《──ハァイ、朝よ。お・は・よ・う》
「ううん」
《んもぅ、アタシが起こしてるのに。いつまで寝てるつもり?》
「んー……」
《遅刻しちゃうわよぉ? それともまだアタシの夢が見たいのかしら?》
「うー……」
甘く囁く声を聞きながら、ガブリエラはもぞもぞと、布団の中で身動ぎした。
《──ハァイ、朝よ。お・は・》
2分後に設定したスヌーズ機能を、ガブリエラはそっと止めた。
「……むぅ」
ガブリエラは小さく呻き、手の下の目覚まし時計を寝ぼけ眼で見た。ヘリオスエナジーのエネルギースタンドのスタンプを100個集めて貰える、ファイヤーエンブレムの目覚ましボイス付きデジタル時計は、午前06:30を示している。
充電スタンドに置いてあるエンジェルウォッチをはめると、自動的に基礎体温が記録される。そのまま大きく伸びをして目を覚ましたガブリエラは、名残惜しさのかけらもなくすっきりとベッドから出ると、ベッド脇に置いていたスリッパを足に引っ掛ける。この間、ヒーローランドに行った時に買ったファイヤーエンブレム柄のスリッパである。
掛け布団を畳み、シーツと枕カバーを剥いで抱えると、彼女はそれをそのままバスルームの洗濯機に放り込む。そしてカーテンの隙間から朝日が差し込むリビングに戻り、薄型のテレビをつけた。
《──これだけは知っておこう! ステルスソルジャーの、時事ニュース解説!》
お馴染みのオープニングテーマとともに、ステルスソルジャーのコーナーが始まる。ガブリエラは彼がわかりやすく解説してくれるニュースを見ながら、イワンがおすすめしてくれたゴザ・マットを出して広げ、その上でストレッチをした。
20分程度の彼のコーナーが終わり、続いて天気予報。
《そろそろ秋も終わりです。今日は天気の崩れはありませんが、ぐっと寒さを感じる日になるでしょう。1枚多めに羽織るのをおすすめします》
そんなコメントとともに、実際の予想気温が発表された。確かに、ここしばらくの気温と比べるとぐっと低い。
ストレッチを各種2セットずつ終わらせたガブリエラは、立ち上がってゴザ・マットを丸めて仕舞うと、寝室に戻り、クローゼットの中から服を選んだ。
「寒いなら、今日は毛糸の……ちがいました。ニット。ニットにしましょう」
慣れないファッション用語をひとり訂正しながら、ガブリエラは白い細身のボトムと、濃いグレーと黒の、少し変わったパターンを用いたニットを選んだ。
ライアンに選んでもらった服はモノトーンが主で、そのかわりデザインが少し凝っているものが多い。「あなたの赤毛はかなり派手だし、ファッションに不慣れなあなたがどれを選んでもそれなりにサマになるようにってことでしょ」とネイサンが教えてくれた時は、そんなことも考慮してくれていた彼にとても感心したものだ。
選んだ服をハンガーから外して、シーツを剥いだベッドの上に広げて置いてみる。素敵だが少し物足りないような気がしたガブリエラは、3秒ほど悩んで、明るい茶色をした細身のレザーベルトを腰のところに置いてみた。ライアンに服を買ってもらった時、良くしてくれた女性店員が「ひとつあると便利よ」と勧めてくれたものだ。
寒いなら上着を出すかとも思ったが、これ以上アイテムを足すといいのか悪いのかわからなくなりそうだったので、保温効果のあるシャツを1枚中に着ることにする。
「──いけています! たぶん!」
コーディネートに満足したガブリエラは、キッチンに行って冷蔵庫を開けた。中身が半分ほどあるミルクのパックを取り出すと、そのまま一気に飲み干す。
「ぷは」
空になったパックをばりばり破って開き、内側を洗って、備え付けのステンレスの網棚に伏せる。シュテルンビルトは、ゴミの分別が結構厳しいのである。
ガブリエラは再度洗面所に戻ると、寝汗とストレッチの汗を吸ったパジャマを脱いで全裸になった。そのままバスルームに入り、汗でべたついた身体をシャワーで流す。
能力の影響で代謝が非常に良いガブリエラは、入浴を怠るわけにはいかない。それに、水を貴重なものとして扱い、入浴というと布で体を拭くのが主だった故郷で育ったガブリエラは、水を贅沢に使って身体を清める入浴が好きだった。そのくせ身体は適当な石鹸で洗っているということを聞いたカリーナが、いろいろな種類の石鹸やハンドクリームなどが売っている、可愛い店に連れて行ってくれた。
その時選んだ石鹸は朝晩に体を洗うガブリエラ向きの低刺激のもので、使っているうちに花の彫刻が削れてしまったが、とても良い香りで気に入っている。店員の勧め通りに泡立て用のネットで石鹸を泡立て、顔や体を手でやさしく丁寧に洗った。
シャンプーはせず、地肌の汗を流すだけ。最後に歯や舌も磨いてさっぱりしたガブリエラは、体を拭き、赤毛の水気をあらかた取ると、ネイサンおすすめの美容化粧水をつけ、顔だけでなく手や首、耳の後ろにも漏れなく日焼け止めを塗る。
ガブリエラはひどく肌が白く、日光対策をしないとすぐにそばかすまみれになってしまう。子供の頃は赤毛とともに、ひどいそばかすがいじめのネタになった。
シュテルンビルトは故郷ほど日差しが暴力的ではないし、バイクに乗るときはフルフェイスのヘルメットをするために、今では「チャームポイントじゃないの」とネイサンやカリーナに言ってもらえるくらいには随分ましになった。しかし現在のようにチャームポイントに収まる程度ならいいが、あまりに多いと格好がつかないとガブリエラ自身も思うので、夏でなくても日焼け止めはできるだけ塗るようにしている。
ちなみに日焼け止めは、アスクレピオス、もといドミニオンズの製品だ。
パッケージは、ホワイトアンジェラ。美白効果と“ホワイト”アンジェラの名前をかけていて、一流医薬品メーカーであるアスクレピオスの技術力により、肌に優しい美容成分配合、しかししっかり効果もあると、ネットのクチコミもとてもいい。
時間との勝負なのだと教えられたスキンケアをやり遂げたガブリエラは、シーツと枕カバーの入った洗濯機に、濡れたタオルを放り込んだ。決まった量の洗剤をきっちり量って入れ、蓋を閉めてボタンを押す。洗剤はスカイハイのパッケージのもので、石鹸の爽やかな香りがする柔軟剤入り。最近のお気に入りだ。
最新のドラム式洗濯機が静かに回り始めると、今度は脱いだままだった白いシルクのパジャマを洗面台に溜めたぬるま湯に漬ける。浴室にあるシャンプーを半プッシュして軽く泡立て、そっと押し洗いした。
このシルクのパジャマは、メトロ事故の後で入院していたガブリエラに、アニエスたちHEROTVのクルーが、お見舞いにと合同でプレゼントしてくれたものである。絹糸は髪の毛と同じタンパク質から構成されているので、中性洗剤でもいいがシャンプーでも構わないのだということは、プレゼントしてくれたクルーのうち、スイッチャーのメアリーが教えてくれたことだ。
ガブリエラは絹製品自体初めて手にしたのだが、下着も何も着けていないまま身に纏う絹のパジャマはつるつると滑るような肌触りで、ガブリエラはとても気に入っている。こうして手洗いをしなくてはいけない面倒も、まったく気にならない。
下着を着けずに、という着方はネイサンに「シルクは素肌に着ると肌触りが素敵よ」と教えて貰ったやり方で、やはり女神様の言うことに間違いはないのだとガブリエラは再度確信した。
鼻歌を歌いながら、ガブリエラは泡を丁寧に濯いで生地が傷まないように水気を絞ると、ハンガーにかけて浴室に吊るした。前の安アパートと違って自動乾燥機能がついた綺麗な浴室は、部屋干しにも大活躍するのだ。
洗濯を終えたガブリエラは、バスルームの引き出しに入れている下着を身に着けた。
色気のないスポーティなボックスショーツと、揃いのブラトップ。いくら胸が小さくともきちんとしたブラジャーを着けるべき、と女性としての常識とやらを言われたことがなくもないのだが、サイズにしてAA、背中にも脇にも余計な肉が全く無いため、誰も何も言わなくなった。寄せようにも上げようにも、元になるものがどこにもないのだから仕方がない。
次に生乾きの赤毛をドライヤーで丁寧に乾かし、ブラッシング。
故郷で赤毛は差別の対象であったし、シュテルンビルトに来てから、ガブリエラは自分の髪を坊主頭に刈り上げていたので、髪を褒められたことなどいちどもなかった。
しかしライアンに言われて伸ばすようになり、ちゃんと定期的に美容院に行き、自分でも丁寧に手入れをするようになった真っ赤な髪は、なかなかのものだ。
ガブリエラは正直自分ではよくわからないが、この赤毛はライアンが最初に褒めてくれたものであるし、他の者にも今のところ褒められたことしかないので、最近好きになってきた。
一見ロングヘアの髪は、アップにしない限りわからないが、実は後頭部の下半分、耳のラインくらいまでが短く刈り上げられたツーブロック・スタイルだ。
細かいウェーブのついた赤毛は、手入れをせずにいるとあっという間に鳥の巣のようになってしまう。実際、子供の頃はそんな感じだった。
そんなガブリエラの髪を扱いやすく、それでいて個性的にと美容師が提案してくれたのがこのスタイルだ。ガブリエラも気に入って、髪が伸びても刈り上げ部分をキープするのは変えていない。
刈り上げていることで実際は半分しかない長い髪を乾かすのは、さほど苦ではない。
昨夜美容師の言う通りのやりかたでシャンプーとトリートメントをした髪は、すぐに指通りが滑らかになった。仕上げにほんの僅かにヘアオイルを手に取り手櫛を入れれば、ぼわんと広がっていた髪がちょうどよく収まり、ウェーブごとに艶が光る。前髪を作らず胸のあたりまでの長さになった赤毛は、さほどスタイリングをしなくてもいい感じに見えた。
ガブリエラは整った髪をそのままうなじのところで簡単にまとめ、ハロウィン・マーケットの射的で取った、星の飾りがついたゴムで括った。
《──規定体重ニ足リマセン》
「むむっ」
会社から支給された、体脂肪はもちろん筋肉量や体温まで測る上、エンジェルウォッチと同期もできるという最新式の体重計に乗ったガブリエラは、足元からの機械音声に眉を寄せた。
ミルク半パック飲んで若干ズルをしたというのに、まだ体重が足りないらしい。女性としての体脂肪も足りていない、と追撃してくる体重計からそそくさと降りた下着姿のガブリエラは、バスルームをあとにした。
リビングに戻ると、分解したバイクの横に置いてある、掃除ロボットのスイッチを入れる。
すると、ピロロン、とかわいい音がして、充電スタンドから平べったい掃除ロボットが滑り出した。稼働中は音楽が流れる設定にしてある掃除ロボットは、軽快な音楽を鳴らしながら、隅々まで床を滑っていく。
この掃除ロボットはバーナビーに勧められたもので、この部屋に引っ越して間もなく購入した。普通の掃除機のように吸い込んだものを手で掻き出したりする必要もなく、充電スタンド付属のダストパックに勝手に溜まっていくものを、ゴミ出しのついでに回収して出せばいいだけという便利仕様。
安い買い物ではなかったが、掃き掃除も拭き掃除もしなくてよくなったので、とても良い買い物をした、と今では思っている。やはりお金があると楽ができるものだ、とガブリエラはしみじみ実感する。
ロボットが仕事をしている間、ガブリエラはベッドの上に広げた服を丁寧に畳み、皺にならないように旅行用の圧縮ビニールパックに入れて封をした。そしてトレーニング用のTシャツ、タオル、身の回りのものが入ったポーチ、財布などを、そのままバイクのシートバッグにもなるハードシェルタイプのリュックに詰める。
スタイリッシュで機能的なデザインは、ヒーローズでは唯一のバイク仲間のバーナビーも「いいですね、それ」と褒めてくれたものだ。彼は機械に詳しいので、ガブリエラは便利な家電やライフシステム、また通信端末やPCなどについて頼らせてもらうことが多い。逆に、ガブリエラが良いバイク用品などを見つけた時は情報をシェアしている。
ガブリエラは専用のアンダーウェアを上下着込んで靴下を履くと、愛用の特注ライダースーツに脚を突っ込む。サイズぴったりのレザーが、しっかりと全身を締め付けフィットするのが心地よい。
「今日の仕事は、クイズ番組と、写真撮影。……では、物知りのポワカさんと、美人のブランカさんにしましょう。あとは……今日はラピスラズリ」
壁に飾ってあるコレクションの中から、ガブリエラは慎重にピアスを選ぶ。
ピアスの選び方には、決まりがある。コレクションは大きさも素材もデザインもばらばらだが、無造作に集めているわけではない。すべて意味があるのだ。
彼女のピアスホールは、右に3つ、左に4つ。まずホワイトバッファローとも呼ばれる白い石のシルバーピアスを左右一対と、小さな金色の花の形のピアスをまた左右一対。ひとつ多い左耳のホールに、小粒のラピスラズリ。最後に両方の一番下のホールに、毎日着けている金色のぶら下げタイプのピアス。
それらをひとつずつちゃんと消毒してから装着し、側に置いてある鏡でチェック。
忘れ物がないか最後に確認したガブリエラは、テレビを消し、荷物を詰めたリュックを背負うと、足にするりと馴染むほど履きこなされた例のブーツを玄関で履き、しっかりと靴紐を結んだ。バイクで走っている時に紐が解けると危ないので、万が一にも解けたりしないように、結び目ごと靴の中に厳重に押し込む。
「むう、しみが……」
手にはめたライダーグローブを見て、ガブリエラは顔をしかめた。ライアンから教えてもらった、鍋でも暖められるスープ缶を昨夜作った時、横着をして鍋つかみがわりに使ったらスープをこぼしてしまったのだ。
一応洗ったのだが、トマトのしみがどうしても取れなかった。しかし臭うわけではないし、予備もないので、仕方なくトマトスープ付きのグローブをはめた。
そして、ちらり、と部屋の中を見回す。テレビが消えた静かな部屋で、掃除ロボットだけが音楽を鳴らして床を滑っている。
《──イッテラッシャイマセ》
生体認証システムの音声に返事をせず、ガブリエラはライダーグローブをはめ、ヘルメットを持って部屋を出た。
──ウォン!!
会社までわざとかなり遠回りをして、ガブリエラはバイクを走らせた。単純にツーリングが楽しいというのもあるが、ガブリエラは、ゴールドステージの道を未だ全ては覚えきれていない。そのため毎日違う道を選び、こうしてシュテルンビルト中の地図を身体に叩き込んでいるのだ。
趣味と実益を兼ねたツーリングをこなし、ガブリエラは自分の部屋からさほど遠くない、アスクレピオス社の立体駐車場にバイクを乗り入れる。
もうすっかり顔なじみになった守衛が、ガブリエラがゲートを潜るために一時停車した時、気安い笑顔で手を上げて挨拶してくれた。
立体駐車場にバイクを置いたら受付で生体認証をし、社員証を発行してもらう。ネックピースタイプのそれを首にかけた後、ヒーローの送迎を行うための大型トレーラー、トランスポーターが駐車されている特別パーキングエリアに入る。
一応社内にもロッカーがあるのだが、ガブリエラはもっぱらこちらを利用している。個室であるので正体バレに関して安心して着替えられるし、ポーターに荷物を置いておけば、現場から直帰も可能という利点もあった。
ライアンのスペースと区切られたポーターに乗り込んだガブリエラは、自分のスペースのドアを開け、ライダースーツを脱いでハンガーに吊り下げた。リュックから取り出した圧縮パックを開いて、用意してきた服を着込む。最後に飾りのベルトをして姿見の前に立ち、自分の姿をチェック。
「ベルト、正解です!」
実際に着てみて改めてコーディネートに満足したガブリエラは、鏡の前でくるりとターンし、弾むような足取りで小物が入った収納を開けた。そして化粧品を取り出し、姿見の前で、簡単に化粧をする。
似非パンクロッカー・スタイルだった頃は、落ち窪んだ目を誤魔化すために目の周りを毒々しく真っ黒に囲ったりしていたが、今はもうそのメイクはしていない。
ガブリエラが取り出したのは、自分の赤毛と肌色の中間くらいの色の、ほんのりパールタイプのラメが入ったアイシャドウ。それを睫毛の生え際と目尻に軽く置き、ぼかす。唇には、自然な色付きのリップクリーム。もちろん、どちらもドミニオンズの製品だ。
大企業のオフィスに出勤する身、しかし研究職員でもないのにノーメイクはよろしくないだろうと考えた末の、たった2種類のアイテムを使った、超ナチュラルメイク。
しかしドミニオンズの美容部員スタッフに選んでもらったアイシャドウはガブリエラの目元に確かに奥行きをもたせ、赤い睫毛と馴染みつつ灰色の目を際立たせているし、薬用成分が配合されて保湿性能も高いリップクリームは体温に反応して発色するタイプのナチュラルな色で、ガブリエラも気に入っていた。
2分もかからずメイクを終えたガブリエラは、次に収納から肩がけのポシェットを取り出し、財布や通信端末、仕事用のミニ・タブレットなどの貴重品やこまごまとした身の回り品をデイパックから移し替える。
このポシェットはアントニオが手作りしてくれたもので、会社の中で小物を持ち歩くのにとても便利だ。デザインも可愛らしく、どこで買ったのと女性社員に聞かれることもあるほど。もちろん、ロックバイソンが作ってくださいましたと欠かさず自慢している。
最後に、ガブリエラは、収納のいちばん奥に仕舞っているものを取り出した。
ホワイトアンジェラのヒーロースーツの、頭部のメット。ガブリエラは赤毛をネットで簡単にまとめると、慣れた手つきでそれを被り、ポーターから出ていった。
「おはようございます! 朝ごはんをください!」
元気の良い挨拶に、社員食堂のそこかしこから「おはよう!」「アンジェラおはよー」と、口々に声がする。手を振ってくれる社員たちに手を振り返し、ガブリエラはトレイを持ってカウンターに行った。
「おう、おはようアンジェラ! 今日も元気で何よりだ! メニュー出来てるぞー」
食事を作っているコックたちが、注文しなくても、次々に料理を皿に盛ってくれる。毎朝ここで食事をすると決まっているため、彼女の体調管理をしている“ケルビム”のチームから、栄養バランスばっちりなメニューが毎朝食堂に届けられているのだ。
トレイいっぱいに皿を置いてもまだ置ききれない料理に、「あとは持ってってやるよ」と言われ、ガブリエラはありがたく頷き、セルフサービスの水を汲んでから席を探した。
朝食から社員食堂を利用する者はあまり多くなく、夜勤や、研究のための泊まりがけ明けの者ばかりだ。ガブリエラが辺りを見回していると、ポンと肩を叩かれた。
「やあ、アンジェラ。おはよう」
「あっ、エンリコ先生。おはようございます!」
へらりとした笑みを浮かべ、朝食の乗ったトレイを持ってそこに立っていたのは、白衣を羽織った男性だった。ホワイトアンジェラの活動時、負傷者の診断を遠隔で行う“ケルビム”のメンバーのひとり、エンリコ・トリヤッティ医師である。
美人に目がないイタリア系の男だが、専門である整形外科の腕は確かだ。彼の指示に従って力を使えば、どんなに複雑な傷も痕を残さずに治すことができるのを、ガブリエラはよく知っている。
ホワイトアンジェラのファンでもある彼は、ガブリエラに対してどこか兄のように振る舞う。ガブリエラを褒めたり讃えたりはするが口説いたことはなく、ライアンへの片思いを緩く応援してくれている。
「朝食? 一緒してもいいかい」
「もちろんです!」
「アンジェラ。あちらの、衝立のある席が空いています」
礼儀正しいというよりは軍人じみたきびきびとした口調で言ったのは、白いスーツに青いネクタイ、そして金のフレームのサングラスをかけた女性である。その後ろには、同じスタイルの男性ふたり。ホワイトアンジェラのボディガードチーム、“アークエンジェルズ”である。名前が長いため、最近は皆“アーク”と略しているが。
ライアンがいない時、ヒーローとして就業時間中のホワイトアンジェラの護衛は、彼らが交代で行っていた。アンジェラが女性であることを考慮して、3人いる女性ガードのうちのひとりが常に誰かチームに入っている。
「あの席ならば、外部から死角になります。メットを取っても問題無いでしょう」
私服姿だが、頭部にはホワイトアンジェラのメットを装着しているという現在の姿。
誘拐防止という理由で顔出しを控えている身である。自社内とはいえ、素顔のままホワイトアンジェラとして過ごすことは出来ない。
かと言って、医者や研究員、あるいは高学歴の一流ビジネスマンしかいないはずのアスクレピオスで、見るからに毛色の違うガブリエラが最高セキュリティエリアをうろうろしているのは不自然すぎて、正体がバレバレだ。
そのため社内で過ごす時や、芸能系の仕事をしたりする時に限り、首から下こそ私服だが、素顔はこうしてホワイトアンジェラのメットで隠して過ごしている。
ちなみにこの時身に着けているメットは、ヒーローとして出動時にするものとデザインは全く同じながらも重いコンピュータは搭載されておらず、その分軽量で、首や肩に負担にならないという特別仕様のものだ。
しかしケルビムやドミニオンズ、またアークエンジェルら、ヒーロー事業部の上層部の人間は元々“ガブリエラ”の顔を知っているので、メットを取っても問題ないのだ。
「それと……」
「はい」
「あの席なら、我々も共に食事ができます」
サングラスのせいだけでなく、いつも鉄面皮の彼らが言ったそれに、アンジェラはきょとんとした。しかしみるみるうちに、メットをしていてもわかるほど顔を輝かせる。
「というわけで、ご一緒しても?」
「──はい!」
アンジェラは大きく頷き、彼らが勧める、最も奥の席に座った。「残りの食事と、私たちの分を取ってきます」と、最も大柄な男性がカウンターに歩いて行く。
「……うーん、余計なお世話だったかな?」
「なにがですか?」
苦笑する医師に、メットを取ったガブリエラが首を傾げる。
「いやあ、アークって、もっとこう……歴戦の戦士って感じなのかなって思ってたんだけど。結構フレンドリーだね」
元々アスクレピオスの社員や研究員で、ヒーロー事業部設立にあたってチームが組まれた他の面々と違い、ホワイトアンジェラの護衛である彼らは完全に外部からの雇用である。いうなれば、傭兵だ。
全員に軍隊経験があり、要人警護のプロで、大統領やロックスターの警護経験がある者もいる。本気を出せば一部リーグヒーローとも渡り合える、というのが雇用の最低条件というくらいだ。そんなメンバーであればもっとサイボーグじみた勤務態度なのかと思っていたので、一緒に朝食を摂るような気安さが、医師にとっては意外だったのだ。
「みなさん、とても良い方たちですよ」
「そっか」
「そして歴戦の戦士でもあります」
「そ、そっか……」
喧嘩ひとつしたことのない整形外科医の伊達男は、冷や汗を流しながら笑顔を引きつらせた。
「やはり、食事はみんなで食べるのがおいしいですね!」
テーブルに着き、メットを外したガブリエラが、満面の笑みで言う。
彼女が食べている朝食は、いつもながらとてもひとり分とは思えない量だ。アークの面々も軍人上がりらしくかなりがっつりとした食事量なのだが、アンジェラの食べている量が凄すぎて、普通に見えてくる。
エンリコ医師の食べているものなど、もはや小鳥の餌か何かのようだ。──実際は、分厚いトーストにベーコンエッグにサラダとコーヒーという、ごくごく一般的なモーニングセットなのであるが。
「……やはり、大勢の食事がお好きですか」
メットを取り、にこにこしながら朝食を食べるガブリエラに、女性ボディガードが尋ねた。
「はい。自分の部屋でひとりで食べるのは、あまり好きではありません」
「だから社員食堂に?」
「はい。もしテーブルにひとりでも、他のテーブルには人がいます。こうして知っている方がいれば、一緒に食事もできます。ケルビムの皆さんが教えて下さいました。夜勤明けはここで食事をすると」
そう言って、アンジェラは4つめの目玉焼きを口に入れ、ちゃんと噛んで飲み込んでから、再度言った。
「しかしこれからは、アークの皆さんも一緒に食事をしてくれますか? それはとても嬉しいです。とても」
にこにこしているガブリエラに、アークの面々はこっそりと顔を見合わせて肩をすくめた。
なるべくでいいから、あいつと一緒に飯食ってやってくれ。
そう彼らに言ったのは、ライアンである。
ガブリエラは、ひどい寂しがりだ。
基本的にひとりが嫌いで、誰かと一緒に居たがる。一人暮らしの自宅は、寝る場所、荷物を置く場所という感覚。寂しいからか、他のヒーローのグッズで周りを固め、起きている時はずっとテレビを点けている。
飲み会やレジャーなど、友人からの誘いはまず断らないし、パーティーなども割と好きだ。かつて一緒に旅をした親友である馬のラグエルのことも、今でもずっとこだわっている。
そんな彼女は、食べるとなると信じられない程食べるくせに、朝食は抜きがち、ひどい時は高カロリーということだけを理由にジャムやバターをそのまま食べるという、食事というより給油のようなカロリー摂取をするという悪癖があった。
誰かとの食事の時は常ににこにことしていて、グルメ番組のレポーターのように美味しそうに食べるのに、ひとりのときの食事となると、無表情でジャムの瓶をスプーンでほじくり返しているという極端ぶりである。
つまり彼女は食事そのものではなく、誰かと一緒の食事が好きなのだ。ひとりの食事となると、カロリーさえ取れればいいという考えになってしまう。
彼女の部屋を訪れたライアンが最初に気付き、そしてそれを伝えられたケルビムの面々は、常に人がいて、自分たちも夜勤明けは食事を摂る社員食堂を彼女に勧めた。彼女は食事を出されれば、絶対に残さない。ここに来てくれさえすれば、予め用意した栄養バランスばっちりのメニューを提供できるし、夜勤明けで時間が合えば一緒に食事をしてやることもできるから、というわけだ。
そして、自分の部屋でジャムやバターを舐めるよりはましだが、社員食堂に誰も知り合いがいなくて肩を落とすアンジェラを見かねたアークがこっそりライアンに相談したところが、先ほどの答えである。あいつはひどい寂しがりだから、と。
ボディガードたるもの常に油断はしないものの、セキュリティが何重にもかかった大企業である自社内なら、警戒レベルは低い。
それに、ガブリエラは警護対象としてとてもやりやすい相手でもある。最初こそ警護されるということがわかっておらず突飛な行動をする時もあったが、今は予定にない行動は絶対にしないし、するとしてもちゃんとことわる。
「危ないことをするときは、ちゃんと事前に言います」という彼女の弁はまるで子供のようなそれだが、それこそがボディガードとして最も守ってほしいことである。
その上、いつもありがとうございます、と常に彼らを労うことを忘れないし、実際に疲労などを能力で癒やしてくれたりもする。ボディガードを下僕か、それこそサイボーグか何かだと思っているようなクライアントともさんざん接してきた彼らにとって、ガブリエラはかなり質のいい、好印象な警護対象だった。
そういったことの積み重ねもあり、クライアントからの要望を叶えるべきと結論を出した彼らは、社員食堂に限り、当番を作って交代制で、彼女と食事をすることにしたのだった。今もガブリエラと挨拶をした3人は全員テーブルに着いているが、こっそりと護衛に立っているアークが少し遠くにもうひとりいる。
しかし彼らは決して嫌々ではなく、全員が、単に彼女と食事をしたいと思っていた。
「俺の実家の犬も、庭でひとりでメシ食わせるとしょんぼりするんですよね……」
「私の猫も、留守番させる時はあんまり食べなくって……」
「うち、子供にひとりで飯食わせる時が……ちゃんと食ってるかなうちの子……」
「こっち見て、きゅーんきゅーんって鳴くんですよぅ……」
ガブリエラがセルフサービスの水を汲みに行っている間、何やら切なそうな顔で言うアークたちの言葉を、エンリコ医師はうんうんと頷きながら聞いていた。