#037
「それで──」
ガブリエラはコーヒーを飲んでひと息ついてから、また話しだした。
「車がなくなったので、馬を買って、しばらく荷台を引かせることになりました」
「馬」
「シュテルンビルトでは見ませんね」
ガブリエラが住む教会に買われてきたのは、巡業のサーカスにいた牡馬で、怪我をしたので芸ができなくなって買い叩かれた老いた馬だった、という。
「とても、とても気難しい馬でした。体力がなくなるまで暴れまわって、そこらじゅうを糞だらけにして、イタズラしようとしたいじめっ子の腕を折りました」
「とんだ暴れ馬だな」
「はい。ですので世話をするのはものすごく気が進まなかったのですが、なぜかその馬が、私に擦り寄ってきたのです。おかしいなと思いながら鬣を撫でたら、手が青白く光って」
それから色々と試した結果、年をとってあまり体力がないはずのその馬に能力を使うと元気になること、また怪我に使うと治ることなどを発見して、ガブリエラは自分の力がどういうものなのか理解した。
ちなみにそれ以降、動物に嫌われたことはないという。あのライオンのレオのように。
「馬はとても元気になって、古傷も治って、走るどころか飛んだり跳ねたり。乗っている方は、ひどいめにあいましたが。まるでロデオでしたので」
「お前のほうが怪我するだろ、それ」
「私も何度もそう思いましたが、結局無傷でした」
さすがは元サーカスの馬であるということか、馬はガブリエラが落ちないように、絶妙なところでバランスを取り、ガブリエラはいちども落馬しなかった、という。
「私が死んだら自分も治してもらえなくなると、理解していたのでしょう。ずる賢くて憎たらしい馬でした。あんまり性格が悪いので馬肉にしてやると言うと、唾を撒き散らして糞を蹴りだしてくる最悪の馬」
ガブリエラは、親しみが篭った悪口を言った。
「……私の最初の友達です」
そう言って、ガブリエラはコーヒーを飲む。
「名前は?」
「最初は名前がありませんでした。怪我のせいで脚が痛いのか、いつも寝ていて、ぼろぼろで……」
だがガブリエラの能力により、怪我が治り、若々しい力を取り戻した老馬は、見違えるようになった。艶やかな毛並みを輝かせ、飛ぶように跳ね、見事なたてがみを靡かせて走り回る馬は、とても美しかったという。
「元気になってからは、ラグエルという名前になりました」
「へー、天使っぽい名前」
「本当に、聖書に出てくる天使の名前なのですよ」
光を纏いながら翼を広げて飛んでいる聖書の挿絵を見せて、これと同じ名前だと説明したらラグエルも気に入ったようでした、とガブリエラは懐かしそうに言う。
「……馬ってそんな頭いいのか?」
「元々頭は良かったですが、もしかしたら、私の能力の影響もあったのかもしれません。言葉も大体わかっていて、話も通じましたし」
「マジか」
ガブリエラの力は、正しくは、ポテンシャルの限界まで細胞を活性化させるという能力である。
それを、能力に目覚めてまもなく制御も甘い時期に、元々頭の良い動物である馬、しかも特に頭の良い個体の脳に使ったために知能が非常に上がった可能性はじゅうぶんにある、とライアンは推測した。そして、おそらくそれは間違っていない。
「まあ、ラグエルは、堕天使かもしれない天使なのですけれども」
「おい」
「あんまり憎たらしい性格でしたので。しかし、その点については特に怒りませんでしたね、そういえば。……まあ、それはともかく」
ガブリエラは、仕切り直した。
「お医者様もまともにいないところですので、私の能力は有難がられました。どんどん痩せるかわりに、一人前にお金を稼げるようになって、初めて中古のラジオを買って」
ガブリエラは、言葉を切った。
「そこで、ヒーローというものを知りました」
荒野の果ての小さな町ではない、遠い場所の音楽、音声ドラマ、にぎやかなコマーシャル。小さな機械から聞こえてくる広い世界に、ガブリエラは夢中になった。
「中でも私が夢中になったのが、ヒーローでした。しかし時差もありますし、電波の入りがあまり良くなくて……。晴れた夜に教会の屋根に登って、星を見ながら一生懸命電波を探しました。ああ、そういえば、星だけは、あの街のほうがずっと多かった……」
ほとんど星が出ていない都会の暗い空を見上げながら、ガブリエラは懐かしそうに言った。
その言葉にライアンは、小さなガブリエラが荒野の果ての教会の上によじ登って、満天の星空に向かって古ぼけたラジオを掲げるところを想像する。
それは最高にフォトジェニックな、そして壮大な物語のはじまりのような光景で、ライアンは冒険譚の挿絵を眺める少年のような興奮を感じた。
「ラジオは途切れ途切れでしたが、スカイハイが初めてキングオブヒーローになった頃でした。スカイハイには申し訳ないのですが、私はファイヤーエンブレムを応援していたので、とても悔しかったです」
「お前、その頃から姐さんファンなのな」
「大好きでした。教会の聖母様より、ファイヤーエンブレムのほうが絶対に綺麗で格好いいと思っていました。実際お会いしてもそう思っていますが」
「それ、姐さんが聞いたら喜ぶんじゃねえかな。……つーか、女だと思ってた?」
「え? ファイヤーエンブレムは女性です」
「……ああ、そうか。おう、うん」
ライアンは、深く突っ込まなかった。
「そしてある日、ヒーローアカデミーのCMが流れてきました。それで私もアカデミーに入ればヒーローになれると思い、準備をし始めました。シュテルンビルトに行くために」
マジでやろうって思うのがすげえ、とライアンは本気で感心した。行動力に溢れ、思い切りがいい、度胸があるというのはわかっていたが、やはり彼女のそれは相当である、とライアンは確信する。
しかしCMを流したヒーローアカデミーも、よもや大荒野の果てにいる小さな子供がCMを聞いてはるばる入学しにやってくるとは思っていなかっただろう。実際、海に流した手紙入りの小瓶を見つけた者から返事が来るようなレベルの確率だ。
「しかし、私はギャングに目をつけらていたのです。将来はうちで働けと言われていました」
またぶっ飛んだエピソードが出てきたので、ライアンはもはや返事すらしなかった。
怪我を治し体力を回復させるという能力は、ガブリエラの育った街でも非常に注目されたという。
男たちには有用だと判断され、女達には有難がられ、母とともに教会に住んでいたのもあって、老人には時に拝まれることすらあった。
「あそこで、私のいた教会は、特殊な場所で……こう……ええと、争いごとをしてはいけない場所というか……」
「……局外中立?」
「えーと……、ああ、そうです。そのとおり」
争っている派閥のどちらとも関係を持たず、闘争に影響を与える行動をしない立場のこと。そう追加で説明を受けて、ガブリエラは頷いた。
「私は一応教会の子でしたので、無理やり連れ去られるということはありませんでした。しかし、それもいつどうなるかという感じで」
「まあ、そうだろうな」
ガブリエラの能力は、それほどの価値がある。あのメトロの事故からガブリエラの能力が世界に知れ渡った時、彼女の身柄が下手に軍隊や宗教団体、特定の国家政府などに渡らないよう、誇張なしに世界規模で警戒された。
今でも彼女はヒーローだからという範囲を超えたレベルで、現在の居場所などをアスクレピオスに常に報告する義務があるし、おそらく交友関係などもチェックされている。
この状況でもこの有様なのに、無法地帯と名高いギャングばかりの土地では、むしろ数日でもガブリエラの奪取戦争が起こらなかったのは奇跡といえるのではないだろうか、とライアンは冷静に思った。
「街を出ようとしていることは、誰にも言いませんでした。しかしあのブーツを買ったり、食料を買いだめしたりしていれば、やはり気付かれます」
映画のあらすじでも聞いているような気分になってきた、と思いつつ、ライアンはコーヒーを飲みながら、当事者であるガブリエラの話に耳を傾けた。
「新しい車が納品される日でした。私が車を大好きなのは皆知っていて、ですので出て行くなら新しい車で、と思われていました。新しいといっても中古車なのですが」
「それで?」
「あの憎たらしいいじめっ子がどうやって私の車を爆発させたか、私は知っていました」
ガブリエラは、コーヒーを飲み干した。
「運転席に毛布の丸めたものを置いて、豆の缶を縦に繋げてアクセルに。ブレーキは、念のため折りました。エンジンをいじって、3時間ぐらい走ったらいじめっ子の仕掛けが動くように細工して、真夜中に車をフルスピードで走らせました。もちろん、車だけ」
それに気付いた大人たちは、荒野をまっすぐ走っていく車を、慌てて皆で追いかけた。そしてその間に、ガブリエラは故郷から出発した。
──堕天使かもしれない天使の名をつけた、闇夜に溶ける黒い馬に乗って。
──星の街、シュテルンビルトを目指して。
「買った車にいちども乗らずに爆発させたのは、あれが最初で最後です」
「普通は“最初”もねえよ」
呆れた様子で、ライアンもまた、コーヒーを飲み干す。
「車、マジで爆発したのか?」
「どうでしょう。反対方向に数時間も走りましたから、音も聞こえませんでした」
「追いかけてた奴らは……」
「さあ。靴底ぐらいは残ったのではないでしょうか」
ガブリエラは、空になった紙のコップを握りつぶして、近くのくずかごに放り投げた。
「ジョークですよ」
「……笑えねえって」
「いえ、本当に。爆発といっても、吹っ飛ぶほどの仕掛けではありません」
所詮子供のイタズラですからね、とガブリエラは笑ったが、ライアンは全く笑えなかった。しかし彼は引かず、更に質問する。
「いやでも、爆発させる必要あるか? ただ走らせてれば勝手に止まるだろ、ガス欠で」
「そうなのですが、それだと、後で誰かが乗るでしょう? 割といい車でしたし」
「まあ、そうだろうな」
「私が買って、いちども乗れなかった車に、勝手に乗られるのがムカつきました」
「おい」
ライアンが突っ込みを入れたが、ガブリエラはやはり「ジョークですよ」とさえ言わない。ライアンは、車やバイク関係でこいつを怒らせることだけはやめよう、と決意した。
「結局、追手は?」
「来たのかもしれませんが、遭いませんでした」
ガブリエラは、軽く首を振った。
「おそらく彼らも、私が街を出ようとしているのはわかっていても、シュテルンビルトに行こうとしているとは理解していなかったと思います」
まあそうだろうな、とライアンも思った。まだローティーンの子供が、何千マイル離れているのかもわからない遠い街にひとりで馬に乗って行こうとしているなど、誰も思わないことだ。
「おそらく、そこそこ近くにある、あのエリアの首都まで行こうとしていた、と思われていたのではないかと。ですので、車もその方向に走らせました。それに、私自身がシュテルンビルトまでの道をよくわかっていなかったというか、方角しか決めていなかったせいもあるかもしれません」
無鉄砲な子供の旅であったせいで、むしろ行方をくらますことが出来た、ということだろう。
「……で、それから?」
「ラグエルに乗って、何もない道を進みました。食料と水と、毛布と、ラジオだけ持って。途中で小さな町があったり、車ですれ違った人に声をかけられて、能力を使う代わりに水や食料を貰ったり。ああ、最初の頃、馬のレースにも出ました」
「レース?」
「馬と暮らしている部族の集落があって、そこでやっている儀式、のようなものです。山道を走ったり、崖を飛んだりする」
「へえ〜」
「出たくて出たわけではないのですが」
「そうなの?」
ライアンが尋ねると、ガブリエラは、珍しく苦々しげに「はい」と頷いた。
「割と最初の頃、途中で水がなくなったせいで、私は荒野の真ん中で意識を失いました。それを助けてくださったのが、その部族の方々なのです。それを……ラグエルが……あの◯◯の◯◯◯が……」
ガブリエラが歯の間から絞り出すように言った単語は全く聞き取れなかったが、それが彼女の母が禁じている汚い言葉だということは、ライアンにもその苦々しい声色ではっきりと理解できた。
「ラグエルが、年寄りのくせに若い牝馬のお尻を追いかけて、勝手に交尾をしたのです。牝馬の飼い主にとても、とても怒られて、それで参加することになったのです」
はあ、とガブリエラはため息をつく。
「殺されるかと思いました。あの部族では、馬は大事な財産で、誇りです。それを汚されたので、ものすごく怒っていました。皆、槍や弓を持っていてですね……」
「……お前、今のうちにその頃のこと、文章で残しとけよ」
おそらく、このあたりのエピソードも、ひとつひとつがドラマティックであるに違いない。既にこの話にかなり興味を惹かれているライアンはそう確信し、ガブリエラに強くアドバイスした。
ガブリエラはきょとんとしたが、「そうですか? ライアンがそう言うなら」と、素直に頷く。こう言えばガブリエラは本当にそうするので、ライアンは満足した。
「しかし私は、文章を書くのは苦手で」
「何ならライター呼んで、書き留めて貰え」
「ああ、それはいいですね」
「それで、続きは?」
まるで寝物語を急かす少年のようにライアンが言うと、ガブリエラは空を見た。あまり星の見えない都会の空だが、いくつか、ひときわ強い輝きを持つ星がたくましく煌めいている。
「ラグエルは優勝しました。……まあ、私はラグエルの背中に必死でへばりついていただけですが」
ガブリエラは疲れ果てたような目をして、乾いた笑いを浮かべた。
「とにかくラグエルがいい馬だとわかったので、牝馬の飼い主は気が変わったようでした。種馬として引き取らせてもらえないか、と言われたのです。彼は年寄りでしたが見た目は良かったですし、私の能力のせいでかなり若く見えますので」
牝馬といちゃつくラグエルは上機嫌で、これはもう絶対にここを動かないだろう、とガブリエラは思ったという。
「なぜなら、ここでラグエルは幸せに暮らしていくことが出来ます。牝馬はとても綺麗な馬でした。飼い主も、怒りっぽい人ではありましたが、私に食べ物をくれたり、水浴びをさせてくれたり、動物の捌き方を教えてくれたり、とても良い人でした。ですので、これから先はひとりで歩いていかねばならない、と私は覚悟を決めました」
ガブリエラは、遠くを見ながら言った。
「しかし出発の日、私が見たのは、集落の人達を振りきって暴れているラグエルでした。こんな手のつけられない馬はとても扱いきれない、と牝馬の飼い主が言った途端にラグエルは暴れるのをやめて、私の前に立ちました。そして、私に頭を下げたのです」
「へえ」
「私が驚いてぼんやりしていると、彼はいらいらして、私の顔につばを吐きました」
──早く乗れ、と。
今までのどの瞬間より、ガブリエラは彼の言わんとする事がよくわかった、という。
「彼は幸せな暮らしを捨てて、私を乗せて歩くことを選んでくれたのです。ですので、ラグエルは堕天使かもしれませんが、私の友達です。一生の友達」
「そうか」
「はい。それからは、ラグエルがどんなに性格が悪いことをしても、本心から憎らしくはなくなったような気がします。なぜなら、彼は私の友達ですので。それからの道行は、とても楽しかった記憶ばかりですね。ラグエルといるのが楽しくて、彼のたてがみを毎日丁寧にとかしました」
ガブリエラは、本当に嬉しそうに、楽しそうに語った。
「しかし」
最も大きく光っているのは、方角を示す一番星。
「途中で、ラグエルが、死にました」
星を見ながら、ガブリエラは言った。
ハロウィン。死者の日は、死んでしまった者の思い出話をしながら食べたり飲んだりする日であると彼女が言ったことを、ライアンはいま思い返した。
「元々、ずいぶん年をとった馬でした。とても性格が悪くて、私より頭のいい馬。私の能力でいつも疲れ知らずで、しかしやはり年寄りだったので」
ガブリエラの力は、その細胞が持つ、最大限の活性化を促す能力。それは決して万能ではなく、老いてその力もなくなったものには、ガブリエラがいくら能力を使おうと、穴の開いたバケツに水を注ぐのと同じことだ。
寿命という誰にもどうしようもないものによって、ガブリエラの初めての友達は死んだのだ。
「突然倒れたのです。それまで歩いていたのに。落馬したのはそれが初めてでした」
どれだけ跳ねても走っても、ガブリエラを背から落とさなかった賢い馬。
「最後まで歩いた?」
「そう、彼は最後まで歩きました。……歩いてくれました。私を乗せて」
ガブリエラは目を細め、星を見た。
「……食べてしまおうかとも思ったのですが」
「シビアだなオイ!」
感傷的な空気をぶち壊すガブリエラの発言に、ライアンはつい大きめの声を上げた。
「いえ。普段から、馬肉にしてやると言っていましたしね」
「ジョークだろ?」
「ジョークなものですか。死ねば皆ただの骸骨です」
ガブリエラは、嘲笑に近いような笑顔を浮かべて言った。どれだけその馬に苦労させられれば、死んだあとの思い出話ですらこういう顔ができるのだろうか、とライアンは微妙な表情を浮かべる。
「しかしコヨーテの群れが寄ってきたので、彼らに任せることにしました。その代わりに、蹄鉄を取って、尻尾とたてがみを切って、持っていきました。今も持っています」
とても幸運は呼びそうにないのですが、悪運は強くなりそうな気がして、とガブリエラはまた憎まれ口を叩いた。
「それで、しばらく泣きながら道を歩きました」
「やっぱ泣いてんじゃん」
「荷物が重かったからです」
ガブリエラは、ツンと顎を逸らした。他にはないその態度に、ライアンは、ラグエルという馬が彼女にとって本当に特別だったのだということを理解した。
そしてラグエルにとっても、おそらくガブリエラは特別だったのだろう。そんなに頭のいい馬ならば、己の死期を悟っていた可能性もある。一生の最後の時を穏やかな場所で過ごすチャンスを捨て、彼はガブリエラを乗せて歩き、荒野の果てで躯になる道を選んだのだから。
それからしばらくして、荒野の途中でもところどころモーテルがあるような道にたどり着いてからは、ガブリエラは能力を使ったり、モーテルでアルバイトをしたりして小銭を稼ぎながら旅を続けたという。
「ヒッチハイクは、この頃からやり始めました。しかし車は密室なので、やはり危ないです。男性はもちろんのこと、女性でも油断はできません。能力を使用した水や食料の取引はしましたが、乗せてもらうことはしませんでした」
賢い選択だ、とライアンは頷く。
前から思っていたが、彼女は危機察知能力が極めて高い、とライアンは確信した。平和で便利な都会での生活能力はイマイチ怪しいところがあるが、危険を嗅ぎ分け、極限状態を生き抜く生命力は奇跡的なほどに飛び抜けている。
だからこそ彼女はあの質の悪いギリギリのスリルを楽しむことができ、そしてこんなに危ない旅をしておいて、処女のままこの街に来れたのだろう。
「しかし、バイクなら、そうはならない。それにあの荒野をバイクで走っている人など、かなりのもの好きです。つまり、都会から来た趣味の人。そういう人は身ぐるみ剥いだりしてきません」
「あー……、なるほど」
「実際、とても親切にしていただきました」
ガブリエラは、笑顔を見せた。
「そして初めてバイクに乗った時、ラグエルを思い出しました。しかし彼よりずっと速くて、ああこれはいいなあ、欲しいなあと」
「……ガソリン入れればいくらでも走るし?」
機械は壊れるが、修理さえすれば半永久的に走り、寿命で死んだりなどしない。ライアンが遠回しにそう言うと、ガブリエラは驚いた顔をし、そして、くしゃりと歪んだような笑みを浮かべた。
「……そうですよ。唾も吐きませんし、糞を蹴り飛ばしたりもしませんし」
「勝手に交尾もしないし?」
「そう、そのとおりです」
ガブリエラは、深く頷いた。
「飛んだり跳ねたりもしませんが、それは私がすればいいことです」
今度は、ライアンが驚く番だった。しかしすぐに目を細め、にやりと笑う。
「……階段を登ったりとか?」
「そう。階段どころか壁を駆け上がったり崖を飛んだり、平気でする馬でした。サーカスで、曲芸をする馬でしたので。私はその度に馬肉にしてやる、止まれ、お願いだから止まってと叫びましたが、言う通りにしたことはいちどもありませんでした」
「そりゃあ」
ライアンは目を見開いた後、笑ったまま眉を顰めるという、器用な表情をした。
「憎たらしいこったな」
「いちどもコケませんでしたけどね。それがまた憎たらしいというか」
「わかる」
「……わかっていただけますか?」
ガブリエラは、イタズラが見つかってはにかんでいるようにも見える表情をした。
「俺ほど“わかる”って言える奴もいねえよ」
そうだろ? というライアンの言葉には、確かに、これでもかという説得力がある。
ガブリエラは嬉しげに目を細め、また遠い星を見た。
それからすぐ、「ねえ、あの人、ゴールデンライアンに似てない?」「え、本人?」などという声が聞こえてきたので、マーケット散策はお開きになった。
薄暗いのでもうバレないかと思っていたのだが、歩きまわらず座っていたので、まじまじ見られたのだろう。
ライアンはガブリエラを腕にぶら下げて、駐車場に戻っていく。
「なあ、馬の尻尾とか蹄鉄、今度見せろよ」
「え? 見たいのですか?」
「見たい」
「もちろんいいですよ、いつでも」
「他にもなんかある?」
「そうですね──」
ライアンは、自分にくっついて歩きながら色々なことを話すガブリエラの話を、ゆったりと聞いた。高い声が紡ぐ話はどれもエキセントリックで、ワイルドで、時々彼女ならではのユーモアと人間味に溢れていて、とても興味深く面白い。
「……前に」
「はい?」
ガブリエラが転ばないようにゆっくり歩きながら、ライアンは呟いた。
「お前の話は面白くねえって言ったけどよ」
──俺はお前のやることなすこと、面白いと思ったことは1回もねえ
歓迎会の日、ライアンは、ガブリエラにそう言った。
「言いましたか?」
「言った。……取り消す」
「え?」
「取り消す。お前の話は面白い。凄く」
ガブリエラは、きょとんと彼を見上げた。ライアンは、前を向いて、まっすぐ歩いている。
「はあ、そうでしょうか」
「そうだよ。面白いし──」
ライアンの声は、真剣だった。
「面白いし、最高にイケてる。……お前、カッコイイな」
「へあ!? ひぎゃ!?」
ひっくり返った声を出したガブリエラは、足を滑らせて盛大に転びかけた。すかさず、ライアンが支えて引き上げたおかげで、体勢を崩しただけで終わったが。
「おいおい、大丈夫か」
「あ、はい。……いえそうではなく。え、突然どうしたのですか、ライアン」
「どうしたって、さっきの話の感想だけど」
「えええ」
困惑しきった顔をしているガブリエラに、ライアンが立ち止まる。そして、赤い髪の頭に、ポンと手を置いた。
「……今まで色々、ひでーこと言った。悪い」
「う」
「ごめん」
わしゃ、と、大きな手が、赤い髪を撫でる。
「ごめんな」
甘く聞こえるほど優しい声。ガブリエラの顔に、かっと熱が上った。
「も、もういいですよ。忘れていましたし」
「そう? お前、おおらかだね」
「な、なんですかもう。いきなり。驚く、驚きではないですか」
本当に驚いているのだろう、しどろもどろになって若干カタコトになったガブリエラは、再度差し出されたライアンの腕を取り、ぎくしゃくと歩き始めた。
駐車場に着くと、ライアンはロックを解除し、まず助手席にガブリエラを座らせた。
あからさまに名残惜しそうな顔をしてライアンの腕を離すガブリエラについ笑いつつ、ライアンも運転席に滑りこむ。
「……晩飯って感じじゃねえなあ」
「屋台でたくさん食べましたので」
「ん」
エンジンをかけないまま、ライアンはガブリエラを見た。
「これから、どうしたい?」
靴屋に行った後から、ライアンは、こうしてガブリエラに意見を聞くようになっていた。かといって全てガブリエラに合わせるわけでもなく、お互いの意思を擦りあわせて、ちょうどよく、ふたり共が満足できる所を模索した。まさに、同じ皿のものをシェアするようにして。
それは大概上手くいき、そして結果に満足するのと同じくらい、ガブリエラは、ライアンがそうして自分のことを聞いてくれるのが、とても嬉しかった。
自分を殺してライアンの思うままにしようとさえしたガブリエラにとって、そんなふうに扱ってもらえるのは当然のことではなく、とても特別で、おおいに感動することだった。
だからこそガブリエラは、こうしたいのだとライアンに伝える時、毎回どきどきする。
特に「どう思っているか」と自分の考えていることや感情を表せと言われた時、ガブリエラは、まるで今から服を脱げと言われたかのような気持ちになった。
それは、決して不快なことではなかった。自分の思っていることをライアンに聞いてもらえるのは、とても嬉しい。自分の全てを見て欲しい。けれどどうしても恥ずかしいので、ぼそぼそとした声になってしまう時もある。
しかし勇気を振り絞って思っていることを伝え、“Please”と願えば、ライアンは、とても満足そうな、優しい顔をするのだ。
ガブリエラはもう、自分の意見を叶えて欲しいというよりは、ただ聞いて欲しくて、そしてその顔が見たくて、毎回自分から服を脱いで彼の胸に飛び込むような気持ちでライアンに自分の気持ちを伝え、縋るようにして願った。──今回も。
「ま……、まだ」
「うん?」
「まだ、……帰りたくない……です」
自分の心臓の音が大きく鳴っているのを感じながら、小さな声でガブリエラは言った。
そこに込められているのは、撥ね付けられるだろうかという心配、聞き入れてもらえるだろうかという期待。きっぱり半分に分かれた賭けでありつつも、ライアンならきっと良いようにしてくれると信頼感が持てるのは、彼が今日、とても優しくしてくれたからだ。
その優しさは柔らかくてふわふわしていて、彼が誰もに平等に与える優しさなのかもしれない。だがガブリエラは皆に優しいゴールデンライアンが大好きであるし、ただのファンのレベルでも、普通に話せているだけで夢見るように嬉しかった。
「わかった」
ライアンは、目を細めて頷いた。その優しい表情と声に、ガブリエラは心臓が潰れそうになる。ああ片思いをしている、とガブリエラは思った。彼が自分を特別好きなわけではなくても、自分は彼が世界一好きだと。
「じゃ、ぐるっとドライブしてくか。こっからシュテ環高速乗って、橋渡って、海沿いに戻ってくる」
どうよ、と片眉を上げて笑うライアンに、ガブリエラは、こくこくと頷いた。
「いいと思います」
「じゃ、決まり」
そう言って、ライアンはエンジンをかけ、車を駐車スペースから発進させた。