#038
 なんて贅沢な時間なのだろう、と、ガブリエラはうっとりした。
 ライアンの運転は常にゆったりとしていて、それはふかふかの快適なシートや、まるでホテルの部屋のような内装が施されたこの大きな車にとても似合う。
 完璧に整備されたV8エンジンの音が防音効果を通して穏やかに全身に染みこんでくる心地よさに、ガブリエラは幼い頃、宝物だったボロ車の中で毛布に包まって、全身でエンジンの音を聞くのが大好きだったことを思い出した。
 眠くなりそうだ。しかし夜のライトが陰影を作るライアンの横顔を、眠ってしまって見逃すのは勿体無いと、ガブリエラはじっと目を見開く。

「お前、少しは夜景を見ろよ」
 ライアンが、呆れと笑いが滲んだ声で言った。
 車は今、地図上ではジャスティスタワーを中心にしたメダイユ地区の正円状に通った高速道路、シュテルンビルト環状線を走っている。この下を通る、シルバーやブロンズの道路は帰宅ラッシュの終わりかけでまだ混み合っているが、ゴールドの道は殆ど車がいなかった。
 片方を見れば常にライトアップされたジャスティスタワーの女神像が見え、反対側には海に浮かぶ夜景が見えるという、どのガイドブックにも載っている、夜景の絶景スポット。しかしガブリエラはそのどちらにも目もくれず、じっとライアンばかりに見入っていた。
「私は私にとって見る価値のあるものを見ます」
 教科書の後ろの方に乗っていそうな、多少小難しげな言い回しでガブリエラが返答すると、ライアンが声を上げて笑う。しかしガブリエラにとっては、満点の星空が落ちてきた街とも言われるシュテルンビルトの夜景よりも、彼の笑顔のほうが百万倍価値があった。

「お前、本当に俺の事好きな」

 笑いながらライアンが言ったその言葉に、ガブリエラは、胸に悦びが湧き上がるのを感じた。そうだ、自分は彼が好きだ。この上なく。こんなに人を、いや全てにおいて、たったひとつの存在を、ここまで好きになったことはない。
 それを彼に少しでもわかってもらえた喜びに、ガブリエラは、視界が潤んでしまいそうな気持ちで笑みを浮かべた。
「はい。好きです」
「そう」
「本当に、好きなのです。ライアン」
「はいはい」
 穏やかに返してくれるのが、心地いい。

「愛しています」

 言おうと思って言ったというよりは、ぽろりと零れた、という感じだった。どんどん湧き出る気持ちが自然と口から漏れて、溢れて落ちた。ガブリエラにとっては、そんな心地だった。
 ライアンは、今度は何も言わなかった。環状線であるがゆえに常にカーブを描く道を目前に見ながら、彼は少し黙った。

「……お前、これから、どうしたい?」

 ライアンは、今日何度目かわからない質問を、ゆっくりと発した。ガブリエラは、目を細める。“これから”があと数分後のことを指しているのではないことを、ガブリエラは察していた。

「……以前、あなたと恋人同士になりたいと言いました」
「言ったな。今もそう?」
「そう……、そうです。しかし、なんだかよくわからなくなってきました」
 ガブリエラがそう言うと、ライアンは、ちらりと横目でガブリエラを見た。
「よくわかんねえって、何だよ」
「なぜなら、あなたのことが好きすぎて、わけがわからなくなってきました」
 ガブリエラは、ひと息に言った。
「あなたをどんどん好きになります。以前は、恋人同士になって、一緒にいたいとか、いつかキスをしてみたいとか、具体的なこともありました」
「……おう」
 ストレートな言葉に、ライアンは少し間を開けて返事をした。

「しかし今は、ただただ……あなたが好きで……好きなばかりで……愛しているとそれだけで、時々意味もなく涙が出てきてしまいます。具体的なことが、考えられません」
「……熱烈だな」
 ライアンは苦笑したが、まるで隠すもののない正直すぎるガブリエラの言葉に、正直なところ気圧されていた。
 彼女はいつもこうだ。常に真正面から、貧困なボキャブラリーもあって飾り気のない、その分どこまでも素直で強烈な言葉を、ライアンに惜しげも無く捧げてくる。
 それを心地よく思うと同時に、ここまで明け透けで正直で、底が見えないほど深く、そして駆け引きの欠片もない想いをどう受け止めていいのか、ライアンにはまだよくわからなかった。

 彼女が自分を愛しているくらい、自分がこの先彼女を愛することが出来るのかも。

「あの時は特別な状態だったので、興奮して、テンションが上がっていたというか。……なんだか調子に乗って、あなたをこれから誘惑するなどと言いました」
「言ったなあ」
「しかし、いつもただあなたが好きなばかりで、特に何も出来ず」
「えっ」
「えっ?」
 きょとんとしたガブリエラに、ライアンは「……いや何でもねえ」と言って、若干カーブからずれた走行車線を微調整した。

 ──誘惑してなかったのか。

 ライアンは、呆然としたような驚愕とともに、今までの彼女を思い出していた。内緒話をするようにして、愛していると言った電話口の囁き声。叱りつけても、えへ、とどこか嬉しそうに笑う赤い唇。
 他にも色々とライアンが惹きつけられた仕草の全ては、意図的なものではなかったらしい。つまり、ライアンが勝手に惹きつけられていただけ。
 ──それは、どういう意味になるのだろう。

「そもそも誘惑しようにも、私は別に美人ではなかった、と気付きまして……」
「は? 別にそんなことねえだろ」
 ガブリエラがぼそぼそと言ったので、ライアンは思考を中断し、口を開いた。
「えっ」
「そりゃ、ブルーローズとかみてえなわかりやすいタイプの美人じゃねえけど」
 ライアンは、余計なことを言っている、と自分で思いつつ、続ける。ほとんど、口が勝手に動いていた。ガブリエラの言うことを否定するために。
「痩せてるのに目が行くけど、実はスタイルいいしな。ちゃんとした服着せるとわかる。めちゃくちゃ肌キレーだし、何よりその髪が個性的でイイ。中性的な顔ではあるけど整ってるし、かわいい系よりキレイ系だと思うけど、化粧でどうにでもなるだろ」
 ガブリエラは、呆然としていた。そして俯いて、その顔を両手で覆う。赤い髪から覗く、ピアスをした耳が、髪と同じぐらい真っ赤になっていた。そのわかりやすい盛大な照れように、ライアンはフンと鼻を鳴らした。

「うう、なんですか……何なのですか今日は……こんな……先ほどといい……」
「何だよ、褒めてやってんだろ素直に受け取れよ」
「もしや、ドッキリ、というものではありませんよね。そうだったら泣きますよ」
「ああヤダヤダ、業界慣れしちゃって」
 ライアンが茶化すと、ガブリエラは、うう、と再び唸った。
「つーかお前、俺の隣に立っても見劣りしねえっつったろ。俺に見劣りしねえ女が美人じゃねえってか、ああ?」
「……そうでした」
「忘れてんじゃねえよ、バーカ」
「はい」
 ガブリエラは、顔から手を退けた。その顔はまだかなり赤く、そして、照れくさそうな笑みが浮かんでいた。

「えへへ。ライアンが褒めてくださいましたので、もう言いません」
「……誘惑してねえんだよなあ」
「え?」
「べっつにィ?」

 半目になって口を尖らせるライアンに、ガブリエラは首を傾げた。



「……あ? うっせえな。何だよ」
 それからすぐ、ライアンはバックミラーに映るものを見て、眉を顰めた。
 写っているのは、同じステッカーを貼ったフルフェイスのヘルメットに、揃いのライダースーツを着たバイクの集団。その後ろにも、趣味の悪い紫色のスポーツカーが見えた。
 紫色の車は最後尾を悠々と走っているが、ライダーたちはあっちこっちにバラけ、ライアンの車のあらゆる方向からジグザグに近寄ったり離れたり、──つまり、集団で煽ってきていた。

「あ、この人達」
「知り合い?」
「まさか。このあたりの暴走族というか、走り屋というか。高級車やライダーを煽って遊んでいるようです。私も以前やられました」
「へー、暇だな」
「暇ですねえ」
 わざわざ真横に来て中指を立ててくるライダーを見ながら、ふたりは呑気に言った。

「……しかし、うぜえな」

 どちらかというと優雅な速度で走っているライアンの車は、既にすっかりライダーたちに取り囲まれていた。
 相手は怖がらせよう、ビビらせようと思ってやっているのだろうが、さんざん修羅場をくぐっているヒーローからしてみれば、羽虫にたかられているような気分でしかない。つまり、ひたすらにうざったいだけだ。
「煽ってくるだけで、車体を傷つけるとか、転ばせようとしてくるとかではないのですが」
「ふーん」
「むしろ今日はいつもより遠慮がちですね。高級車すぎるからでしょうか」
「ちっさ……」
 ライアンは、呆れ果てた声を出した。こちらとしても車を傷つけられたいわけではないので結構なことだが、やることが小さすぎて馬鹿馬鹿しくなってくる。
 ライダーたちは、1メートル半くらい離れた所を走りながら、こちらに向かって中指を立てたり、親指を下に向けたりといった下品なお遊戯に興じている。
「ガキかよ」
 もしかしたら、実際に子供なのかもしれない。もしいい大人だったら、いくらヒーローでもそのあたりは救いようがない、とライアンはさじを投げた。

「なあ、お前ん時はどうしたよ?」
「煽られた時ですか? もちろんぶち抜きました」
「だよなー」
 ハハハ、とライアンは笑った。
 ホワイトアンジェラのヒーロースーツにはパワーアシストがついており超大型のチェイサーでも難なく動かせるが、生身のガブリエラは、流石にそこまでは出来ない。
 普段は二部リーグ時代から乗っている中型バイクに乗っているが、シュテ環最速タイムを持っています、とか何とか言っていたな、とライアンは思い出した。

 ふたりがあきらかに談笑しているからだろう、焦れたのか、ライダーのひとりが、パラリラプップー、と間抜けなラッパのような音を鳴らしてきた。最高級の防音装置のおかげでその音が耳をつんざくことはなかったが、美しい夜景に囲まれた優雅なドライブを邪魔されたので、それなりにムカつきはする。
 ライアンは、ちらりとガブリエラを見てみた。乗ることができなかった自分の車を他人に乗られるのがムカついた、という理由で車を爆発炎上させた彼女はまるでビビっている様子なく、助手席に行儀よく座っている。
 しかしもしここに殺虫剤があれば、間違いなくすぐに羽虫たちを全滅させる、という顔をしていた。

「……なあ。お前だったら、ぶち抜けるか? この車で」

 それは、なんとなくの思いつきだった。
 ガブリエラは目を丸くし、そして、ライアンが悪戯っぽい笑みを浮かべているのに気づくと、彼と同じような笑みを浮かべてみせる。

「もちろんです」
「よし、じゃあ来い」

 ライアンはそう言って左手だけでハンドルを操作し、まるで今から抱きとめるかのように右腕を広げた。

「えっ!? ……い、いいのですか? 本当に?」
 驚きと喜び。いっそ感動までしているようなガブリエラの様子は、ライアンの予想の範囲内だった。何しろ、自分の車に勝手に乗られるのが嫌だという理由で車を爆発炎上させるような女である。愛車を運転してもいい、と言われるのは、彼女にとって相当特別なことなのだろう。
 まるでとっておきのプレゼントを貰った子供のように、頬を紅潮させて目をきらきらさせているガブリエラを視界の端で見たライアンはにやりと笑うと、前を向いたまま言った。
「いいから、早くしろよ。道が終わっちまうぞ」
 ライアンにとっても、これはなかなかに特別なことだった。
 そうでなくても、多くの男にとって、車というものは特別なものだ。しかも子供の頃から憧れてやっと手に入れたまるで城のような車は、彼の大事な宝のひとつだった。
 そのハンドルをまさか助手席に乗せた女に任せてもいいと思える日が来るとは、ライアンも思っていなかった。しかしガブリエラの運転技術が確かであることは理解しているし、先ほど聞いた彼女の冒険譚は、少年じみた男心を存分にくすぐった。
 馬と荒野を旅した女。彼女になら、愛車を預けてもいい。ライアンは、そう思ったのだ。

 ガブリエラはどきどきしながらシートベルトを外し、助手席から腰を上げると、シフトレバーを蹴らないように気をつけながら、運転席で前を見たままの彼の脚の間に細い体を滑り込ませる。そして与えられた指示通り、彼のシートベルトを外してハンドルを握った。そこまでするとライアンは左手を離し、ハンドル操作を完全にガブリエラに任せる。

 突然妙な曲乗りを始めたふたりにライダーたちは戸惑ったようだったが、どうリアクションしていいのかわからないのか、ただ間抜けなラッパの音をパプパプと鳴らしている。

「ああ、ヒール、だめだな。脱がすぞ」
「ひゃっ」
 ライアンはガブリエラの膝裏を持ち上げ、自分が履かせたハイヒールを脱がせた。裸足になった薄い足を見ながら、ライアンはハイヒールを後部座席に適当に放る。
「ブーツ、いるか?」
「あ、できれば」
 ライアンはアクセルを一定の深さに踏んだまま上半身を伸ばし、後ろにある荷物の中から、やたら重い紙袋を探し当てた。中身を取り出し、膝を縮めた姿勢のままじっとしているガブリエラの足に、中に突っ込んであった靴下を素早く履かせてからブーツを履かせる。鉄板入りのブーツを履いたガブリエラは、軽く踵を鳴らしてブーツと足を馴染ませた。蹄鉄を履かされた馬のように。
 そしてライアンは、ゆっくり慎重に、アクセルとクラッチから足をずらしてガブリエラに譲る。完全にガブリエラが運転する状態になると、大柄な身体を器用に素早く助手席に預けたライアンはガブリエラの前に手を伸ばしてシートベルトを引っ張り、しっかりと装着させる。そして最後に、自分もシートベルトを締めた。

「ワォ。お城のような車! 素敵です!」
 弾んだ声を上げながら、ガブリエラは素早くシートやミラーの位置を調節し、クラッチの重さ、ギアの位置、計器類、車体の大きさやハンドリング感覚を把握した。

「では、どうしましょう」
 あっという間に慣れた様子で運転し始めたガブリエラは、にこやかにライアンに指示を求めた。学習した犬は、飼い主の指示があるまで勝手に走り出したりしないものだ。しかも、こんなにとっておきのご褒美を貰えたならば。
「ぶち抜きますか? それとも、“やり返し”ますか?」
「んー」
 楽しそうなガブリエラに、ライアンもにやりと笑みを浮かべた。

「そうだな。ちょっとムカついたしなあ」
「そうですとも。素敵なドライブでしたのに」
「まあお前に任せるわ」
「……私に?」
 きょとん、としているような声だったが、その声に喜色が滲んでいるのを、ライアンは正しく感じ取った。
「おう。ま、キズはつけてほしくねえけどな」
「もちろん、あなたの愛車にかすり傷ひとつつけません」
「信用するぜ」
 ライアンがそう言うと、ガブリエラのテンションが上ったのがわかった。まるで、あれが獲物だぞと言われて牙をむき出す猟犬のように。

 実際、ライアンの愛車のハンドルを任せてもらえた上に、好きにしてもいい、信用している、と言われたガブリエラのテンションは、最高潮になりつつあった。ああ、こんなに素敵なことがあるだろうか。陶酔にも似た気分が、ガブリエラを支配する。

「嫌な気分を吹っ飛ばす、面白いモンが見たいね。出来るか?」
「それはもう」
 与えられた命令に、ガブリエラは再度歓喜した。震えながら、満面の笑みを浮かべる。愛する飼い主、崇拝する王様に命令を貰った犬のように。

「──おまかせあれ!」

 目を細めたガブリエラは、シフトレバーに手をかけた。



 ガブリエラは、すぐに彼らをぶち抜くことはしなかった。
 かなり大きく重い車だが、パワフルで高効率な直噴V8エンジンは、安物の改造バイクを蹴散らすことなど造作も無い。しかしガブリエラは、そうしなかった。
「違反監視用のカメラがありますので。明日になって、警察からの出頭要請を受けとりたくないでしょう?」
「……ま、そりゃそうか」
「橋に入れば、カメラがなくなります。それまで我慢です」
「おお、“WAIT”ができるようになったのか? えらいえらい」
「わん!」
 ガブリエラは、ちまちまとギアやクラッチを操作しながらジョークに応じた。

 先ほどから彼女は細かくスピードを緩めたり早めたり、前後左右にブレるような運転をしている。
 見ようによっては、初心者の安定しない運転のようでもある。というか、周りの羽虫ライダーたちはガブリエラが本当に初心者の女だと思っているのか、先ほどから馬鹿にするようなジェスチャーを送ってきている。
 ライアンは、彼らに同情した。なぜならライアンには、ガブリエラがまるで華麗なダンスでも踊っているかのような足さばきでクラッチを操作しているところも、全く切り替えを感じさせない細かいギアチェンジを繰り返しているのも見えているし、何より、それによって彼女がライダーたちを思い通りの場所にさり気なく誘導していることに気付いていたからだ。

 運転席のガブリエラに対し、すぐ横についたライダーが中指を立ててきた。片手しか使えないとはいえバリエーションがないそのジェスチャーにライアンは白けたが、ガブリエラは目を細め、笑みを深くする。
 そして繊細にハンドルを切り、クラッチとギアを操作した。

「──ふふ」

 だんだん自分の方によってきた巨大な車体に、ライダーは明らかに狼狽している。1メートル半くらいの距離はじわじわと詰められ、あっという間に50センチほどになっていた。
 逃げようとするライダーだが、ガブリエラは容赦ない。車体はどんどん左に寄せられ、ライダーは高速道路の壁と巨大な車の僅かな間を走らざるを得なくなった。
 このまま壁と車に挟まれ、削られるように押し潰されてもおかしくなく、また恐怖でハンドル操作を誤れば死ぬか大怪我という状況に追い込まれたライダーの肩が、見るからに強張っている。フルフェイスのメットでわからないが、その下の顔色は間違いなく真っ青だろう。
 前後に逃げるという手もあるだろうが、前は車のサイドミラーがあるので抜くことは出来ず、後ろは実はもうひとりライダーが挟まっているので、にっちもさっちもいかない状態なのだ。
 5メートルにもなる巨大な車だからこそ出来る芸当だが、初めて乗る車でそういうことをやってのけるガブリエラの運転技術には、もはやライアンはコメントすらできなかった。

 数分彼らを追い詰めたガブリエラは、やがてすっと右に引いて、彼らを開放した。ふたりのライダーはすぐに失速し、バックミラーから消えていく。おそらく今頃、安堵でへたり込んでいるのではないだろうか。
 パー! パー! パー! と、ラッパの音がする。他のライダーが怖気づいて失速しついてこなくなった中、ひとりのライダーが鳴らしているのだ。怒って喚く小型犬のような甲高い音にガブリエラは鼻を鳴らすと、すっと滑らかに速度を下げた。
 あまりに滑らかすぎて、助手席に乗っているライアンでさえ重力変化を感じなかった。おそらくライダーからは、目の錯覚かと思うほどのスピードチェンジだっただろう。そしてあっという間に前後が入れ替われば、次に煽られるのはどちらの方か、誰にでもわかることだった。

 巨大な車にギリギリまで接近されるバイクは、猛獣に追いかけられる草食動物を彷彿とさせた。
 うろうろと左右にずれようとするバイクの尻に、ガブリエラは車をぴたりとくっつかせている。その哀れな姿に、ライアンはただ黙って十字を切ってみせた。バイクのバックミラーに写ったその仕草に、ライダーはヘルメットの下で滝のような冷や汗を流しているに違いない。
 パァ──ン、と、ガブリエラが思い切りクラクションを鳴らす。小さなラッパの音と比べると明らかに大きく堂々としたその音は、真後ろで鳴らされれば、猛獣に至近距離で吼えられるような迫力がある。ライダーは、もはや生きた心地がしていないだろう。

 意気消沈したようにふらふらとライダーが右にずれていくのを、ガブリエラは今度は追いかけない。あっという間に後ろに流れて消えていく彼を、助手席のライアンは一瞬見送った。

「あ、ボスが来ましたね」
 ガブリエラが、呑気に言った。
 バックミラーに映るのは、紫色のスポーツカー。「趣味ワル」とライアンが呟いた。ガォン! と威嚇のような音を立てて、紫色の車が迫ってくる。
「煽ってきてる?」
「いいえ。多分、抜こうとしています」
 走り屋だか暴走族だかわからないが、優雅に走る高級車に次々面子を潰されたとなればそれなりの何かがあるのだろう、というようなことを、ガブリエラは言った。
「やっすい面子だな」
「ええ。ですので」
 ガブリエラは、笑った。

「簡単に潰せます」

 抜こうとしているというガブリエラの予想通り、紫色の車はライアンの車の後ろを付いて回るのではなく、常に横を抜き去ろうとうろうろしていた。
 しかしもちろんガブリエラは抜かせず、常に完璧なコーナリングで牽制し、そしてそのままついに、他の車線が合流する直線の橋、かつてふたりがチェイサーで飛んだ、シュテルンビルト・ブリッジに差し掛かった。

 他の道路が全て合流してくるため、上り下りあわせて8車線という巨大な橋。そして走行しているのはライアンたちと紫のこの車のみという状況なら、先ほどのような抜く抜かないの技術は関係なくなり、単なるスピード勝負となる。
 それを理解しているのか、ガォン! と、紫の車が吠えるようなエンジン音を響かせる。

「どうすんだ?」
 ライアンの車は、元々スピードが出せる車ではない。巨大な車体は安定した走りと内部空間の過ごしやすさのためのものであり、もちろんそれだけ重くなっている。ゴージャスなその外観と、平べったく薄い流線型のフォルムをしたスポーツカーは、どちらがスピードが出るスペックなのか明らかだ。
 しかしガブリエラは、笑みを崩さない。

「ライアン」
「ん?」
「──揺れますよ」

 そう言うやいなや、ガブリエラは思い切りハンドルを切った。足元は、もはや何をしているのかわからない速さでアクセルとクラッチ、ブレーキを操作している。

 ──ギャギャギャギャギャッ!!

 シュテルンビルト・ブリッジの端から端まで響くような音を立て、ガブリエラは走りながら、2秒もかからず180度ターンする。次の瞬間の、ガコガコガコッ! という音は、おそらくシフトレバーをバックに入れる操作音。この短い瞬間にどれだけの操作をしているのだ、と思いながら、ライアンは素早くドア上のアシストグリップを掴み、なんとか頭を壁にぶつけずに済んだ。
 しかしライアンは、ぎょっとした。それは、紫の車と対面しながら全速力でバック走行しているからではない。ガブリエラがシートベルトを外し、片手でハンドルを操作したまま、ドアを開け、しかも身を乗り出そうとしていたからだ。
 対面になったせいで、あんぐりと口を開けた、紫の車のドライバーの間抜けな顔もよく見えた。

「──つかまえて!」

 ガブリエラがそう叫んだ時、ライアンは反射的に、アクセルを右足でベタ踏みしたまま立ち上がってドアを開けたステップ部分に足をかけている彼女の腰に体ごと腕を伸ばし、その細い腰をしっかりと抱き込んだ。
 そしてそうしたことで、ライアンは、彼女が真新しい立体断裁のパンツの後ろに大きな銃を挟んでいることに気付いた。ガブリエラはドアを開けた左手を使ってそれを掴んで抜き、開けたドアの上から銃を構える。

 キィイイイイイ!! と悲鳴のような音を立てて、紫の車が急ブレーキをかける。ドライバーの顔は青ざめていた。

 ──パァン!

 銃声。
 その後に響いているのは、遠くなっていく、バック走行のままのV8エンジンの音だけ。
 急ブレーキで止まった紫のスポーツカーのフロントガラスに、風にのって流れてきた、“HAPPY HALLOWEEN!!”と書かれたカラフルなフラッグや細かく切られた色紙、かわいいおばけの切り絵がぺたりと張り付く。
 ガブリエラが撃ったのは、屋台のくじで当てたおもちゃの銃だった。

「──Trick or Treat!」

 笑いながらそう言ったガブリエラは、すぐに中に引っ込んでドアを閉めると、呆然としているドライバーを置き去りにして、シュテルンビルト・ブリッジを渡って行った。
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BY 餡子郎
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