#039
 西部劇のガンマンのようなカーアクションを繰り広げ、調子に乗った暴走族どもを完膚なきまでにおちょくり倒したガブリエラは、すとんとシートに座り込み、ギアを戻し、今度は普通にUターンした。そしてきちんとシートベルトを締め、先程までとは打って変わって安全運転をし始める。
 そしてライアンも、彼女の腰付近で彷徨わせていた腕を引っ込ませ、体勢を整えて助手席に座り直す。

「いかがでしたか!」

 輝くような笑顔のガブリエラはまるで、褒めて褒めてと待ち構える犬のようだ。
 穏やかに走行する車にやっとアシストグリップを離したライアンは、握力を入れすぎて軋む手を開いたり握ったりして言った。
「……お前、カースタントでも立派に食っていけるよ……」
「そうですか? 確かに、今のは前に映画で見たのを真似しましたが」
 真似しようと思ってできるのがすげえな、とライアンは思い、ガブリエラを見た。ガブリエラは前を見て運転しつつ、煌めく目をちらちらとライアンに向けている。

「しかし実は、少し心配だったのです。重い車ですので、振り飛ばされそうで」
「あー、遠心力」
「はい。しかし、ライアンがつかまえてくださったので、大丈夫でした」
 ガブリエラは、嬉しそうだ。
「まあ、……つかまえて、って言われたし」
「はい。ありがとうございました」
「お前俺にそういうこと言うの、初めてだよな」

 何も言わずに勝手に走り出し、勝手に飛んで跳ねて、手に負えない。それが今までの彼女だった。
 しかし先ほどのガブリエラは、「揺れます」とか、「つかまえて」と言った。危ないから気をつけろと、事前に宣言や注意をした。そのおかげでライアンは頭をぶつけることもなく、そしてガブリエラも車も、かすり傷ひとつない。なぜなら、ライアンががっちりと彼女を掴まえていたから。
 ガブリエラは、きょとんとしている。

「そう、……そう、でしょうか」
「そうだよ。いつもそうすりゃいいんだ。それなら俺だってガミガミ言わねえんだよ」
「……そうなのですか?」
「そりゃそう、……え? そこから? もしかしてそっからなのお前」
「え?」
 間抜けな顔をしているガブリエラに、今度はライアンが驚く番だった。
「いやいやいや、お前ちょっと……ホウレンソウ以前の問題っつーか、夜出かけるときは心配かけないようにとか親に報告するとか子供の時、……あーないのか。そういうのないのかお前。ないんだったわ、あーそうか、これかー、うわー」
「あの……」
 片手で目を覆って天を仰ぐライアンに、橋を渡り終わったガブリエラは疑問符をたくさん浮かべつつ、なんとなく高速道路を降りた。そして適当な路肩に車を寄せ、あーうーと唸るような声を上げているライアンの言葉を、躾けられた犬のようにじっと待つ。

「……お前ね」
「はい」
「えーと、報告連絡相談、はわかるよな?」
「はい、会社に入った時に教わりました。守るようにしています」
 確かに、それはできている。ガブリエラは仕事でわからないことを、勝手に適当に進めたりしない。ちゃんと会社の人間やライアンに聞いて、相談し、確認する。──ゆっくり時間がある時は。
 そしてだからこそ、ライアンも気付かなかったのだ。時速300kmで走っている時にだけ、つまり生きるか死ぬかのスリルに集中しきっているときにだけ、それが適応できていないのだということを。

「あのな、お前の運転技術が確かなのは認めるけど、さすがの俺も、お前が何をどうするか全部わかるわけじゃねーから。お前が大丈夫って思ってても、俺がハズしたらふたり揃って大怪我するかもしれねーだろ?」
 小さい子供に対して噛んで含めるように、ライアンは言った。ガブリエラは、真剣な顔で聞いている。
「今日、お前がやりたいって言ったことに、俺反対した?」
「い、いいえ」
 ガブリエラは、首を振った。赤毛が揺れる。
「そういうこと。そもそもヒーローなんざ危険と隣合わせなのが前提の仕事で、危ねーこと一切すんなとか間抜けなこと言わねえわ。俺は今まで、お前が何も言わずに勝手に行動したことに怒ったのであって、行動そのものに怒ってるわけじゃねえの。わかる?」
 途端、ガブリエラはこくこくと、何度も頷いた。

「……つまりだな。危ねーことするのはいいけど、事前に言え」

 そう言いながら、ライアンは、脱力しそうだった。
「事前に……」
「時間がなくても言え、ギリギリでもいいから。そうすれば危なくねえだろ? 今回みたいに」
「ああ、……ああ! はい! 確かに、確かにそうです! なるほど!」
「……あー、すげー当たり前の事なんだけどな?」
 目から鱗、と言わんばかりの顔をしているガブリエラに、ライアンは乾いた笑みを浮かべた。

 こんなにも簡単で、単純で、馬鹿馬鹿しいほど初歩的なことが、ガブリエラにはわかっていなかったのだ。車が動かないと散々エンジンを分解して調べ上げたのに、原因はガソリンではなく水を入れていたことだった、というような気分だった。

 しかしそれを察せられなかった自分にもいくらか責任がある、と今のライアンは認めていた。彼女を避けず、もっと早く話を聞いて、彼女がどういう生い立ちのどんな人間なのか知ろうとしていれば、こんな事にはならなかったのだと。
 そうすればライアンは彼女をガミガミ怒鳴ることもなかっただろうし、酒の力を借りなければ話せないなどということもなかっただろうし、その結果──とまで考えて、ライアンは首を振った。過ぎたことを後悔しても仕方がない。後でできるだけ挽回するしかないのだ。

 そしてガブリエラのほうはといえば、今、何度目かわからない感動をしていた。

「わかりました。ライアン、これからは、必ず事前に言います」
「おー、そうしろ」
「はい!」

 ガブリエラは、しっかりと頷いた。
 動植物園での件で、ライアンを本気で怒らせた──と彼女は思っている──時から、ガブリエラは、とにかくライアンの言うとおりにすることに執心してきた。自分のやりたいことは全て我慢して、彼のやりたいようにしなければいけない。そうしなければ嫌われて、見捨てられてしまうのだとびくびくしていた。
 しかしガブリエラは今、自分が間違っていたのだ、と反省していた。

 今まで上手くいかなかったのは、自分が動物のようにただ行動するばかりで、まともに彼に話をしなかったからだとガブリエラは理解し、反省したのだ。
 子供の頃から、やりたいこと、欲しいものがあれば、自分で何とかするしかなかった。相手を罵り呪うスラングばかりが発達した土地で、神父や母の言いつけを守って汚い言葉を使わないようにするなら、もう黙っているしかなかった。結果的に友達もできず、ガブリエラの友達はエンジンの轟音を響かせる車と、意地の悪い老馬だけ。
 シュテルンビルトで言葉を覚え、ガブリエラはよく話すようになった。しかし慣れない言葉は意識しないと上手く使えず、ひとつのことに集中すると、ガブリエラは無口になってしまう。溢れるのは、無意識な笑い声ぐらい。

 お前のやることなすこと面白いと思ったことはない、と言われたことについて、ガブリエラは忘れていたと言った。それは事実だがしかし、厳密にはそうではない。ガブリエラは常に、ライアンから認められていないのだと思っていた。

 ──彼に認められたい。

 自分の根本にあるのはそれだったのだと、今ガブリエラは自覚し、理解した。
 認められるということは、褒められること。しかしそれは簡単なことではなく、ではせめて構われたい、と思うようになった。しかし構ってもらえなかったことから目的を見失い、叱られることでもいいと思ってしまった。それから、ガブリエラは迷走してしまったのだ。

 しかし自分は思い違いをしていたのだと、ガブリエラは理解した。
 ライアンは今日、何がしたいのか、何が欲しいのか、何が好きなのかと、いちいちガブリエラに聞いてくれた。そしてガブリエラの気持ちをいちども否定せず、時にはそれを上回る、素敵な提案までしてくれた。しかもそれはガブリエラがしたかったこと以上のものであることも多く、そんな事を思いつけるライアンをとても素敵だと思った。

 そして今、彼は言ったのだ。お前のやりたいことには反対しないと。
 ライアンが今日「どうしたい?」といちいち聞いてくれたことによって、ガブリエラは、ちゃんと事前に言えば彼は必ず話を聞いてくれるし、頭ごなしに否定したりしないのだと学習することができた。

 こんなに懐の大きい人に、自分はなんて失礼なことをしていたのかと、ガブリエラは反省した。そしてどんなに切羽詰まった時でも、今日の約束を反故にはすまい、と心に刻む。
 彼はガブリエラをおおらかだと言ったが、それは絶対にライアンの方だと、ガブリエラは心の底から思う。彼ほどおおらかで、器が大きくて、懐の広いひとが、この世界にどれだけいるだろうかと、彼女は彼の稀有な気質と、そのキャパシティの大きさに震えた。
 ライアン・ゴールドスミスという男は、女ひとりを力づくで押さえつけていうことをきかせるような器の小さい人間ではない。ガブリエラは反省とともにそう認識し、そして改めて彼を尊敬した。
(ああ、このひとは、ただひとりのひと)
 替えのきかない、世界にたったひとりの。少ないボキャブラリーでは表現しきれないのがもどかしいと、ガブリエラはただ唇を噛みしめる。

(私の好きなひと。──愛しているひと)

 ああ、彼のことを思うだけで、涙が溢れそうになる。
 ガブリエラは、ハンドルを握った手に、祈るような姿勢で額を押し付けた。
「それで、今日は」
 ライアンが言った。ガブリエラはハンドルに突っ伏したまま、ちらりとライアンを見る。ライアンは、笑っていた。ガブリエラの胸が、きゅんと締め付けられる。

「面白かった。スカっとしたぜ」
「本当ですか?」
「おう。見た? あのドライバーの顔。超マヌケだった」
「間抜けでしたね。そこにあのフラッグがかかってものすごく笑えました」
「ハハハ!」
 ライアンが声を上げて笑ったので、ガブリエラもその笑顔を眺めながら、笑みを浮かべる。最高に幸せな笑みを。

「えへへ、喜んでもらえて、嬉しいです。……あああああ!!」
「なんだよ」
 へらへら笑っていたガブリエラが突然大声を上げたので、ライアンは片眉を上げた。ガブリエラは、絶望的な顔をしている。
「タイヤ……タイヤが……」
「は? タイヤ?」
「さっきの、だいぶ、タイヤが、絶対、削れました……」
「あー」
 ガブリエラが言っているのは、先ほどの180度ターンのことだろう。力づくの急ブレーキを使った技だったので、確かに、タイヤがだいぶ削れたことは間違いない。道路にも、間違いなく黒いタイヤの跡がついているだろう。
「傷をつけないと、言ったのに……! すみません、ライアン、私、せっかく」
「え、いいよ別にタイヤぐらい。消耗品だし」
 心底悔しそうな顔をしていたガブリエラは、ライアンがあっさりとそう言うとぽかんとし、次いで、みるみるうちに顔を輝かせた。

「ライアン、あなたは……なんて、心の広い……!」
「あー、うん」
「あなたは天使ですか……信じられない……」
「……お前の価値観、だんだんわかってきたわ」
 ここが車の中でなければ、膝をついてライアンを拝みかねない勢いのガブリエラに、ライアンは中途半端な笑みをこぼした。

「愛しています!」
「はいはい、わかったわかった」

 ちなみに、タイヤ以外では、ライアンの愛車には本当に、かすり傷ひとつついていなかった。



 ガブリエラは車を発進させず、またライアンに運転を交代した。
 ハンドルを任せたのを相当喜んでいたのでそのまま運転してもいいとライアンは言ったのだが、ガブリエラは首を横に振った。自分が運転するより、ライアンが運転するのを見ている方がいいらしい。
 よくわかんねえ奴だなあと言いつつ、ライアンは再度彼女と席を代わると、またゆったりと車を走らせた。再度高速道路に入り、今度はブロックス・ブリッジを渡って、またメダイユ地区に戻っていく。

 アスクレピオスホールディングス・シュテルンビルト支部、また病院兼研究所は、シュテルンメダイユ地区の外側、海の見える、ウェスト寄りのサウスゴールドに位置する。
 よってライアンやガブリエラも、その近辺のマンションに居を構えていた。物件探しをほとんど会社に任せたガブリエラの住まいは、しようと思えば歩いてもアスクレピオスに出勤できる、アスクレピオスよりメダイユ内側の住宅街にある。
 ちなみに、ライアンはオーシャン・ビューが挑められるという理由でメダイユ外側の海沿い、ややウェスト寄りの、ヘリペリデスファイナンスのビルにも近いマンションに住んでいた。

 すっかり夜である。
 高級住宅街でもある町並みを静かに走り、ライアンは、ガブリエラのマンションに備わっているガレージに車を駐めた。
「大きいガレージにしておいて良かったです」
 ライアンの大きな愛車も難なく駐められたシャッター付きのガレージは、物件探しを会社に丸投げしたガブリエラが唯一したリクエスト「自由に使える個別ガレージがあること」によるものだという。奥には、二部リーグ時代から乗っているという中型バイクが置いてあった。



 沢山の荷物をふたりがかりで持ち、エレベーターに乗る。
 玄関を開けて紙袋の山を部屋の中に運びこむガブリエラを見ながら、ライアンは、くたびれたスニーカーしか入っていない靴箱に、真新しいハイヒールをそっと仕舞ってやった。

「ライアン! クローゼット! 見てください!」

 ガブリエラが呼ぶので、ライアンは来訪2度目の彼女の寝室に入った。まず目に入ったベッドには、ダメージ過多のジーンズとマイナーバンドのTシャツが、おそらくありったけ放り出されている。
 そしてガブリエラが指差す、そんなに大きくないクローゼットを覗きこめば、ライアンが選んで買ってやった真新しい服が、ハンガーに掛けられてずらりと並んでいた。
「おお、見違えたな」
「もう地獄とは呼ばせません」
 そう言って、ガブリエラは例のエビのTシャツとマッチョ君セーターを、まるで何かにとどめを刺すようにしてベッドに放り投げた。
「ふふん。これは今日から部屋着です」
「いや捨てろよ」
 自信満々に言い切ったガブリエラに、ライアンは冷静に突っ込みを入れた。
「ええっ、部屋着でも?」
「少なくとも、コンビニはダメなやつだな」
「コンビニも!?」
「アウト」
「なんて意識の高い……」
「そういう言い回しはできんのかよ」
 お前のボキャブラリーよくわかんねえなあ、と言いつつ、ライアンはサイドボードに置かれていた、おもちゃの拳銃を取り上げた。

「なあ。お前これ撃ってたの、妙に慣れた感じしてなかった?」
「まさか」
 ガブリエラは、ふるふると首を振った。ライアンは、やや懐疑的な目で彼女を見る。
「本当に?」
「はい。私がそんなに大きな銃など撃てば、肩が外れます。もっと小さいものでなければ」
「……あっそう」
「それに、銃は当てるのが難しいのです。弾は安いですがたくさん使って練習しないといけませんし、手入れも面倒です。ナイフのほうが他のことにも使えていいですよ」
 明らかに扱った経験がある発言をするガブリエラに、ライアンはそれ以上追求せず、生温い顔で拳銃を置く。他のこと、というのが何なのか想像力が及ばなかったが、以前彼女のキッチンで見た、明らかに料理用ではない使い込まれたナイフを思い出した。

「……ライアン! お茶を飲みますか? コーヒー?」
「んー、……いや、いい」
「ええと、あっ、では、馬! 馬の尻尾を見ますか! 蹄鉄も!」
「見たいけど、今度にする」
「あ、はい。では……」
「……何、お前」
 あわあわと色々な提案をしてくるガブリエラに、ライアンは、苦笑して振り返った。

「俺に帰ってほしくねえの?」
「はい」

 相変わらず素直に頷いたガブリエラに、ライアンはとうとう笑った。
 彼女は正直で、素直だ。嘘もつかないし、いつも本心を口にして、おべっかも言わない。それはとても気持ちのいいことで稀有なことであると、ライアンももう認めていた。肝心な時に黙りこくってしまうのは悪い癖だが、それは今日から直すように言った。

「もう遅えから、帰る」
「そうですか……」
 あからさまにしょんぼりしたガブリエラにライアンは肩をすくめ、拳銃の横にあったイヤリングを手に取った。プラスチック製の、子供用のおもちゃのイヤリング。しかし金のメッキと青い樹脂の宝石がキラキラとしており、そして数ある中からなぜガブリエラがそれを選んだのかは、そのカラーリングで明らかだった。
 ライアンはそれを持って、リビングに向かった。ガブリエラの足音がついてくるのを聞きつつ、彼はそのイヤリングを、壁にかけてあるピアスのコレクションの末尾に加える。
 元々雑多なコレクションの中に、小さな少女のためのきらきら光るイヤリングは、不思議とよく馴染んだ。
「えへ」
 すぐ横に来たガブリエラが、締りのない笑い声を上げる。見下ろせば、彼女はイヤリングを眺めながら、その笑い声の通りの笑顔を浮かべていた。

「……今日は、楽しかったか?」
「とても!」
 ガブリエラは、大きな声で言った。
「楽しかったです! とても! とてもですよ!」
「とても?」
「とてもです!」
 ボキャブラリーが少ない分、ぴょんぴょん跳ねてまで表現しようとするガブリエラの頭に手を置いたライアンは、「落ち着け」と彼女の頭を押さえた。興奮する犬をなだめるような仕草だったが、ガブリエラは頭を撫でられた途端におとなしくなった。
(ほんと犬っぽいなあ、こいつ)
 しかもはるばる荒野を旅してきた、生命力たくましい野生の犬。それだけに今まで散々手を焼かされたが、コツがわかればそうでもない、とライアンは今日発見した。
 おそらくこれから先また彼女に驚かされることもまだまだ多かろうが、それはきっと不快な経験ではないはずだ、という確信もある。
 そして、つくづく思う。なぜもっと早く、彼女を理解しようとしなかったのかと。

(いや、そもそも)
 俺はどうして最初にこいつを避けたのだろうと、ライアンは彼女を見た。
 変な女だと思ったのは確かだが、個性の強すぎる奇人変人など、今まで数え切れないほど接してきた。ヒーローになるような人種は大抵そうだし、その中でもライアンは、ホームレスに声をかけたり、ぶっ飛びすぎて遠巻きにされている才人をかき集めて支援し、抱え込んで店を出させているような、個性が溢れていればいるほどその者を好むような男なのだから。

 ──何が特別だったのか。

「……特別、ねえ」
「ライアン?」
「いや……」
 見上げてきたガブリエラに、ライアンは苦笑を返した。
 この、きらきらとした灰色の目。いつでも蕩けたようにうっとりと、自分を世界で最上の存在であるかのように眩しげに見上げる潤んだ目を、可愛いと思う。
 自分に与えられた痛みに顔を歪めながらも、きっとこの後優しくして貰えるのだと信じきっている愚かなほどに従順な目に欲を覚えたのは、嘘ではない。
 そんな目をした彼女は、自分を愛していると言った。嘘もおべっかもない、素直で正直な直球さでもって、誰より好きだと、何をされても許してしまうほどに深く愛しているのだと、彼女は告げてきた。

 ──なら、自分は?

 自分が彼女をどう思っているのか、ライアンは、今初めて自問した。
 正直ライアンは、彼女ほどの強烈な思いを持っているとはいえない。決して嫌いではないし、もう苦手でもない。興味もあるし、一目置いてもいる。認めている。だがライアンは、彼女が好きすぎて涙が出たことなどない。
 それは、愛しているといえるだろうか。

 ──私ばかりあなたを愛していても、心の篭ったキスは出来ないでしょう
 ──痛い思いをしたり、死んでもいいと思うような、幸せな恋人同士にはなれません


 小さな子供でもわかるというより、小さな子供のような、綺麗事と言うにも稚すぎるような正論に、ライアンはぐうの音も出なかった。
 今彼女の顎を持ち上げてキスをするのは、簡単なことだ。何しろ彼女はライアンの与えるものなら歩けない靴も履き、痛みすら受け入れて、どんなつらいことでも許してしまうのだから。

 しかしライアンは、そうしない。なぜなら、彼女がそれを心から望んでいないから。
 彼女は自分を許すだろうが、傷つかないわけではない。ショックを受けて、悲しさに泣いて、つらい思いをして、それでも自分を許す彼女の姿が、ありありと想像できる。彼女が自分に向ける愛はそれほどのものだと、ライアンはもう理解している。
 もう、そんな仕打ちはしたくない。──二度と。絶対に。
 彼女が喜んでキスを受け入れることができるのは、自分が彼女を愛したときだけだ。しかし自分が彼女を本当に愛しているのか、まだわからない。だからライアンは、彼女にキスをしなかった。

 そしてそれは、彼女に敬意を払っているからだ。
 たったひとりの友を失いながらも、鉄板入りのブーツを履いて、厳しい道程を、地雷だらけの大荒野を歩いてきた彼女のあり方を格好いいと認めたからこそ、ライアンはいつものように“とりあえず付き合う”という選択肢を選ばなかった。

「……馬の尻尾な」
 思いの他優しい声が出たので、ライアンは自分で少し驚く。そして、こんな声が出せたのか、なぜ出せたのかをこれから考えなければいけないのだと、心に決めた。
「見たら、色々聞きたくなるだろ。明日仕事だし、寝不足はマズい」
 ガブリエラが、自分を見上げているのがわかる。あの、きらきらした目で。
「だから、……今度、ゆっくりな」
「──はい!」
 ぱぁ、と顔を輝かせるガブリエラに、頬が緩む。穏やかな顔をしているのが、自分でわかる。しかしなぜそういう顔になるのかは、まだわからない。



 「ガブリエラ」



 灰色の目が、まん丸になった。
 一緒に仕事をするようになって以降、彼女の名前をいちども呼んだことがないのは、ライアンもわかっていた。アンジェラ、と口にしたことは稀にあったような気がするが、仕事上仕方なくという場合だけで、しかも本人に呼びかけたことは皆無である。
 なぜ、名前を呼ぶことを避けていたのか。そのことについてライアンは今、実際に呼んでみることで理由を理解した。──名前を呼べば、認識せざるを得なくなるからだ。ただでさえ気になって仕方のない存在が、より明確になる。しっかりとした存在感を持って、ライアンの中に彼女が確立するから、ライアンは彼女の名前を無視し続けた。
 だが彼は今、自分でそれに終止符を打った。

「なまえ……」
 ガブリエラの声は、震えている。この様子だと、名前を呼んでもらえないことについて、彼女も気付いていたのだろう。ライアンは苦笑した。
「はっきり言って、お前が好きなのかどうか、よくわかんねえわ」
 ライアンは、正直に言った。なぜなら彼女が正直だから。俺も愛していると自信を持って言えない分、ライアンはせめて、彼女の素直さに報いようと思った。
「嫌いじゃねえよ。好きか嫌いで言えば好き」
「ほ、本当に? 本当?」
「ん」
 頷いてやれば、灰色の目が、零れそうに潤む。戦慄く唇を噛みしめる様に、ライアンは、彼女の赤毛をそっと撫でる。
「だから、ちゃんと考える。これから」
「これから……」
「おう」
 鸚鵡返しをするガブリエラに、ライアンは、頷いた。

「お前のことを、ちゃんと考える」

 そう言って、ライアンはまっすぐに灰色の目を見た。
「お前をちゃんと見るし、話も聞くし、お前のことを考える」
 くるくるとカールした赤毛が指を通る感触が、心地よい。
「だから、……何だ。もうちょっと、待ってろ」
「待つ」
「そう、待つ。出来るか?」
 呆然としていたガブリエラは、途端に、ガクガクと頷いた。
「で、出来ます!」
「そう?」
「でで、出来ますとも! 待つ! 出来ます! WAIT! 私は“待て”が出来る女!」
「犬かよ」
 ぶは、と、ライアンは噴き出した。そのまま見たことがないほど無防備に笑い続けるライアンに、ガブリエラは顔を真っ赤にしたまま呆けている。
「そうか、待っちゃうかあ」
「はい!」
「うん。じゃあ、待ってろ」
「待ちます! わん!」
「よしよし」

 次の瞬間、ガブリエラの目の前が、真っ白になった。

「……おい、大丈夫か」
 膝から崩れ落ち、顔を覆って床に倒れているガブリエラに、ライアンは呆れと笑いが半々の声をかけた。
「……死ぬ……」
 ガブリエラが、震えた呻き声を出した。事情を知らなければ、本当に死にそうな声である。
「は?」
「死んでしまう……」
「デコチューで死ぬ人間はいねえ」
「わかっていない! なにも! あなたは!」
「もう何なんだよお前」
 床に倒れたまま叫ぶガブリエラの側に、ライアンは所謂ヤンキー座りと呼ばれる姿勢でしゃがみこんだ。
 尻尾があればさぞ力いっぱい振っているのだろう、といわんばかりのガブリエラの頭を引き寄せ、赤毛の生え際に口をつけた結果が、これだ。
「キス……、キス!」
「口じゃねえし。こんなん子供とか犬にするやつだっつーの」
「うぁああ」
 ライアンがしたのは、本当にごく軽いキスだ。触れるか触れないかの、リップ音ですら実際に肌を吸ったのではなく、ほとんどライアンの口の中で発されたもの。親が子供に、飼い主がペットにするような。

「お前、俺といつかキスしたいって言ってたじゃねえか。そんなんで大丈夫か」
「大丈夫なものか」
「なにその口調」
 いっぱいいっぱいになると言葉がおかしくなるのは知っていたが、今日はそれに輪をかけておかしい。ライアンが笑いをこらえながら倒れたガブリエラの赤毛をわしわしと撫でると、彼女はウウと呻き声を出した。
「そんな……そんな具体的なことなど……」
「考えられない?」
「死んでしまう!」
「だから、死なねえって」
「死にます! 心臓が! 破裂して! 死ぬ!」
「グロいな」
 意味不明な会話を交わしつつ、ライアンはガブリエラを起こした、というよりは、抱き上げた。まるで子供か犬にするように、脇の下に手を入れて持ち上げる。その身体は、やはり信じられないほど軽い。
 ぎゅっと抱きしめてみると、本当にものすごい心臓の音だった。

「うーわ、すっげえ音。マジで破裂しそうハハハ」
「はぐ……! はぐ!」
「フリーハグってあるよな」
「くうううううう」
 論破されたガブリエラは、もがく子犬のような声を鼻から出して真っ赤になった。
「死にそう?」
 ガブリエラががくがくと頷くと、ライアンはガブリエラをいじめるのをやめ、彼女を立たせた。これ以上赤くはなれないだろうという顔色で涙目になったガブリエラは、壁に寄りかかってなんとか立つ。ハイヒールを履いているわけでもないのに、その足取りはふらふらだった。

「……待ちます」

 激しく鼓動を打つ心臓を持て余しながら、ガブリエラは、絞り出すように言った。
「待ちます、いくらでも」
「ん」
「待ちますので……」
 震えた声でそう言って、ガブリエラは俯いた。その頭にライアンは再度手を置き、穏やかに撫でてやる。
「……今日は、ありがとうございました、ライアン」
「おう。俺も」
「え?」
「俺も楽しかった」
 ライアンがそう言うと、ガブリエラが、顔を上げた。泣きそうな笑顔。
「……とても?」
「うん、まあ、とても」
 お前と同じくらいかはわからないけど、とは、ライアンは言わなかった。

「おやすみ、ガブリエラ」
「……おやすみなさい、ライアン」

 赤毛から手を離し、ライアンは、玄関に向かった。生体認証システムが、「いってらっしゃいませ」という機械音声を鳴らす。住人登録をした人間が、出て行く時の音声。
 その音に苦笑しつつ、ライアンは扉を開ける。

「また明日」

 真っ赤な笑顔にそう言って、ライアンはマンションを出た。






(まだ好きかわかんねえからキスもしねえって)

 高校生だってとりあえずキスぐらいするだろうに、何たることだとライアンはいっそ笑いながら、自分の部屋の玄関を開ける。

「ただいまモリィ」
 もしゃもしゃと野菜を食べているモリィはもちろん返事をせず、ただ半目でライアンを見た。──ような気がした。
 その淡白な反応に、ライアンは苦笑する。今までモリィに物足りなさを感じたことはなかったが、尻尾をぶんぶん振ってうるさいほどに自分の周りを駆けまわる狼犬がいなくなった途端、何だか急に静かになった気がする。
 ライアンはガブリエラの部屋から持ち帰ってきたおもちゃの銃を構え、「ばーん」と言いながらモリィに向かって撃つマネをしてみた。しかしモリィは白けた顔でキャベツを貪り続けているだけだ。仕方がない、彼女はクールでノリの悪い女だ。かといって、愛が冷めたわけでもないが。

「……愛、ねえ」
 そう呟いたライアンは、ウォークインクローゼットに向かった。服が置いてあるのとは別の一角に、いくつかのパネルがまとめてある。今まで撮った写真のうち、特に気に入ったものを引き伸ばしたものだ。
 気分によって壁に飾るものを替えるのだが、この中にひとつ、気に入ってパネルにしたはいいが、全く飾っていないものがある。ライアンはそれを取り出し、寝室に持って行った。
 現在寝室に飾ってあるのは、花を食べるモリィの写真だ。モリィの鮮やかな緑の肌と、色とりどりの花の対比が美しいワンショット。
 そしてライアンは、その横のスペースに、持ってきたパネルを飾った。

 ただただ広い、青空の下の白い空間。
 中央の噴水の正面を、ぎょっとするほど細い体躯が横切っている。よれよれのTシャツに、薄手のパーカー。ダメージ過多のジーンズ。その後さらにダメージを与えられて正真正銘のボロ布になったそれは、現在ライアンの部屋の隅に、捨てるに捨てられずに置いてある。
 画面の中でやけに目立つ、伸ばしっぱなしの不格好な赤い髪が、風になびいて揺れていた。

 最近ライアンが撮ったものの中でも、かなり出来の良いワンショット。そのまま何かのCDジャケットにでもなりそうなそれは、あの日ガブリエラがアンジェラであると知らないまま偶然出会った時の、彼女の写真だった。

 ライアンは愛用のカメラからデータカードを取り出し、パソコンの外部装置に接続した。すぐにアプリケーションが起動し、今日撮った写真がずらりと表示される。
 それをすべて選択して慣れた手つきで何度かクリックすれば、ベッドのサイドボードにある電子フォトパネルが、今日撮った写真のスライドショーを始めた。

 当たり前だが、写っているのはほとんどガブリエラだ。
 こうしてあらためて見ると、最初にファッションショーをやった時はぎこちなくはにかむような顔が、時間が経つに連れてどんどんリラックスしているのがわかる。もちろん、ただカメラに慣れたということだけが理由ではない。
 点心を頬張る湯気の向こうの満足そうな顔、生まれて初めてのハイヒールで不格好に歩く姿、その緊張した顔。かぼちゃ色の光の中、パイ包みやお菓子を頬張ったり、射的に興じたりする姿。さらに、ハンドルを握る、獲物を狙う猟犬のような横顔。
 ライアンはそのひとつひとつを眺め、結局、パネルの写真と同じ場所で、新しい洒落た服を着て笑顔を浮かべる姿で停止ボタンを押した。並べてみると、変化がよくわかって面白い。以前は男か女かもよくわからなかったが、今日の彼女を見てそう思う者はもういまい。

 彼女を避けていた頃、作品としては渾身の出来であると思いつつも、ライアンは彼女の写真を部屋に飾ることはしなかった。
 しかしライアンは今日、決めた。そして、約束した。お前のことをちゃんと見て、話を聞いて、お前のことを考えると。

 明日も、彼女に会う。
 明日は移動が多いので、バイクには乗ってこないだろう。よってライダースーツではないはずだ。ならば自分が買ってやった服のうち、彼女はどれを着てくるだろうかとライアンは想像しながら、シャワーを浴びに行った。

 血まみれになったバスルームを見た時のことは、今でもありありと思い出せる。あんな思いは二度とごめんだと、もう何度目かにもなることを考えながら、ライアンは熱めのシャワーを浴び終え、冷蔵庫で冷えているビールを煽った。
 今日はずっと車を運転していたので、やけに美味く感じる。

 濡れた髪を拭きながら、丁寧に自分の髪を拭く細い手を思い出す。金髪の間からちらちらと見える、青白い光。とんでもなく心地の良い時間だった。あの時間を再び味わう日は、果たして来るのだろうか。

 今日、いや先程抱きしめた身体は細く、柔らかくもあった。小1時間以上腕にしがみつかれてもまったく苦ではない、軽い身体。その感触を反芻しながら、ライアンは仰向けにベッドに倒れ込む。
 隣を見ても、赤い髪はいない。

 ──恋をしたことは、ある。

 それは初めてデートをした年上のスタジオミュージシャンだったり、その後出会ったモデルだったり、女優だったり。もしくはちょっと可愛いウェイトレスだったり、頭の良さそうな大学生や、才能溢れるアーティスト、やり手のビジネスウーマンだったこともあった。
 恋人だったかどうかはまちまちだったが、ライアンはちゃんと彼女たちが好きだった。彼女と自分のやりたいことが合わずに別れと出会いを繰り返したが、彼女たちの才能や自尊心も合わせて好きになったライアンは、それを後悔していない。

 だが今、ガブリエラという女と接して、ライアンは、自問自答を繰り返していた。
 彼女たちとの関係が恋だったのなら、──ならば、これは、なんだろうと。

 理不尽に犯されてさえ、彼女はそれでもライアンが好きだと言った。叱られることでもいいから構って欲しいと、ライアンを困らせた。しかし嫌われるかもしれないと危機感を覚えるや否や可哀想なほど怯え、そして厄介なことに、それが最高に可愛いと感じさせた。
 そんな風でいつつ、額に空気のようなキスをされただけで死にそうになっていたガブリエラに、唇にしてやったらどうなるのだろうか、という興味が湧いていないといえば嘘になる。

 あんな女は、今までにいなかった。

 彼女は、ライアンに恋をしていると言う。特別に愛していると言う。愛しているとそれだけで、意味もなく涙が溢れるのだと。そんなことをライアンに言った女はいなかったし、そしてライアンも、そんなふうに女を想ったことなどない。

「……愛、ねえ」

 ライアンは再度呟いて、襲ってくる眠気に任せ、目を閉じた。
 愛とは何か。そして自分は彼女を愛せるのかどうかを、明日から考えるために。
- Season2 -

Fairest lord jesus
(いと麗しき主よ)

END
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BY 餡子郎
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