「ただいま戻りました!」
「おー、お疲れー」
ガブリエラが戻ってくると、自分のデスクで端末に向かっていたライアンは、いつものゆるい声で彼女を出迎えた。
「斎藤さん、いた?」
「お会いしてきました! 面白い方ですね」
「ランドン主任も相当だけど、斎藤さんもスゲーんだよなあ」
分野違うけど、というライアン曰く、パワーズ主任のランドンと斎藤は、同じ大学出身の同期であるらしい。
「そうなのですか。古い付き合いだとは仰っておられましたが」
「で、斎藤さんは?」
「このあとスローンズの見学に行くそうです」
「ああ……、話合いそうだなあ、あの面子」
ライアンは、半眼になって乾いた笑いを浮かべた。ガブリエラは頷き、仕事を終わらせて雑然としているライアンのデスクを片付けた。まともに仕事ができない代わりに、こういう雑用は目についたらすぐやることにしているのだ。それに、ガブリエラは整理整頓やこまめな掃除が好きな方だ。苦にはならない。
ウェットティッシュで机を拭くまでをガブリエラが終わらせると、ライアンが更に言う。
「パワーズ自体は、変わったとこ無かったか?」
「パワーズはいつも変わっています」
「まあそうだけどな。能力は使った?」
「えーと、パワーズでは、ミルワードさんの眼精疲労と、ケインズさんの肩こりを治しました。あと、タマラさんの腰痛を」
「また? 座り方悪いんじゃねえの、あのヒト」
「私もそう思います」
「ドミニオンズはどうだった?」
「ドミニオンズでも、皆さんに軽く能力を使いました。肌や髪や、あと睫毛、いつもどおりです。あ、アイリスさんのブラウスが“おにゅー”でした。ヘザーさんは香水を変えていて、甘くてとても良い香りです。ピオニーさんは前から欲しいと仰っていたブローチをとうとう買いました。目の色に合っていて素敵です。それと、カオルさんのストッキングが──」
ガブリエラは、顔を合わせてきたヒーロー事業部の面々の様子を、事細かに話していく。ライアンは、その話をゆったりと聞いた。
ヒーローであり、しかも総資産数兆ドルともいわれる超巨大コングロマリット企業の専属であるガブリエラは現在結構な高給取りだが、読み書きから若干怪しく、低学歴以前に一般常識も危うい。
そのためまともなオフィス仕事ができず、書類の整理整頓をしたり、掃除をしたり、飲み物を用意したり使いっ走りをしたりというのが、会社にいる時の彼女の主な過ごし方だ。
子供のお使いのようなことしかできない彼女を、見下すまではゆかずとも遠巻きにし、給料泥棒扱いしている面々も、最初はそれなりにいた。
ヒーロー事業部といえど、最初からホワイトアンジェラの信奉者で構成されたケルビムやスローンズのような部署ばかりではないのだ。特にドミニオンズはむしろヒーローに興味が無かったタイプの女性ばかりであるし、そうでなくても高学歴のエリート揃いである。
しかしガブリエラは、陰口を叩かれてもあっけらかんとしたものだった。それどころか、「私は頭が悪いですので!」と誰より本人がはっきりと言ってしまう。
しかし学がなく頓珍漢なようでいて、ガブリエラは人を見る目がかなりある。“におい”と称する印象察知により、ひと目見てその人物の本質がなんとなくわかるという彼女の特技については、もうライアンもすっかり認めるところだ。
そしてそれと同時に、コミュニティの中で空気を読み、自分がどう見られているのか察するスキルも実は高い。最悪の治安状況の町で生まれ育ち、危険な荒野のヒッチハイクの旅で培われたそれは確かなものであり、エリート集団の中で、どうやれば自分のスペックでもってうまくやっていけるかを、彼女は正しく見出して行動した。
具体的には、ヒーローであるがゆえに高レベルのセキュリティカードを活かし、物怖じしない態度で色々なチームに頻繁に顔を出す。挨拶をして回り、どんな仕事をしているのか聞き、すごいですね、と心から感心して言い、自分が美味しいと思ったお菓子を配って歩いたり、肩こりや眼精疲労、肌荒れといったちょっとした疾患を、能力で治して回ったりした。
彼女のこの行動は一応計算の上という所もあるが、どちらかというと、群れの中でうまくやっていこうとする野生の勘に近いものである。
本当に力のあるボスは誰なのかを察し、餌を食いっぱぐれないためには誰を頼ればいいのか、寝床を確保するには誰にくっついていればいいのか、誰が信用できて出来ないのかを、彼女は要領よく見極めているのだ。
ストレートで素っ頓狂な物言いや態度は、計算高く媚びを売るというよりは、ただただ懐っこく、何も考えていない、新しい家を探検して回る無邪気な犬を彷彿とさせる。
まんまと絆される者がほとんどで、最初に、彼女と常に行動するアークたちが当初のサイボークめいた傭兵っぷりを解し、次第に人間味を見せるようになった。次いでコミュニケーション障害のオタク揃いのパワーズが、お菓子とストレートな褒め殺しで陥落。
彼女の能力を美容に利用するものの心は開いていなかったドミニオンズは、給湯室が突然壊れ、それをガブリエラがさっと直してしまった事が決定打となった。その頃から、彼女らも本心から何かとフレンドリーに、というよりは面白がって可愛がるようになって今に至る。
またアスクレピオスは乳幼児用の託児所も完備しているのだが、子供好きな彼女はそこにも顔を出す。能力の影響か、彼女が来た日は皆ご機嫌で終日ぐずったりせずにすやすや寝てくれると評判になり、子供たちの父母らに感謝されるようにもなった。送り迎えの時に顔を合わせると育児疲れを能力で癒やしてくれるともなれば、もう崇拝される勢いである。
そうして距離が縮まった上でまた能力を振りまきながら挨拶をして回れば、もう彼女を疎ましく思う者など、今やひとりもいない。
そのうちに、お菓子を持って出かけていったと思ったらその倍近くのお菓子やプレゼントを貰って戻ってくるのがざらになった。
今日とてライアンが持たせた紙袋が変形するほどぱんぱんになっているし、出かける前にはなかった色が、整えられた爪に綺麗に塗られている。
彼女が社内をうろうろするようになってから、ヒーロー事業部の当日欠勤はほぼゼロに近く、仕事の能率もぐんと上がっている。さらに彼女が他の部署の様子やいいところをさり気なくおしゃべりの中に混ぜて伝えるので、横の連携も自然にスムーズになり、無用な対立も起きにくくなった、という効果も出ている。
そのため仕事らしい仕事をしていない彼女は疎ましがられるどころか、すっかりどこの部署でも歓迎されるようになった。最近ではダニエルが実際に数字でその成果の大きさを認め、彼女に特別手当を支給したほどだ。
例えるなら、会社で飼われている犬。マスコット。あるいは、住み着いている妖精。
直接業務の役に立つわけではないが、モチベーションの底上げにはおおいに関わる存在。オフィスにおけるホワイトアンジェラは、今やそういう認識の存在になっている。
「そして、オリガさんは今日も美しかったです」
うっとりと言うガブリエラに、ライアンは呆れた顔をする。
「お前、ほんとにあのヒト好きだな。っていうか……」
ライアンは、いったん言葉を切った。
「……前から思ってたけど」
「はい?」
「お前、気が強いっつーか……女王様系の女、好きだよな」
性格がきつくて強気で、それでいて面倒見が良く包容力のあるタイプ。二部リーグ時代に非常に世話になったシンディもそのタイプであるし、アニエスやネイサンはその最たるものだ。
また彼女らに比べれば随分可愛らしいが、女王様キャラで売っていて素もツンデレのカリーナも素養はあるし、パオリンもまた、ナチュラルに気が強く、傍若無人なところのあるタイプだ。もちろん、ヒーローらしく面倒見が良く、困った人を放っておけない性格の持ち主でもある。
そしてドミニオンズの女性たちは、女性らしい外見を完璧に維持しつつも、中身は男性をそのピンヒールで蹴落として昇進してきた女傑揃い。
また彼女が心酔しているドミニオンズの主任は、名だたるプロジェクトを成功させてきた実績のある、アスクレピオスきってのビジネスウーマンだ。非常にやり手で、魔女の総括とか、アスクレピオスの女王様とか、メドゥーサとか呼ばれている。つまり、ガブリエラにとっては、最高に好みの女性だった。
初めてのCM収録の時、台本の段取りがわからず勝手にセットを動きまわってきつく叱られ、モデルの経験がある彼女に徹底的に厳しいレクチャーを受けた後から、ガブリエラは彼女を苦手に思うどころか、目を輝かせて懐くようになったのだ。
ライアンにそう指摘されたガブリエラは、何かを思案するような顔をする。そして、やがて何かに納得したように、こくりと頷いた。
「おお、そうですね。女王様系。最高ですね」
「タイプってこと? 何? Mだから?」
「そうかもしれません」
「あっさり認めてんじゃねえよ」
「はう」
ガブリエラの額に、ライアンはぺちんと軽くデコピンをかました。ガブリエラは額を擦りつつ、目を細めて笑みを浮かべる。
「言われてみればそうです。うーん、セクシー系だとなお好きですね。特に胸……胸が。大きい胸は素敵なもの」
「……おい」
とろんと蕩けた目をして言うガブリエラに、ライアンは怪訝な顔をした。
「お前、……お前こそ、女もイケるクチじゃねえだろうな」
「……んん?」
「真面目に答えろ、真面目に」
「別に不真面目ではありませんが。……うーん、女性が恋愛対象かどうかですか。考えたことがありませんでした。今まで、恋愛として人を好きになったことがありませんでしたし……」
「え、そうなの?」
「はい。ライアンが初めてです」
こくりと頷き、ガブリエラは初恋宣言をした。ライアンは、なんとなく目を泳がせる。
「恋愛対象ですか。実際、私はライアンが好きですし……ライアンは男性ですし」
「……おう」
「しかし、ライアンが女性でも好きだと思いますし、他の男性を好きになるのは想像がつかないです。ですので、男性とか女性とかではなく、ライアンが好きです」
けろりと言ったガブリエラに、ライアンは、口を開けたまま絶句した。
「うー、皆さんに能力を使ったので、おなかがすきました。お昼ごはんを食べに行きましょう、ライアン」
「……ああ、おう……」
「あ、思い当たることが少しあります」
「あん?」
なんだかぼうっとしたような様子のライアンは、首を傾げた。
「故郷にいた頃や、こちらに来る途中、男性に対してはとても警戒して過ごしていました。女性であればなんでもいいという輩は多いですし、見た目それらしくない人もいます。ですので、初めて会う男性は今も少し警戒します」
ガブリエラの説明に、ライアンは、なるほど、と納得する。
「ん、それはそのままで正解だ。これからもそうしとけ。お前の故郷ほどじゃねえにしろ、シュテルンビルトも治安がいいとはいえねえからな」
「はい、そうします」
ガブリエラは、素直に頷いた。
「あっ、そういえばライアンも胸が大きいですね。とっても素敵」
「……こ、れ、は! 筋肉!」
「存じておりますとも。素敵な体つきです」
眉を顰め、自らの厚い胸をばしんと叩いたライアンに、ガブリエラは、まだ少し蕩けたような目のまま、にっこりとした。
ガブリエラの好む“タイプ”は、考え方を変えれば、ライアンにも当てはまる項目でもある。ボリュームのある肉体美の持ち主で、特に胸元の厚さが目立ち、俺様だが面倒見が良く包容力があり、やることなすことキラキラと派手。
「ライアンがいちばん好きですよ」
「……あっそう」
ライアンはぶっきらぼうに言い、ハンガーにかけていた上着を取って、羽織りながら部屋を出た。ガブリエラは、小走りにその後ろをついていく。
「今日のお店、楽しみです。ピザ、大きいピザ! チーズ!」
「プロシュットがごってり乗ったやつがいいな。ホームページで見た」
「プロシュットとは何ですか?」
「美味いハム」
「おいしいハム! 最高です!」
今から散歩に連れて行ってもらえる犬よろしくライアンの周りをぴょんぴょん跳ねながら、ガブリエラは会社を出た。
13:00
Lunch with Ryan.(Italian Bar)
「これがプロシュット? ……あっ、おいしい! おいしいです!」
店の名物だという、生ハムをたっぷり乗せたピザを頬張って、ホワイトアンジェラのメットをかぶったままのガブリエラは嬉しそうな声を上げた。
ふたりは向い合って座っているが、ふたりでの食事にしてはテーブルは巨大である。なにせ並べられているのは大皿ばかりで、数種のパスタ、木の板に乗せられた大きな焼きたてのピザが数枚、他にも色々な料理が所狭しと並べられているからだ。
「そうだろ。おっ、マルゲリータもイケる。スタンダードなのもいいねえ」
「そちらのお肉も食べたいです。ください」
「ピカタな。レモンたっぷりかけたほうが美味いぞ」
「わかりました!」
ライアンのおすすめどおりに、添えてあるレモンをたっぷり絞ったガブリエラは、彼が半分食べたピカタを切り分けて頬張る。「んー!」とフォークを握ったまま嬉しそうな声を上げたので、口に合ったようだ。
今ふたりがやってきているのは、ブロンズステージにあるイタリアン・バルである。
ハロウィンの頃から、シュテルンビルトじゅうの店をふたりで周り、メニューを制覇するというマイブームが未だ続いているのだ。
シュテルンビルトは、最初から都市計画を立てて作られた街ではない。長い時間をかけ、歴史に翻弄されながら、様々な道や施設が入り組んで、とても複雑な作りになっている。シュテルンビルトでタクシー運転手が出来たら一流だとか、乗り換えが世界一難しい街、などとも言われているほどだ。
しかしだからこそ、乗り物や道を工夫すれば、驚くほど早い時間での移動も可能なのである。例えばアスクレピオスはゴールドステージにあるが、近くに、階層を常に上下する高速ケーブルカーがある。ポセイドンラインが運営しているこれを使えば、ダイレクトに真下、あるいは真上の階層に行くことができる。
このあたりは長年自力で事件現場に出向き、一般交通機関を利用して長くシュテルンビルトで暮らしている虎徹が最も詳しい。しかし、彼ほどキャリアは長くないものの似たような経歴のガブリエラもなかなかだった。
そのため最近は、主にライアンが良さそうな店を見つけてきてガブリエラが最短ルートを弾き出し、近場であればランチ、少し遠ければディナーというふうにして、シュテルンビルトじゅうの店を回っているのだ。
「んんん、こっちのソースうっめぇ〜。ここ、当たりだな」
「当たりですね!」
「でもメニューが多くて今日だけじゃ制覇ムリだな。今度は酒メインで夜に来ようぜ」
「とても賛成です!」
「あ、写真撮るぞ」
そう言って、ライアンは愛用のカメラを取り出し、料理を頬張る彼女を何枚か写真に収めた。
先日パパラッチたちを盛大に釣った際、彼らの発するグルメ情報が、本来の話題とは別に注目された。
それをきっかけに、シュテルンビルトで有名なグルメ情報サイトからオファーが来たのだ。ふたりが行った店のうち、おすすめの店を写真付きで紹介するというコーナーを持たないかというそのオファーを、ふたりは快く受けた。
写真はすべてライアンが撮ったもので、文章はガブリエラがテーブルに例の録音端末を置いて自動で文字に起こし、ドミニオンズにそのまま送信する。そこでプライベートな話題や機密情報を厳重に削除し、編集したものをグルメ情報サイトに提出、記事にしてもらう。
こういうやり方であるので、ふたりとしては実質いつもどおり食事に行っているだけで、仕事という感覚はあまりない。だが確かに半分は仕事なので、記事にした店での代金の半分は経費で落ちるようになったし、仕事半分だからという建前で、ゆったりランチが楽しめるようになった。
何よりガブリエラとしては、ライアンと食事に行く理由ができるのが嬉しかった。──といっても、この仕事がなくても、最近はもうすっかり、スケジュールがどうしても合わない時以外はいつもふたりで食事をしてはいるのだが。
ボリュームたっぷりの食事量は、そのまま情報の多さに繋がる。それに店自体がイマイチでも、全てのメニューを制覇すれば、ひとつふたつは光るものがあるので問題はなかった。
更に、ライアンの技術とセンスが光りながらもプライベート感もある絶妙な写真。加えて、全く構えていないふたりの独特のゆるいトークは、なかなかの人気を博した。
相変わらず宣伝はさほどしていないのだが口コミで購読者が増え、有料配信サイトである上に不定期であるにもかかわらず、今ではかなりの人気コーナーになっている。
「ライアンの写真も撮らなければ」
「カメラ貸すか?」
「大きいカメラは難しいので、電話のカメラで撮ります!」
そう言って、ガブリエラは通信端末に付いたカメラで、ライアンの写真を何枚か撮った。そのまま彼女が端末を渡してきたので見てみると、自動フォーカス機能が付いているとはいえ、なかなか上手く撮れているようだった。
「おっ? 上達してる?」
「折紙さんやカリーナにコツを教えていただいて、練習しました。ライアンはどうやっても素敵ですが、できるだけ格好良く撮りたいですので!」
「いい心がけじゃねーか」
「えへん」
「……へー、ズーム弱いけど、明るく撮れんのはいいな。軽いし小さいし……」
俺もそろそろ端末変えよっかな、と言いつつ、ライアンはガブリエラの端末で自分も何枚か写真を撮った。
「え、ゴールデンライアン来てるの!? ホワイトアンジェラも!?」
「ホントにR&A?」
「取材か? プライベート? マジで?」
「あーん、衝立! ギリギリで見えない!」
その時、R&Aが来ていることに気づいた一般客が、そわそわと声を上げ始めた。予約してきたのもあって衝立のある半個室に通されはしているが、特に隠れることもなく堂々と手も声も上げて注文をしているので、当然といえば当然だった。
それに気付いたライアンは椅子から背を仰け反らせ、衝立から顔を出して、ひらひらと手を振った。突然のファンサービスに、どよめきや黄色い声が上がる。更にそれを見ていたガブリエラが立ち上がり、衝立の上から頭を出すと、同じようにひらひらと手を振った。
きゃあ、わあ、と声が上がるホール内。
しかしあまり店に迷惑をかけてはいけないと、ライアンは笑みを浮かべて両手を床と水平に動かし、静かにするようにというジャスチャーをした。ガブリエラも、唯一見えている口元に人差し指を当て、“しー”という仕草をする。
お茶目で余裕のあるその態度に、他の客達はそれぞれ笑顔になってこくこくと頷く。浮足立つのは収まらないが、皆静かにするよう努めつつも嬉しそうな様子だ。一瞬にして場がまとまったことにウェイターのひとりがホッとした様子で、ふたりに対して軽く会釈をした。
ふたりは再度衝立の向こうの半個室に引っ込み、食事を再開する。だいたい手を付けた料理を見て、ライアンは、記事にするために会話を録音しているガブリエラの端末を切った。
食事が終わり、半個室からふたりが姿を現すと、客たちから歓声が上がる。
「アンジェラ!」
「アンジェラー」
静かに、という先ほどの注意を聞き入れてくれつつもテーブルのそこかしこから上がる声に、ガブリエラが立ち止まる。そして期待いっぱいの顔をしている皆に向かって笑みを浮かべ、ピンと伸ばした両腕を上げた。
「わん!」
最近決め台詞のようになりつつある声を上げると、笑い声とともに何故か拍手が起こる。その反応が嬉しくてつい得意げな顔をすると、またくすくすと微笑ましげな笑いが起こった。
今まで目立つのにあまり興味はない、と思っていたガブリエラであるが、最近そうでもないことに気付いた。注目を浴びて緊張したことはあまりないし、むしろわくわくする。沢山の人から声をかけてもらえたり、拍手や応援をもらうのは嬉しい。
それに、自分がしたことで皆が笑顔になるのは、以前から喜びを覚えることだった。今までは怪我を治すことでのみそれが出来ると自然に思っていたが、ライアンといることで、それだけではないのだと理解した。実際、彼は先ほどトイレに立って2、3の言葉を発しただけで、皆を笑顔にさせていた。
能力を発揮する機会が常にあるガブリエラと違い、彼がヒーローとして能力を披露するのは、事件や事故が起こった時だけだ。
しかし彼は格好いいルックスやユーモアのある言動など、立ち居振る舞いだけで人を笑顔にさせる。他のヒーローたちも同じだが、ライアンはとても強く意識してそれを行っている。常にプロ意識がある、とも言えるだろう。ガブリエラは、ライアンのそういうところがとても好きだ。
「何やってんだお前」
笑い混じりの呆れた声で、メットを軽く小突かれた。振り返ると、真新しい木製のピザプレートを持ったライアンが立っている。
「店宛にサイン書いて。ここんとこ」
「わかりました!」
メットを装着し、一般客ではなくヒーローとして、そして記事にもするために食事をしに行くということで、混乱を招かないよう、店側には事前に予約をとっている。そのこともあり、こうして退店の際にサインを頼まれることも多かった。
サインペンとともに渡されたプレートには、既にライアンのサインが入っていた。流れるような、書き慣れていることがよく分かる格好いいサインだ。その隣にサインを入れるということに、ガブリエラのテンションが上がる。
しかし、立ったまま重いプレートを持ち、ペンのキャップを外してサインを入れるのは難しく、ガブリエラはきょろきょろと辺りを見回した。
「申し訳ありません。少し座らせてください」
「あ、ど、どうぞ!」
腰を折って頼むと、4人がけのテーブルに両親と小さな女の子の3人連れは、快く空いている席を勧めてくれた。「ありがとうございます」と例を言い、プレートをテーブルに置く。
「A、N、G、E、……」
ひと文字ずつ、ゆっくり。元々文字を書くのが得意ではなく、二部リーグ時代にはサインを求められることも稀だったため、ライアンのような、流れるようなサインなど書けない。せめて綴りを間違わないようにと、ゆっくり、そしてたどたどしく、サインというよりはただ自分の名前を書いている彼女を、周りの客たちが見守る。
「──できました!」
6文字のアルファベットを無事に書き終えたガブリエラが言うと、小さく拍手が起こる。すると、そのテーブルにいた、金髪をツインテールにした5歳ぐらいの女の子が、アンジェラのサインを覗き込んで言った。
「ねこちゃんを書くとかわいいよ」
小さい子供特有の高くて甘い声は、拍手の中でもよく通った。母親が慌てたように「ねこちゃんはいいのよ!」と注意するが、ガブリエラは、彼女のアドバイスを詳しく聞くことにした。
「ねこちゃんですか?」
「ねこちゃん、かわいいから」
「確かに、ねこちゃんはかわいいです」
ガブリエラが同意すると、女の子はそうだろう、と言わんばかりに深く頷いた。よく見ると、彼女は猫の顔の形の小さなポシェットを斜めがけしている。
「ライアンの、かんむりついてるの。かわいい」
女の子の指摘通り、ライアンのサインの端のところには、小さな王冠の絵が入っている。重力王子と呼ばれることもある彼が、時々気まぐれに入れるマークである。
「アンジェラのは、おなまえだけ。かわいくない」
こら! と、はらはらしたような様子で母親が言ったが、ガブリエラはプレートのサインを見て何度か頷き、「むう、確かに!」と、納得の声を上げた。
「的確なアドバイスだと思います。ありがとうございます」
丁寧に礼を言うと、意見を受け入れてもらえたのが嬉しかったのか、女の子がはにかんだ。
「しかし、ねこちゃんですか。ねこちゃん……」
ううむ、とガブリエラは唸った。
「わかりました。絵は不得意ですががんばります!」
そう言ってガブリエラは少し考えてから、意を決したようにサインペンを持ち直した。そして、慎重に線を引き始める。名前を書いたときより更にたどたどしいその様子を、客たちが固唾を呑んで見守っている。
「できました!」
宣言とともに、周囲から拍手が上がる。
結局たっぷり数分かかって、彼女は猫を書き終えた。その出来栄えは、いつの間にか後ろから覗き込んでいたライアンが、「これ猫?」「えっ猫なの?」「猫……?」と、少なくとも3度は呟いたことからお察しである。
やりきった様子のガブリエラは、プレートをライアンに渡した。猫、らしいいびつな楕円形のものの下に、更に“ピザはおいしい”と謎のコメントが書いてあるそれを見て、彼がとうとう噴き出した。
そして笑いながら彼は再度ペンを持ち、こなれた様子で、端の方に、ライオンの簡単なイラストを書き足す。
「らいおん!」
「ライオンです! 上手!」
「じょうずー」
「どうも」
女の子と揃って尊敬の目を向けてくるガブリエラに、ライアンはくっくっと笑いながら、店員にプレートを渡した。
「美味かった。ゴチソーサマ」
「おいしかったです! ピザはおいしい!」
片や軽く、片や力いっぱい手を振って店を出て行くヒーローふたりを、店員たちが見送る。
そしてすぐにレジ横に飾られた、何やら妙にごちゃごちゃしたサイン入りプレートは、多くの客たちに写真に収められたのだった。