#044
★ヒーロー試験★
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「え!? ここ!? このへん!?」
「もう少し下、そこそこ、リズムにあわせて──ストップストップ!」
「うわーん、難しいよー!」
 床の上に横たわった心肺蘇生の訓練用人形を前に、パオリンが泣き言を言う。心臓マッサージのやり方について教えていたイワンは人形に突っ伏すパオリンに、困ったように頭を掻いた。
「いやいや、大丈夫! 何度もやれば必ず出来るようになるでござる!」
「そうかなあ……」
「必ず」
 イワンは、力強く頷いた。ヒーロー試験の勉強中だからか、素顔のままでもござる口調である。

「それに実際には、生きるか死ぬかのギリギリの人間に施さねばならぬこと。今のうちにしっかり練習しておかなくては。拙者は資格も取りましたが、時々練習するでござるよ」
「う、そうか。そうだよね……」
 いざという時に失敗したら大変だもんね、と真剣な顔になったパオリンは、大きく頷いた。
「……うん。ボクは皆と違って、免除がたくさんあるもん。そのぶんちゃんと頑張らなくちゃ。ナターシャにも迷惑がかかるし」
「キッド殿は、頑張っているでござるよ。ナターシャさんも信じているでござる」
「うん……」
 パオリンは、何かを噛みしめるようにして、何度も頷いた。

「よーし、頑張る! 折紙師匠、お願いします!」
「し、師匠? あ、はい、ま、任せるでござるよ!」
 やる気満々のパオリンに、イワンは背筋を伸ばした。



 そしてこちらは、トレーニングルームに併設された、組手用の部屋。
 講師役である虎徹と数分の組手を終えたカリーナは、顔を赤くしてはあはあと息をついた。

「うーん。ブルーローズ、お前あんまりケンカとかしたことねえ感じだなー」
「あるわけないじゃない!」
 私は普通の女子高生なんだから! ときいきい言うカリーナの言い分はもっともだったが、彼女が虎徹に対してへっぴり腰でなかなか体を掴んだり出来ないのに別の理由がある事は、虎徹以外、ギャラリー席でテキストを開いている全員が気付いていた。
「でも、セオリーは守れてる。もうちょっとぎこちなさが抜ければ、最低合格ラインはイケるんじゃねえか?」
「……まあ、実際初回はそんな感じだったけど」
 そして実際のヒーロー活動において、リキッドガンや氷を操る能力により、常に中距離か遠距離から犯人を確保するブルーローズは、組手や格闘の勘がすっかり消え去ってしまっていた。いつものトレーニングも、体力向上のためのメニューはこなしているが、格闘に関してはほとんど行っていない。

「……努力を怠ってたのは認めるわ」
「いやいや。お前はそういう能力なんだから、当たり前だろ。実際には犯人と取っ組み合いとかすんなよ、危ねえから。そういうのは俺らに任しときゃいーの」
「う、うん……」
 真剣な顔で言われ、カリーナは動きまわったせいだけでなく顔を赤らめ、ぎこちなく頷いた。
「でも試験は試験だしな。合格できりゃいいんだから、そこだけ確実にできるように調整してこうぜ」
「わかったわ。……お願い」
「よしよし、おじさんに任せとけって。──じゃ、次はアンジェラだな」
 カリーナがベンチに座って汗を拭き始めたのを見届けた虎徹は、近づいてきたガブリエラを見た。動きやすいトレーニングウェアにいつものブーツを履いたガブリエラは、邪魔にならないようにかきつめに赤毛を縛り、虎徹の前に立った。

「よし。で、アンジェラは格闘技とか、ケンカとか経験ある?」
「ありません」
「そっか」
 健康診断で引っかからないようウェイトを増やしている、にもかかわらずまだまだ細すぎるほど細いガブリエラを見て、虎徹は、まあそうだろうな、といわんばかりに頷いた。

「んじゃ、どれぐらい動けるのか見るから、とりあえずかかってこーい」
「かかってこいと言われても……」
 ガブリエラは、きょとんとした様子で首を傾げた。型だけとはいえ習ったことのあるカリーナと違い、ガブリエラは格闘実技自体初めてであるので、何をどうすればいいのかわからない。
「とにかく俺をぶっ倒す気でかかってこい。なんでもいいから」
「ぶったおす……なんでも……」
 ふむ、という感じで首を傾げ思案したガブリエラは、何でもない様子で手を出した。
「わかりました。よろしくお願いします」
「ん? おう……え?」
 ガブリエラが出した手を握ろうとした虎徹は、きょとんとした。ガブリエラがすっと手をのけ、虎徹の手と手のひらを合わせるのではなく、人差し指をぎゅっと握ったからだ。ガブリエラ自身はずっと虎徹の目を見ていたので、反応が遅れた。

「ぎっ……!」

 虎徹が、悲鳴にならない声を出す。ガブリエラは、彼の人差し指を思い切りひねりあげていた。

 ──ガッ!!

「いっ、でえええええ!」
 しかもそのままコンマ1秒も開けず、ガブリエラは思い切り体重をかけ、虎徹の膝を渾身の力で踏み抜いた。膝を伸ばしていれば、もしかしたら虎徹の膝が逆側に折れかねない所業だ。
 しかし熟練の勘で虎徹は膝を引くのではなく逆に突き出し、それを免れた。だがそれも膝の皿を犠牲にした、捨て身の対応である。
 すでに次の動作に移っているガブリエラは虎徹の指をがっちりと持ったまま、さらに肘を捻り上げるように引こうとしている。腕力はさほどではないガブリエラだが、握力と指の力はなかなかのもので、しかも掴まれているのが利き手の人差し指とくれば、振り払うのは少し難しい。
「あででで、くっ、そ! ……って、アレ?」
 痛みに顔をしかめた虎徹は、空いた左腕を伸ばしてガブリエラのトレーニングウェアの腰を掴み、力任せに持ち上げた。軽い身体はすぐに持ち上がり──いや、持ち上がりすぎた。
「だっ……!?」
 虎徹が思い切りガブリエラを持ち上げるのと同時に、ガブリエラもまた床を蹴っていた。つまり虎徹の行動はガブリエラにとって補助にしかなっておらず、虎徹の腕力も借りて思い切り飛び上がったガブリエラは、細い体を絡みつかせるようにして虎徹の首に腕を回し、ぐるんと体を捻って背面にしがみついた。

「がは、絞まる絞まる、しま……っ!」
「ストップストップ!」
 その細身からはイメージできない握力でぎりぎりと虎徹の頸動脈を押さえにかかっているガブリエラに、バーナビーが慌てて駆け寄る。その後ろから、のしのしとライアンが歩いてきた。
「オッサン、大丈夫か? コイツのブーツ鉄板入ってっからなあ、膝の皿割れてない?」
「鉄板!?」
 ガブリエラを後ろから引き剥がしたバーナビーは、ひっくり返った声を上げた。
 呆然としていたギャラリーたちがガブリエラを見ると、バーナビーに後ろから羽交い締めにされ、身長差もあってぶらんとぶら下がっている彼女は、まるで無害そうな顔で首を傾げていた。

「お、っまえ、何が喧嘩したことねえって!? 滅茶苦茶喧嘩慣れしてんじゃねーか!」
 無事な方の膝をついてげほげほと激しく咽ていた虎徹は、生理的な涙を浮かべながら、やっと立ち上がった。
「いいえ、喧嘩をしたことはありません。襲ってこられた時に応戦したことはありますが」
「あっそう……」
 疲れたような様子で、虎徹は肩を落とした。
「あー……。格闘技やったことねえのは本当だな。メチャクチャだ。でもその分動きが読めねえし、手段選ばないっていうか致命傷狙いばっかだし……まあ要するにアレだ、喧嘩強い不良のやり方」
「不良ではありません。喧嘩もしていません」
 未だにバーナビーにぶら下げられたままのガブリエラはそう抗議したが、虎徹を含めて誰も取り合わなかった。
「何より動きに全然躊躇いがねえわ。なんであんなノータイムで攻撃できっかね……」
 人に限らず生き物を攻撃するのには、普通、心理的な抵抗が働く。しかしガブリエラの動きにはそれが全くない、と虎徹は怪訝な表情で言う。
 そしてこの躊躇いのなさが、ガブリエラの身体的な弱点をカバーしている、とも。スポーツ格闘選手よりも決死の覚悟でナイフを持ったチンピラのほうが確実に相手を殺せる可能性が高いというのと同じことだ。
「え? なぜなら」
 ガブリエラは、きょとん、と目を丸くした。

「死んでいなければ治せますので」

 当然のようにさらりと言った彼女に、全員がぞっとする。
「手っ取り早く無力化できる急所を的確に狙う。どうせ後で治せるのだから全力で、殺す気で。そうしろと習いました」
「誰に」
「故郷の……ギャングの方たちです」
「本物の喧嘩殺法じゃねーか!」
 虎徹が、全力でツッコミを入れた。聞けば、怪我を治す礼として食べ物をもらったり、護身術やナイフ、銃の扱い方を習ったりしていたらしい。

「……でもまあ、金的とかやろうとしなかっただけ」
「そこは元々狙っていません」
 フォローを入れようとした虎徹の言葉を、その本人が台無しにした。
「男性はそこを特に意識して守りがちなので、蹴ったりするのは難しいです。男性ならば喉仏のほうが無防備です。腕で守ろうとすると、今度は胸や腹が丸出しになりますし」
 アントニオが、自分の喉の出っ張った部分を手のひらで押さえ、「んぐっ」と言った。
「関節は逆側から打つのがコツ。小指1本でも折れると、相手の気力が削がれます。道具も扱いづらくなりますし」
 折れはしなかったものの、逆向きに思い切り曲げられてまだ痛む指を押さえ、虎徹が反射的に一歩退く。
「目などの粘膜狙いも効果的です。目を狙うと警戒して自分から視界を塞いだりすることもあるので、そうなったらもうどうとでもできます」
「どうとでも」
「銃や刃物があればもっと簡単ですが、ボールペンなども武器になります。突き立てれば割と簡単に刺さりますし、耳の穴に突っ込んだりも、むぐ」
「もういいわかった、黙れ」
 バイオレンス極まりない内容をぺらぺら話すガブリエラの口を、ライアンが塞いだ。

「……なあ、アンジェラの故郷って……そんなに治安悪いのか?」
 呆気にとられていた虎徹が、おそるおそる尋ねた。ライアンが肩をすくめる。
「俺も前に調べたけど、毎年世界のワースト3位に入ってるとこだな。ギャングの巣窟だし、ドラッグも蔓延してるし。渡航の時は飛行機乗る前に死んでも文句言わない、大使館に助けは求めない、みたいな誓約書にサインさせられるような所だよ。あとは……こいつの地元からはだいぶ離れてるけど、NEXT刑務所があるな。ほら、ジャスティスデーの時の4人が収監されたとこ」
 周りが数千マイル荒野続きの陸の孤島、しかも昔の戦争の地雷が馬鹿みたいな数埋まりっぱなしなもんで、脱獄しても野垂れ死にって理由でここに建てたらしい、とライアンは続けた。

「シュテルンも治安がいいとはいえねえけど、比べもんにならねえ感じだな……うぐっ、イテテ」
「あのう、すみません。なんでもいいと言われたので……」
 申し訳無さそうにするガブリエラを、バーナビーがやっと下ろす。華奢な肩を縮こまらせるガブリエラに、膝を庇って立った虎徹も、困った様子で頭を掻いた。
「……いや、俺もちょっとナメてたしな」
「オッサン心広いなー」
 さっすがベテランだわー、とライアンが賑やかした。
「本当にすみません。怪我をしたならちゃんと治します」
「ん、あとで頼むわ」
 多分膝があとで真っ青になる、と虎徹は苦笑し、咳払いをした。

「アンジェラは動きは鋭いし、人間のどこを無力化すればいいのかはよくわかってんな。……実戦経験で」
 それは殺すか殺されるかという故郷での経験、そしてホワイトアンジェラとしての救助経験、どちらも糧になったものだ。そして、なんといってもこの体格。一発でも喰らえば、彼女はすぐに戦闘不能になってしまう。世界でもトップで治安が悪い土地での生活の中、生きるか死ぬかに慣れすぎて動きから躊躇いを消さざるをえなかったのだろう、と虎徹は正しく察した。
「それをこれから拘束技に活かしてこう。あと、くれぐれも! やりすぎないように! 急所狙い、目潰し、関節逆パカ、武器、その他諸々、とにかく半殺し全面禁止!」
「……治せますのに?」
「治せてもダメ!」
 どこか不貞腐れたようなガブリエラを、虎徹はまるで父親のように、あるいは犬の訓練士のように叱りつけた。

「いや〜、予想以上に猛犬注意だなこいつ」
「……ライアン、あなた知ってたんですか?」
 怪訝そうな目でバーナビーが問うと、ライアンは肩を竦めた。
「まあな、実際見るのは初めてだけど。飲み屋でガラ悪いデケェ男に絡まれても全然ビビらねえし、飲み比べふっかけて絶対勝つから喧嘩には発展しねえんだけど、慣れてんな〜っていうのはわかるじゃん」
「どうせ私は田舎の不良です……」
 ガブリエラは頬を膨らませ、不服そうな顔をしている。
 田舎の不良とかいうレベルか、とバーナビーだけでなく全員が思ったが、誰も何も言えなかった。いつものテンションなのは、「引くわァ」などと言いつつも、いつも通りにガブリエラの赤い髪をぐしゃぐしゃ掻き回しているライアンだけである。

「治せますのに……」
「うんすげー合理的な考え方だけどな、それ人間扱いしてないともいうからな? アウトレイジにも程があるからな?」
 納得行かないような顔をしているガブリエラに、ライアンは妙にゆったりと言った。
「しかし、本当に、ヒーローになってからは何もしていないのですよ! ヒーローが騒ぎを起こしたら会社に迷惑がかかりますし、免許剥奪もあるから絶対にやめろ、とシンディに言われたので」
「ほんと、そのヒトいなかったらどうなってたかだなお前……」
 何かとシンディが、シンディが、とガブリエラが言うので、ライアンは顔を合わせたことのないその女性の名前をすっかり覚え、そして何やら親近感を感じている。癖の強い犬の手綱を握って苦労した者どうし、というところだろうか。

「ま、考え方を変えろとまでは言わねえけど。カメラの前で絶対言うなよそれ」
「むう、わかりました。言いません」
 従順に頷いたガブリエラの赤毛を、ライアンは「よし」と言ってかき混ぜた。そのやり取りに、虎徹がぽかんとする。
「……お前すげえな」
「そう?」
 虎徹が言うと、ライアンは首を傾げた。
「確かにコイツのこういうとこ、ヒーローらしくってんなら大問題だけどよ。ああいう土地で育ったら、こうもなるだろ。でなきゃ生きていけねえんだから」
「……あー、まあ、それはなあ」
「俺も最初は、っていうか今もちょいちょいドン引きするときあるけど、こっちの常識押し付けたってしょうがねえし」
 上手く取り繕えりゃ問題ねえこった、と、ライアンはガブリエラの頭をぽんぽんと叩いた。
「コイツも、教えりゃちゃんと言うこと聞くしな」
「確かに、アンジェラは素直だよな、いつも」
 これでガブリエラが自分の考えを押し通して行動するのであれば虎徹ももっと彼女の考え方について言及するが、彼女は不思議そうな顔をするものの、不満気な様子も見せず、とりあえずは命じられたとおりにする。特にライアンから言われれば、絶対厳守で実行する。
「扱い方次第だって」
 ライアンは、平然と言った。
 その様子を見て、もしライアンがいないまま彼女が一部リーグに上がっていたら、と虎徹たちはふと想像し、冷や汗を流した。彼らの脳裏に浮かぶのは、出くわした犯人の目を潰し、関節を逆に折り、それをすっかり治して、何食わぬ顔ではいどうぞと警察に差し出すホワイトアンジェラの姿である。

「……ライアン。くれぐれも、アンジェラのことはよろしく頼みますよ」

 猛犬注意。飼い主はきちんと管理を。
 そんな思いを込めてバーナビーが言うと、ガブリエラの頭に手を置いたままのライアンは、「は? おう」と、不思議そうに首を傾げた。



 そうして虎徹がカリーナとガブリエラに格闘実技の指導を続けていると、ピピピ、とライアンの手首の端末が電子音を響かせた。びく、とガブリエラの肩が跳ねる。
「お、もうそんな時間か」
「うううう、まだお腹が空いていません」
「空いてようが空いてまいが関係ねえの。あと3キロ太らなきゃなんねーんだからな」
 ぴしゃりと言ったライアンはガブリエラの首根っこを掴み、ベンチにあるボックスまで連れて行った。またその中からアスクレピオスのマークが入ったいくつかのパックを取り出すと、ガブリエラに押し付ける。
「ほらノルマ」
「ううう」
 ガブリエラは、非常に嫌そうな顔でパックの山を睨みつける。

 筆記試験や実技試験はもちろんのこと、しかしその前に健康診断の体重制限で引っかからないようにと、ガブリエラはケルビムの医師たちが定めたメニューでもって体重を増やそうとしている。
 そのためにヒーローとしてやむを得ない時以外は極力能力を使わず、そしてひたすら吸収が良く高カロリーなものを、こまめに何度も摂取していた。
 大食漢、という印象で実際そのとおりであるガブリエラだが、それはいつも食べた端から能力で使ってしまうからである。今回はそれをせず延々と溜め込んでいるため、ガブリエラはあまり空腹を覚えず、消化も遅い。
 全く腹が減っていないのに、高カロリーの、しかも高カロリーなだけで大して美味しくもないレトルト食を延々と詰め込む行為は、なかなかにつらい。そのせいでぐだぐだとしているガブリエラを見かねた医師団は、その管理をライアンに投げた。
 彼女がライアンを好いていて、彼の言うことなら何でも聞くということはもはやアスクレピオスのヒーロー事業部に関わる全員が常識としており、アンジェラの管理はライアンの仕事だ、というのが共通認識だったからだ。
 勉強を見るのも食事の管理をするのも同じことだと引き受けたライアンは、時間ごと、嫌がるガブリエラに食事をさせているのである。
 その様はもはや護衛ではなく保護者、いや本人が“犬”と呼ぶように、まさに飼い主と犬そのものであった。

「食えっつってんだろ、ほら口開けろ」
「ううう、あー……」
 ばりっと開けたパッケージにスプーンを突っ込んだライアンは、見た目離乳食にも似たそれを、嫌がるガブリエラの口元に持っていく。ガブリエラは苦虫を噛み潰したような顔で、しかしおとなしく口を開けた。
「……なんでお前が食べさせてんだ」
 いわゆる“あーん”をしている彼らに、アントニオが怪訝な顔をする。
「飯だけ渡すとなかなか食わねえんだよ、コイツ。でもこうやって食わせると口開けっからさあ」

 ジャムやバター、果ては油までそのまま経口摂取することに躊躇いのないガブリエラであるが、それは能力による強い空腹感があるからだ。
 能力の使用を制限したことで久々の満腹感を感じている彼女にとって、腹がいっぱいの状態でおいしくないものを口に詰め込むというほぼ初めての体験は、想像以上に苦痛だったようだ。
 しかし彼女は習慣的に食事を残すことが出来ず、また手ずから与えられた食べ物は全て受け取ってしまうという癖もある。そのためこうして直接口に食べ物を詰め込まれると、それを拒むことが出来ないのだ。しかもそれがライアンであれば、尚更。

「あっそう……」
 呆れ果てたような顔をしたアントニオは、いかにも嫌々、しかしライアンの差し出したスプーンを拒めずに涙目で口を開けるガブリエラと、そんな彼女に仕方なさそうに、しかしどこか楽しそうな様子で次々スプーンを差し出すライアンから、そっと目を逸らした。「今時の若いのってわかんねえなあ」という呟きとともに。

 そしてその影から、カリーナが、どこか羨ましそうな様子で、ふたりをちらちらと見遣っている。






「前から少し気になっていたんだが……」

 そう切り出したのは、休憩として飲み物を飲んでいたキースである。
 側に固まっているのは、バーナビー、ライアン、ネイサン。合格余裕組でもあるメンバーだ。
 他の面々はといえば、ガブリエラは“内容を理解していてもスペルミスが危ない”として専門用語の書き取りを行っており、その並びで、イワンが主に講師役となり、パオリン、カリーナが筆記試験の最終チェックを行っている。そして虎徹とアントニオもまた、「学生時代のテスト前もこんなんだったな……」などと懐かしみつつ、分厚い新規定の書類の束を睨んでいた。

「ゴールデン君とアンジェラ君は、恋人同士なのかな?」

 爽やかな笑顔であっさり言ったキースに、バーナビーとネイサンは、「うわあ聞いちゃったあ」という顔をした。
「いや違うけど」
「え? 違うのかい?」
「違う」
「違うのに、あんなに仲が良いのかい? 先程の、“あーん”などというのは、恋人同士でしかやらないことかと思っていたのだけど、最近は違うのかな」
「えー……あー……まあ……」
「余計なことかもしれないが、恋人同士ではないなら、あまり女性に馴れ馴れしすぎる行為は目に余るよ。というか、私はちょっと目のやり場に困るかな」
 そうだもっと言ってやれ、とバーナビーとネイサンは、黙ってコーヒーを飲みながら、我らがKOHの動向と、ライアンの返答を見守った。
「あー……。その、恋人じゃねーんだけど」
「ではどういう感じなんだい? 妹のような、とか?」
「妹ではねえかなあ。……えーと」
 ライアンは、空中に目線を飛ばした。そしてしばらく考えてから、やがて言った。

「……………………犬……?」

 ぼそり、と、しかも真顔で発されたその発言に、バーナビーとネイサンがコーヒーを噴いた。
「い、犬?」
「あーうん。手のかかる犬っていうか……」
「あんた……」
 さすがに呆れて、半目になったネイサンが口を出そうとする。しかしそれは、ぱあ、と満面の笑みになったキースによって阻まれた。

「なるほど、そうかい! 犬!」
「えっ、納得するんですか!?」
 まさかのリアクションに、バーナビーが素っ頓狂な声を上げた。
「はっ。もしかして、今まで君が私に相談してきた犬の話は、全てアンジェラ君のこと……?」
「あ、おう」
 ライアンが頷くと、キースは「そうか! やはりそうか!」と更に顔を輝かせた。ネイサンが、「察しちゃったわよまさかで」と変な汗を流している。
「そうか、アンジェラ君はゴールデン君の犬! 納得したよ!」
「えええええええ」
「まさかの反応すぎるわ……っていうか、ちゃんと意味わかってる? スカイハイ」
 唖然とするバーナビーと、怪訝な顔をするネイサンに、キースは笑みを浮かべたまま振り向いた。

「犬のように、かけがえのないパートナーということだろう?」

 その汚れのない、輝くような笑顔に、あーそういうふうに取ったかあ、とふたりは遠い目をした。ライアンは特に否定も肯定もせず、ただコーヒーを飲んでいる。



「──あああああ!? 何だこのテキスト! 俺持ってねえぞ!?」
 大きな声を上げて立ち上がった虎徹に、ガブリエラはきょとんとした。虎徹が持っているのは、彼女が勉強に使っていたテキストである。
「すっげーわかりやすいんだけど!?」
「本当でござるな」
 新規定と従来のままのところが色分けされてるでござる、とイワンが感心した様子で言う。横から覗き込んだパオリンとカリーナも、テキストを見て目を丸くした。
 皆が勉強に使っているのは、司法局から渡された、分厚い新規定の束である。正式な書類であるが、冗長だったり難解だったりする言い回しばかりが用いられたそれはわかりにくく、皆それぞれ重要事項をノートにまとめたりしながら勉強していたのだ。

「あ、ほんとだー! わかりやすい!」
「重要なところ、付箋ついてるし……何このテキスト! これがあればかなり違うわよ!? なんでギャビーだけ持ってるの!?」
 カリーナとパオリンが、目を丸くする。
「え、皆さん持っていないのですか?」
 ガブリエラが首を傾げると、持ってない! 持ってないわよ! と声が上がった。
「うわ、本当だ。これ俺も欲しいな……どうやって手に入れたんだ、こんなの。ライアンか?」
 アントニオが尋ねると、ガブリエラは、ふるふると首を振った。

「いいえ、ペトロフさんが下さいました」
「裁判官さんがあ!?」
 ひっくり返った声を上げたのは虎徹だが、他の面々も、思ったことは同じらしい、驚いた顔をして、ぽかんと固まっていた。
「はい。ですので、皆さんも持っていらっしゃると思っていました」
「持ってない持ってない! ええええ、ヒーロー管理官ってひとりのヒーロー贔屓とかしねえんじゃねーのかよー!」
 虎徹が、地団駄を踏む。しかしガブリエラは、こてんと首を傾げた。
「いいえ、贔屓などではないと思います。頼めば普通に下さいますよ」
「……そうなんですか?」
「はい。どこから勉強したらいいかわからないので教えてください、と言いましたら、次の日にこれを下さいました。これがなければどうなっていたことか」
 まだ唖然とした様子のイワンに、ガブリエラは感謝しきりです、と言わんばかりの顔をしている。
「でも、管理官に“わかんないから教えて”なんて言えないよね」
「というか、言うっていう発想自体なかったわ……」
 パオリンとカリーナのその発言に、ガブリエラ以外の全員が、確かに、と頷いた。

「ちょっと見せていただいてもいいですか? ……うわ、本当に分かりやすい」
 近づいてきたバーナビーが、テキストを手にとって言った。横から覗き込んできたネイサンとキースも、「あらまあよくまとまってる。いいわねこれ」「これは分かりやすいね。私もこれがあれば……」と感心した声を出した。

「あ、そのテキストなー。俺もこいつから聞いて、管理官に貰いに行ったぜ。フツーにプリントしてくれたけど」
「本当ですか?」
 口を出してきたライアンに、バーナビーが振り返る。
「おー。おかげでサクサク覚えられたわ。何? 皆持ってなかったのかよ? そりゃあ苦労するわな」
 ライアンがさもあらんという様子で言うので、皆がそれぞれ顔を見合わせた。
 そもそもいくらライアンが優秀でも、シュテルンビルトに何年もいるわけでもない彼が、この冗長で膨大な資料の束から要項だけを抜き出して、ガブリエラに教えられるまでになるわけがない。しかし、それを可能にしていたのがこのテキストであったのだ。

「ホラいるだろ、サボると容赦なく単位落とすけど、ちゃんと勉強してて質問もしてくる生徒には結構優しいセンセーってさ。あのヒトそのタイプ」

 ライアンがそう言うと、テキストを持っていない全員が立ち上がり、同じジャスティスタワー内にある司法局に走っていった。無論、向かうのはヒーロー管理官の執務室である。






 ──そして、1週間後。

 結局ユーリが全員に渡すことになったテキストのお陰か、筆記試験はガブリエラ以外、全員追試無しで合格。
 実技試験についてもそれぞれ若干の問題が起きたりで追試となった者もいたが、無事合格することが出来た。健康診断においても同様で、結局ガブリエラは直前に水を1リットル飲んで挑むことで、何とかクリア。

 こうしてシュテルンビルトのヒーローたちは免許を更新し、今シーズンも一部リーグで活躍できることとなったのだった。
★ヒーロー試験★
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BY 餡子郎
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