風呂上がりからずっと感じていたが、いい加減に寝ないと明日がつらい。ふわふわと欠伸を噛み殺しながら、ガブリエラは充電プラグに通信端末とタブレット端末をそれぞれ繋いだ。
更に目覚まし時計をセットし、その隣に、ヒーロー用PDAを置く。いまのところ深夜の招集がかかったことはないが、先輩ヒーローたちによると過去あったらしいので、油断はできない。
最後の作業を終えたガブリエラは、もそもそとベッドに潜り込んだ。清潔なシーツと枕カバーが心地よい。素材が安物でも高級でも、清潔なものの心地よさは同等だ。
故郷にいた時はある程度の不潔さは不潔とすら思われておらず、旅をしていた時など必然的に数ヶ月も水浴びすらしなかったものだが、シュテルンビルトに来て、ガブリエラは、自分が割ときれい好きであることを知った。だからこそ安くない金額の掃除ロボットを買ったし、風呂は大好き。洗濯も、苦にならない程度には好きな家事だ。
部屋の隅にある柔らかい色の間接照明が、ゆっくりと光を落としていく。勝手にだんだん暗くなることで睡魔を誘うこの品は、以前間接照明に凝っていたというバーナビーから教えてもらったものだ。掃除ロボットもそうだが、便利なインテリア類に関して、彼には随分アドバイスを貰っている。
うとうとしながら寝返りをうつと、ナイトテーブルにある綺麗な花が視界に入る。自然、笑みが浮かんだ。みずみずしい花の香りが、呼吸の度に胸いっぱいに広がる。
「いいにおい……」
迎えに行ったライアンから、ずっとしていた香りだ。そのせいかまだ彼がそこにいるような気がして、ガブリエラはうっとりした。
「あしたは、スーツの、ちょうせい……ラジオと……うたのレッスンと……、帰りに、ミルクを買って……ミルク……んー……」
たくさんの予定。忙しくて大変だが、とても楽しい日々。眠って起きたらまた楽しい1日が始まるのだと、ガブリエラは微笑み、布団をかぶった。
「また、あした……」
明日まで会えないのではない。また明日会えるのだ。
幸せそうにそう呟いて、ガブリエラは睡魔に身を任せ、ゆったりと目を閉じた。