#061
★天使の1日★
2/7
08:45
Medical checkup

 医学には様々な分野があるが、最近出来た、新しい分野がある。

 ──『NEXT医学』だ。

 文字通りNEXTに関する肉体的問題に取り組む分野であるが、専門医は少ない。
 なぜならNEXT医師になるためには全ての医療分野に関して最低限以上の知識があることが求められ、また特に脳科学の分野に深い造詣があることが条件であるからだ。NEXT能力は脳と密接な関わりのあるものなので、NEXT医学の医師はまず脳の専門家でなくてはいけないのである。
 さらにNEXT能力は、個人によってどんな現象が起こるか全くわからない。深く広い知識に加え、未知の現象を恐れない度胸、好奇心、また差別問題などに触れる機会も非常に多いため、なり手が少ないのだ。
 そしてアスクレピオスホールディングスは、このNEXT医学を世界で最も積極的に扱い研究している組織であり、医師の数も多い。その中でもトップクラスとされる医師がふたりいる。
 そしてその両名ともは現在、お抱えヒーローであるゴールデンライアン、ホワイトアンジェラふたりの医療サポートチーム、“ケルビム”に所属している。



 朝食をとった後、ガブリエラはエンリコ医師と別れ、アークたちとともに病院棟の方にやってきていた。
「シスリー先生、おはようございます」
「おはようアンジェラ。そこに座ってください」
 総白髪の髪をきっちりと結い上げた、眼鏡を掛けた上品な女性医師──ガブリエラの主治医であるシスリー・ドナルドソンは、やや緊張の面持ちで座った彼女に微笑みかけた。

 多数の医師でチームが構成されているケルビムであるが、セカンド・オピニオンの要素を積極的に取り入れ、リーダーが男女ふたりいる。彼女、シスリー・ドナルドソンは女性リーダーで、同時にガブリエラの担当主治医でもあった。男性リーダーは、ライアンの担当主治医である。

 シスリー・ドナルドソンは、アスクレピオスで、つまり世界でトップクラスのNEXT医師であり、研究者だった。

 ライアンの担当主治医である男性医師も同様にNEXT医学における権威だが、彼女、シスリー医師はNEXT能力と心理的な働きに密接な関わりがあると考え、精神科、心理学などのメンタル系の分野において特に造詣が深い。カウンセリングの技術にも長けており、机上の論理や科学的な実験はもちろん、NEXTたち本人との対話を他の医師たちより格段に多く行う、現場の声や臨床を重視するタイプの医師である。
 科学的な見地を踏まえ、しかし患者本人の人格や心理面を重視して丁寧な研究を行う人道的な医師として有名な彼女を、ガブリエラも「シスリー先生」と呼び慕っている。

 このように、NEXT医学の医師をトップに置き、他のあらゆる分野の専門医でチームを構成することで、世界初のサポート特化ヒーロー・ホワイトアンジェラを万全にサポートする。──そして同時に、研究もする。これがケルビムというチームであり、ひとりのNEXTを徹底的に調べるチームという、世界初の試みでもある。

 NEXT能力は非常にデリケートな扱いで、どんな能力なのか、と正面から聞くことは通常失礼に当たる。そのため、能力を隅々まで調べるということに対し本人が抵抗を示す、という流れは普通であり、無理もないことである。
 しかし空けっ広げな性格のガブリエラはそれをあっさりと受け入れ、色々な検査や実験に快く付き合っている。そうしてあらゆる分野からの目線で彼女を調べることで、すでに幾つもの新発見が成されていた。
 だからこそ、ケルビムのメンバーは高い実力を持った医師であると同時に、ホワイトアンジェラのファンであること──つまり、彼女を尊重する意志があることが求められた。最終面接ではいかにホワイトアンジェラのファンであるかというスピーチや小論文の披露が求められ、各々熱の入ったアピールを行ったほどだ。

 そう決めたのは、本人も医者の経験があり、アスクレピオスの支部代表であり、ヒーロー事業部のトップでもあるダニエル・クラークである。
 結果として、この試みはとても良い結果となった。ホワイトアンジェラの大ファンである彼らは彼女を非常に丁重に扱ったし、ガブリエラも、自分の意志やプライベートを大事に扱ってくれる彼らに感謝を抱いている。だからこそこうして快く研究対象になっているし、協力的な彼女にケルビムのメンバーはさらに心酔している、という具合である。

 そんなバックグラウンドがある上で、今日は週にいちどの健康診断の日である。シスリー医師はガブリエラと看護師に手際よく指示を出しながら、いくつかの検査を行った。
 更にコンピューターネットワークでエンジェルウォッチと同期された、今朝までの1週間分のデータと照らし合わせ、異常がないかをチェックする。

「はい。データの上では問題ないようですね」

 そう言われ、ガブリエラはほっと息をつく。
「遅く始まったから心配していたけれど、月経周期も順調です。前後や最中にお腹が痛いとか、異様に眠くて集中力が削がれるとか、何か気になることはありませんか?」
「少しだるかったり、体が熱く感じることはありますが、気になるほどではありません。集中していると、月経中であることを忘れることもあります」
「健康で何よりです」
 月経の具合がNEXT能力に影響をもたらすこともよくありますからね、とシスリー医師は穏やかに言った。異常があればすぐに申し出るように、とも。
「お薬もきっちり飲んでいますね。えらいですよ」
「えへへ……」
 穏やかに褒められて、ガブリエラははにかんだ。薬とは避妊効果もある、月経を整える作用の薬のことだ。
 所属企業にもよるが、ヒーローとして活動する就業規約の一部としての健康維持、その一環として病気の忌避、そしてスキャンダル防止として、性行為に関する規約もある。
 といっても、ここ数十年で、避妊の方法は避妊薬の服用によるものが一般的になっている。
 それまで主流だった、男性器にかぶせるスキンタイプの避妊具よりも非常にリーズナブルかつ失敗が少なく、女性に主導権があり、本来の効能である月経周期を整え生理痛を軽減するという効果、さらに性行為において興奮を得やすいこの方法は、確立されると同時に一気に広まった。女性人口の8割は習慣として服用している、という統計もある。
 つまりヒーローに限らず先進国の女性の殆どが利用している薬なので、ガブリエラも服用に抵抗はない。初潮が来た時に説明を受け、薬を渡されて以来、習慣として欠かさず飲んでいる。

「もし性行為を行った時、薬を飲み忘れていたらなるべく早く病院に来ること」
「いまのところ、予定はありませんが……」
「突然そういう雰囲気になることもあるでしょう」
「そういうものですか」
「そういうものです」
 シスリー医師は、私的な経験則の滲んだ様子で言った。
「それに、あなたはヒーローですからね。私は法的な部分の決まりを詳しく知りませんが」
「ああ、はい。それは」
「念のため、スキンも持っておくように。お薬と一緒に出しておきましょう。使用期限を過ぎたものは廃棄して」
「はい」
 赤裸々な内容だが、遠回しな言い方が苦手がガブリエラにとっては、変に言葉を濁されるより、はっきり言ってくれたほうがわかりやすい。
 しかもシスリー医師はカウンセリングに長けた精神科医でもあるので、親身になってくれるがプライベートをずかずか突っ込んできたりはせず、常に穏やかかつ良い意味で淡々としていて、ガブリエラは気にならないどころか安心できる、と感じていた。

「あとは……常のことではありますが、摂取したカロリーを少々使い込みすぎですね。できれば、今日は寝るまでに2000キロカロリーは残してください。しかし砂糖のみの摂取は禁止。徹底してヘルシーなメニューとまでは言いませんが、ちゃんと調理された食事をすること」
「むう……努力します」
 難しそうな様子で、ガブリエラは言った。ひとりだとろくな食事をしない彼女の悪癖を知っているシスリー医師は、手に負えない子供を見る母親のような顔をした。

「その日に摂ったカロリーはその日のうちに使ってしまうのがいいようなので、難しい要求である事はわかります。ヒーロー試験で溜め込んだ時は、少し調子を崩しましたからね」

 シスリー医師は、確信を持った様子で言った。
 ガブリエラの肉体と能力について、改めて徹底的に調べた結果のひとつ。それが、今シスリー医師が言ったように、その日に摂ったカロリーはその日のうちに消費してしまうのが、ガブリエラの身体にとって最も負担が少ないということだった。
 二部リーグ時代にあれほど不健康な食生活で身体が保っていたのも、食べたら食べた分だけ、その日のうちに使いきってしまっていたからだったのだ。
 つまり一旦ガブリエラの血肉になったカロリーを能力の糧として使うと、彼女の身体にとって負担が大きくなる。激痩せと激太りを極短期間で繰り返しているようなものだからだ。
 とはいえ、いつ事件や事故が起こり、ホワイトアンジェラの能力が必要になるかはわからない。自分の健康を維持しつつ適度に能力を使い、それでいてもしもの時にも備えるというのは、なかなか難しいことでもあった。

「ヴァーチュースモードも、多用はしないように」

 NEXT能力者は、その能力を行使するに見合った肉体の持ち主でもある。
 つまり、ハンドレッドパワーを持つ虎徹やバーナビーの肉体は100倍の能力を発揮しても壊れない頑丈な骨肉や心臓を持っているし、アントニオの皮膚には、ダイヤモンドに勝る硬度に変化する特殊な細胞が存在している。ネイサンは炎、カリーナは氷点下の環境、パオリンは数万ボルトの電撃に耐えられる肉体の持ち主だ。キースは飛行という能力を持つがゆえ独特な心肺能力と三半規管を持ち、また3次元空間把握技能も高い。イワンについては、肉体そのものが変化しているのか、それとも周囲の認識能力を歪めているのか、まだ確かな結果が出ていない。

 そしてガブリエラの肉体は、飲食したものを非常に素早く分解して取り込める、高い処理能力を有した内臓機能を備えている。普通の人間なら異常をきたすような超高カロリーをいちどに摂取しても処理しきれる血液や細胞、さらに、半年経たずに坊主頭からロングヘアになるほどの代謝の良さを発揮しつつも、それで寿命を縮めることのない染色体。
 またこれは能力を使う相手にも発揮され、ガブリエラの能力で回復した細胞は、テロメア塩基配列に全く変化がなかった。
 生きとし生けるものは皆、このテロメアを削りながら命を使い、これがすなわち寿命である。それを消費せず肉体が活性化するということは、使いようによっては不老不死に近しく思える効果を与える可能性もある。そのため彼女のこの能力特性は、現在トップシークレットとされ厳重に秘匿されていた。

 しかしいくら能力行使に耐え得る特別な身体の持ち主とはいえ、限界はある。あまりにも多くのカロリーをいちどに摂取した場合、いくらガブリエラでも処理しきれない。内臓や、脳に負担がかかってしまう。

「どうしても使うときは、くれぐれもアナウンスされる時間内に使い切るようにしてください。いいですね」
「はい、わかりました」
「とりあえずは今日の事ですね。誰かを誘ってディナーに行くのはいかが?」
「それは素敵な考えです。……シスリー先生は?」
「お誘いありがとう。でも、私は今日は夜勤なの」
「残念です。ではまた今度」
「ええ、ぜひ。では会議に行きましょう。感じたことはどんどん発言してください」
「はい!」

 元気な返事をして、ガブリエラはシスリー医師とともに会議室に向かう。そのあとに、さりげなくアークの3人も続いた。






09:00
MTG - Cherubim

「──では先日の強盗事件の際の救助活動について、反省点と改善点を──」

 白衣の集団の中、ガブリエラはボイスレコード機能付きのミニ・タブレット端末を前に置いて、ちょこんと席に座っていた。後ろには大柄なアークがふたり立っているが、いつものことなので誰も気にしない。むしろ白衣の集団の中で、白いスーツは妙に馴染んでいた。
 行われているのは、ケルビムのメンバーによる意見交換会議である。少なくとも週にいちど、ホワイトアンジェラの能力を用いた救助活動においての反省点を見出し、改善点を話し合うのだ。

「アンジェラ、気になることはありますか?」
「ええと……患部に砂や埃がついている時は、すぐに能力が使えません。近くに医療スタッフがいれば洗浄できますが、そうでない時があります。医療スタッフが来るまで待って頂くことになると、すぐ治してもらえると思っていたのに、と言われるのが心苦しいです。もちろん説明はしますが、理解を得るのが難しい時もあります」
 あらかじめ考えておいた“言うべきこと”を、ガブリエラは間違いなく発言した。
「なるほど──」
「今は、スタッフが処置した患者をアンジェラに回すのを基本にしていますが、現場は混乱していますからね。常にアンジェラの近くに何人か配置しておくというのもいいかもしれません。主に消毒や骨折処理の装備を多めに持たせて」
「そうですね。せめて救助活動に専念しているときは」
「事故現場に慣れた者がいいでしょう。レスキュー活動経験のあるスタッフをピックアップして──」
「ええ、その中からまず立候補者を募りましょう」
「アークの護衛活動に邪魔にならないよう、打ち合わせも必要ですな」
「いっそ二部リーグヒーローを雇う、というのも選択肢のひとつでは?」
「そこまでくると話が大きくなってきますが……、悪くないですね」

 熱の入った議論が続く。
 自分の意見が参考になった様子に、ガブリエラはほっと息をつく。目の前に置いている端末の画面上では、皆が喋っていることが自動的に文字に起こされ、いわば議事録のようになっていた。

 このアプリは、最近覚えることがとても多い彼女に無くてはならないものだ。元々文字の読み書きが苦手な彼女は、このアプリの音声認識機能を使ってあらゆるメモをとっている。
 必要なことは事前に自分の声で吹き込んで、音声を聞き直すことも、文字に起こすこともできる。またこうした会議の時は議事録モードを活用し、重要だと思ったところにはタッチパネル機能を使って指でカラーラインを引く機能も付いている。さらにラインを引いたところだけをピックアップしたメモ帳を表示したり、時系列順に表示したり、また音声を自動判別して人物別に表示したりすることも出来るという、かなりの優れものである。
 これも、バーナビーに教えてもらったものだ。彼は機械やコンピューターにとても強く、簡単なプログラムなら自分で組むことも出来る。
 本来は、メモを取ったり会議の内容をまとめて把握するのが非常に苦手な虎徹のために見つけてきたアプリだそうだ。しかし彼はアプリを立ち上げること自体を面倒がって、まるで活用していない。何も改善できなかったと、バーナビーが疲れた顔をしていた。
 だがガブリエラには画期的なツールとなり、おかげで、超高学歴なエリートメンバーばかりの会議でも恥をかいたことはない。掃除ロボットに続き、お礼として、バーナビーの肌年齢を下げて視力を良くした。WIN-WINである。

 とはいえ、元々ホワイトアンジェラのファン揃いな上、患者に対するインフォームド・コンセントにおいて簡単な言葉で専門的な内容を説明する訓練を受けた医師たちは、ガブリエラに対して侮るような態度をとったことなどいちどもない。
 きちんと準備をして会議に臨み、アプリを使って積極的に協力しようとする彼女を、医師たちは皆好意的な目で見ていた。
 だからこそ、このアプリを使っている彼女のために、意見がまとまった時は司会者がそれを声に出して読み上げる。──あとで彼女がわかりやすいように。

 ケルビムとホワイトアンジェラは、このように、非常に良好なチーム関係を築いていた。



「ふう……」
 ぞろぞろと持ち場に戻っていく白衣の医師たちに続いて会議室を出ながら、ガブリエラはこっそりと小さなため息をついた。元々、彼女は頭を使うことが非常に苦手なのである。自分の専門分野であるためなんとかついていけているが、そうでなくてはちんぷんかんぷんもいいところだろうという自覚はあった。
 必要なことだとはわかっているし医師たちのことも好きだが、難しい話を集中して聞き、理解するのはやはり疲れる、とガブリエラはぐったりした。
「アンジェラ。今回も、非常に有意義な会議でした。これからも積極的に参加していただけると助かります。思ったことはすぐ報告してください」
「はい!」
 それでもスタッフたちから力強くこう言われれば、次も頑張ろうという気になるものだ。ガブリエラは、背筋を伸ばしてきりりと返事をする。

「──あ! ライアン! おはようございます!」
「おー、オハヨ」

 その時、曲がり角から出てきた大柄な彼の姿に、ガブリエラは輝くような笑顔を向けた。側にいたアークたちには、しおれていた花が一気に瑞々しくなったような、きらきらと輝きを放ったような気さえした。

「ライアンは、健康診断と、能力の検査ですよね? 異常はありませんでしたか?」
「絶好調」
「それは良かったです」
「そっちはケルビムの会議か。なんか決まった?」
「ええと──」
 ガブリエラは、救助活動に専念している時は医療スタッフをサポートとして数人自分につけることと、それに関しての人材把握と、アークとの打ち合わせを行うこと。さらに患部をズームアップできるカメラの搭載のアイデアをヒーロースーツ担当の“パワーズ”へ打診すること、また自分がもっと少範囲に能力を使えないか実験を行うのが決定したことを、メモを見ながらライアンに説明した。
「なるほど? じゃ、アークとの打ち合わせは俺も参加したほうがいいな」
「お願いします。導入するのであれば、我々の連携パターンを見直す必要があります」
 アークのメンバーが、淡々と言った。
「りょーかい、時間決まったら連絡して。マネージャー通しても直接でもいいから」
「わかりました」
「それと、ルーカス先生がたまには顔見せに来いっつってたぜ」
 ルーカスとは、ライアンの担当主治医、ルーカス・マイヤーズである。

「……マイヤーズ先生が?」
「おう。なんかデータも取りたいからって」
「私の主治医はシスリー先生です」
 ぷい、と顔を反らし、静かな声でガブリエラが言った。
「いや、でも」
「私のデータはシスリー先生がお持ちです。シスリー先生に聞いてください」
「つったってさあ」
「ゴールデンライアン」
 顔を反らしたままのガブリエラに訝しげな目を向けるライアンに、シスリー医師が口を出した。

「ドクター・マイヤーズは男性ですし、何の研究のための呼び出しなのかわからないと、アンジェラも不安なのでしょう。私がまず内容を聞いて、必要であれば出向かせます」
「……まあ、ドクター同士がそれでいいならいいけど」
「アンジェラも。不安なら、私か、ドクター・モルナールが同行しますから。それならいいでしょう?」
「はい! シスリー先生かマルチナ先生が一緒に来てくださるなら、大丈夫です!」
 ガブリエラは、ころりと笑顔になって言った。ちなみにマルチナ・モルナールはホワイトアンジェラに遠隔指示を出すほぼ固定のメンバーで、のんびりした口調と容姿の女性医師だ。しかし逆に言えばのんびりしているのは口調と容姿だけで、言うことは厳しく、手術はアスクレピオスいち速い。ガブリエラとも仲が良かった。

「……ったく、ルーカス先生はお前の大ファンだってのに、お前はつれねえな。なんで?」
 ライアンは、首を傾げた。
「あんな名医がファンで、何の不満があるんだか」
「ヴー」
「……そこまでか? そんな顔するほどか?」
 前歯を出して唸り声を上げたガブリエラの赤毛を、ライアンがぽんぽんと叩く。

「……なぜなら」
「ん?」
「なぜならドクター・マイヤーズは……」
「おう」
「へんなにおいがしますので……」
 まるでフレーメン反応を起こした動物のような顔で言ったガブリエラに、ライアンだけでなく全員がぎょっとした。
「おいおい、なんつーこと言うんだお前」
「しかし、何かわかりませんが、嗅いだことのないにおいがするのです。いえ、どこかで嗅いだことがあるような気もするのですが……」
「え? そんなにおいする? 俺別に何も思ったことねーけど……」
 振り返って視線で同意を求めたライアンに対し、私もありませんよ、僕も別に、と医師たちがそれぞれ首を横に振る。

「お前の気のせいじゃねえの?」
「むぅ、そうですか?」
「……女性は男性よりもにおいに敏感ですし、単に少し相性が良くないのかもしれないですね」
 シスリー医師が苦笑して言うと、ドクターたちが笑いながら同調した。
「まあ、ドクター・マイヤーズのアンジェラに対する熱意は時々行き過ぎたところがあるので、それについていけないのでは?」
「ああ、まぁ……確かに。デリカシーに欠けるところは否定できねえけど」
 ライアンは、何かを思い出すような顔をして頷く。

 そんな和やかな空気の中、当のガブリエラだけが、いつまでも警戒する犬のような表情をしていた。






10:00
To visit Thrones

「おはようございます、みなさん!」

 ガブリエラが元気に挨拶すると、作業場にいた全員が、一斉にこちらを見た。

「おうアンジェラ!! 待ってたぞ!!」
「おはようございますアンジェラ! 見てくださいこのエンジン!」
「アンジェラ! ○○モータースから、新しいパーツが届いてますよ!」

 喜色満面で次々に声を上げる作業着の面々に、彼女の後ろに立っていたライアンはひくりと口の端を引きつらせた。
「ワォ、換装が終わったのですね! あっ、これ、この間発表されたものですか!?」
 そう言って作業現場に近寄るガブリエラもまた、先程までとは打って変わってテンションが高い。灰色の目がきらきらしていて、心からはしゃいでいることが明らかだ。
 メンテナンス中なのか、パーツを外されタイヤを浮かした状態のエンジェルチェイサーが、数人のスタッフに囲まれていた。

 彼らが、ホワイトアンジェラが駆るエンジェルチェイサーを作り上げたメカニックチーム、“スローンズ”である。

 エンジェルライディングが爆発的な人気を博してからというもの大きな発言力を得た彼らは、それを成し得たライディングテクニックを持つアンジェラを、ほとんど崇拝しているところがある。そのモチベーションの高さは、アンジェラファンであることを条件のひとつとして集められた“ケルビム”にも引けをとらない。
 元々はほとんど期待されていない部署だったということもあり、モータース系のスポンサーを得てからというもの、エンジェルチェイサーを世界一のマシンにするという情熱はかなりのものだ。
 実際データ上では、プロレーサーを凌ぐ記録を数々叩き出している。早くプロライダーとのコラボイベントをというのが、スローンズからのもっぱらの陳情内容である。

 ついてきたライアンを放って、スローンズのスタッフとガブリエラは、とても楽しそうにバイクの専門的な話で盛り上がっている。
「それでですね、ギアを入れてすぐ戻すときに、前輪がヒュッとなるでしょう」
「ああ〜、あれですね。フワッとするほうじゃなく」
「そうですそうです、ヒュッのほう」
 色々なジェスチャーを交えながら話す彼らに、ライアンは完全についていけない。
「センサーの精度で改善するかなー。でもあんまりやるとブレーキのあれがピャーッとしちゃって、バババーってなっちゃいますしねー」
「バババーは困りますね。タタタッというくらいならなんとかなりますが。しかしあれが改善すれば、コーナーの時に安定して、今よりシュッと曲がれると思うのです」
「本当ですか!」
「しかしアンジェラ、センサーが先に反応すると、ハンドルを切る時に上にファーッとなっちゃいません?」
「うーん、確かにファーッとなるかもしれませんが、そこは勘でこう、キュッと」
「さすが俺達のアンジェラ!」
「わかりました、調整かけますね! なるべくシャッ! と反応するようにしますんで!」
「そんなにですか! 期待しています!」
 わー、と盛り上がるスローンズの面々は、嬉しそうに各々の作業に戻っていった。

「おう、ゴールデンライアン。おはようさん」

 棒立ちのライアンに、ごくフラットな調子で挨拶をしてきたのは、初老のアジア系男性、スローンズの主任である。

 彼の名前は、アキオ・スズサキ。
 元々はブロンズで小さなバイク屋をやっていた男だ。知る人ぞ知る、走り屋御用達の店。ガブリエラが初めてバイクを買った店の店主で、彼女にバイクのことをいろいろと教えた人物でもある。彼自身は、かなり大きな自動車メーカーに勤めていた経験もあるという。
 結婚した息子に店を譲って引退し、悠々自適にバイクをいじって暮らしていたのだが、一部リーグに上がることが決まったガブリエラが自分のチェイサーを作ってくれと自ら頼み込み、アスクレピオスに推薦した人材でもある。
 会社へのガブリエラの希望がとても少なかったことと、当初彼女のバイクになど誰も重要性を感じていなかったこともあって、すんなりとそれは通った。そしてこの店主、もとい主任が自らかき集めてきた筋金入りのバイク馬鹿のみで構成されたチームが出来上がったわけである。

 エンジェルライディングがまさに爆発的な大ヒットをし、ホワイトアンジェラといえばエンジェルライディング、とまで言われるようになってから、スローンズはおおいに見直された。
 トップであるダニエル・クラークは、デキる人間が好きな男だ。そして、実力のある人間には金も待遇も惜しまない。スローンズに対し当初ごく少なかった予算は数倍に増え、最新設備が用意され、エンジェルライディングに注目したモータース系のメーカーがいくつかスポンサーについた。

 つまり、このバイク馬鹿集団は、大手を振って大暴走できる環境を手に入れたわけである。──アンジェラを含め。

 キャッキャと楽しそうなスローンズとガブリエラを尻目に、ライアンはいくつか彼らと言葉をかわしたあと、そそくさとバイク馬鹿の巣窟をあとにした。
★天使の1日★
2/7
前へ / 目次 / 次へ
BY 餡子郎
トップに戻る